2025年7月26日土曜日

2025年7月27日 主日礼拝

前奏
招詞 イザヤ6:3~4
賛美  新生讃美歌 538番  神はわがやぐら
主の祈り
賛美  新生讃美歌 278番 わが心は歌わん
主の晩餐
献金
聖句  使徒言行録4章23~31節
祈祷
宣教 「大胆に神の御言葉を語る」
祈祷
賛美  新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
頌栄  新生讃美歌671番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 今お読みいただきました今日の聖書箇所(『使徒言行録』4章23~31節)には、“キリスト教会とは、このような場所なのだな”と、私たちに改めて思い起こさせることが書かれています。
 ペトロとヨハネの二人が、釈放されて、彼らの仲間のところへ行く(戻る)、というところから今日の箇所は始まります。
 イエス・キリストが十字架にかけられて死に、そして復活し、そして“弟子たちに聖霊が降って彼らは力を受ける”ことを約束してくださった後、イエス・キリストは天へと上って行かれました。
そしてその後、イエス様の弟子であったペトロとヨハネの二人がエルサレムの神殿で、「イエスの名」によって、生まれつき足の不自由だった人を癒すという出来事がおきました。
その出来事がきっかけとなり、ペトロとヨハネはユダヤの権力者たちによって捕らえられ、牢に入れられ、そして尋問されることになりました。
ペトロとヨハネは、「イエスの名が、その足の不自由だった人を癒した。イエス・キリストは殺されたが、復活した。そしてキリストの名によってのみ、人は救われる」と言って、彼らはイエス・キリストの救いを伝え始めました。

イエス・キリストの復活や、イエス・キリストの名による救いなどは、ユダヤ教の権力者たち(議員や祭司、長老、律法学者たちなど)にしてみれば、到底認めることが出来ないことでした。
彼らユダヤの権力者たちから見れば、イエスというその男は“神を冒涜した者”でした。だからこそ、彼らは、そのイエスをローマの当局に訴えて、十字架刑によってイエス様を亡き者にしたのです。
今日の最初の23節をもう一度お読みします。

23さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。

ペトロとヨハネの二人は、釈放されて、彼らの仲間のところへ行きました。彼らには、帰る場所がありました。
彼らにとって、“自分の仲間”(英語の聖書では“彼ら自身の人々”)と言える人たちがいたのです。
ペトロとヨハネが、釈放された後に自分たちの仲間のところへ、最初に行ったという様子から、私たちは、私たちの教会を思い起こすことができます。
私達も、それぞれの場所での日常の生活を送り、そして教会へと戻ってきます。
教会で私たちは神にお会いし(祈りと御言葉を通して私たちは神に出会います)、そして私たちの信仰の仲間とも、私たちは教会で顔を合わせます(出会います)。
日常の生活で苦しいことがあった時も、帰ってくることができる場所、自分にとって「仲間(自分自身の人たち)」に会うことができる場所、それが教会です。

私たちの教会が、皆さんひとり一人にとって「戻ってくることができる場所」、そして「自分の仲間、家族がいる場所」となればと私は願います。
自分たちの仲間のところへ戻ったペトロとヨハネは、“祭司長や長老たちの言ったことを残らず話した”と書かれています。
 「今後、イエスの名によって教えたり、キリストが復活したとか言ったりすることは許さない」と権力者たちから厳しく命じられた現実を、ペトロとヨハネは全て彼らに話したのです。
  彼らは、彼らに降りかかった厳しい現実の状況、迫害されるほどの危険が自分たちに迫っていることを、仲間たちに全て話し、皆で一緒にその厳しい現実に向き合おうとしました。
 そこで彼らは、まず何をしたのでしょうか。

24節をお読みします。

24これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。

彼らは、厳しい現実の状況を聞き、まず“心を一つにして、神に向かって声を上げて祈った”のです。困難な状況を、彼らはまず神に委ねようとしたのです。
急いで何らかの解決策を自分たちで考えよう、とする前に、“まず祈ろう”という思いが彼らには与えられていたのです。
 私たちも、もちろん自分たちでも最善を尽くすために努力をしますが、“まず祈ろう”、“神に状況を委ねよう”、“御心を、私たちで一緒に求めてみよう”という信仰姿勢を、大切にしたいと願います。
  そして、彼らは“声をあげて言った(祈った)”と書かれています。
 彼らは皆で一斉に声に出して祈ったかもしれませんが、ここではおそらく、ペトロかヨハネが、彼らを代表して声に出して祈っていたのではないかと、思われます。
 キリスト教会では、声に出して他の人に聞こえるようにして祈ることがあります。
誰かが代表して祈る時は、その人が声に出して祈り、そしてその祈りに合わせて他の人も一緒に祈ります。

