2025年10月19日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編31篇6節
賛美 新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
主の祈り
賛美 新生讃美歌146番 み栄えとみ座を去り
献金
聖句 使徒言行録7章51~60節
祈祷
宣教 「神の栄光を見上げて」
祈祷
賛美 新生讃美歌21番 栄光と賛美を
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内
新約聖書の中の『使徒言行録』の第7章で、ステファノと言うキリストの伝道者が、「神を冒瀆した」という理由で、ユダヤの最高法院(裁判所)で訴えられている場面の、最終箇所が、今日の聖書箇所です。
ステファノは、キリスト教徒として最初の殉教者、すなわち、キリストを信じ、キリストの教えを伝道したために迫害を受けて命を落とした(殺された)人と言われます。
今日の箇所で、ステファノは殉教します。人々(ユタヤ人たち)から石を投げられて、彼は死んでいきました。ステファノは、大変な痛み、苦しみの中で、悲惨に死んでいったと言えるでしょう。
今日の箇所で、ステファノが語った言葉、彼が死ぬ直前に語った言葉、そして彼のその時の姿から、神のメッセージを今日私たちは聞いていきましょう。
今日の最初の節の51節で、ステファノは自分のことを訴える人々(最高法院の議員たち)に向かって、「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち」と言っています。
そして彼らに「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています」とステファノは続けて言います。聖霊とは神の霊であり、神様と同じ意味でここでは使われています。
「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない」とは、どういうことでしょうか。
割礼は、男性の包皮を切り取ることですが、それはイスラエル人たちにとって、とても重要な意味がありました。
割礼は、イスラエル民族の“信仰の父”と言われたアブラハムが、神から命じられたものでした。
旧約聖書『創世記』17章で、割礼に関する戒め(命令)をアブラハムが神から受け取ったことが書かれています。
アブラハムはその時神から「あなたは多くの国民の父となる。あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする」という約束を受けます。(創世記17章4~6節)
神はアブラハムを通して、イスラエルの民たちと永遠の契約を結ばれた、と創世記のその箇所では描かれます。
そして神はその時アブラハムに、イスラエルの民たちが神に選ばれた特別な人たちであることを表すしるしとして、生まれた男子に(生まれて八日目)に割礼をするように命じられました。
割礼は、イスラエル民族が神から特別に選ばれた民であること、彼らの祖先アブラハムを通して与えられた永遠の契約と祝福が彼らに与えられていることの、目に見えるしるしでした。
しかし、ステファノは言うのです。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。」
ステファノは、最高法院の議員たち(祭司や律法学者たち)の信仰の本質を指摘したのです。
割礼や、その他の宗教儀式や決まり事は、形の上ではしっかり守っていても、彼らの心はどうなbestowedのだ、とステファノは指摘したのです。
イスラエルの民たちの中には、特に祭司や律法学者たちのような特権的な地位を与えられた人たちの中には、割礼を受けている、すなわちイスラエル人(ユダヤ人)である、ということだけで、特別に選ばれた者としての誇りを持っていた人がいたのでしょう。
そんな彼らは、イスラエル民族以外の他の民族や異邦人たち、または同じイスラエル人でも、彼らと同様に宗教規則をしっかりと守ることができない者たちを見下すようになったのです。
しかし、割礼も、その他の宗教的規則なども、それには心の中で神を信じ、神の教えに従って実際に生きるということ、心の中での信仰が伴わなければなりません。
形ばかりの割礼は意味がない、ということは、新約聖書時代よりもずっと前の旧約聖書の時代(預言者の時代)から、すでに何度も言われていました。
旧約聖書『エレミヤ書』6章10節には次のように、神の言葉として書かれています。
誰に向かって語り、警告すれば/聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で/耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも/それを侮り、受け入れようとしない。
形ばかりの宗教規則は守っているようでも、心と耳を主なる神に向かって開いていない、自分を神の前に低くしていないので、聖霊の導きを受けることができないのです。
私たちは、何が神の御心か分からない、聖霊の導きがどのように与えられるのか分からない、という場合があります。
そのような時、それは自分自身の頑なな心が原因でないのか、心の耳を自分で閉じてしまって聖霊の声が聞こえないように、自分でしてしまっているのではないか、と点検をする必要があるかもしれません。
私たちは頑なな者です。私たちは自分の聞きたいことだけを聞き、見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じようとする者です。
