2025年8月17日 召天者記念礼拝
前奏
招詞 ペトロの手紙二 1章3節
賛美 新生讃美歌 240番 救いの主はハレルヤ
主の祈り
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
献金
召天者を覚えて
聖句 哀歌3章22~33節
祈祷
宣教 「主の慈しみは決して絶えない」
祈祷
賛美 新生讃美歌 601番 やがて天にて
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
本日は、「召天者記念礼拝」として、主日(日曜)礼拝を、私たちは捧げています。
皆さんの前に、私たちの教会の召天者の方々のお写真が飾られています。先ほど、その方たちのお名前を私が読み上げさせていただきました。
召天者の方々は、私たちの教会の教会員であった方、あるいは教会員のご家族の方、あるいは教会の会員ではなくても、教会や牧師がその方の召天に関わり、教会で告別式をさせていただいた方々などです。
私が直接関わりを持たせていただいた方の中には、ご自身の死期が迫っていることを自覚され、死への準備をしておられる方もおられました。
また、本当に思いがけず、突然という状況で、天へ召された方もおられました。
死は私たちに必ずやってきます。死がいつ、どのような形で訪れるのかは、誰にも分かりません。分からないので、死というものは私たちに不安をもたらします。
また、特に愛する人を亡くすことは、私たちに大きな悲しみをもたらします。
愛する人を亡くす悲しみ、またそのほかにも、私たちの人生には私たちを辛く、悲しく、時に絶望さえも感じさせる、苦しいことが起こることがあります。
私たちはそのような悲しみに、あるいは絶望ともいえる状況に、どのように向き合えばよいのでしょうか。今日の聖書箇所である旧約聖書の『哀歌』の一部から、聞いていきたいと思います。
哀歌は、エレミヤという預言者(神様からの言葉を預かり、人々に伝えた人)の嘆きの言葉を伝えています。
エレミヤの預言の言葉は、『哀歌』の前の『エレミヤ書』に記されています。
エレミヤは、この『哀歌』で、ある一つの死について嘆いています。それは彼自身の国の死でした。彼の国(南ユダ王国)が、隣の帝国(バビロン帝国)に滅ぼされたのです。
なぜ彼の国は滅ぼされてしまったのか。そのことにエレミヤは大きな疑問、悲しみ、そして苦しみを感じていたのだと私は信じます。
エレミヤが最初に、どのようにして神様から呼びかけられて、預言者として立てられたのかは、『エレミヤ書』の初めに記されています。
『エレミヤ書』1章4~5節の言葉をお読みします。
4 主の言葉がわたしに臨んだ。
5「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」
これは、紀元前7世紀から6世紀ごろ、場所は現在のイスラエルでの話です。
その時イスラエルは北イスラエルと南ユダに分かれており、北イスラエルはアッシリアという帝国によって既に滅ぼされていました。
主なる神に“私はあなたを生まれる前から預言者として選んでいたのだ”と言われても、エレミヤは「私は若者にすぎません。語る言葉を知りません」と言って、主の呼びかけに応えることを躊躇しました。
しかし神は「あなたは自分のことを若者にすぎないと言ってはならない」と言ってエレミヤを力づけました。
神はエレミヤに次のようにもおっしゃいました。エレミヤ書1章9節をお読みします。
主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。
“あなたが人々に語るべき言葉は、私があなたに与えるから、あなたは心配しなくてよい”と、神はエレミヤに約束してくださったのです。
そしてエレミヤは預言者として、神の言葉をイスラエルの人々に伝え続け、“神を信じて、罪から離れて神に立ち返るように”と呼びかけ続けました。
預言者エレミヤは、預言者としての、その働きを成功させたのでしょうか。
最初に私が申し上げましたように、結局彼の国(南ユダ王国)は滅び、神殿は破壊され、彼らを征服したバビロン帝国へ、多くのユダヤの民が捕囚として連れ去られることになりました。
国の滅亡を目の当たりにして、エレミヤは、自分の預言者としての働きは失敗だった、と思って失望したでしょう。
エレミヤは大変苦しく、そして悲しかったはずです。その嘆きの思いが「哀歌」として残されました。
どんな人の人生にも、悲しみがあると思います。どんな人の人生にも苦しみがあると思います。悲しみ、苦しみのない人生はないでしょう。
エレミヤの悲しみ、苦しみの原因は、”一生懸命、神の言葉を自分の国(イスラエル)の人々に伝え続けたのに、多くの人たちは彼の言葉に耳を傾けず、結局国は滅んだ“ことでした。
エレミヤは自分自身にも絶望したようです。「自分のしてきたことは無駄だった。私の人生、働きには何か意味があったのだろうか」と彼は思ったのではないでしょうか。
確かにエレミヤは、自分自身の限界にぶち当たりました。
それは、今日の箇所の前の18節前半に、次のように書かれていることからも分かります。
わたしは言う 「わたしの生きる力を絶えた」
エレミヤは、“わたしの生きる力は絶えた”と言います。それは自分自身の力で生きることはもう無理だ、とうことです。
しかし、そのように“もう無理だ、自分の力では何もできない”ということが分かったエレミヤに、大切な真理が示されました。
それが今日の聖書箇所の言葉“主(神様)の慈しみは決して絶えない”、“主の憐れみは決して尽きない”ということです。
