2025年10月25日土曜日

2025年10月26日 主日礼拝宣教

前奏
招詞 詩編40篇6節
賛美 新生讃美歌 650番 喜びて主に仕えよ
主の祈り
賛美 新生讃美歌146番 み栄えとみ座を去り
主の晩餐
献金
聖句 使徒言行録8章1~25節
祈祷
宣教 「サマリアでの宣教」
祈祷
賛美 新生讃美歌549番 思い悩み苦しむ者よ
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 今日の聖書箇所は「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた And Saul approved of
殺害されたステファノとは、キリスト教で最初の殉教者と言われた、ステファノのことです。
 今日の箇所の前の使徒言行録第7章で、ステファノが、ユダヤの最高法院(裁判所)で神を冒瀆したという容疑で尋問された場面が描かれていました。
 ステファノは、自分のことを弁護するのではなく、聖書に伝えられた神の物語を語ることで、自分を訴える者たちに向かって、真の神についての知らせを宣べ伝えようとしました。
 しかし結局ステファノは、怒りにかられた人々によって、石打の刑によって殺されてしまいました。
 ステファノの最後の言葉は「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(7章60節)であったことを、先週私たちは礼拝メッセージの中で聞きました。

 その時ステファノの殺害に賛成していたと書かれるサウロは、熱心なユダヤ教徒でした。彼は、イエス・キリストという人を救世主、主だと信じ宣教する者たちを憎み、激しく迫害していました。
サウロは後にパウロという名前になります。パウロは、復活のイエス・キリストに出会うことで、劇的に回心して、キリストの迫害者から大転換して、キリストの熱心な伝道者になりました。
そのパウロが、ステファノの殺害に賛成していた、ということを聖書ははっきりと記すのです。
それによって、いかなる人間も完全に清く、正しく、罪を犯したことがない者はいない、ということを聖書は伝えるのです。
聖書は、パウロをはじめ、いかなる人も英雄的な人物に描いたりは決してしないのです。
全ての人が弱さ、欠点、そして自分では決して消すことのできない罪を抱えている、という真実を聖書は一貫して伝えています。

私たち人が抱えるそのような弱さ、欠点を担い、そして罪を赦すために、一人の完全に清いお方、神の子であるイエス・キリストが世に来てくださいました。
そしてイエス様が十字架の上で私たちの救いを完成させてくださった、と聖書は伝えるのです。
サウロ(パウロ)は、ステファノが、自分に石を投げつける者たちに向かって「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んでいたのを、傍で聞いていました。
サウロがステファノのその声をどんな思いで聞いていたのかは、聖書には書かれていないので、私たちが想像するしかありません。
サウロは、ひょっとしたらステファノのその言葉(叫び)に心が触れられる思いがしたかもしれません。あるいは、頑なに、ステファノへの憎しみをただ募らせていたのかもしれません。

「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と言うステファノの叫びは、イエス様が今も私たちのことを、このように天の父なる神に向かって祈ってくださっている叫びの言葉でもあります。
私たちは、イエス様がそのように私たちのために祈ってくださっている、私たちの罪を負ってくださっていることを覚えて感謝し、神の言葉を聞き続け、神に聞き従って生きる決意を新たにしたいと願います。

 今日の箇所(8章1節後半)で、「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」と書かれています。
ステファノの処刑がきっかけとなったのでしょうか。エルサレムの教会(キリストを信じる者たちの集まり)に大迫害が起きたのです。
「使徒たちのほかは皆」ユダヤとサマリアの地方に散らされていきました。使徒たち(キリストの弟子の中心的な人たち)はエルサレムに留まったという理由については、よくわかりません。
エルサレムはイエス様が十字架にかけられて殺された場所であり、そして復活のイエス様が弟子たちに現われた場所でした。
エルサレムは、信仰の中心地と言ってよい場所でした。ですから、多くのキリスト信者たちが各地へ散らされていっても、核となる使徒たち(信仰のリーダーたち)は、その信仰の中心地に留まり続けたのかもしれません。

散らされていった人たちが、いずれまた戻ってくることができる場所としてのエルサレムに、使徒たちは留まり続けたのかもしれません。
今の私たちの教会も、私たちが戻ってくることができる信仰の中心地としての役割、責任を担っています。
私たちが教会を守るのではなく、教会を守り導いてくださるのは神様です。
神様に願い頼りつつ、私たちに与えられた信仰の場所、信仰の家族が集う場所である教会を私たちは大切にしていきたいと願います。