 祈りは個人的に心の中で祈ることもできます。個人としての祈りも大切です。
 しかし、代表の人が祈る祈りを聞くことで、そこにいる私たちは一緒に、同じことについて、祈ることができます。
そのようにして皆で一緒に祈ることも、とても大切であり、またそのためには、私たちの信仰が本当に一致することが求められます。
 イエス様が次のようにおっしゃっておられます。マタイによる福音書18章19~20節です。

19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
 私たちは、イエス様のこのお言葉を、今こそ強く信じなくてはなりません。どんな願い事であれ、わたしたちのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、天の父なる神はそれをかなえてくださるのです。
 これは、“どんな願い事でもかなう”という途方もない約束の言葉です。しかし、私たちは「あなたがたちのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら」という部分を、真剣に聞く必要があります。
 キリストを信じる者同士、信仰の家族、兄弟姉妹同士が、一緒になって心を一つにして何かを求めるなら、父なる神はそれをかなえてくださるのです。
  そのように、私たちが、自分以外の他者と祈りにおいて(信仰において)本当に一つになることは、言うほど簡単ではないでしょう。私たちそれぞれ願うことや、信仰的な立場や考えも違う場合があるからです。
それでも私たちは、特に同じ教会に集わされた私たちは“心を一つにした共通の祈り”を献げることができるような、信仰による関係性を作っていかねばなりません。
そうしてこそ、“どんな願い事でも、天の父なる神がかなえてくださる”という約束が成就するからです。
イエス様の約束が実現するために、私たちは一致して祈ることができる信仰の関係性と絆を作っていきたいと私たちは願います。

今日の箇所での祈りの最初の言葉に目を留めましょう。
 「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。(24節)

  聖書が伝える神は、この世界のすべてのものをお造りになった神です。
この世のすべてのもの、そこに生きる命あるもの全ては神によって造られ、神はすべてを治めておられる(支配しておられる)お方です。
 そのようなお方に私たちは祈ることが出来る、ということを今日の箇所の祈りは伝えています。
 そしてそれほど偉大な神にできないことは何もない、神はすべてをご存じである、という信頼をもって神に祈ることへと、今日の箇所の祈りの言葉は私たちを促します。
 この世界のすべてのものの造り主、真の創造者へ私たちは祈ることができる、と言う驚きの恵みを私たちは改めて確信いたしましょう。

今日の箇所の29節の言葉をお読みします。
 主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。

 祭司長や長老たちからの脅しは大変厳しいものでした。それはまさに迫害の訪れでした。今後キリストの名を宣教することは、本当に命がけになる、という状況でした。
  ペトロ達は、その厳しい状況を神に委ねました。“今こそ彼らの脅しに目を留めてください”とは、“権力者たちからの脅し(脅威)も、すべて神であるあなたの支配の下にあるのです”という確信の表明です。
  それは“いくら彼ら(権力者)が脅そうとも、彼らもあなた(神の)の支配のもとにあるのですから、私たちが彼らを恐れることがないように、お守りください”という祈りでしょう。
 そして厳しい現実の中でも、権力者たちの脅しの中でも、大胆に御言葉を語ることができる強さをあなたが私達に与えてください、と彼らは神に祈ったのです。
 困難な中でも、大胆に御言葉を語ることができる力、その勇気は神から与えられなければ、他の何ものからも得られるものではない(自分たち自身の内から出て来る力ではない)、と彼らは分かっていたのです。
 私達も、大胆に御言葉を語ることができる力、イエス様の教えに従って生きる力、信仰者として神に信頼して生きる力、それらいずれも神ご自身から私たちに与えられますように、と心から祈り求めてまいりましょう。
  神から与えられた大胆な力によって御言葉を教会が語る時、その御言葉は確かな力をもって、人を励まし、人を動かすものとなっていくのです。

今日の箇所の最後の31節をお読みします。

31祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。
 彼らの祈りが終わると、彼らが集まっていた場所が揺れ動きました。
彼らが集まっていた場所が揺れ動いたということは、祈りに参加していた一人ひとりの心が、彼らの信仰が大きく揺れ動かされた(感動した)ということでもあるでしょう。
彼らは聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り始めました。彼らは祈り求める心で一致し、その祈りが神に聞かれたのです。そして彼らが願った通り、大胆に神の言葉を彼らは語りだしました。
彼らは力を受けて、その場所から遣わされていったはずです。そしてそれぞれの場で、神の言葉を大胆に語った(語り続けた)のでしょう。
 私達の生活、信仰生活の中でも、様々な危機が訪れることがあります。
 そのような危機的な時にも(むしろ危機的な時こそ)私たちは祈りをもって一致し、互いに支え合い、励まし合いましょう。そのような信仰の絆を私達は築いていきましょう。
 心合わせて祈り合うことができる信仰の仲間と出会うことができる教会として、そんな仲間が教会で増えていくことを私たちは期待しつつ、祈りつつ私たちは信仰生活を送ってまいりましょう。
 
