2025年1月18日土曜日

2025年1月19日 主日礼拝

前奏
招詞  申命記31章8節
賛美  新生讃美歌 16番 み栄えあれ 愛の神
主の祈り
賛美  新生讃美歌 261番 み霊なる聖き神
献金
聖句 コリントの信徒への手紙二 4章7~15節
祈祷
宣教 「このような宝を土の器に」
祈祷
賛美  新生讃美歌 550番 ひとたびは死にし身も
頌栄  新生讃美歌 671番
祝祷
後奏

 今日の聖書箇所である「コリントの信徒への手紙二」の最初の節である4章7節に、この手紙を書いたパウロは「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」と書いています。
 「わたしたち」とは、私たち一人ひとりのことです。そして「土の器」とパウロが表現しているのは、私たち人間の体のことです。
人間の体の例えとしての土の器は、より広い意味でいえば、物理的な身体だけでなく、精神、心といった私たち人の内面をも含む、一人の人間全体のことと言ってよいでしょう。
 「土の器」と聞いて、私たちが思い浮かべるのは、やはりその“脆さ”、“はかなさ”ではないでしょうか。それは、気をつけて取り扱われなければ、非常に壊れやすいものです。
 私は以前、土器のお茶碗を友人からいただいたことがあります。
 そのお茶碗を手に持つと、手に持った感触は心地よく、そして気のせいだったかとは思うのですが、そのお茶碗で食べるご飯(お米)は、普通の茶碗で食べる時よりも、とてもおいしく感じられました。

 それには手作りの感触がありました。毎日手にとってご飯を食べる時に、私は目でその茶碗と、その茶碗に盛られたご飯を、ゆっくり眺めたりもしていました。
 しかしある日、そのお茶碗をいただいてから数か月ぐらい経った時だったと思うのですが、私は立ちながらそのお茶碗を手に持っている時に、うっかりそれを手から落としてしまったのです。
 そのお茶碗は床の上で真っ二つに割れました。既成の安価なお茶碗ですと、床に落ちて割れたりすると、割れる派手な音とともに、いくつかの破片に割れるのが普通だと思います。
 しかし、私が割ってしまったその土器のお茶碗は、床の上で、ある鈍い音と共に、粉々に砕けるのではなくて、見事に真っ二つに割れました。
 気に入っていた茶碗だったので、落ちて(落として)割れてしまったのは、とても残念でした。
そして真っ二つに割れた茶碗を見て、やはり“造られたものの弱さ、脆弱(ぜいじゃく)さ”を思わされました。
  私たちの体も、そしてまた心も、ちょっとしたことでも傷ついたり、また壊れたりする、とても弱いものではないでしょうか。
 しかし、私たちのその弱さも、それは神が私たちをそのように繊細なものとして造られたということの表れです。

 私たちが土器ならば、それをお造りになった方(陶器師)は、神です。神は私たち一人ひとりを、愛情を込めて、本当に特別な思いをもって、作ってくださったのです。
 人間の陶器師も、一つ一つの作品を、魂を込めて愛情をもって造ると、私は思います。まして天の父なる神は、本当に大きな愛と、また神の特別な御計画をもって私たちを造ってくださったはずではないでしょうか。
 神は私たちを愛情込めて“土の器”のようなものとしてお造りになりました。
土の器は弱く、壊れやすいものです。しかし、人は皆そのように弱いものだ、ということが本当に分かるならば、私たちはそんな弱い自分自身と、また自分以外の他者をも大切にしよう、という気持ちが与えられると思います。
弱い私たちが、自分自身を頼りにすることなく、主なる神の力を頼りにして生きるように造られたことをも覚えて、私たちは日々、そのような信仰によって支えられ生きていきたいと私は願います。

 しかし、今日の箇所は、私たち人間がただの“土の器”であり、弱く、もろく、儚い、とだけ言っているだけではありません。
 今日の箇所では、私たちが私たちというこの“土の器”の中に、ある“宝”を納めている、というのです。
 この宝とは、今日の箇所の一節前の6節に次のように書かれています。
 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
わたしたちが、土の器としての私たち自身の中に頂いているのは、“光”であり、それは“イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光”である、というのです。
 ”イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を知る光“とは、”イエス・キリストを通して、神を知るという喜びの光“、”イエス・キリストの福音によって生かされる希望の光“などと、色々と言い換えても良いと思います。

 それほどの宝を、私たちは土の器である私たちの中に、神から頂いているのです。
 イエス様は人として生きておられる時に、人々に“あなたがたは世の光である”と言われました。(マタイによる福音書5章14節)
私たちは自分自身で光っているのではないのです。私たちが聖書の御言葉を通して、そして聖霊の導きによってイエス・キリストを知り、イエス・キリストを信じる時に、キリストが私たちの内面に住まわれて、キリストが私たちの中で輝く光となるのです。
 7節の後半には、
「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」と書かれています。