エレミヤは、「わたしの生きる力は絶えた」と、自分自身の力のなさ、弱さ、無力さをはっきりと自覚しました。
しかし、主なる神の慈しみ(愛)は絶えない、なくならない、主なる神の憐れみは私たちに決して尽きることはない、ということが、自分の無力さを知ったエレミヤにはっきりと示されたのです。
聖書全体を通して伝えられることは、“神に選ばれたイスラエル民族が、どれほど神に背き続けても、それでも神は御自分の民である彼らへの愛をお諦めにはならなかった”、ということです。
現在の私たちも、どれほど神に背き続けて、罪人であっても、神が私たちを完全に見放すということはない、とエレミヤの言葉は私たちに伝えます。
国が滅びて、もう何の希望もなくなったように見えても、自分の力では生きていけないと思えても、実はむしろそのような時こそが、新しい始まりなのです。
キリスト教会では毎週礼拝をしています。礼拝の中心はイエス・キリストであり、イエス・キリストの御言葉、すなわち聖書の言葉です。
聖書の言葉は、まさに今日の箇所に書かれている通り、「主の慈しみは決して絶えず、それは朝ごとに新しい」という希望を私たちに伝えます。
私たちが心を開いて、主なる神の前に謙虚になって(自分の無力さを認めて)神の御言葉に向き合うのならば、その度に聖書の御言葉は新しい響きと力をもって私たちに迫ってきます。
十字架の上で、そのお命を私たちのために捨ててくださったイエス・キリストが、今も私たちに向かって「わたしはあなたを愛している。わたしはあなたを決してあきらめない」と言い続けてくださっています。
そのような尽きることのない主の慈しみ(愛)と憐れみが聖書の言葉を通して私たちに知らされます。ですから私たちは聖書の言葉を聞き続け、聖書の言葉を中心とした礼拝を続けるのです。
聖書の中で、イエス・キリストが、5つのパンと二匹の魚を祈りによって増やし、それを何千人もの群衆に与えると、皆が満腹したという話が記されています。キリストによる偉大な奇跡の業です。
キリストはそのように、今も御言葉の力によって、私たちの霊、魂、心の飢え渇きを満たし、生きる力を与えてくださいます。
私たち自身の力が絶えても、むしろ私たちたち自身の力が絶えて、すべてを神に委ねる時に、“神の愛は決して絶えず、なくなることがない”という真実を、私たちは確信するようになるのです。
絶えることのない(尽きない)主のご愛を、私たちは御言葉から、礼拝を通して、常に頂けることの幸いを、心から感謝したいと願います。
今日の箇所の27~28節をお読みします。
27~28節
27若いときに軛を負った人は、幸いを得る。
28軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。
軛(くびき)yokeとは、農作業のために(畑を耕すために)牛や馬などの首にかけられる道具です。軛をかけられると、牛や馬は自分の自由には動くことができなくなります。
そのことから、軛とは、私たちが生きていく上で負わされる重荷、苦難や苦しみの例えです。
誰の人生にも、まるで首に軛をかけられるような、重荷を背負わされることがあり得ます。その時、“黙して黙って座る”とは、“何もするな”、“ただ我慢しろ”ということではありません。
それは、”自分の力を捨てて、主に委ねよ。神のもとへ立ち返れ“、ということです。
イエス・キリストが次のようにおっしゃっています。
28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
(マタイによる福音書11章28~30節)
私たちは色々な“軛”と言えるものを、生きる上で背負うことがあると思います。
そんな私たちにイエス様は「わたしのもとに来て、わたしの(キリストの)軛を負いなさい。そうすれば安らぎを得られる」と言われます。
イエス様の軛はなぜ“負いやすい”のでしょうか。それはイエス様が私たちと一緒にその軛を負ってくださっているからです。
私たちが一人で背負っているように思う軛(重荷)もい、イエス様が共にいてその軛を私たちと共に担ってくださっています。
私たちの軛(重荷)を共に担ってくださっているイエス様、イエス・キリストを、私たちは信じて生きて行こうではありませんか。
今日私たちが覚えている召天者の方々も、それぞれの生き方の中で、軛(重荷)と言えるような、苦しさ、悲しみをそれぞれ抱えることが、きっとあったはずです。
その苦しみ、悲しみを覚えると、特に親しい方々や近いご家族の方々は、いまだに胸を痛める、締めつけられるように悲しく思われる方もおられるかもしれません。
しかし、イエス様が、召天者の方々の苦しみ、悲しみに寄り添い、その軛を共に担ってくださっていたと、私達は信じることができます。
そしてイエス様は、この私たちの今の軛をも、共に担ってくださっています。自分の力だけでは担えずとも、共に軛を負ってくださるイエス様にお委ねし、私たちは生きていくことができます。
生きることには痛み、悲しみが伴います。
しかし悲しみはやがて、私たちが、その愛は決して絶えることのない神様を知ることへつながる、神へ導く、と聖書は伝えています。
いかなる悲しみ、苦しみの中にも、私たちが神を礼拝し、祈り、賛美(神様をたたえる、人間をたたえるのではない)することを妨げるものはありません。
召天者の方々を覚える今日の礼拝の中で、私たちは、朝毎に新しい主の慈しみ、御愛、そして憐れみの中に生かされていることを改めて信じ、そのことを喜び、感謝をし、これからの日々を歩む決意を致しましょう。