2025年5月4日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編118篇25節
賛美 新生讃美歌 80番 父の神 われらたたえる
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌 320番 輝いて生きる
献金
聖句 使徒言行録1章6~11節
祈祷
宣教 「あなたがたはわたしの証人となる」
祈祷
賛美 新生讃美歌 2番 来たれ全能の主
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏
歓迎・案内
新約聖書の『使徒言行録』から、私たちは神さまのメッセージを聞いています。今日の箇所は、使徒言行録1章6節~11節までの箇所です。
それは、使徒たち(イエス・キリストの弟子たち)が、復活したイエス様と話をしている場面です。
今日の箇所の前では、イエス様が使徒たちに「エルサレムを離れず、父の約束されたもの、すなわち聖霊を待ちなさい」と言いました(4節)。
聖霊を受ける時、信仰者は力を与えられ、行くべき道を示されて、その道を歩み始める思いと勇気とが与えられます。
しかし使徒たちはその時、“父の約束されたものを待ちなさい”というイエス様のお言葉(”待ちなさい“という命令)についてじっくり考えるよりも、自分たちの思いと願いのほうに、とらわれてしまっていたようです。
それは今日の箇所の初めで使徒たちがイエス様に尋ねた言葉からも分かります。
彼らはイエス様にこう尋ねました。
「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」
使徒たちは復活したイエス様にお会いし、興奮して、“今こそ自分たちの国イエスラエルが再び過去のような繁栄と強さを取り戻す時だ!”と大きな期待をしたのでしょう。
彼らが言った「今が、その時ですか?」という問いは、それは純粋な問いといよりは、「今こそ、イスラエルを再興してください!」という彼らの強い願いであった、と言ってよいと思います。
私たちも神様に祈る時、自分が願うこと、神様にしてほしいと願うことを、強く神に申し上げている(願っている)ことがあるのではないでしょうか。
そのような祈りも私たちには許されています。しかし、自分が願うことへの思いがあまりに強すぎると、私たちの祈りが自分の願いだけになると、それは神への祈りというよりも、神様に対する“ただの要求”となる可能性があります。
そしてその要求が満たされないと満足できず、神に対して不満を抱く、ということがあり得ます。
私たちには色々な希望があります。そして、自分が願うことが満たされると幸せとなり、自分が願うことが満たされないと不幸せになると、普通私たちは考えます。
しかしキリスト者は、神様の御心、神のご計画が成就することにこそ幸せを見い出すことを許された者なのです。
“主の祈り”の初めで、「天にまします我らの父よ、ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と私たちは祈ります。
私たちは色々な事を願いますが、イエス様は“御国(神の国)が来ますように。神の御心が地上でも実現しますように”と最初に祈りなさい、と教えてくださったのです。
それは私たちの思いではなく、神の御心こそが最善であり、神の御心こそが最終的に必ず実現するからです。
旧約聖書『箴言』19章21節に次のように書かれています。
人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。
主なる神のご計画と神の御心こそが、私たちを真の幸せへと導きます。ですから、神の御心を知ることを願い、神のご計画の実現を、私たちはまず願い、祈りたいと思います。
そして神のご計画の実現のために生きること、自分が用いられることを、私たちは願おうではありませんか。
イエス様は使徒たちの問いに対して、次のようにお答えになりました。7節をお読みします。
7イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
私たちは神のお定めになった時の中で生きています。決定的な時は全て神が定めておられます。
私たちは気持ちが急いでしまって「神様、それはいつですか?今ですか?」と願ったりしますが、決定的な出来事は神さまがお定めになった時に実現します。
ですから、イエス様の言われた“父の約束を待ちなさい”という教えも、私たちには大変重要となります。
信仰的に待つべき時には、私たちは待つことができるように、神の時が来るのを待つことができるように、忍耐を身に着けたいと願います。
そしてイエス様は続けて次のようにおっしゃいます(8節)
8あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
使徒たちに聖霊が降ると彼らは力を受ける、と言うのです。では聖霊から降る力は、使徒たちにどのようなことをさせるのでしょうか?
