2025年6月15日 主日礼拝
前奏
招詞 箴言22章9節
賛美 新生讃美歌120番 主をたたえよ 力みつる主を
主の祈り
賛美 新生讃美歌 262番 み霊よ くだりて
献金
聖句 使徒言行録2章43~47節
祈祷
宣教 「信者の生活」
祈祷
賛美 新生讃美歌 19番 くすしき主の愛
頌栄 新生讃美歌 679番
祝祷
後奏
歓迎・案内
「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。」という言葉で、今日私たちに与えられた聖書の箇所は始まります。
キリストの使徒たちにより、多くの不思議な業としるしが行われ、その様子に全ての人々が”恐れ“を抱いた、と言うのです。
イエス・キリストは墓から(死から)甦(よみがえ)り、弟子たちにその姿を現しました。
全く罪のないお方であったイエス・キリストが人の罪を背負い、十字架にかけられて死にました(殺されました)。
そのキリストの死によって私たち人は罪赦され、真の命(永遠の命)をいただいて生きることができるようになりました。
永遠の命を頂いたのですから、キリストを信じる者は、もはや死を恐れる必要がなくなった、と言うことができます。何という恵みでしょうか。
主が復活した日である日曜日に、今もキリスト者は礼拝に集まり、主の復活を思い起こし、復活の主から生きる力、永遠の命の恵みを頂きます。
もう一度申し上げますが、イエス様は十字架の上で死に、墓に葬られました。
しかし、「彼(キリスト)は陰府(よみ)に捨ておかれず、その体は朽ち果てることがない」という聖書(詩編)の言葉通り、イエス様は死んだままではおられませんでした。
キリストは決して死んだままではおられない、と言うことは、旧約聖書の預言の言葉を通して前もって伝えられていたのです。
復活後約40日にわたって弟子たちにそのお姿を現し、彼らを励まされたイエス様は、再び天へと昇って行かれました。
天へ上られる前にイエス様は弟子たちに「あなたがたには聖霊が降る。聖霊があなたがたに降ると、あなたがたは力を受ける」と約束をしておられました。(使徒言行録1章8節)
そしてその約束通り、弟子たちに聖霊が注がれ、弟子たちは様々な外国語によって、神の偉大な業について語りだし、彼らはそのほかにも多くの不思議な業を多く行うようになったのです。(先週私たちが記念したペンテコステの出来事)
そのような様子を見て、「すべての人に恐れが生じた」と今日の箇所は言います。その恐れとは、どのような恐れでしょうか。
「恐れ」は、キリスト者の信仰にとって大変重要な要素の一つです。今一度私たちは、主なる神を恐れる、ということを知る必要があります。
私たちは、イエス様を通して、天の父なる神を知らされます。イエス様を通して、神の限りない愛を私たちは知り、大いに慰められます。
それは、神の子イエス様がご自身の命と引き換えに、私たちを罪から救い出してくださったからです。
イエス様のそのご愛は、本当に限りないものであり、その愛の大きさを私たち人間が完全に知ることはできません。
それほどまでに深い愛、また神の本質に触れる時、私たちは恵みへの深い感謝と共に、“恐れ”という感情も抱くようになるのです。
キリスト者が、聖書の伝える真の神を信じ、神に従って生きているかどうかを知る指標の一つは、この“主なる神への恐れ”があるかどうか、によって分かります。
敢えて言えば、神さまは“恐ろしいお方”です。その恐ろしいとは、私たちの思いや考えなど、全てにおいて神が私たちを完全に超越しておられる、という意味です。
私たちは神についてすべてを知ることはできず、まして私たちが神の上に立って、神に指図するようなことも決してできません。
ところが、気が付けば、わたしたちは良く、神様に対して色々と当然の権利かのようにして、神に対して要求をしている、ということがないでしょうか。
神とは恐れるべきお方です。その恐れとは、“神を敬い、神の偉大さ、計り知れなさを認める”ということです。
旧約聖書の時代のモーセは、エジプトで約400年間奴隷生活を送っていたイスラエルの民をエジプトから救い出すために、神に選ばれた人でした。
主なる神が初めてモーセに現われた時、主はモーセに「モーセよ、モーセよ」と語りかけました(出エジプト記3章)。
そして神はモーセに、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と話しかけました。
するとモーセは「神を見ることを恐れて顔を覆った」とその箇所(出エジプト記3章6節)に書かれています。
神の御声を聞くということ、神を知らされるということは、本来それほどの恐れを私たちの中に引き起こすものなのです。
私たちは“神は愛なるお方である”、ということはよく知っています。しかし、神への恐れ、神は私たちが恐れるべきお方、ということを、私たちは今一度思い起こしたいと願います。
この世界の全てのもの、天地万物をお造りになり、自然法則などのすべてをお定めになり、そして私たち生きるもの全てをお造りになった方の計り知れない力を覚える時、私たちは恐れるはずです。
そのお方の前に立つことなど決してできない、と私たちは恐れるはずです。
主への恐れを私たちが失う時、私たちは傲慢になり、自分は何でも知っていると思い、またいろいろなことを自分中心で考えるようになります。
主を畏れるとは、“自分は何も知らない”ということを知る(認める)ことでもあります。使徒パウロは、次のように言いました。