 コリントの信徒への手紙を書いたパウロは自分自身で、この“並外れて偉大な力”が彼をとおして働いていることを本当に実感したのだと思います。
それは聖書の御言葉こそが人を生かすという力です。そしてそれは、イエス・キリストの御名が人に与える希望の力です。
パウロは「コリントの信徒への手紙一」の2章4~5節で次のように書いています。

4わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。
5それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

パウロは、“考えてみれば、自分は言葉も巧みでなく、宣教も洗練された知恵に溢れたような言葉で語ることはできなかった。それでも多くの人がイエス・キリストの福音を自分の宣教を通して信じるようになった。それは神の力が自分を通して働いたからなのだ(自分の力ではなかったのだ)”と悟ったのでしょう。
 パウロ自身も色々と弱さを抱えていたはずです。彼には何らかの慢性的な病、あるいは何らかの障害があったと言われています。
パウロは随分気の強い人のようにも想像されますが、そんな彼でも人として、とても弱く傷つきやすい心をも持っていたでしょう。
 色々な欠点も、またキリストを信じる者たちを激しく迫害していたという過去も、パウロは抱えていました。
それでも、イエス・キリストの神の力が彼を通して働いて、“パウロを通して働かれているのは、パウロ自身ではなくて、キリストの神なのだ”ということが人々に明らかになったのです。
私たちも、自分の弱さを知り、自分の欠点をも認め、しかしそんな弱さ、欠点を抱えた私たちを通して神は働かれ、そして私たちの中には、キリストの神の偉大な力が与えられているのだ、ということを知りましょう。
そして私たちを通して、キリストのその力が人々にも明らかになるようにと、願いましょう。

今日の8~9節には次のように書かれています。

8わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
9虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。

”四方から苦しめられる“、”途方に暮れる“、”虐げられる“、そして”打ち倒される“。これらは全てパウロ自身がキリストの伝道者として経験したことでした。
私たちも、それぞれ苦しい思い、打ちのめされるような思い、立ち上がることもできないような辛い経験をするときがあると思います。
今まさにそのような苦しさのただ中にいる、という方もおられるかもしれません。
しかし、パウロは言うのです。“どんなに苦しめられても、途方に暮れても、打ち倒されても、イエス・キリストの神は共におられる。その神が私を支えてくださる”と、彼は言います。
 “どんなに苦しめられても、打ちのめされても、私が完全に失望しきることはない。私は見捨てられ、滅ぼされることない。なぜなら、キリストは私を見捨てることがないから”とパウロは確信していたのです。
 彼のその確信は、神を信じる信仰により、今の私たちにも賜物として与えられます。
 信仰者であっても苦しみ、悲しみ、痛みの経験をするときがあります。そして私たちは誰もが”土の器“ですから、とても傷つき、そして壊れそうになる、壊れてしまうこともあります。
 私たちには悲しみに暮れる時、どうしていいか分からない時、打ち倒されるような時があります。
 しかしイエス・キリストは私たちと共におられます。イエス様が痛む私たちと共に泣いてくださっています。
そしてイエス様は御言葉を通して私たちを慰め、私たちが倒れても、いつかまた立ち上がることができるように、私たちの手を優しく取って、私たちを立たせてくださいます。

 今日の14節に「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させる」と書かれています。
 この復活とは、私たちが実際に死んだ後の霊的な復活のことを指しています。
それと同時に、この復活とは、私たちの日々の生活の中で、人生の中で私たちが死ぬほどの辛い時を通る時に、神が力を与えてくださって私たちを再び立たせてくださることをも指すのです。
どんなに打ちのめされても神は私たちを見捨てず、わたしたちを決して滅ぼされないのです。

旧約聖書の『申命記』の31章8節で、モーセが自分の後継者であるヨシュアに次のように伝えました。
申命記31章8節

主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

 この言葉は永遠の真実です。私たちは、私たちを決して見捨てることがない、という神の真実と神の御言葉にしがみついていこうではありませんか。
 死んだイエス様を復活させた神の偉大な力が、私たちが倒れても、私たちを必ず再び起き上がらせ、そして私たちを復活の力と希望とで満たしてくださいます。
そのようにして、弱くもろい私たちの中で、キリストの偉大なお力がますます強く働かれることで、キリストの光と力とが私たちを通して、また別の人々へも伝えられていくのです。
そのような尊い働きのための器として私たちを用いてくださり、また私たちをいつも励まし慰めてくださる神に寄り頼みながら、私たちは日々をキリストの信仰者として、そしてキリストを述べ伝える宣教者として、生きてまいりましょう。