2026年3月7日土曜日

2026年3月8日 主日礼拝

前奏
招詞  列王上 8章28節
賛美  新生讃美歌61番 さわやかな朝となり
主の祈り
賛美  新生讃美歌515番 静けき河の岸辺を
祈りの時
献金
聖句  使徒言行録12章1~19
祈祷
宣教  「ペトロのための祈り」
祈祷
賛美  新生讃美歌86番 輝く日を仰ぐとき
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内

イエス・キリストを主と信じる者たち、すなわちキリスト者(クリスチャン)と、キリスト者が集まる教会は、その最初から、迫害を受けてきました。  今日の聖書箇所では、今から約2,000年前、イエス・キリストが十字架でかけられて死に、そして復活して弟子たちにその姿を現わされた後、弟子たちが聖霊を受けてキリスト者の群れとなり教会ができた頃の、彼らへの迫害の様子が描かれています。 教会に迫害の手を伸ばしたのはヘロデ王であったと、今日の箇所の初めに書かれています。 ヘロデと名の付く人が複数人、聖書の中には登場します。まず、イエス様が人としてお生まれになった時、ユダヤを支配していたヘロデ大王がいます。 マタイによる福音書第2章で、イエス様はヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった、と書かれています。 東の方からエルサレムにやってきた占星術の学者たちが、ヘロデ王にこう聞きました。 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので拝みにきたのです」(マタイ2:2) これを聞いてヘロデ王は不安を抱いた、と聖書に書かれています。王としての自分の地位が脅かされると思い、ヘロデはベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を全員殺させました。 今日の箇所のヘロデ王は、イエス様が生まれた時にユダヤの王であったヘロデ王の孫にあたる人物です。 ヘロデの家系の権力者たちが全員残忍だった、ということを聖書は伝えたいのでしょうか。 そうではありません。私たち人間の本質としての悪の部分が、世代を超えて引き継がれている現実を聖書は描いています。 今日の箇所で、ヘロデは教会のある人々(キリストを信じる者たち)を迫害し始めました。ヘロデはなぜキリストを信じる者たちの教会を迫害したのでしょうか。 ヘロデは、彼らキリスト者が信じていることが許せなかったので、今日の箇所ではヤコブを剣で殺し、またさらにペトロまで捕まえようとしたのでしょうか。 今日の箇所を見ますと、ヘロデが教会を迫害した理由がはっきりと書かれています。それは、“そうすることがユダヤ人に喜ばれたから”でした。  キリスト者たちを迫害することがユダヤ人たちに喜ばれたから、ヘロデは教会を迫害したのです。 ユダヤ人たち、つまり自分が王として君臨し続けるために彼らからの支持が必要であったので、いわば自分の支持率と人気を上げるために、ヘロデは教会を迫害したのです。    私たち人は、そのことが正しいかどうか、自分が本当にそう望むのか、ということよりも、他の人が喜ぶかどうか、そのことで自分は人から評価されるかどうか、に従って行動してしまうことが多いと私は思います。 自分の行い、仕事が人に評価されるかどうか、それによって自分への支持や評価が上がるかどうか、に私たちはどうしても囚われるのです。 牧師としての私が自分の務めを振り返る時、牧師の務めは神様の言葉を忠実に皆さんに伝えることだと示されます。 しかし、神の言葉に忠実であるよりも、どのように語れば自分が評価されるか、という思いに私はとらわれる時があります。 神様のことよりも、人の目や自分への評判の方を気にして話をしてしまう、ということが牧師にもあるのです。 聖書の中でも、人の歓心を引くための言葉ではなく、神が本当に語るようにと命じることを語れと、預言者に命じる箇所が何箇所もあります。  旧約聖書のエゼキエル書では、神がエゼキエルと言う預言者の一人に、このように言っています。神は預言者エゼキエルをイスラエルに遣わそうとされて、次のように言われました。 エゼキエル2章7節  たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。 Ezekiel 2:7 You must speak my words to them, whether they listen or fail to listen, for they are rebellious. 教会の宣教者は神の愛を伝えるため、真の神の愛を伝える務めを託されています。 そして時に宣教者は、厳しくともその時々に教会、キリスト者が聞くべき言葉を神様から預かります。 そんな時、たとえ厳しい言葉であっても神の言葉を聞き取り、それを語るということは決して簡単なことではありません。 ですから、ぜひ教会の皆さんは、これからも私たちの教会で御言葉を取り次いでいく宣教者のために、ぜひ祈り続けていただきたいと私は願います。 その祈りは、宣教者に、また牧師に「私が聞きたい、教会が聞きたいと願う、心地よい言葉ではなくて、神様が本当にあなたに語れと命じる言葉を語ってください」と、そのように祈っていただきたいのです。 皆さんの祈りが神に届けば、語る宣教者、そして牧師がふさわしい言葉を語ることができるように、きっと神がその力を、宣教者に与えてくださいます。 そして私たちは主なる神に喜ばれる生き方を信仰者としていこうではありませんか。 