2025年6月8日 主日(ペンテコステ)礼拝
前奏
招詞 ヨブ記33章4節
賛美 新生讃美歌 650番 喜びて主に仕えよ
主の祈り
賛美 新生讃美歌 262番 み霊よくだりて
献金
特別賛美1
神の偉大な業の聖句を多国語で
特別賛美2
聖句 使徒言行録2章32~42節
祈祷
宣教 「賜物として聖霊を受ける」
祈祷
賛美 新生讃美歌278番 わが心は歌わん
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
後奏
ペンテコステ(聖霊降臨祭)の礼拝を本日私たちは捧げています。
主の聖霊がキリストの弟子たちに注がれた、ペンテコステの出来事に関する聖書の記事の中から、私たちは神のメッセージを共に聞いてまいりましょう。
今日の聖書の箇所は、新約聖書の中の『使徒言行録』2章32節から42節までの箇所です。
イエス・キリストの最初の弟子であったペトロが、集まっていた人々に向かって話をしています。
ペトロは、イエス・キリストが神から遣わされたお方であること、そしてキリストが死から復活したことを語りました。
今日の箇所の最初の節でのペトロの言葉です。
「神はこのキリストを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」
復活のイエス・キリストに出会ったペトロは、復活のキリストを他の人々に伝えずにはいられませんでした。そしてペトロをそのような働き(伝道の働き)へと促したのは、聖霊でした。
ペトロ自身が、彼が聖霊を注がれたことを、このように言っています。今日の33節の言葉です。
33それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
ペトロが、イエス・キリストがどのようなお方であるのかについて、また主の死と復活について述べ伝えているのは、彼が約束の聖霊を頂いたからでした。
そして、目には見えないその聖霊の働きは、ペトロが熱心にイエス・キリストについて、神について語っているその姿を通しても、明らかになっていたのです。
私は時々こう思います。イエス様が、今もそのお姿を現して、復活したことをご自身で証明してくだされば、もっと多くの人々がイエス様を信じるのではないか、と。
それでも疑う人はいると思いますが、イエス様がご自身でそのお姿を現し、直接お言葉を語ってくださったほうが、私たち人が伝道するよりもはるかに早く、伝道は進むのではないでしょうか。
しかし、私たちの目には見えないからこそ、その信仰には確かな希望があり、そのような信仰は永遠である、と聖書は述べます。
以下二つの聖書箇所を引用します。
ローマの信徒への手紙8章24~25節
24わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
25わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
コリントの信徒への手紙二4章18節
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
私たちは目には見えないけれども確かな希望、見えないけれども(見えないからこそ)永遠の希望に生かされるのです。
私たちは、今も目でイエス様を見たり、直接イエス様にお会いしたりすることはできません。私たちは、聖書を通してイエス様がどのようなお方であるかを知ります。
そしてキリストを信じて生き方を変えられ、実際に生き方を通して信仰を実践している他の人たちの姿を通しても、私たちはキリストを知ることができます。
そのようにして、信仰者一人一人の生き方を通し、また教会の働きを通しても、キリストは伝えられていきます。そしてそれらを可能にするのが、聖霊です。
ですから私達は、キリストが確かに復活したこと、復活のキリストによって希望を頂いて生かされていることを、聖霊の導きを頂きつつ、証し続けていきたいと願います。
今日の箇所の36節をお読みします。
36だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
“あなたがたが十字架にかけて殺したイエス”とは激しい表現です。しかし、この言葉は、今の私たちへも向けられた言葉として、私たちは聞かなくてはなりません。
イエス様が十字架におかかりなったのは、私たちの罪を赦すためでした。ですから、イエス様を十字架につけたのは、私たち一人一人であり、“このわたし”でもあるのです。
十字架を、私たちの教会は屋根の上に掲げています。十字架とは死刑の方法です。十字架の木は、死刑の道具です。
死刑の道具であるものを、私たちは屋根の上(一番目立つ所)に掲げているのです。それは、私たちが神であるお方、キリストを十字架にかけた、というその事実を私たちがいつも忘れないためです。
そして十字架の上で、主イエス・キリストが私たちのために死んでくださり、私たちに新しい命を与えてくださったことを私たちが忘れないためです。
今日の箇所で、そのようなペトロの話を聞いていた人たちから、次のような反応がありました。
「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」(37節)
人は真の神について知らされ、イエス・キリストが私たちのためにしてくださったことを知らされると、「今の私は、このままではいけない」という自覚が生まれます。