 

2025年7月19日土曜日

2025年7月20日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編118篇21節
賛美  新生讃美歌 513番 長き道 山や谷
主の祈り
賛美  新生讃美歌 278番 わが心は歌わん
献金
聖句  使徒言行録4章1~22節
祈祷
宣教  「わたしたちが救われるべき名」
祈祷
賛美  新生讃美歌 81番 父なるわが神
頌栄  新生讃美歌671番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 今日の聖書箇所では、ペトロとヨハネが、民衆に向かって話を続けています。
生まれたときから足が不自由で、いつも神殿の門のそばに置いてもらって施しを乞うていた人が、ペトロたちが彼に伝えた「イエス・キリストの名」によって癒されました。
 その奇跡的な出来事がきっかけとなって、ペトロはそこへ集まってきた人たちに、“イエス・キリストの名が、この人(足の癒された人)を強くしたこと”を伝えました。
そして彼らは人々に“イエス・キリストが人によって殺されたこと、しかしその後復活したこと”を伝えました。
 ペトロは、「命の導き手である方(キリスト)をあなたがたが殺した。しかし、神はその方を死者の中から復活させてくださった」と語ったのです(3章15節)。

 人間の罪の贖いのために、キリストは十字架の上で死にました(殺されました)。ですから、キリストを十字架につけたのは、私たちひとり一人(すべての者)でした。
 しかし神はそのようにして、神の僕(しもべ)としてイエス様を世に遣わして、その方(キリスト)を通して、私たち一人一人が祝福を受けるようにしてくださった、とペトロは(今日の箇所の直前の箇所で)語りました(3章26節)。
 キリストにこそ、真の祝福があります。
私たちは、良いことが起こると、お互いにお祝いをしたり、喜んだり、祝福し合ったりします。
 お誕生日であったり、学校に合格したり、願っていたことが叶ったときに、私たちは祝福をします。
いつも祝福できるようなことばかりあればよいのですが、私たちの生活は、いつも祝福できるような出来事ばかりが起こるのではありません。
 しかし神は、イエス・キリストの十字架を通して、キリストの死者からの復活を通して、私たちへの神の無条件の愛を示してくださいました。
 キリストによって「あなたは愛されている」、「あなたは私(神)にとって本当に大切な存在だ」ということが私たちにはっきりと知らされ、証明されたのです。
 神の愛と恵み、そして罪の赦しがキリストを通して伝えられたのです。
その恵みと祝福が私たちひとり一人に与えられています。私たちは常に、キリストの恵みによって神様から祝福されている存在です。
 キリストを通した神の愛は無条件で(人間の努力や功績にはよらず)、そして、それはいつも私たちに注がれています。
ですから、特にキリストの恵みを知らされた者は、キリストの祝福をいつも喜び、感謝して、喜んで生きていくことができるのです。喜びの道が備えられたことを感謝いたしましょう。

 今日の箇所では、民衆に話をしていたペトロとヨハネのところへ、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々がやってきて、彼ら(ペトロとヨハネ)を捕まえて、牢に入れてしまいました。
 彼らは、ペトロとヨハネが、キリストの復活について宣べ伝えていることにいらだったので、彼らを捕まえて牢に入れました。
 特にサドカイ派と言われたユダヤ教の一派の人たちは、“死者の復活はない”と言って、復活を否定していた人たちでした。
 祭司たちも、自分たちが十字架につけて処刑した人が復活した、などとペトロとヨハネが話しているので、怒りを感じたのでしょう。
しかし今日の4節を見ますと、ペトロとヨハネの話を聞いて、5千人ほどが信じた、と書かれています。
ペトロとヨハネは捕まって牢に入れられました。彼らは自由を奪われました。しかし、彼らを通して語られたイエス・キリストの復活の知らせは、多くの人の心を捉えて、彼らをキリストを信じる者に変えたということです。
 このように、真実は必ず広まっていくのです。
たとえ人の力で、どれほど神の言葉を黙らせようとしても、神の力こそが人に真の力と希望を与えるのですから、真実の御言葉は決して、人の悪意や人間の力によって、無力になることはないのです。

 私たちは、今聖書を通して、そのような真実の力強い神の言葉を頂くことができます。何と心強いことではないでしょうか。
聖書の御言葉を通して、困難な中にも強くされながら、私たちは生きていくことができるのです。
5~6節によると、次の日には議員、長老、律法学者たち、さらに大祭司の一族も集まったと書かれます。ユダヤ教の当局、権力者たちが勢ぞろいしたのです。
 そしてペトロとヨハネは、彼ら権力者たちの真ん中に立たされます。彼らは怖くなかったのでしょうか。
 それだけ多くの権力者たちに取り囲まれて尋問されることには、やはり彼らは恐れを感じたかもしれません。しかし、ペトロには強力な援護者がいました。
8節に、「ペトロは聖霊に満たされて言った」と書かれています。
権力者たちの真ん中に立たされた時、普通ならとても恐ろしい時、神は聖霊でペトロを満たし、語る言葉を与えてくださったのです。聖霊という強力な援護者が、ペトロには与えられていました。

