2025年8月23日土曜日

2025年8月24日 主日礼拝

前奏
招詞 詩編33篇6節
賛美 新生讃美歌 495番 主よ み手もて
主の祈り
賛美 新生讃美歌 510番 主の言葉の
主の晩餐
献金
聖句  使徒言行録5章12~26節
祈祷
宣教 「命の言葉を残らず民衆に告げなさい」
祈祷
賛美 新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏
歓迎・案内

「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」という一文で今日の聖書箇所は始まります。
 使徒と言われた、キリストの弟子たちの中でも中心的な役割を担った弟子たちによって、多くのしるしと不思議な業が行われていました。
それは、人々の病気を癒したり、悪霊につかれた人たちから悪霊を追い出したりといった働きでした。
 使徒たちによってそのような働きがなされていたのですが、それを可能にしたのは、彼ら自身の力ではありませんでした。
それは、主なる神の力でした。
そして、使徒たちの手によって、多くのしるしや不思議な業がなされていたことは、彼らの祈りに神が答えてくださったという証拠でも、ありました。
彼らは、今日の箇所よりも前の箇所で、次のように祈ったことがありました。

使徒言行録4章29~30節

29主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
30どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」

 使徒たちは、自分たちの伝道活動を妨害しようとする者たちからの迫害にあっても、大胆に神の言葉を語ることができるように、と祈りました。
そして厳しい状況の中でも、神が差し伸べてくださる手によって、そしてイエス・キリストの名によって病気が癒され、苦しむ人々が助けられますように、と彼らは祈ったのです。
それはすなわち“神の働きがなされますように。そのために、私たちは自分を捧げ、あなた(主なる神)の手足となって働きます”という、使徒たちの決意でもありました。
神は、私たちが自分を神に捧げ、“神のために働きます”と願い、そう祈るときに、きっとその祈りに応えてくださいます。
神が私たちの祈りを聞いてくださるかどうかは、それはキリストを信じ祈る者が、自分を神に献げるという決意をするかどうかにかかっているのです。
私たちが自分自身を捧げ、そして神の業が自分たちを通して行われるという信仰の経験を重ねる度毎に、私たちの信仰は強くされ、そして成長していきます。
自分自身を神に委ね、神に捧げて、そして神の業が実現していく、そのような信仰経験を私たちは共に積み重ねたいと願います。

今日の箇所で、使徒たちは心を一つにして「ソロモンの回廊に集まっていた、とも書かれています。「ソロモンの回廊とは、エルサレムの神殿の外の庭にあった長い廊下のことです。
ソロモンの回廊は、かつてイエス様が御自分のことを“わたしはメシア”だとユダヤ人たちにはっきりと言った場所でした。
ヨハネによる福音書10章22節からの箇所で、イエス様がソロモンの回廊を歩いておられた時のことが書かれています。
そこでユダヤ人たちがイエス様を囲んで、「もしあなたがメシア(救い主)なら、はっきりそう言いなさい」と問い詰めました(ヨハネ10:24)
 イエス様はそこで「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証をしている“とお答えになりました(ヨハネ10:25)。

今日の箇所で、イエス様は目に見える人としては使徒たちとはもう共におられませんでしたが、使徒たちはかつてソロモンの回廊でイエス様がおっしゃったことを思い出していたのだと私は想像します。
イエス様は、ご自分がメシア(人の罪を救う救い主)であることを言葉でも述べました。イエス・キリストこそがメシアである、それは使徒たちがその上に立つ真実そのものでした。
そしてイエス様は、“信じない人たちもいるが、ご自身がなさる色々な業(行い)が、ご自身について証しをする”とも言ったのでした。
使徒たちはイエス様の、そのお言葉と行いを思い起こしながら、彼らの言葉だけでなく、彼らの実際の働きを通しても、神のご栄光が明らかになりますようにと願っていたのでしょう。
彼らのその願いと祈りは神に聞かれました。様々な力ある業が使徒たちによってなされながら、それらを通して神の国が人々に伝えられていきました。
 15節以降の箇所には、“人々が病人を大通りに運び出して、ペトロが通りがかる時に、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした”と書かれています。
 16節には、多くの病人や汚れた霊に悩まされている人々が使徒たちのもとへ連れて来られ、一人残らずいやされた、と書かれています。
 “一人残らずいやされた”とは、誰もが自分が本当に望んでいたものを得た、ということです。

