前奏
招詞 箴言23章18節
アドベントキャンドルの点火
賛美 新生讃美歌148番 久しく待ちにし
主の祈り
賛美 新生讃美歌 554番 イエスに導かれ
世界バプテスト祈祷週間を覚えて~特別賛美
献金
聖句 ローマの信徒への手紙5章1~11節
祈祷
宣教 「神の栄光にあずかる希望」
祈祷
賛美 新生讃美歌40番 わが喜び わが望み
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏
今日から、キリスト教会では「アドベント(待降節)」と言われる期間に入ります。それは、私たちがイエス・キリストの誕生を待ちわびる特別な期間です。
アドベントは、12月25日のクリスマス(降誕節)前の4回の日曜日を含む、約4週間の期間のことを言います。
今年2025年は、今日11月30日から、クリスマス・イヴの12月24日(水)までがアドベントです。
イエス・キリストは人として、今から約2025年前にお生まれになりました。キリストが人として世に生まれたとことは、歴史的な一つの事実です。
しかしキリストは神の子であり、また神と等しいお方、神そのものでもあられたお方でした。
ですから、そのようなお方がこの地上の世界にお生まれになったという出来事は、歴史上に起こる(起こった)他の多くの出来事や、他の多くの普通の人間の誕生とは、その意味が全く異なります。
何ものにも制限を受けることのない、無限であり永遠である神が、人としてお生まれになったその特別な出来事は、今も継続して続いている、不思議な出来事です。
私たちキリスト教会がこうして毎年クリスマスを特別な日として迎えるのは、この世界に来られたイエス・キリストが、永遠の命、そして聖霊によって今も生きておられ、私たちと共におられる、と信じるからです。
今から約2025年前、現在のパレスチナ、イスラエルの地にイエス・キリストはお生まれになりました。イエス様はユダヤ人としてお育ちになり、人としての命を生きられました。
イエス・キリストは、私たち人に、実に多くの恵みと賜物を与えるために、この世にお生まれになりました。イエス様はそのために、ご自身の全てを捧げてくださいました。
イエス・キリストが私たちに与えてくださったもので、もっとも大切であり代表的と言ってよい恵み、それはアドベントの蝋燭の火がそれぞれ意味する、希望、平和、喜び、愛です。
今日の聖書箇所(ローマの信徒への手紙5章1~11節)には、それらの恵みの全てが凝縮されて描かれています。
希望、平和、喜び、愛、キリストによるこれらの恵みを頂けるのならば、私たちのこの地上での命は、この上なく満たされた、祝福されたものとなります。
今日は、第一アドベントのろうそくの火が意味する“希望”について、私たちは御言葉から聞いていきたいと願います。
希望は、私たちの精神、心、魂を力づけ、私たちに生きる力を与えます。
しかし、その希望が、私たち人間の願望や考えに基づいて作り上げられた希望であるならば、そのような希望は一時的で、やがて消えてなくなります。
私たちが生きている上で達成したいこと、手に入れたいもの、手に入れたいと願う地位、それらを得ることが、しばしば私たちの目標、そして希望となり得ます。
そのような希望は決して悪いものではありません。しかし、そのような私たち自身の願いに基づく希望は、私たちが生きる上で一番大切な、私たちの魂を支えるような土台や基盤とはなり得ません。
私たちは、自分で造り出したのではない、揺るぐことのない確かな希望が必要です。
それは、たとえ時代や場所が変わっても、また私たちがどのような境遇(失敗や挫折)に置かれようとも、変わることのない確固とした希望です。
そのような希望(確かな希望)を、今日の聖書箇所では「神の栄光にあずかる希望」と言っています。
この世界の造り主、永遠である神のご栄光を頂けるという希望が、私たちにはキリストを通して与えられているのです。
人は本来、神の栄光のもとに生きるものとして造られました。しかし、私たちはそれを自らの意志(罪)によって手放してしまった、と聖書は伝えます。
ローマの信徒への手紙3:23~24 (Romans 3:23~24)
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