 復活したイエス様は弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と約束しておられました(使徒言行録1章8節)。
 その約束が、今日の箇所でもまさに実現したのです。
私たちも、この聖霊の助け、聖霊による導きを受けることができます。
困難な中で、どうすればよいか分からない時、何を言えばよいのか分からない時、聖霊が私たちにどうすればよいのか、何を話せばよいのかを教えてくれます。
そのような聖霊の助けをいただくために、私たちは日ごろから聖書の御言葉に親しみ、神が今も聖書の御言葉をもって私たちに語り、力を与えてくださることを、経験し続け、確信していきましょう。
生きた神の御言葉に、聖霊が働いて、必ず私たちをいざという時に、強い者としてくださいます。
ペトロが11節で、次の聖句(詩編118篇2節の一句)を引用しています。
11この方(イエス・キリスト)こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。
『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』。
それはこのような意味です。
家を建てる者(家を建てることの専門家)からは“これは親石(建物の隅に置かれる土台としての石)としては役に立たない”と見なされて捨てられた、イエス・キリストとはそのようなお方であったのです。

 “こんな石は役に立たない”と言って見捨てられ、蔑まれ、捨てられた石のように、イエス様は人々から拒絶され、嘲られて、最後は十字架の上で死んでいかれました。
 しかし、その方にこそ(その方にのみ)人の救いはある、とペトロは言います。人からは”役立たず“と思われ見捨てられたお方にこそ、私たちの救いはあるのです。
 それは十字架にかかって死なれた(殺された)イエス・キリストが神の子であり、神と等しいお方であり、私たちすべての人間の罪を担って、私たちを赦すために世に遣わされたお方であったからです。

今日の箇所の12節にこう書かれています。
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(12節)

十字架の上で死なれたイエス・キリスト、死者の中から復活したイエス・キリスト以外に、私たちが救われるべき名、救われるべき道はありません。
この真実(救いはキリストのみ)の上に、私たちキリスト者、そしてキリスト教会は立ち続けることができます。この真実を、私たちは述べ伝え続けるのです。
ペトロは、聖霊に満たされて、キリストの救いを確信して、このように力強く語りました。その力強さ、大胆さは、13節に書かれている通り、議員や他の人たちが、驚くほどのものでした。
 ペトロとヨハネを取り囲んだ議員や祭司、律法学者たちはユダヤ教の専門家であり、宗教の権威たちでした。

しかし、そのような彼らの(人間の)権威をはるかにしのぐ力強さ、大胆さがペトロの語る言葉にはあったのです。
 復活のキリストが聖霊としてペトロの心を満たし、彼を強め、彼に言葉を与えたからです。
 議員たちは結局ペトロたちに「今後あの名(イエス・キリストの名)によってだれにも話すな」と言って脅しました。
 しかしペトロはそのような脅しの言葉に対しても、驚くべき大胆な言葉を返しています。
「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。
わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(19~20節)
 これも大変力強い、まさに神の霊に満たされた言葉です。そしてこの言葉には、神の愛も込められています。
ペトロは、相手を一方的に言い負かすような気持ちで言っているのではなく、神に従うのが正しいのか、あなたがた(人)に従うのが正しいのか、“(あなた方自身で)考えてください(判断してください)”と、呼びかけているからです。
 神に従わず、人に(人の力に屈して)従うことが、神の前に正しいかどうか、よく考えてください。
“自分の良心に問いかけて判断しようとするならば、どちらが正しいか、あなたは判断できるはずです”、という相手への配慮と敬いの思いを持ちつつ、ここでペトロは語りかけています。
 力や脅しで相手を打ち負かそうという方法でなく(議員や、長老、律法学者たちがペトロ達を牢に閉じ込めたように)、キリストの真実、キリストの愛と力を信頼して、ペトロは議員たちに呼びかけたのです。

 人に従うのではなく、神に従うことこそが正しい~それが今日の箇所が私たちに伝える真実であり、信仰者によって守られるべき信仰の姿勢です。
しかし“神に従うことこそが正しい”という信仰は、決して自分以外の他者を見下したり
、他者を排除したり、相手を力づくで押さえつけて、自分の言うことに従わせようとするものではありません。
私たちの主イエス・キリストが、大きな御愛と、限りない忍耐をもって、心が頑なな私たちに向けて今も御言葉を与え続けてくださっています。
そしてイエス様は今も、私たちが神の前に正しい選び取り、生き方をするようにと願ってくださっています。
しかし現実は、時に(あるいはしばしば)神に従うことができず、自分中心の思いで生き、自分以外の他者を押さえつけてでも自分の望むものを手に入れようとする私たち自身の心を、神はお示しになります。
イエス・キリストの十字架の上での死という途方もない犠牲の贖いをいただいた私たちは、その都度自分の罪を悔い改めて(神に立ち返って)いきましょう。
そして神と共に、神に赦されたことを喜び感謝しつつ、歩む決意をしてまいりましょう。

