2025年1月4日土曜日

2025年1月5日 主日礼拝

前奏
招詞  歴代誌下7章14節
賛美  新生讃美歌2番 来たれ全能の主
祈りの時    
主の祈り
賛美  新生讃美歌261番 み霊なる聖き神
献金
聖句   使徒言行録9章1~9節
祈祷
宣教 「パウロの回心」
祈祷
賛美  新生讃美歌563番 すべての恵みの
頌栄  新生讃美歌671番
祝祷
後奏

新約聖書は、4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)、そして今日の聖書箇所である『使徒言行録Acts』、それに続く幾つかの手紙形式の書、そして「ヨハネの黙示録」という書から成り立っています。
 新約聖書の中の手紙の部分の多くを書いたのが、パウロでした。そのパウロが、今日の聖書箇所に出てくるサウロです。パウロとサウロは同一人物です。
 今日の箇所の初めに次のように書かれています。

1さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、2ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。


“主の弟子とは、イエス・キリストに従う者たちです。この時イエス様は既に殺されて、そして復活して、天に昇っていかれた後でした。
 イエス様が天に昇って行かれた後、主の聖霊がイエス様の弟子たちに降り、弟子たちは聖霊によって力を受けました。
そして弟子たちは、“イエス・キリストが神であること”、“キリスト以外に人の救いはない”ということを力強く伝道していくようになりました。
 聖霊によって力を受けた弟子たちによる伝道活動が、この「使徒言行録」に詳しく記されています。
  後にキリストの伝道者となって、新約聖書に含まれている手紙の多くを書くようになったパウロは、イエス・キリストの教えに従う者たちを、始めは激しく迫害していたのです。

彼は、主の弟子たちを脅迫し、殺そうとまでしていました。
パウロは大祭司から、キリストに従う者を迫害する許可を得て、迫害の息をはずませて、ダマスコへ向かっていました。
そこでキリストに従う者たちを、男女の別なく縛り上げてエルサレムへ連行するためでした。
パウロがこの時期に、どれほど激しい迫害をしていたのかは、パウロが自分自身で、手紙の中で言及している箇所が何箇所かあるので、そこから私たちは知ることができます。
ガラテヤの信徒への手紙の1章13節(Galatian 1:13)には次のように書かれています。

あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。

パウロは、神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとまでしていたのです。そしてそのことを通して、パウロは自分は熱心に神に仕えていると信じていました。
そのことが、ガラテヤの同じ箇所、次の節1章14節に書かれていることから分かります。
また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。
 パウロは、“自分はとても熱心だったのだ”と言っています。
 しかし、“ユダヤ教に徹しようとしていた”、“先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心だった”という言葉の意味を深く考えると、パウロが、主なる神への愛と誠の心というよりも、彼自身の熱心さのほうに重点をおいていたことが、推測できないでしょうか。
 見た目には熱心な信仰者に見えても、彼(パウロ)は神の御愛と憐れみ、神から来る喜びの中には生きていなかったということが、想像できるのではないでしょうか。

 そしてそのことに、パウロの内面は実は苦しんでいた、という可能性もあると私は思うのです。
そのようなパウロが、キリストに従う者たちへの迫害の息を弾ませながら、いよいよ目的地であるダマスコに近づいたとき、天からの光が彼を照らしました。
 パウロは地に倒れました。そしてある声がパウロに聞こえました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。それはイエス・キリストの声でした。

その声は「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と言いました。
イエス様は、「わたしを迫害するのをやめなさい」とは言わず、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか?」と疑問形でパウロに問いかけたのです。
 それはパウロ自身の内面をパウロ自身が見つめ直すようにと促すお言葉でした。
 「なぜ、あなたはわたしを迫害するのか。そうしている、あなたの動機は何なのか?何があなたを突き動かしているのか?」とイエス様の声はパウロに問いかけたのです。
このように、イエス様に出会うとは、私たちが自分自身に向き合わされる経験となるのです。
 私たちは今も御言葉を通してイエス様と出会い、そしてイエス様に問いかけられながら、自分自身に向き合わされます。
イエス様に問いかけられながら、イエス様と霊的に(祈りを通して)対話しながら、私たちは、“私は本当は何を望んでいるのか”、“私は一体何者であるのか”ということを、私たちは深く考えさせれ、知っていくのです。

 パウロがこの時、どのように彼自身に向き合ったのかは分かりません。この後パウロは目が見えなくなります。
そして今日の箇所の後の箇所では、パウロがアナニアという人によって目を再び開けられ、それからイエス様のことを熱心に宣教する伝道者に変わったことが伝えられています。
 その時パウロはキリストの迫害者から、熱心にキリストを伝道する者へと一瞬にして変えられたような印象を私達は受けるかもしれません。
しかしそのような変化は、実はパウロがキリストに従う者たちを迫害している中で、彼の中で徐々に起きていたのではないか、と私は考えています。
 キリストに従う者たち、主の道を歩んで生きる者たちの姿を見て、彼らを迫害しながらも実はパウロの中で、“イエス・キリストこそが神の子であり、真の神その人である”、という信仰が生まれる素地は、生まれつつあったのではないでしょうか。
パウロは、生きている時のイエス様とは会ったことがありませんでした。しかし、キリストに従う者たちの生き方を見ることによって、パウロはイエス様と出会っていたと言えます。