 私はこのことから、現在の教会が“だれもが自分が本当に望むものを得る”ことができる場所であればいいな、と思わされました。
私たちが本当に望むものとは、何でしょうか。
 人はそれぞれ、満たされない心を抱えていると私は思います。なぜか満たされないその心を何かによって満たしたいという願いを私たちは持っています。
それは霊的な渇望であり魂の欲求です。それは、私たちは色々なものでとにかく満たそうとします。
 しかし、私たちの魂と霊の渇きを本当に満たしてくださるお方は主なる神のみです。キリストを通して現わされた神の愛のみが私たちの心を満たします。
 教会で、私たちの心と魂を本当に満たしてくださるお方、神によって、教会に連なる一人ひとりが、全て満たされますように、一人残らず私たちが癒されますようにと私は願います。
 一時的なものではなく、永続的で確実、真実であるお方、神の愛で私たちひとり一人が、満たされますように。教会がそのような神の愛で常に満たされますようにと、私は心より願っています。

 今日の箇所の後半で、大祭司と仲間のサドカイ派たちから使徒たちへのねたみが起こったことが書かれています。彼らは使徒たちを捕まえて牢にいれてしまいました。
“ねたみ”は人の罪の性質の中でも最たるものの一つです。人々がイエス・キリストを十字架につけたのも、ユダヤの権力者たちの妬みのためだったと、聖書には書かれています。
 大祭司やサドカイ派という、ユダヤ教の主要な派を形成する彼らにとって、使徒たちの手によって力ある業が行われ、そして彼らが人々から賞賛されていたことは、我慢ならないことだったのです。
 大祭司もサドカイ派も神を信じ、神の御心を人々に伝え、神に仕えることへと人を促すような働きをすべき人たちでした。
彼らが彼らの職務に本当に忠実であったならば、キリストの使徒たちにねたみを起こすような必要はなかったはずです。神の業が彼らによって行われていたからです。
しかし彼らは、使徒たちの手によって素晴らしい業が行われていることを認めるよりも、自分たちが受けるべき(と彼が思っていた)人々からの称賛が、使徒たちに向けられていることにねたみを感じ、そのねたみが彼らの心を燃やしました。
そして彼らは使徒たちを牢に入れたのです。しかし、主は天使を遣わして使徒たちを助けられました。
 私たちも危機的な状況に陥ることがあり得ます。しかし主なる神は、私たちがもう助からないと思う時にも、神のご計画に基づいて、必要な助け、そして助け手を私たちに送ってくださいます。
 イエス様が十字架にかけられて死に、墓に葬られた後、三日目に婦人たちがイエス様のお身体に香料を塗ろうと思って墓へ行きました。イースター(復活日)の朝でした。
 墓の入り口は大きな石で覆われていましたが、婦人たちは誰がその岩を転がしてくれるのかは分からないまま、墓へと急ぎました。(マルコ16章)しかし婦人たちが墓へ到着すると石はわきへ転がしてあったのです。
大きな障害物であったキリストの墓の入り口の石が動かされていたように、私たちも、“どうすればよいのだろう”と迷い、悩む時、その時神が必ず助けを与えてくださいます。
神は神のご計画に沿って、必要な助けと導きを必ず私たちに与えてくださいますから、神を信頼して困難な中でも私たちは、少しづつでも歩み続けようではありませんか。

主の天使が、使徒たちが入れられていた牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、次のように言いました。

20節「行って、神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」
 「この命の言葉を残らず民衆(人々)に告げなさい」~これは今も私たちに与えられているキリスト者としての使命です。

教会では神の言葉(聖書の言葉)が聞かれ、分かち合われます。そして神の言葉は命の言葉なのです。私たち人は神の言葉によってこそ生きる者であるからです。
 神の言葉は、“人が生きる上で役に立つから、聞かないよりは聞いておいたほうがよい”という程度の言葉ではありません。神の言葉は私たちが生きるための命の言葉です。
 その言葉がそれを信じる者たちによって守られ、また教会によって守られ、聞かれ、世に伝えられていくようにと、神はお定めになりました。
 今日の箇所で、主なる神が天使を遣わして使徒たちを助けたのは、それはその時彼ら使徒だけが助かるためではありませんでした。
それは、命の言葉、すなわち神の言葉が多くの人々へ、やがて世界中へと伝えられていくためでした。
神の言葉に聞き、神の言葉に生き、そして神の言葉を世に伝えると言う働きは、約2000年前の最初のキリスト教会の時代から今に至るまでずっと続けられてきました。
 ”命の言葉を残らず全て語る“~それは一人のキリスト者、一つの教会、一つの時代だけで完成させることができるものではありません。
 しかし、その完成を目指して、キリスト者は、神の言葉を残らず語り続けるのです。そのような働きを通しても、私たちは神の言葉によって生きる、生かされることになるのです。
 神は、私たちへ向けられた命の言葉である神の言葉を、イエス・キリストを通して私たちに与えてくださいました。
命の言葉である神の言葉を、どこかに隠して閉じ込めたままにしておくことは決してできません。
 イエス・キリストが生涯をかけて語ってくださった御言葉を、私たちは残らず聞き取ってまいりましょう。
神の言葉によって満たされて、その溢れる恵みを他者と分かち合い、世にも伝えていこうではありませんか。