「人は皆、罪を犯して」とは、私たち人が、本来その方と共に、その方に従って生きるべき神から離れて、自分を中心にして生きるようになったということです。
旧約聖書の創世記では、最初の人間であるアダムとエヴァが、神の戒めに背いて、“善悪の知識の木”を食べたこと、を人間による罪の始まりとして描きます。
それからの人間の歴史は、“何が正しいのかは自分が決める”、“自分で造り出した希望や栄光を求め、それを得るために生きる”という生き方を始めた、と言えます。
そんな私たちに、イエス・キリストの父なる神は、ご自身だけが与えることのできる、真の栄光、その栄光の中に身をおいて生きることができる希望の道へ立ち返るように、私たちに向けて呼びかけておられます。
私たちは自らの罪によって神の栄光を受けられなくなったのですが、神はイエス・キリストによってその罪を赦し、私たちを再びご自分の栄光に生きる道を与えてくださったのです。
永遠なる神が与えてくださる栄光、死んで復活されたイエス・キリストによってはっきりと示された神の栄光を頂ける、その希望があることを、わたしたちは改めて信じようではありませんか。
今日の聖書箇所の言葉をよく読みますと、神の栄光にあずかる希望とは、苦難を受けることが前提となっていることが分かります。
真の希望、揺るがない希望に至るためには、私たちは苦難を経ねばならないのです。
苦難の経験が私たちに、いかなる境遇をも耐え忍ぶという”忍耐“を与え、忍耐は練達を生む、そして練達が希望を生む、と言うのです。
ここでの”忍耐“、”練達“とは、私たちが苦難の中で、主なる神に一層依り頼むことによって深まる神への信頼、と言ってもよいと私は思います。
私たちはできることならば、苦しいことは避けて通りたいと願います。しかし、苦難によって、その先にある確かな希望が与えられると、聖書は言うのです。
3節で、“わたしは苦難を誇りとする”とまで、この手紙の著者であるパウロは書いています。
私たちは、“こんなことは、よっぽど心と精神の強い人だから言えることだ”と、思うかもしれません。
しかし、決してそうではなく、“わたしは苦難と誇りとする”と言う言葉は、苦難に向き合う力、苦しみを乗り超える力が自分自身の内にはないことを認めた人こそが、言うことができる言葉です。
“自分には、この困難を乗り越える力はない。しかし、主なる神が、この苦難をわたしと共に担ってくださっている”という真実に触れた人こそが、“わたしは苦難を誇りとする”と言うことができます。
私たちの苦難を共に担ってくださる方、イエス・キリストとはそのようなお方です。
クリスマスは、そのようなお方、神でありながら人となり、私たちの苦難、苦しみを共に負ってくださる方が世にお生まれになったことに、私たちが感謝を献げる時です。
私たちの人生には、病気や、別離、生活上の心配など、多くの困難があります。家族の問題、人間関係の問題が私たちを常に苦しめます。
私たちはそれらにひとりで立ち向かうのではないことを、あらためて私たちは覚えましょう。
主が私たちと共に歩んでくださる、そして主と共に歩む信仰の生き方によって私たちは忍耐、練達(神が私と共に生きてくださり、神が私を支えてくださっている、ことを増々知り、経験する)を生み、そしてそのような練達が、ゆるぐことのない希望を生むのです。
アドベント、そしてクリスマスは、私たちの救い主、この地上で生きる私たちの真の同伴者(共に生きてくださるお方である)イエス様のお誕生を覚える時です。
私たちは、イエス様こそが、お生まれになった時から、大きな苦難の中にその生(命)をお受けになったことを、聖書から知らされます。
イエス様がお生まれになった時は、家畜である馬と同じ場所にしかイエス様一家の場所は与えられていなかったことが聖書では伝えられています。
イエス様は、言ってみれば、その人生の最初から人に拒絶され、のけ者にされるような扱いを受けたのです。イエス様の生涯は栄光とはほぼ遠いものでした。
年齢にして30歳を過ぎられた時から始められた公の伝道生活の中で、イエス様は、人々からの称賛や誉をお受けになることもありました。
しかしイエス様は、決してそのような人からの称賛を、真の“栄光”としてご自分から求めようとはされませんでした。
イエス様はご自身の生き方を通して、真の栄光は主なる神にのみあり、神の栄光の中にこそ、真の確かな希望があることを、その生き方とお言葉を通して、人々にお伝えになりました。
