2025年6月29主日礼拝
前奏
招詞 イザヤ55章12節
賛美 新生讃美歌 61番 さわやかな朝となり
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌262番 み霊よくだりて
献金
聖句 使徒言行録3章1~10節
祈祷
宣教 「イエス・キリストの名によって立ち上がる」
祈祷
賛美 新生讃美歌 492番 わが身の望みは
頌栄 新生讃美歌 679番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今年度(4月から)に入りまして、私たちは礼拝のメッセージとして『使徒言行録』の御言葉を共に聞いています。
第3章の初めの箇所(1~10節)が、今日の聖書箇所として私たちに与えられています。
ペトロとヨハネの二人が、午後3時の祈りの時間に神殿に上っていきました。当時、ユダヤ教では祈りの時間が午前9時、正午、午後3時と、一日三回あったと言われています。
神さまに祈ること、礼拝することは、時間さえあれば、いつでもどこでもすることができます。決まった時間でなくても、祈ることは可能です。
当時のユダヤ教の人々、キリストを信じるようになったクリスチャンたちも、一人で、自分の都合のよい時間にも祈ることがあったと、私は思います。
しかし、今日の箇所でペトロとヨハネが、決められた祈りの時間に、神殿に上って行ったことから、彼らが決められた祈りの時間を、また祈りの場としての神殿も、大切に守っていたことが分かります。
決められた時間に、また決められた場所で祈りや礼拝を、定期的に献げることは、とても大切なことです。
それは今の私たちキリスト者にとっても大切です。私たちはもちろん、自分に都合の良い時間に、一人で聖書を読むこと、学ぶこと、また一人で祈ることもできます。
しかし、決まった時間に、決まった場所で、そして今私たちがしているように公の礼拝として、お互いに合意した時間に、私たちが共に礼拝することは、私たちの信仰生活にとって、また神の恵みを共にいただくために、とても重要です。
それぞれが自分の生活を第一として、もし時間が余ったら神様を礼拝する、聖書を読む、というのではなく、神との時間、信仰の兄弟姉妹との共なる礼拝を献げるために、最初からそのための時間を取り分けておくことを大切にしたいと思います。
私たちの生活をまず神様にささげ、神様に自分を合わせる(献げる)ことが大切であり、神様を私たちの都合に合わせるのものではないのです。
私たちの教会の週報では、次週の聖書の箇所や歌う予定の讃美歌が知らされています。
できれば皆さんは次の週の礼拝への霊的な備えとして、聖書箇所(讃美歌も)を事前に読んでいただきたいと思います。
そして次週の礼拝を覚えて前の週から祈り、その箇所を通して、その新しい週に必要なメッセージが私たちに与えられるようにと祈っていただければ、それは私たちの教会全体にとっての力、幸いとなるでしょう。
これは私の出身教会で聞いた話です。ある年配の教会員の方が、日曜日の礼拝に出席するためには、その一週間前から体調を整え始める、と言うのです。
若ければそんなに前から準備しなくても大丈夫なのでしょうが、その方の場合には、一週間前から礼拝に行けるように体調を整えていく必要がある、ということでした。
私はそれは素敵なことだな、信仰者として幸せなことでもあるな、と今、思います。それは、神様中心、礼拝中心の喜びの生活だと私には思えるからです。
スポーツ選手が試合当日に向けて最高の体調を整えるように、私たちも神様を礼拝することに、それだけの準備や祈りをもって備えることができればと願います。
今日の場面では、ヨハネとペトロが神殿の門(美しい門と呼ばれた門)で、生まれながら足の不自由な人と、出会います。
祈りの場、礼拝の場は、私たち人同士が出会う場所でもあります。神様によって呼ばれ、互いに出会わされる、新しい人とも会う、それが教会です。
その生まれながら足の不自由な人は、毎日そこに運ばれて、その門のそばに“置かれていた”と書かれています。彼が神殿に来る他の人に施しを乞うことができるためでした。
その人はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞いました。
そこでペトロとヨハネは彼を“じっと見た”、と書かれています(4節)。
ペトロとヨハネは、その足の不自由な人のそばを素早く通り過ぎることもできたでしょう。
あるいは、できるだけ早くその人との会話は済ませて(もし少しお金を持っていたら、あげたりして)、彼らが神殿へ来た目的である祈りへと急ぐこともできたでしょう。
しかし、ペトロはヨハネと一緒にその人をじっと見ました。ペトロとヨハネがその足の不自由な人をじっと見た、というのは、できるだけその人を理解しようとした、ということだと思います。
その人に向き合って時間を取って、その人がどんな人であるのか、どんな事情を抱えているのか、何を考えているのか、ということまで知ろうとした、ということです。
私は、よく他者の表面的な見えるところだけでその人を判断してしまい、その人の深い事情まで、心の内までは理解しようとしないところがあります。
しっかり人と向き合うこと、それは難しいことですが、私たちにとって大切なことだなと思わされます。
その足の不自由な人をじっと見たペトロは、「わたしたちを見なさい」と言いました。ペトロのこの言葉は、ペトロが自分を飾らずに正直な自分たちの姿をその人に見せようとしたことを表します。
ペトロもヨハネもガリラヤ出身の元漁師でした。