2025年7月13日日曜日

2025年7月13日 主日礼拝

前奏
招詞  ナホム書1章7節
賛美 新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
主の祈り
賛美 新生讃美歌 278番 わが心は歌わん
献金
聖句 使徒言行録3章17~26節
祈祷
宣教 「あなたがた一人一人を祝福にあずからせるために」
祈祷
賛美 新生讃美歌 104番 雨を降り注ぎ
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏
歓迎・案内


 今日の聖書箇所では、キリストの使徒(弟子)であったペトロが、人々に向かって話をしています。
今日の箇所の前までの場面で、生まれつき足の不自由だった人が癒されて、立ち上がり躍り上がって、神を賛美するようになりました。
神殿で、いつも人から施しを乞うていた、その足が不自由だった人は、ペトロから伝えられた“イエス・キリストの名”によって、足が癒されて立ちあがることができるようになりました。
その足の不自由な人を以前から知っていた人々は、まるでペトロが自分の力でその人を癒したかのように思いました。しかし、ペトロはそのことをはっきりと否定しました。
 その人にイエス様の名を伝えたのは自分だったのですから、ペトロは、少しは自分を誇ろうと思えばできたかもしれません。
 しかしペトロは、その足の不自由な人が立ち上がり、躍り上がるほどまでに変えられた出来事で、自分のことを誇ろうとはしませんでした。
 ペトロは人々に“自分の力や人の信心が、その足の不自由だった人を立ち上がらせたのではない(なぜそのように、わたしたちを見つめるのですか)”、と言いました。(12節)

 ペトロがそこではっきりと伝えたのは、“その人を立ち上がらせた、強くしたのは、イエス・キリストの名、キリストの力であり、恵みである”ということでした。
 キリストを信じ、キリストの力と恵によって生きている信仰者は、キリストの名こそが、本当の力の源泉であることを知っています。
そしてキリストの力と恵みによって生きている信仰者は、決して自分を誇ろうとはしないのです。
キリスト者は、神の名が崇められ、神の名だけが高められることを願うからです。神の名が崇められることこそが、キリスト者にとっての幸いであるからです。
 私たちの教会でも、神の名が高められるように、私たちの礼拝、賛美、祈りが、私たちの信仰が、自分自身を誇るものではなく、イエス・キリストの主なる神を崇め、神への信仰と感謝を表すものとなるようにと、私は願います。
 今日の箇所で、ペトロのメッセージ(説教)はその核心部分へと入っていきます。イエス・キリストがどのようなお方で、何をなさったのか、について彼は語るのです。
 ペトロは今日の前の箇所からすでに、「あなたがたは、命への導き手である方(キリスト)を殺してしまった(しかし、神はその方を復活させてくださった)」と言っています(15節)。

 “命への導き手であり神であるお方を、あなたがたが殺した”、というのです。
ペトロは、イエス様が捕らえられた時、イエス様のことを“あんな人のことは知らない”と言って、イエス様の一番弟子でありながら、イエス様のことを三度も否定しました。
 ですから、彼が言う“あなたがたが、そのお方を殺した”の中に、ペトロは自分自身のことも含めていたことは確かです。
 そのように、今の私たちも、十字架にかけられて死んだイエス・キリストの死を、私たち自身のこととして受け止めていくようにと、促されます。
 今日の箇所でペトロは次のように言っています。今日の箇所の最初の17節をお読みします。

17ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。

 “あなたがたが(わたしたちが)キリストを十字架につけたのは、無知のためであった。知らなかったから、あなたがたはあのようなことをしたのだ”、とペトロは言います。
 彼らは何を知らなかったのでしょうか。
彼らは、イエス・キリストが神から遣わされたお方であったことを、知りませんでした。
そしてまた、彼ら自身の中に赦されねばならない深い罪がある、ということを知りませんでした(もしくは、それらを認めようとしませんでした)。
イエス様ご自身が、十字架につけられた時、十字架の上で、こうおっしゃいました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
(ルカ福音書23章34節)

 イエス様を十字架につけた人たちは、また私たちすべての者は、そのお方にこそ真の命があり、そのお方こそが、私たちを罪の奴隷状態から解き放ち私たちを自由にしてくださるお方であることを、知りませんでした。
 そのような無知のために、その大切なことを知らずにいたために、イエス様を人々は十字架につけてしまいました。
 しかし、神は人のそのような悪をも、驚くほどの恵みの出来事へと変えてくださったのです。