そのようにしてまでイエス様は、真の栄光を求めて生きるように(移り変わりやすい、不確かな、人からの栄光を求めないように)、私たちに伝えてくださったのです。
そして今日の6節に書かれている通り、イエス様がその定められた時に死んでくださったのは、“不信心な者のため”でした。
もし今、“私は自分が一体何者なのか分からない”、“自分が生きている意味が分からない、自分の価値が分からない”と思われる方がおられましたら、私たちは共に、十字架にかかって死なれたイエス・キリストを見上げましょう。
正しい人のため、善い人のためにではなく、私たち全ての“罪人”のために命を投げ出すために、この世に生まれてきてくださったお方、イエス様の誕生を私たちは喜びましょう。
イエス様の誕生、死、そして復活の中に、私たちに対する神様の限りない御愛が、私たちが生ることの意義、価値がはっきりと示されているのです。
主なる神であるイエス・キリスト共に生きる命、そして私たちが必ず経験させられる人生の様々な苦難の先には、そのような苦難を主と共に耐え、主に力を頂いて生きる経験の先には、大きな確かな希望が、約束されているのです。
その希望は、今日の5節に書かれている通り、私たちをけっして欺くことのない希望です。それは、いついつまでも希望であることを止めない永遠の希望です。
私たちが自分自身を神に委ねて、自分自身の中には誇り得るもの、栄光と言えるものは何も持たない者であることを認め、神の栄光を認め神からの栄光だけを求める時、神は惜しみなくそのご栄光の中に私たちを生かしてくださいます。
私たちは日常で色々な失敗もします。また落ち込むような出来事も沢山あるでしょう。
しかし、キリストにある希望が、神様がその栄光を私たちに豊かに与えてくださる(与えてくださった)という希望が私たちを常に支えるのです。
神の栄光にあずかる、その確かで変わることのない希望を頂いて、私たちはこのアドベントの期間、そして日々を信仰によって歩んでいきたいと願います。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
「人は皆、罪を犯して」とは、私たち人が、本来その方と共に、その方に従って生きるべき神から離れて、自分を中心にして生きるようになったということです。
旧約聖書の創世記では、最初の人間であるアダムとエヴァが、神の戒めに背いて、“善悪の知識の木”を食べたこと、を人間による罪の始まりとして描きます。
それからの人間の歴史は、“何が正しいのかは自分が決める”、“自分で造り出した希望や栄光を求め、それを得るために生きる”という生き方を始めた、と言えます。
そんな私たちに、イエス・キリストの父なる神は、ご自身だけが与えることのできる、真の栄光、その栄光の中に身をおいて生きることができる希望の道へ立ち返るように、私たちに向けて呼びかけておられます。
私たちは自らの罪によって神の栄光を受けられなくなったのですが、神はイエス・キリストによってその罪を赦し、私たちを再びご自分の栄光に生きる道を与えてくださったのです。
永遠なる神が与えてくださる栄光、死んで復活されたイエス・キリストによってはっきりと示された神の栄光を頂ける、その希望があることを、わたしたちは改めて信じようではありませんか。
今日の聖書箇所の言葉をよく読みますと、神の栄光にあずかる希望とは、苦難を受けることが前提となっていることが分かります。
真の希望、揺るがない希望に至るためには、私たちは苦難を経ねばならないのです。
苦難の経験が私たちに、いかなる境遇をも耐え忍ぶという”忍耐“を与え、忍耐は練達を生む、そして練達が希望を生む、と言うのです。
ここでの”忍耐“、”練達“とは、私たちが苦難の中で、主なる神に一層依り頼むことによって深まる神への信頼、と言ってもよいと私は思います。
私たちはできることならば、苦しいことは避けて通りたいと願います。しかし、苦難によって、その先にある確かな希望が与えられると、聖書は言うのです。
3節で、“わたしは苦難を誇りとする”とまで、この手紙の著者であるパウロは書いています。
私たちは、“こんなことは、よっぽど心と精神の強い人だから言えることだ”と、思うかもしれません。