 4節以降を読みますと、人々は迫害のために散らされていきましたが、彼らは「福音を告げ知らせながら」巡り歩きました。
 迫害によって人々は散らされていきましたが、結果として、そのことがキリストの福音が遠くの地域や国々へも伝えられていくきっかけとなったのです。
 5節以降によれば、フィリポという人がサマリアの町に下って、そこでキリストを宣べ伝えました。
 フィリポがサマリアの町へ行き、そこでキリストを宣べ伝えて、群衆が彼の行うしるし(奇跡)を見て、彼の話を聞いていた、というのは実は驚くべきことでした。
 なぜなら、ユダヤ人たちにとって、サマリアという地域は、かつての北イスラエル王国であり、アッシリア帝国に滅ぼされ、そしてそこへ移住してきた外国人(異邦人)たちとの混血が進んだ地域であったからです。
 民族の純潔を重んじるユダヤ人たちにとって、異邦人と混血したサマリアの人たちは、蔑みの対象でした。

 迫害をきっかけとして、ユダヤ人たちとは反目しあっていたサマリア人が住む地域へとイエス・キリストの知らせが広がって行ったとは、これもまた神様のなさる不思議な御業の一つでした。
 9節以降で、シモンという人が登場します。この人は「魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた」という人でした。
 この“魔術”というものがどのようなものであったのかは分かりません。
いずれにしてもそれは、人々を驚かせ、また人々が彼(シモン)に注目して、その魔術に心奪われるようなものでした。
 シモンにとっては、「自分は魔術を行うことができる」ということが「自分は偉大だ」と思える根拠だったようです。
 そして人々は、シモン自身の人格とか彼の内面よりも、彼の行う驚くべき魔術のほうに心を奪われていました。
つまりシモンは人々と、人格的な心が通いあう関係性は築けていなかったのではないでしょうか。
 そのような意味で、魔術という外面的な条件でしか他者とつながることができず、またそれによってしか自分の価値が分からなかったシモンは、神の前に憐れむべき人であったと言えると私は思います。
 フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを、サマリアの人々は信じました。
12~13節を見ますと、おそらく多くの人たちが信じ、洗礼(バプテスマ)を受けました。
 そしてシモンも信じてバプテスマを受けて、フィリポにつき従って、フィリポによって行われるしるしや奇跡(悪霊の追い出しや、病気の癒し)を見て、驚いていた、と書かれています。

 14節以降を見てみましょう。
 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞いて、ペトロとヨハネの二人をそこへ行かせました。
 エルサレムの使徒たちは、ペトロとヨハネの二人を代表としてサマリアへ派遣して、そこでサマリア人たちも神を信じたということを確かめさせようとしたのでしょう。
 ペトロとヨハネの二人がサマリアに下って来て、そこで二人は人々が“聖霊を受けるようにと”その人々のために祈りました(15節)。

 16-17節をお読みします。
16人々は主イエスの名によって洗礼(バプテスマ)を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。
17ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 「人々は主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかった」という意味については、はっきりとは分かりません。
 それは、サマリアの人々は”主イエスの名“という、いわば一つの知識に基づいて、人の考えによってバプテスマを受けたけれども、聖霊(神の霊)の導きによって、神様に心から悔い改める、心からの回心がまだなされていなかった、ということではないでしょうか。
 ですからペトロとヨハネは、主イエスを信じる信仰が、聖霊(神の霊)に自分自身を委ねる、心からの回心を伴う信仰となるようにという願いで、彼らの上に手を置いて祈ったのです。
 すると人々は聖霊を受けた、と書かれています(17節)

 シモンはその様子を見ていました。そして何と彼は、使徒たちが手を置くと”霊“が与えられる様子を見て、お金を持って来て「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」と言いました。
 それに対するペトロの言葉の最初を見てみましょう。
「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。」
 シモンは、お金と言う自分が持っているものと引き換えに、聖霊を授ける能力(人を驚かすことができる能力)が買える、と思っていました。
 しかし、神様がくださる賜物は、私たちが持っている何かと引き換えに、頂くことができるものではありません。
 神様は既に、私たちに多くの素晴らしい賜物を、無償で全て与えてくださっています。神を知るとは、私たちがそのことに気づく事です。
私たちが自分自身で得たもの、所有しているものなど(私たちはそう思っていても)、何もないのです。
 シモンは、“お金で何でも買える”、あるいは“自分が持っているものを何か差し出して、それへの代価としてしか、何かを手に入れることは出来ない”と言う考えに完全に捕らわれてしまっていたのでしょう。

 現在の私たちも、シモンのような考え方を持っていると、私は思わされました。
 そんなシモンに、そして私たちに神は(ペトロの言葉を通して)言われます。
「あなたたちが持っているもの、手にしているものは、すべて主なる神である私からの賜物、無償の贈り物だ」、「あなたたちが自分で持っているもの、自分で得たものなど何もない」
 神は言われます。「すべてを与えてくださる神を信じ、聖霊の導きを信じ、感謝し、神に信頼して生きていきなさい」
 イエス・キリストの福音とは、神が私たちの救いのために、すべての代価、犠牲をご自分で払ってくださったという知らせです。
 イエス様が十字架にかかられたとは、そのような知らせなのです。
すべてを頂いている、賜物として善きものを有り余るほど頂いていることを、信仰の目をもって私たちは認め、聖霊に導かれる幸いな日々を私たちは歩んでいきたいと願います。