人からの評価や関心だけに囚われて一生を終えるのではなく、神はこのことを喜ばれるかどうか、と真剣に問い、そこで示されたように、私たちは生きようではありませんか。 神は私たちに最善を示されるお方です。ですから神が示された、神が喜ばれる生き方こそが、私たちの周りの人にとっても、最もよい生き方である、と私たちは信じることができるのです。 今日の箇所で、ペトロが捕らえられ牢に入れられると、教会ではペトロのための熱心な祈りがささげられた、と書かれています。 彼らにとっては危機的な状況でした。ペトロは彼らの教会のリーダーとして筆頭に立つ人でした。 自分たちの指導者が権力者に捕まったのです。相当な恐怖と緊張が信者たちを襲ったでしょう。 しかしそのような危機は、彼らが真剣に、熱心に祈ることへと繋がりました。危機的な状況が祈りを生む、とも言えます。 私たちは困難や悩みはできるだけ避けたいと思います。 しかし、もし私たちに苦しみや困難、悩みや痛みの経験がないのならば、私たちは神に真剣に、熱心に祈るということを果たしてするだろうか、と思わされます。  困難な時、それは私たちが祈りによって一つとなる機会となります。 それは私たちが共に熱心な祈りを献げる機会となり、また神はその祈りを必ず聞いてくださる、と私たちに神へのさらなる信頼を与える機会ともなります。 困難な時こそ、私たちは心を合わせて共に祈りましょう。 神は、私たちが祈った通り、願った通りには、その結果をお導きにならないかもしれません。 しかし、私たちが真剣に祈る祈りを神は必ず聞いてくださいますし、そしてそのように私たちが真剣に、熱心に祈る経験は、それ自体が私たちの信仰を強めます。   祈りにどう応えてくださるか、その結果は神に委ねつつ、私たちは困難な中でも、自分たちが望むことを、神に祈りを通して、お願い申し上げましょう。 今日の箇所で、ペトロは捕まり、牢の中で、鎖で両腕をつながれていました。しかし、天使が現れてペトロを助けだしたことが描かれます。 主の天使がペトロのそばに立ち、光が牢の中を照らした、と書かれています(7節)。天使はペトロのわき腹をつついて起こします。 ペトロはそのように天使によって助け出されている間、何が起きているのか、しばらく分かりませんでした。 天使から、「急いで起き上がりなさい」、「帯を締め、履物をはきなさい」、「上着を着て、ついてきなさい」と言われて、ペトロは現実感覚のないままにその声に従いました。 ペトロは天使に導かれて牢の門を抜けて外にでると、ある通りをすすんでいるうちに、天使は離れて行きました。 そこで初めてペトロは、主が天使を遣わしてくださり自分を救われたのだ、と悟りました。  私たちも今までの信仰の歩みを振り返って、その時には分からなかったけれども、振り返って考えると、いつも神が守り導いてくださっていたと気づくことがあるのではないでしょうか。   「これからどうなるのか」、「もうだめではないか、望みはないのではないか」と思う時にも、今振り返れば、神は様々な方法で、私たちを支えてくださいます。 それは聖書の御言葉であり、あるいは人からの親切な言葉や助け、共にいてくれる友人や家族である、ということもあるでしょう。 もう望みがないのではないか、だめではないかと、思うような時にも、神の助けの手は変わらず私たちと共にあります。 神はこれからも私たちを助けてくださいます。神に助けの手に信頼をし、私たちは困難な時にこそ祈りを合わせて、信仰生活を歩んでいきましょう。 最後に、今日はその名前が今日の聖書箇所で記されている一人の信仰者に目を留めて、宣教を終わりにいたします。 それは、ロデと言われる女中です。女中とは、新約聖書の元のギリシア語の意味では“少女の僕”と書かれています。 ペトロのために熱心な祈りがささげられていた家(マルコと呼ばれたヨハネの母マリアの家)にペトロが来て、戸を叩きました。 女中のロデが取り次ぎのため出て行くと、ペトロの声だと分かり、彼女は喜びのあまり戸を開けもせずに、みんなのところへ戻って“ペトロが来た”と告げたのです。 ロデは、ペトロが帰ってきたこと、皆の祈りが聞かれたことをすぐに信じて、そのことを皆に知らせました。 しかし、ロデの言葉を聞いた他の人たちの最初の反応は「あなたは気が変になっているのだ」というものでした(15節)。 彼らはペトロの解放を願い熱心に祈っていたのです。しかし、そんなに早く祈りが聞かれた、厳重な警備が敷かれた牢からペトロが戻って来たとは、彼らには信じがたいことでした。 しかし彼らの中で、少女の僕のロデは、何も疑わずに、ペトロの声を聞き、彼が戻ってきたことを喜び、その喜びの知らせを他の人たちに伝えました。  それまでペトロの解放を願い熱心に祈っていたのに、ペトロが解放されて帰って来たことが現実とは思えなかった人たちは、私たち人間が神を信頼しつつも、どこかで疑ってしまうと言う性質、弱さを持っていることを表しているのでしょう。 何と私たちは疑り深いのか、神を信頼しきれないのだろう、と思わされます。 そんな中で、熱心に祈り、神を信頼し、その結果をすぐに素直に受け入れて信じたロデの姿は私たちにとって一つの信仰の模範です。 いえ、模範というより、そのような純粋な信仰と神への信頼を私たちも持ちたいと願います。 熱心に祈り、神を純粋に信頼する、そのような信仰を私たちも求めましょう。神は私たちが心から真剣に求めるものを、かならず与えてくださいます。 思い願うことを私たちは、疑わずためらわずに祈ろうではありませんか。そして聞かれた祈り、与えられた結果を受け止めましょう。 神は必ず私たちの祈りを聞いてくださるお方です。