ペトロはその足の不自由な人に、「私たちの姿をしっかりと見てほしい。私たちはそれほどお金持ちでもないし、特別に学問を修めたわけでもない。特別な才能や素晴らしいものを持っているわけではない」と言いたかったのではないでしょうか。
しかしペトロはこう言います。
「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
金や銀(金銭)は、生活のためには必要です。ペトロはそのことを否定しているのではないと思います。
しかし、その時ペトロは、「今、この足の不自由な人に必要なものは、主イエス・キリストの名を信じる信仰だ。その信仰は、この人の一生を支えるものになる。そしてイエス様はこの人に立ち上がる力をもきっと与えてくださる」と確信したのです。
そしてペトロはその人の右手を取って彼を立ち上がらせた、と7節に書かれています。ここでペトロがその人の右手を取った、という何気ない動作も重要だと思います。
ペトロは、“ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい”と言って、真の神の名、本当に力あるお方の名をその人に知らせました。
そして彼の右手を取るということを通して、その人が神の名を信じて立ち上がることができるように、ペトロは彼を手助けもした、ということです。
ペトロはその人にイエス・キリストの名を伝え、そして自分にできる範囲でその人を手助けしました。ペトロはそれらすべてを神に信頼しながら行ったのです。
私たちも、神の名を伝える、伝道の働きをしつつ、自分にできることを通して、他者を実際に助けることもしていきたいと願います。
「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」~ペトロのこの言葉を、今も私たちは私たちへの励ましの言葉、信仰の言葉として、聞くことができます。
今、色々な難しい状況、辛い状態の中におられる方もいらっしゃるかもしれません。
実際に足が不自由でなくても、精神的にも霊的にも”立ち上がって歩く“ということが難しい状態に置かれている方がおられるかもしれません。
そのような時、私たちは教会で互いに、キリストの名によって励まし合い、そして必要ならば手を取りあって、互いに立ち上がることができる手助けを、差しのべあうことができたら、と私は願います。
私たちを本当に立ち上がらせてくださるのは主イエス・キリスト(人として生きられたと言う意味で、”ナザレの人イエス”)です。
私たちが倒れても、もう自分では立てない、と力尽きそうになっても、キリストが私たちと共におられます。
イエス様が私たちのそばにいつもおられ、そして私たちの手を優しく取って、倒れた私たちを再び立ち上がらせ、歩かせてくださるのです。
イエス様が私たちと共に歩いてくださいます。ですから、イエス・キリストが私たちに希望と力を与えてくださる、と信じて私たちは互いに励まし合って生きていきたいと願います。
この足の不自由だった人は、踊りあがって立ち、歩き出しました。そして彼は歩き回ったり、踊ったりして神を賛美しました。どれほど大きな喜びの表現でしょうか。
この人は嬉しくて仕方がなかったのでしょう。神を知らされ、実際に立ち上がる力を神からいただいたことは、それほど喜びの出来事だったのです。
その人はあまりに嬉しくて、まさに力の限り、精一杯神様を賛美して、踊るほどにその喜びを表現しました。
私たちの礼拝の場は救われた喜びと感謝を私たちが表すことができる場でもあります。
ですから私たちが、イエス・キリストの神に救われた、日々立ち上がり歩く力を頂いていることへの感謝と喜びがあふれる礼拝を捧げていきたいと願います。
実際に踊るかどうかは別としても、“礼拝は嬉しい、喜びの場だ”ということを私たちが確信し、それが自然な喜びとして他者へも伝わればと願います。
今日の箇所の最後の節(10節)をお読みします。
彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。
その足の不自由な人が、ずっと“美しい門”のそばに座って施しを願っていたことを見て知っていた人たちは、その人が立ち上がって、神を賛美している様子を見て、非常に驚いた、というのです。
それは、あり得ないことが起きた、ということへの単純な驚きでもあったでしょう。
しかし、私たちは彼らがそれほど驚いたその出来事は、神の恵みと力が可能にした、ということを知っています。
イエス・キリストの名、キリストの力は、それほどまでに私たち人を変えることができる、という希望の真実を、私たちは今日の箇所から知らされるのです。私たちは神によって変えられる、変わることができるのです。
私たちはキリストの力によって、倒れた状態からでも再び立ち上がることができます。
今は倒れていなくても、日々私たちが命を頂いて生きることができている、歩くことができるのも、キリストが私たちにその力を与え、私たちに命を与えてくださっているからです。
私たちは、“今のこのわたしを支え、助け、力を与えて立たせてくださる、歩かせてくださっている、生きることを許してくださっているのはイエス様の恵みなのだ“と改めて心から信じたいと願います。
そして私たちが心からそう信じて生きるのならば、そのような私たちの姿(キリストによって励まされ、喜んで生きる姿)が、大きな驚きと共に、他者にも神の恵みと力を伝えるものとなるでしょう。
力の源であるイエス・キリストの神に喜びと感謝、賛美を捧げながら、信仰の生活を日々、私たちは歩んでまいりましょう。
父なる神様、私たちをいつも支え、倒れた時にはあなたが優しく私たちの手を取り、御言葉により励まし、立ち上がらせてくださるご愛に心から感謝いたします。