2025年7月5日土曜日

2025年7月6日 主日礼拝

前奏
招詞  マラキ書3章20節
賛美 新生讃美歌 507番 主の手に委ねて
主の祈り
賛美 新生讃美歌 278番 わが心は歌わん
祈りの時
献金
聖句 使徒言行録3章11~16節
祈祷
宣教 「僕(しもべ)イエスに栄光を」
祈祷
賛美 新生讃美歌626番 主はいのちを与えませり
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏
歓迎・案内


 今日の聖書箇所は次のような一文で始まります。
「さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、『ソロモンの回廊』と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た」(11節)
その場所はエルサレムの神殿でした。ペトロとヨハネは、イエス・キリストの直弟子であり、十二使徒とも言われた弟子たちの中の二人でした。
彼らはイエス・キリストが十字架にかけられて死に、そして死から甦り復活し、天に昇って行った後の信者たちの群れ(教会)の中で、中心的な役割を果たすようになりました。
“ペトロとヨハネにつきまとっていた”、と言われる“その男”というのは、今日の箇所の前の箇所で出て来た人のことです。

彼はペトロとヨハネとの出会いによって、生まれた時からずっと不自由だった足が治って、歩けるようになった人でした。
この人は生まれつき足が不自由で、いつも神殿の門のそばに置いてもらって、人から施しを受けていた人でした。(3章2節)
この人が、神殿に入ろうとしていたペトロとヨハネを見て、(お金をもらうことを願って)施しを願いました。ペトロは彼にこう言いました。

「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)
そう言ってペテロがその人の右手を取ると、その人は立ち上がりました。その人の足は治って、彼はしっかりと立ち上がり、躍り上がって神を賛美しました。
そのように、不自由だった足を癒された人が、ペトロとヨハネに“つきまとっていた”と今日の箇所は言います。
“つきまとう”、という表現は、通常では、あまり良い表現ではないように思われます。“つきまとう”(hold on to)とは、“掴(つか)んで離さない”ということです。
この人は、自分の足を癒したのは”イエス・キリストの名だ“と分かっていたはずですが、それでも、彼はそのイエス・キリストの名を自分に伝えてくれたペトロとヨハネを、特別な存在として、尊敬、あるいは崇めようとしていたのかもしれません。
ですから、彼はペトロとヨハネにしがみついて離れることがなかなか出来ず、つきまとっていた。
「あなたたち(ペトロとヨハネ)が、わたしとずっといてくだされば、これからも私は安心です」という思いを、その男の人は持っていたかもしれません。

今日の箇所では、ペトロが、彼らのもとへ集まってきた民衆たちに語り始めます。
生まれた時から足の不自由であった人が、足を癒され、強くされて、立ち上がって今や躍り上がっている、なぜそのようなことが可能であったのかを、ペトロが語りだすのです。
ペトロはまず、“その人を癒したのは自分たち(ペトロ、ヨハネ)の力ではない”、ということを伝えます。
人々はそのように考えていました。ペトロやヨハネが何か特別な力を持っていたから、その人の足は治ったのだろう、と人々は思っていたのです。
ですからペトロは言いました。
「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。」(12節)

生まれつき足の不自由な人が立ち上がることができた、その人が長年の苦しみから解放されたことは素晴らしいことでした。
しかし、ペトロはそのことだけに(足が治って歩けるようになった事実、あるいは自分たちが彼を癒したかのような印象に)人々の関心を留めたくはなかったのです。
そのようなことを可能にするお方、あなたたち皆が知らなくてはならない方がおられる、とペトロは語ります。
それはイエス・キリストだったのです。16節に書かれている通り、それは“イエス・キリストの名を信じる信仰”であり、“イエスによる信仰”です。
イエス様が私たちに与えてくださる信仰が、素晴らしい奇跡を起こすのです。それは決して人の力によるのではありません。
ですから、もし私たちが“つきまとう”べきお方、あるいは“しがみつかねばならない”お方がおられるとすれば、それはイエス・キリストです。
誰か優秀な人とか、物や金銭に頼って、それらにしがみつくのではなく、私たちは主イエス・キリストにこそ、依り頼みしがみつくべきである、と今日の箇所から教えられます。

 今日の箇所の13節でペトロがこう言っています。
13アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。