しかし、決してそうではなく、“わたしは苦難と誇りとする”と言う言葉は、苦難に向き合う力、苦しみを乗り超える力が自分自身の内にはないことを認めた人こそが、言うことができる言葉です。
“自分には、この困難を乗り越える力はない。しかし、主なる神が、この苦難をわたしと共に担ってくださっている”という真実に触れた人こそが、“わたしは苦難を誇りとする”と言うことができます。
私たちの苦難を共に担ってくださる方、イエス・キリストとはそのようなお方です。
クリスマスは、そのようなお方、神でありながら人となり、私たちの苦難、苦しみを共に負ってくださる方が世にお生まれになったことに、私たちが感謝を献げる時です。
私たちの人生には、病気や、別離、生活上の心配など、多くの困難があります。家族の問題、人間関係の問題が私たちを常に苦しめます。
私たちはそれらにひとりで立ち向かうのではないことを、あらためて私たちは覚えましょう。
主が私たちと共に歩んでくださる、そして主と共に歩む信仰の生き方によって私たちは忍耐、練達(神が私と共に生きてくださり、神が私を支えてくださっている、ことを増々知り、経験する)を生み、そしてそのような練達が、ゆるぐことのない希望を生むのです。
アドベント、そしてクリスマスは、私たちの救い主、この地上で生きる私たちの真の同伴者(共に生きてくださるお方である)イエス様のお誕生を覚える時です。
私たちは、イエス様こそが、お生まれになった時から、大きな苦難の中にその生(命)をお受けになったことを、聖書から知らされます。
イエス様がお生まれになった時は、家畜である馬と同じ場所にしかイエス様一家の場所は与えられていなかったことが聖書では伝えられています。
イエス様は、言ってみれば、その人生の最初から人に拒絶され、のけ者にされるような扱いを受けたのです。イエス様の生涯は栄光とはほぼ遠いものでした。
年齢にして30歳を過ぎられた時から始められた公の伝道生活の中で、イエス様は、人々からの称賛や誉をお受けになることもありました。
しかしイエス様は、決してそのような人からの称賛を、真の“栄光”としてご自分から求めようとはされませんでした。
イエス様はご自身の生き方を通して、真の栄光は主なる神にのみあり、神の栄光の中にこそ、真の確かな希望があることを、その生き方とお言葉を通して、人々にお伝えになりました。
そのようにしてまでイエス様は、真の栄光を求めて生きるように(移り変わりやすい、不確かな、人からの栄光を求めないように)、私たちに伝えてくださったのです。
そして今日の6節に書かれている通り、イエス様がその定められた時に死んでくださったのは、“不信心な者のため”でした。
もし今、“私は自分が一体何者なのか分からない”、“自分が生きている意味が分からない、自分の価値が分からない”と思われる方がおられましたら、私たちは共に、十字架にかかって死なれたイエス・キリストを見上げましょう。
正しい人のため、善い人のためにではなく、私たち全ての“罪人”のために命を投げ出すために、この世に生まれてきてくださったお方、イエス様の誕生を私たちは喜びましょう。
イエス様の誕生、死、そして復活の中に、私たちに対する神様の限りない御愛が、私たちが生ることの意義、価値がはっきりと示されているのです。
主なる神であるイエス・キリスト共に生きる命、そして私たちが必ず経験させられる人生の様々な苦難の先には、そのような苦難を主と共に耐え、主に力を頂いて生きる経験の先には、大きな確かな希望が、約束されているのです。
その希望は、今日の5節に書かれている通り、私たちをけっして欺くことのない希望です。それは、いついつまでも希望であることを止めない永遠の希望です。
私たちが自分自身を神に委ねて、自分自身の中には誇り得るもの、栄光と言えるものは何も持たない者であることを認め、神の栄光を認め神からの栄光だけを求める時、神は惜しみなくそのご栄光の中に私たちを生かしてくださいます。
私たちは日常で色々な失敗もします。また落ち込むような出来事も沢山あるでしょう。
しかし、キリストにある希望が、神様がその栄光を私たちに豊かに与えてくださる(与えてくださった)という希望が私たちを常に支えるのです。
神の栄光にあずかる、その確かで変わることのない希望を頂いて、私たちはこのアドベントの期間、そして日々を信仰によって歩んでいきたいと願います。