そのような時、“かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人!”という、自分に向けられた声に、謙虚に耳を傾ける者でありたいと、私たちは願います。
そして私たちは神に、私たちの心と、心の目と耳を開いてくださるように、厳しくも真実である神の言葉に耳を傾け、神から離れた自らの罪に気づき、神に立ちかえらせてくださるようにと、祈りたいと願います。
ステファノは、議員たちに向かって“あなたがたの先祖が多くの預言者たちを迫害したように、あなたがたも、救い主(52節の”正しい方 the Righteous One)を殺してしまった、と言います。
“あなた方は上辺だけの信仰があり、心の中では神の霊である聖霊にいつも逆らっている。あなたがたは、真の救い主を殺した”と言われて、穏やかでいられる人がいるでしょうか。
ステファノにそのように言われた人々は激しく怒りました。彼らはステファノに向かって歯ぎしりしたと書かれています(54節)。彼らはまるで猛獣のように、ステファノに向かおうとしたのです。
人々(ユダヤの議員たち、権力者たち)の怒りは頂点に達していました。それに対してステファノはどのように反応したのでしょうか。
55節~56節お読みします。
55ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
56天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
恐ろしいほどの人間の怒り、敵意、悪意、殺意に対してさえも、私たちは神の霊である聖霊で満たされることが可能だ、ということをステファノの姿は教えてくれます。
そして、自分に向けられた敵意や怒りに対して敵意、怒りをもってやり返すのではなく、ステファノの目は天を見つめました。
ステファノは天を見つめ(見上げ)、そこに神の栄光と神の右にたっておられるイエス(イエス・キリスト)を見たのです。
この地上では、人同士が悪意をぶつけ合って憎み合ったり、いがみ合ったりしている。人や国同士が深刻に互いを傷つけあっていても、私たちが信仰の目をもって天を見上げるならば、そこには神のご栄光と神の右に立っておられるイエス様がおられることが分かります。
私たちのために十字架にかかり、そして今は天の父なる神の右に座っておられ、私たちのためにとりなし(仲介)の祈りを捧げてくださっているイエス様がおられるのです。
ステファノを訴える人たちは大声で叫びながら耳を手でふさぎ(ステファノの声を聞こうとせず)、ステファノに襲いかかり、彼を都の外に引きずり出しました。
58節には、そこにサウロという若者がいて、人々が自分の着ているものをサウロの足元においた、と書かれています。
サウロは後のパウロです。パウロは最初は激しくクリスチャンを迫害していましたが、復活のイエス・キリストに出会った後、熱心なキリストの伝道者へと彼は変えられました。
ステファノが殉教するその場に、後にキリストのための大きな働きをすることになるサウロがいて、その場を目撃していたということは、サウロのそれからの生き方(信仰)に大きな影響を与えた、と言えます。
ステファノは死にながらも、多くの人々に、サウロ(パウロ)に、信仰のかけがえのない遺産を残した、と言ってもよいと思います。
ステファノが、人々から石を投げられながら、死ぬ直前に言った二つの言葉、今日の箇所に記されているそれらの言葉を聞いてみましょう。
「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」
ステファノは、最後の最後まで、彼の魂を受け止めてくださる方がおられることを確信していました。それは主イエス・キリストです。
たとえ自分がどれほど大変な、悲惨な、苦しい状況の中におかれても、自分の事を決して離すことなく、愛し、また受け止めてくださるイエス様がおられることをステファノは確信していたのです。
その信仰の確信は、今の私たちにも与えられています。私たちが心と耳を開き、主イエス・キリストを受け入れるならば、イエス様はステファノの魂を受けてくださったように、私たちの魂をも受けてくださいます。
そしてステファノは「この罪を彼らに負わせないでください」と最後に言うことができました。自分を訴え、自分に石を投げ続けて自分を殺す人々のことを、彼はこのように祈ることができたのです。
それは、イエス様が十字架の上から言われた言葉でもありました。イエス様は鞭打たれ、十字架に釘付けにされ、十字架にかけられた時、次のようにおっしゃいました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)
神の子であるイエス・キリストはそのように言って、人のために、私たちのために天の父なる神に願ってくださいました。
では、人間であるステファノが、なぜそのように祈ることができたのでしょうか。「この罪を彼らに負わせないでください」とステファノはなぜ最後に祈ることができたのでしょうか。
それはステファノ自身が、自分がイエス様によって罪赦されたことを確信し、そのことへの感謝で溢れていたからだと、私は信じます。
キリストによって罪赦された、だから私は生かされている、だから私は神によって深く愛されている、と言う確信がステファノに最後にそのように、他者のために祈ることができるようにさせたのです。
そのような神様のご愛、イエス様の赦しの力が私たちにも与えられます。
私たちは、キリスト教最初の殉教者ステファノの生き方と彼の言葉から私たちに伝えられる、神の愛と赦しの力を頂いて、今を生きる信仰者としての自分自身を振り返ろうではありませんか。