ですから、人々はペトロに聞いたのです。「わたしたちは、どうしたらよいのですか」
ペトロは次のように答えました。(38~39節)
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
39この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
“キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい”とは、キリストの名によってしか、私たちの救いと罪の赦しはないことを表します。
そして、イエス・キリストの名によるバプテスマは、罪の赦しを表すと共に、聖霊を賜物として受けることに繋がる、とも言われています。
そして賜物としての聖霊は、“あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、神が招いてくださる者ならだれにでも、与えられている”という点もとても重要です。
ここで、キリスト者はどんな状況においても、復活の主がおられることを、語り続けなくてはならない、ということを私たちは教えられます。
なぜなら、キリスト者が復活の主イエス・キリストについて語らなければ(証しをしなければ)、他の人々はキリストについて聞くことができないからです。
私たちが自分自身の信仰の経験として、生きた信仰に関する証をしない限り、キリストが今も働いて私たちの命を支えてくださっていることが他の人には分からないのです。
そしてまた私たちは、主なる神が、一体誰をご自分のもとへ呼んでおられるのか(誰が信じるようになるのか)、それは私たちには分からないからです。
ですから、私たちは与えられたあらゆる機会を通して、主イエス・キリストを証する、証し続けることが重要であるのです。
今日の箇所では、ペトロの言葉を受け入れた人々はバプテスマ(洗礼)を受けて、その日に三千人ほどが仲間に加わった、と書かれています。
三千人とはすごい人数だと思います。こんな奇跡は今では無理かな、と私たちは思うかもしれません。
しかし、神の言葉が真実をもって語られるのであれば、このような大きな出来事が現在であっても決して不可能ではない、という希望の信仰を私たちは持ってよいと思います。
今日の箇所の最後の42節をお読みします。
42彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
ここに、キリスト教会が今も大切にし続けることが書かれています。使徒の教えとは、聖書に伝えられた神の教え、イエス・キリストの御言葉を教えるということです。
教えるということは、一方的に誰かが誰かに教えるというのではなく、互いに教え学び合うことです。私たちは互いに教え合い、信仰を励まし合うのです。それがキリストの体です。
そこでは聖書に伝えられたイエス・キリストが、生き生きと伝えられます。そのように、生きたキリストが伝えられ、分かち合われる教会には、必ず人が集まるとわたしは信じます。
そしてキリストの教会には相互の交わりがあります。互いに支え合って生きる交わりがそこにはあるのです。
教会での互いの交わりについては、私は牧師として立てられている自分の経験からも、このことの重要性を実感しています。
牧師は霊的なリーダーでありながら、牧師自身も神の前に、ただ一人の信仰者でもあります。
牧師も教会の皆さんとの霊的な交わりの中で養われることが、御言葉を語る働きを続けるためには不可欠です。
ですから私は、皆さんが私を牧師として立ててくださり、なお同信の友(兄弟)として、霊的な交わりをもしてくださることに、本当に感謝をしております。
牧師である私も、皆さんから本当に色々なことを教えられます。
また、牧師となる前の自分の信仰生活を振り返っても、教会に繋がっていなかったならば、私の信仰は決して成長しなかったことを私は確信できます。
それほどまでに重要な、相互の交わり、教会での交わりを私たちは大切にしていまいりましょう。
そして“パンを裂くこと”とは、これは直接的には主の晩餐のことが言われています。
エス・キリストは目には見えませんが、主の晩餐を通して、イエス・キリストがご自身のお体を私たちのために捧げてくださったことを、私たちは思い起こします。
そしてキリストの体を象徴するパンとぶどう酒を実際に頂くことによって、私たちの命が今もキリストによって生かされていることを、私たちは体感し、その信仰を見える儀式を通して証し続けるのです。
そして最後に言われているのが祈ることです。
二人、または三人がキリストの名によって、心合わせて真剣に信じて祈るならば、その祈りは必ず聞かれると信じ、祈ることができる場所が教会です。
祈りは教会に与えられた尊い賜物の一つであり、この祈りの賜物をわたしたちから奪うことができるものは、何もないと言ってよいと私は思います。
聖霊によって導かれて、喜びと期待を頂き、そして力溢れて祈ることが出来る教会に私たちはなりたいと願います。
私たちは心を開いて、また互いの心と声にも聞き合って、今も私たちの間で、聖霊様が自由に(風のように)働いてくださるようにと、祈りを合わせましょう。
わたしたちが願い祈る時、聖霊の賜物が豊かに私たちに、私たちの教会に与えられます。主のその約束を信じ、希望の信仰にこれからも私たちは生きていこうではありませんか。