イエス・キリストを通して私たちに知らされる神は、“アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神”です。聖書が伝える神は、歴史の中でイスラエル民族をお選びになり、彼らにご自身を現わされた神です。
 アブラハム、イサク、ヤコブはユダヤ人たちにはなじみの深い、自分たちの信仰の祖先の名前でした。
 私たちも、今聖書(旧約聖書)を通して、アブラハムをはじめとするイスラエルの祖先たちに、神がどのようにご自身を表されたのか、を知ることができます。
 旧約聖書の神と新約聖書の神は違う神ではないか、という印象を持つ方もおられるようですが、聖書は、はっきりと神は唯一のお方であると伝えます。
 天地をお造りになり、この地に生きるもの全てをお造りになったお方、そしてアブラハムに、その子のイサクに、その子のヤコブにご自身を現わされたお方は、イエス・キリストとしてご自身を現わされた神と同じ神であり、唯一真の神であるのです。

 もう一度、13節の前半をお読みします。
13アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。

ここでイエス様のことが“僕イエス(his servant Jesus)”と言われています。“イエス・キリストは神の僕であった”、というのです。
イエス様は神と等しいお方でした。イエス様は神でしかお出来にならない力ある御業を、沢山なさいました。
しかし、弟子たちの心には、神、メシア(救い主)としてのイエス様と同時に、“神の僕”としてのイエス様の姿が強く残っていたのです。
イエス様は人々の色々な病を癒したり、悪霊を追いだしたり、また嵐を静めたり、水の上を歩いたり、と多くの力ある奇跡の業を行いました。
 それらも神としての、神の子としてのイエス様の力を示すものでした。
しかし同時に、イエス様が御自分を本当に低くして”僕“となり、いつも他の人々に仕えていた、というその僕としての姿が、ペトロや弟子たちには強烈な印象として残っていたのです。
 私たちの先生、また神の子であったイエス様は、ご自身が最も偉大なお方でありながら、神の“僕”であり、また人にも仕えるほどの僕であった、とペトロは言っているのです。
“そして私たちも互いに僕であるようにと教えてくださった”とペトロは改めて思い出していたのでしょう。
 イエス様は生きておられる間に弟子たちに次のように言っておられました(マルコによる福音書10章43~45節)

あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエス様は、このようにおっしゃいました。そして言葉の上だけでなく、まさに自ら僕としての生き方を実践し、僕としての生き方を全うされました。
神であり、王であるお方、最も偉大なお方が自ら僕となられたのです。聖書の伝える神は、神としての身分をお捨てになり、全ての人の僕となって自ら他者に仕える者となられたのです。
イエス・キリストを信じるとは、そのようなお方を神として、主として私たちの心の中にお迎えすることです。
最も低くなられたお方が私たちの主、救い主なのですから、私たちもこの地上において、僕としての生き方、他者に仕える生き方を、求めていこうではありませんか。

今日の箇所の最後の節の16節をお読みしましょう。
 16あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。

 ずっと足の不自由であった彼を救ったのはイエス・キリストの名であり、イエス・キリストによる信仰である、キリストの恵みと力である、と言う真実がここで告げられています。
 そのことを、そこに集まっていた民衆が皆、知る必要がありました。
足が癒されたその人も、“自分を立ち上がらせてくださったのは、イエス・キリストの名を信じる信仰であり、イエスによる信仰なのだ(人の力によるのではない)”ということを再確認する必要がありました。
ですからペトロはそのことを何度も繰り返して強調するのです。
 イエスの名が私たちを強くします。イエス様が与えてくださる信仰が私たちに希望を与えてくださいます。
私たちもそれぞれ、色々な困難や苦しみを、それぞれの人生において抱えているでしょう。
 私たちは困難な状況の解決を求めて、その苦しみから逃れるために、色々なもの、あるいは人に助けを求めようとするのではないでしょうか。
人に助けを求めるのは悪いことではありません。互いに仕えるとは、私たちが互いに助け合うことでもあるからです。
しかし、私たちが地上で抱える深刻な問題の根本的な原因は、人や物(あるいは金銭)によって解決されることはありません。

 私たちが抱える最も根本的な問題、それは主なる神を知らず、神から離れて生きていることです。
私たちはこの世では痛み、悲しみ、苦しみがあります。神を信じても、悲しいものは悲しく、痛いものは痛いのです。
 しかし、”イエス様が私たちと共におられる“、インマヌエル(”神は私たちと共におられる“という意味)の神が私たちと共におられる、という信仰が私たちを強くします。
痛み、悲しみに向き合いつつ、”イエス様が共におられる“という希望の信仰によって私たちは生きることができます。
 主イエス・キリストの名が、今日の聖書箇所では、足の不自由だった人を立ち上がらせたように、私たちも困難な中でもその都度立ち上がる力をイエス様がきっと与えてくださいます。
主なる神が、イエス・キリストが私たちの手を取り、立ち上がらせ、私たちと共に歩んでくださいます。
ですから私たちは、いつも主イエス・キリスト、イエス様を信じ、神と共に、生きる道の一歩一歩を、信仰の家族とも共にこれからも歩んでまいりましょう。