 18節をお読みします。
 18しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。

 旧約聖書の預言者(神の言葉を預かり伝えた人たち)の時代から、“メシア(キリスト、救い主)は苦しみを受ける”、ということが言われていました。
 旧約聖書『イザヤ書』53章には、”主の僕(しもべ)の苦難と死“について、詳しく書かれています。主の僕であるお方が、人々の病、痛みを背負って、苦しまれる、と言うのです。
 なぜ主の僕であるお方、すなわちイエス・キリストが十字架にかけられて死なねばならなかったのか、について知るには、イザヤ書53章の言葉を聞くことが欠かせません。

今日ここでは、イザヤ53章4~5節を共に聞きたいと思います。

彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

皆さんそれぞれ、イザヤ書53章全体の言葉と、キリストの十字架とを重ね合わせて、改めて心にとめる時を、持っていただきたいと私は願います。
イエス様が十字架にかかって死なれたのは、それは私たちすべての者の罪を背負い、また私たちの病と苦しみを、イエス様がその身に担ってくださるためでした。
 私たちの最大の無知とは、そのような憐れみ深い真の神を知らない、ということです。
または真の神が知らされてもそれを認めようとしない、神の主権と権威を認めないという、私たちの頑なさです。
 そして、私たちは、神の権威を認めようとしないその頑なさを、自分で解決することはできません。
わたしたちの頑なさ、傲慢さという罪は、神によって変えていただくしかしかないのです。

 旧約聖書の『エゼキエル書』11章19~20節で、エゼキエルという預言者(神の言葉を預かる人)を通して、神が次のように告げました。

19わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。
20彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

これは、自分たちの国を追われ、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民たちに、エゼキエルを通して語られた言葉です。
神がやがてイスラエルの民たちを、囚われの地から故国イスラエルへ連れ戻し、その時、神は彼らに新しい霊を授け、彼らの中から石の心(頑なな心)を除き、肉の心(やわらかい、愛の心という意味でしょう)を与える、と言うのです。
神が新しい霊を私たちに与えてくださる時、石の心(頑なな心)がキリストの御愛によって取り除かれ、肉の心、やわらかい愛の心がキリストによって私たちに与えられるのです。
 イエス・キリストを心の中にお迎えし、キリストを信じることにより、神は私たちの頑なな心を砕き、自分の罪を自覚させ、キリストによって罪赦されたことを感謝し喜ぶように、導いてくださいます。
私たちはキリストによって、頑なな石の心を変えていただき、砕かれて謙虚になり、主の言葉を守り、御言葉に従って生きる神の民となることができるのです。
キリストによる新しい霊をいただき、心が変えられ、神の民となることができる幸いを私たちは覚えたいと願います。

“あなたがたは無知のために、あのようなことをした(キリストを十字架につけた)”とペトロは言いました。
人々は、キリストが神から遣わされた方であること、そして彼ら自身の罪について知りませんでした。
そしてもう一つ、今日の箇所で伝えられる、彼らが知らなかったこと、無知であったことがあります。

25節をお読みします。旧約聖書『創世記』の中で、イスラエル民族の信仰の父と言われたアブラハムに与えられた言葉です。

『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』

続けて、今日の箇所最後の節の26節もお読みします。

26それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」

これらの言葉から分かることは、神が私たち“すべての民族に”、“あなたがた一人一人に”祝福を与えようとしてくださっている、ということです。
 25節の「あなたから生まれる者」とはキリストのことであり、26節の「御自分の僕」と言われるお方も、キリストのことです。
 神は、“キリストを通してこの地上のすべての民族が、祝福を受けるように、そして“あなたがた一人一人が祝福を受けるように”と願ってくださったのです。
神は、私たち一人一人のことを気にかけてくださっているお方です。”みんな一緒に、ざくっとまとめて“ではなく、私たち一人一人が神の前にかけがえのない存在とされていることを、聖書は伝えます。
神は私たち一人一人を祝福したいと願ってくださっています。私たちが生きていること、私たちの存在を神ご自身がそれほどまでに喜んでくださっている、ということです。
(神を知らない、認めない)悪の状態から離れさせ、神を認めて、キリストを信じることによって、神の豊かな祝福を頂くこと、それが神が私たち一人一人に持っておられるご計画です。
 神は天地のすべてをお造りになった創造者です。この広い世界、また大宇宙の中で、人間一人がどれほど小さな存在であるかは、私たちは簡単に想像することができます。
 しかし、そんなに小さな私たち一人一人を、神は祝福しようとしてくださっていることが分かれば、その時私たちを生きる力と希望を頂くことができます。

 次の聖書の言葉は、常に真実です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3章16節)