聖霊が降って力が与えられると、使徒たちは”エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたし(イエス様)の証人となる“とイエス様はおっしゃいました。
“聖霊の力”というと、何か目立った、超人的な力が人に与えられるというイメージを思い浮かべる人もいらっしゃるかもしれません。
しかし今日の箇所でイエス様が言う聖霊の力の表れは、“使徒たちがイエス・キリストの証人となる”ということなのです。
「イエス・キリストこそが主であり神であり、そのお方にこそ、私たちは従って生きるのだ」というメッセージを人に伝えることが、聖霊の力が人にさせることです。
そして聖霊から信じる者に力が与えられる時、彼らは神のその知らせを、”エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、地の果てにいたるまで“伝えるようになるのです。
使徒たちは最初“自分たちのために、イスラエルの国を再興してくださるのは、今ですか?”とイエス様に尋ねました。彼らの最初の願いは、まず自分たちの利益でした。自分(自国)ファーストです。
しかし、聖霊から力を受けた者は、自分たちの中だけでなく、国中で、サマリアで、そして地の果てまで、あらゆる国や地域へ向かって主を証しする証人となる、と言うのです。
特に、サマリア人たちとユダヤ人たちは、その当時互いに反目しあっていたことを、私たちは知らねばなりません。
かつてイスラエルがアッシリア帝国に滅ぼされた時、北イスラエル王国の首都であったサマリアの地域には、多くの異邦人が移り住むようになり、ユダヤ人たちとの混血が進みました。
ユダヤ人の純潔を重んじたユダヤ人たちは混血のサマリア人たちを蔑むようになりました。
しかし、キリストの弟子たちが聖霊の力を受けるとき、そのような民族同士の反目を超えた愛の力に彼らは突き動かされるようになる、というのです。
聖霊の力を受けた使徒たちは、サマリアへも、また地の果てにまでも、キリストを述べ伝える者になる、とイエス様はおっしゃったのです。
聖霊の力とは、私たち人同士を結び付ける力です。聖霊の力とは、互いの違いや壁、お互いに反発し合っていることさえも乗り越えさせる力です。
私たちも、そのような聖霊の力を頂いて、自分以外の他者へも心を開いて、他者にとってのキリストの証人となれますようにと願いましょう。
聖霊は私たちに、内向きな思いから、自分以外の他者へ、自分たち以外の他者へ、広い世界へと私たちの心の思いと願いを向けさせる力ともなるのです。
私たちが、自分や自分の仲間、自分の教会だけのことでなくて、教会の周りの地域や、社会、世界にも広く心を向けて、キリストの福音が広がることを願い、そのために祈りをささげようではありませんか。
イエス様が話し終わると、イエス様は使徒たちが見ている前で、天にあげられていきました。そしてイエス様は雲に覆われ、彼らの目から見えなくなった、と書かれています(9節)。
使徒たちは、イエス様が上って行かれた天をみつめていました。すると、白い服を着た二人の人(彼らは神のみ使い、天使でしょう)が彼らにこう言いました。11節をお読みします。
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
使徒たちは、復活したイエス様が天に上って行かれる様子をどのような思いで見つめていたのでしょうか。
死からよみがえったイエス様が自分たちのもとにとどまって、イスラエルの国の再興のために今度こそ共に戦ってくれると、彼らは期待していたのではないでしょうか。
しかしそんな彼らの思いとは違い、イエス様が“父からの約束を待ちなさい。あなた方は聖霊を受ける”と言って、天へと上って行かれました。
“聖霊の力を受けるとき、使徒たちは自分たちの民族や国を超え、あらゆる国や地域、地の果てにまでキリストの福音を伝える証人となる”、というお言葉(約束)を残し、イエス様は天へと上って行かれました。
そして「イエス様は、天に上って行かれたのと同じ有様で、またおいでになる」という約束の言葉も、その時使徒たちに与えられました。この約束は、今の私たちにも与えられています。
イエス様は再び来られる、という希望の約束にキリスト者は生きることができるのです。それがいつなのかは、まさに神がご自分の権威をもってお決めになることですから、私たちには分かりません。
しかし、主イエス様が再び来られるこの地上の世界において、私たちは信仰による希望を頂いて、まさに地に足をつけて日々を生きるのです。
復活したイエス・キリストは使徒たちに、神の定められた時の中で、神の時を待って生きるようにと教えられました。
そして聖霊の力を受けて、キリストの証人となり、キリストを伝道する者となるようにと、言って彼らを励まされました。その励ましは今の私たちにも与えられています。
主イエス・キリストは再び来られます。キリスト者は、主イエス・キリストは再び来られる、というその希望に生きることが出来ます。
そして、日々私たちが生きているという事実は、そこに主なる神の大いなるご計画があることの証拠でもあるのです。そのご計画の成就のために、主はきっと私たち一人一人を大きく用いてくださいます。
私たちは生きる限り、キリストにある希望を頂くことができます。その希望の知らせを世に伝える、証しする、キリストの証人としての日々を、私たちは生きて行こうではありませんか。