「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」と言っています(1コリント8章2節)。
自分が何も知らないということを知ると、私たちは謙虚にならざるを得ません。そして私たちは常に神によって、また自分以外の他者からも常に教えて頂く、という姿勢を持つようになります。
ですから、つねに私達は互いの声に聞き合い、互いに教え合うことが必要です。一人の人の理解や信仰は、限られたものであるからです。私たちは“知らねばならぬことをまだ知らない”者であるからです。
信仰に基づいてキリスト者が互いを敬い、お互いに聞き合い、互いに教え合い、交わりを持つ時、そのような交わりの中心には、神の愛があります。
逆説的ですが、神への恐れを持つことが神の愛、そして他者への愛をも知ることへと繋がるのです。
私たちは神の前に常にへりくだり、絶大なる神の力を認め、神を正しく恐れることを知りましょう。そして同時に知らされる神の愛を、感謝をもって頂いていきたいと願います。
今日の箇所で、使徒たち(キリストの弟子たち)は、“皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った”と書かれています。
これが、キリストの愛に満たされた初期のキリスト者共同体の姿でした。すべての物を共有にする、ということがなぜ可能だったのでしょうか。
それは“すべては神から与えられたもの”という信仰が彼らの中で生きていたからです。私たちが、自分の力を慢心する時、自分の能力で得たものは自分のもの、という考えが生まれます。
しかし、“私たちは神によって造られ、神の憐れみによって生かされている”ということを信じるならば、“すべてが神から与えられた賜物”と言う信仰が私たちに与えられます。
“すべては神から与えられた賜物”という信仰を頂くと、私たちは自分の持ち物や自分の才能や、または自分そのものへの執着から私たちは解放されるでしょう。
“すべては神から与えられた賜物”と言う信仰に私たちが生きるとき、そこでは互いに必要なものが分け与えられる、と聖書は伝えるのです。
そしてまた今日の箇所で、“使徒たちが互いに必要に応じて皆が分けあった”、と言うことは、誰が何を必要としているのかを、彼らは互いに分かっていた、ということです。
互いを配慮し合う優しさが彼らの間にはあり、また困った人たちは「助けてほしい」という声を上げることができる信頼関係も、彼らの間には築かれていたということです。
お互いに分かち合い、そして困ったひとが“助けてほしい”という声を上げることができる共同体を、私たちもイエス様から頂く愛に基づき、築いていきたいと願います。
今日の46~47節をお読みします。
46そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、47神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
彼らは“民衆全体から好意(favor)を寄せられた”のです。なぜでしょうか。
それは、彼ら使徒たち(弟子たち、信者たち)が集まって信仰を共にし、彼らが“神を賛美して(褒め称えて)いた”からです。
キリストの信仰者が信仰によって集まる時、そこでは神が賛美される(褒め称えられ、礼拝される)のです。そしてそのような姿に多くの人の好意が寄せられたのです。
ここに、キリストを伝道する上で大切なこと、あるいは唯一と言ってもよいことが書かれています。
信仰者が純粋に真心から神を賛美する時、そのような姿は神を知らない人々の心をもとらえる、ということです。
神を賛美するとは、神の栄光を求める、ということでもあり、神に栄光を帰するということです。
今年度、私たちの教会の主題は「全て主なる神の栄光のために」です。この主題には、キリスト者の信仰の使命と目的が凝縮されています。
私たちは、自分自身やあるいは私たちの教会の栄光を求めるのではなく、ただイエス・キリストの主なる神の栄光を求めるのです。
キリストの神にのみが褒め称えられることを私たちは願い求めるのです。心から私たちはそう願いましょう。
神が賛美され、すべての栄光が神に帰されることこそ、信仰者にとっての最高の喜びであり幸い、神が賛美されることが、神の福音がもっとも力強く伝道される方法でもあるのです。
そして今日の箇所の最後には、“主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである”と書かれています。
キリストの信仰者が主の恵みと愛のもとに集まり、すべては神から与えられたものという思いで一致し、互いに分け与え、助け合う時、そして主を賛美する時、主は救われる人々を日々加えてくださるのです。
私たちの周りにも、キリストの恵みに預かって救われて、信仰の共同体の仲間となるべき方が沢山おられます。
そのような方が多くおられることを覚えつつ、私たち自身、大いなる神への”恐れ“を今一度持ちつつ、その神の愛と憐れみの中にも生かされてまいりましょう。
信仰によって私たちが互いに愛し合い、分かち合い、助け合う時、そこで神は賛美され、神に栄光が帰されていきます。そして主を信じる人が一人、また一人ときっと起こされていきます。
使徒言行録が伝える、そのような福音伝道の姿に励まされ、私たちも信仰に生きる日々、福音を伝える生活を送っていきたいと願います。