 私たちは、キリストを通して、神の祝福を豊かにいただいていきましょう。神の祝福の中で、私たちの命を喜びましょう。
私たちの痛み、苦しみを、キリストが十字架の上で担ってくださった(今も担ってくださっていることを)私たちは感謝いたしましょう。
 キリストによって支えられ、キリストを信じキリストに従う、祝福の信仰生活を私たちは送っていきたいと願います。

2025年7月5日土曜日

2025年7月6日 主日礼拝

前奏
招詞  マラキ書3章20節
賛美 新生讃美歌 507番 主の手に委ねて
主の祈り
賛美 新生讃美歌 278番 わが心は歌わん
祈りの時
献金
聖句 使徒言行録3章11~16節
祈祷
宣教 「僕(しもべ)イエスに栄光を」
祈祷
賛美 新生讃美歌626番 主はいのちを与えませり
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏
歓迎・案内


 今日の聖書箇所は次のような一文で始まります。
「さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、『ソロモンの回廊』と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た」(11節)
その場所はエルサレムの神殿でした。ペトロとヨハネは、イエス・キリストの直弟子であり、十二使徒とも言われた弟子たちの中の二人でした。
彼らはイエス・キリストが十字架にかけられて死に、そして死から甦り復活し、天に昇って行った後の信者たちの群れ(教会)の中で、中心的な役割を果たすようになりました。
“ペトロとヨハネにつきまとっていた”、と言われる“その男”というのは、今日の箇所の前の箇所で出て来た人のことです。

彼はペトロとヨハネとの出会いによって、生まれた時からずっと不自由だった足が治って、歩けるようになった人でした。
この人は生まれつき足が不自由で、いつも神殿の門のそばに置いてもらって、人から施しを受けていた人でした。(3章2節)
この人が、神殿に入ろうとしていたペトロとヨハネを見て、(お金をもらうことを願って)施しを願いました。ペトロは彼にこう言いました。

「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)
そう言ってペテロがその人の右手を取ると、その人は立ち上がりました。その人の足は治って、彼はしっかりと立ち上がり、躍り上がって神を賛美しました。
そのように、不自由だった足を癒された人が、ペトロとヨハネに“つきまとっていた”と今日の箇所は言います。
“つきまとう”、という表現は、通常では、あまり良い表現ではないように思われます。“つきまとう”(hold on to)とは、“掴(つか)んで離さない”ということです。
この人は、自分の足を癒したのは”イエス・キリストの名だ“と分かっていたはずですが、それでも、彼はそのイエス・キリストの名を自分に伝えてくれたペトロとヨハネを、特別な存在として、尊敬、あるいは崇めようとしていたのかもしれません。
ですから、彼はペトロとヨハネにしがみついて離れることがなかなか出来ず、つきまとっていた。
「あなたたち(ペトロとヨハネ)が、わたしとずっといてくだされば、これからも私は安心です」という思いを、その男の人は持っていたかもしれません。

今日の箇所では、ペトロが、彼らのもとへ集まってきた民衆たちに語り始めます。
生まれた時から足の不自由であった人が、足を癒され、強くされて、立ち上がって今や躍り上がっている、なぜそのようなことが可能であったのかを、ペトロが語りだすのです。
ペトロはまず、“その人を癒したのは自分たち(ペトロ、ヨハネ)の力ではない”、ということを伝えます。
人々はそのように考えていました。ペトロやヨハネが何か特別な力を持っていたから、その人の足は治ったのだろう、と人々は思っていたのです。
ですからペトロは言いました。
「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。」(12節)

生まれつき足の不自由な人が立ち上がることができた、その人が長年の苦しみから解放されたことは素晴らしいことでした。
しかし、ペトロはそのことだけに(足が治って歩けるようになった事実、あるいは自分たちが彼を癒したかのような印象に)人々の関心を留めたくはなかったのです。
そのようなことを可能にするお方、あなたたち皆が知らなくてはならない方がおられる、とペトロは語ります。
それはイエス・キリストだったのです。16節に書かれている通り、それは“イエス・キリストの名を信じる信仰”であり、“イエスによる信仰”です。
イエス様が私たちに与えてくださる信仰が、素晴らしい奇跡を起こすのです。それは決して人の力によるのではありません。
ですから、もし私たちが“つきまとう”べきお方、あるいは“しがみつかねばならない”お方がおられるとすれば、それはイエス・キリストです。
誰か優秀な人とか、物や金銭に頼って、それらにしがみつくのではなく、私たちは主イエス・キリストにこそ、依り頼みしがみつくべきである、と今日の箇所から教えられます。

 今日の箇所の13節でペトロがこう言っています。
13アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。