今日の箇所の前の箇所の使徒言行録の7章に、ステファノという人が殉教(キリストを伝道したために、殺されること)した時の話が記されています。
ステファノはキリストを宣教することで、人々からどれほど反対され憎悪されても、彼らを憎み返すことはしませんでした。
人々はステファノに激しく怒り、ステファノに次々と石を投げつけて殺してしまいました。
その時ステファノはこう言いました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7章60節)。
その場にはパウロもいました。パウロはステファノを殺すことに賛成していた、と書かれています。(使徒言行録8章1節)

パウロが、ステファノが処刑されるその様子をどんな思いで見ていたのかは聖書には書かれていません。
しかし、死にゆくなかで、自分に石を投げつける人たちのことを「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈るステファノの言葉と姿にパウロの心は激しく揺れたのではないでしょうか。
ステファノ以外にも、パウロが迫害した他の信仰者たちの姿から、パウロは何かを感じ、彼は知らず知らずに徐々に変えられ始めていたのではないでしょうか。
 イエス様がパウロに「なぜ、わたしを迫害するのか」と問いかけたとき、パウロはステファノの死にゆく姿や、ステファノの処刑に賛成していた自分自身について、その他いろいろなことを思い出し、考えさせられたのだと思います。
 パウロは人一倍ユダヤ教の教えと実践には熱心でした。しかし、パウロは神の本質である、神の御愛と神の赦しについては知らなかったことに気づかされたのではないでしょうか。
 パウロはその声に問いかけます。「主よ、あなたはどなたですか」
 パウロは、そのお方がイエス様だと分かっていたでしょう。パウロが聞いたのは「神であるあなたは、私の命とどういう関わりがあるお方なのですか」という本質的な問いだったのだと、思います。

 私たちも主の言葉を聞く時、「あなたはどなたですか?」、「あなたは、今わたしの命とどのように関わってくださっているのですか」と問いかけることが許されています。
 パウロのように、天から光が射して声が聞こえるような劇的な経験をすることは、通常私たちにはないでしょう。
しかし聖書の御言葉を通して、また神様は他の人々や様々な状況を通しても、私たちに語ってくださることがあります。
 その時私たちは、「あなたはどなたですか」、「わたしはどうすればよいのでしょうか」と問いかけながら、その度に示される道を一歩一歩、進んでいきたいと願います。
 パウロはこの後目が見えなくなります。人々に手を引かれて、彼はダマスコに連れていかれました。
 そこでパウロは三日間目が見えず、そして食べることも飲むこともしなかった、と書かれています。
 今日の箇所は、キリストの伝道者、しかもユダヤ人の枠を越えた異邦人(外国人)への福音宣教者に後になるパウロが、新しく生まれ変わったという意味で、大変重要な箇所です。
 パウロはキリストの宣教者としてそれから大きな働きをするようになりました。
 しかしパウロがそれより以前には、キリストに従う者たちを激しく迫害(殺害さえ)していたという事実は、それ以降も変わらない事実としてパウロに付きまとったでしょう。

 しかしそれが神の御計画でした。神は人間の目からみて相応しい、適任だと思える人ばかりを福音伝道の働きに用いられるとは限らないのです。
 むしろパウロのような、キリストの伝道者となるには、あまりにも都合が悪い過去(ハンディキャップ)を抱えたような者が、神によって選ばれたのです。
 パウロが福音伝道をしようとしても、多くの人たちから「あなたは今までキリストに従う者を、あんなにひどく迫害していたではないか」と言って反発された(恐れられた)と思います。
 パウロはそのような声に向き合いながら、また自分自身の過去と罪にもしっかりと向き合いながら、神の愛と赦しを確信していったのです。
  つまりパウロは、キリストの迫害者であった彼が神に選ばれて、神に赦された喜びをもって、キリストの伝道者となっていったのです。

そして彼の思いをはるかに超えた神の大きなご計画の中で、イエス・キリストの福音を伝道する者になるように自分は召されたのだ、ということをパウロは増々確信していったのでしょう。
 私たちも、キリストに出会うことで、キリストの言葉に問いかけられることで、自分自身に向き合います。
 それにより、できれば向き合いたくないような自分の内面、自分の罪にも向き合わされることになるかもしれません。
しかし、そのような過程を経てこそ、私たちはイエス様が十字架の上で、この私の罪を贖うために本当に死んでくださった、だから私は罪赦されたという確信と喜びに至るのです。
 イエス様から与えられるその信仰に基づき、私たちは自分自身にもしっかりと向かいつつ、そして罪赦された喜びと感謝をもって、キリストに従う道をこれからも共に歩んでまいりましょう。