イエス・キリストを通して私たちに知らされる神は、“アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神”です。聖書が伝える神は、歴史の中でイスラエル民族をお選びになり、彼らにご自身を現わされた神です。
 アブラハム、イサク、ヤコブはユダヤ人たちにはなじみの深い、自分たちの信仰の祖先の名前でした。
 私たちも、今聖書(旧約聖書)を通して、アブラハムをはじめとするイスラエルの祖先たちに、神がどのようにご自身を表されたのか、を知ることができます。
 旧約聖書の神と新約聖書の神は違う神ではないか、という印象を持つ方もおられるようですが、聖書は、はっきりと神は唯一のお方であると伝えます。
 天地をお造りになり、この地に生きるもの全てをお造りになったお方、そしてアブラハムに、その子のイサクに、その子のヤコブにご自身を現わされたお方は、イエス・キリストとしてご自身を現わされた神と同じ神であり、唯一真の神であるのです。

 もう一度、13節の前半をお読みします。
13アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。

ここでイエス様のことが“僕イエス(his servant Jesus)”と言われています。“イエス・キリストは神の僕であった”、というのです。
イエス様は神と等しいお方でした。イエス様は神でしかお出来にならない力ある御業を、沢山なさいました。
しかし、弟子たちの心には、神、メシア(救い主)としてのイエス様と同時に、“神の僕”としてのイエス様の姿が強く残っていたのです。
イエス様は人々の色々な病を癒したり、悪霊を追いだしたり、また嵐を静めたり、水の上を歩いたり、と多くの力ある奇跡の業を行いました。
 それらも神としての、神の子としてのイエス様の力を示すものでした。
しかし同時に、イエス様が御自分を本当に低くして”僕“となり、いつも他の人々に仕えていた、というその僕としての姿が、ペトロや弟子たちには強烈な印象として残っていたのです。
 私たちの先生、また神の子であったイエス様は、ご自身が最も偉大なお方でありながら、神の“僕”であり、また人にも仕えるほどの僕であった、とペトロは言っているのです。
“そして私たちも互いに僕であるようにと教えてくださった”とペトロは改めて思い出していたのでしょう。
 イエス様は生きておられる間に弟子たちに次のように言っておられました(マルコによる福音書10章43~45節)

あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエス様は、このようにおっしゃいました。そして言葉の上だけでなく、まさに自ら僕としての生き方を実践し、僕としての生き方を全うされました。
神であり、王であるお方、最も偉大なお方が自ら僕となられたのです。聖書の伝える神は、神としての身分をお捨てになり、全ての人の僕となって自ら他者に仕える者となられたのです。
イエス・キリストを信じるとは、そのようなお方を神として、主として私たちの心の中にお迎えすることです。
最も低くなられたお方が私たちの主、救い主なのですから、私たちもこの地上において、僕としての生き方、他者に仕える生き方を、求めていこうではありませんか。

今日の箇所の最後の節の16節をお読みしましょう。
 16あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。

 ずっと足の不自由であった彼を救ったのはイエス・キリストの名であり、イエス・キリストによる信仰である、キリストの恵みと力である、と言う真実がここで告げられています。
 そのことを、そこに集まっていた民衆が皆、知る必要がありました。
足が癒されたその人も、“自分を立ち上がらせてくださったのは、イエス・キリストの名を信じる信仰であり、イエスによる信仰なのだ(人の力によるのではない)”ということを再確認する必要がありました。
ですからペトロはそのことを何度も繰り返して強調するのです。
 イエスの名が私たちを強くします。イエス様が与えてくださる信仰が私たちに希望を与えてくださいます。
私たちもそれぞれ、色々な困難や苦しみを、それぞれの人生において抱えているでしょう。
 私たちは困難な状況の解決を求めて、その苦しみから逃れるために、色々なもの、あるいは人に助けを求めようとするのではないでしょうか。
人に助けを求めるのは悪いことではありません。互いに仕えるとは、私たちが互いに助け合うことでもあるからです。
しかし、私たちが地上で抱える深刻な問題の根本的な原因は、人や物(あるいは金銭)によって解決されることはありません。

 私たちが抱える最も根本的な問題、それは主なる神を知らず、神から離れて生きていることです。
私たちはこの世では痛み、悲しみ、苦しみがあります。神を信じても、悲しいものは悲しく、痛いものは痛いのです。
 しかし、”イエス様が私たちと共におられる“、インマヌエル(”神は私たちと共におられる“という意味)の神が私たちと共におられる、という信仰が私たちを強くします。
痛み、悲しみに向き合いつつ、”イエス様が共におられる“という希望の信仰によって私たちは生きることができます。
 主イエス・キリストの名が、今日の聖書箇所では、足の不自由だった人を立ち上がらせたように、私たちも困難な中でもその都度立ち上がる力をイエス様がきっと与えてくださいます。
主なる神が、イエス・キリストが私たちの手を取り、立ち上がらせ、私たちと共に歩んでくださいます。
ですから私たちは、いつも主イエス・キリスト、イエス様を信じ、神と共に、生きる道の一歩一歩を、信仰の家族とも共にこれからも歩んでまいりましょう。