2025年11月29日土曜日

2025年11月30日 主日(アドベント第一)礼拝

前奏
招詞 箴言23章18節
アドベントキャンドルの点火
賛美 新生讃美歌148番 久しく待ちにし
主の祈り
賛美 新生讃美歌 554番 イエスに導かれ
世界バプテスト祈祷週間を覚えて~特別賛美
献金
聖句  ローマの信徒への手紙5章1~11節
祈祷
宣教  「神の栄光にあずかる希望」
祈祷
賛美 新生讃美歌40番 わが喜び わが望み
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏


今日から、キリスト教会では「アドベント(待降節)」と言われる期間に入ります。それは、私たちがイエス・キリストの誕生を待ちわびる特別な期間です。
 アドベントは、12月25日のクリスマス(降誕節)前の4回の日曜日を含む、約4週間の期間のことを言います。
今年2025年は、今日11月30日から、クリスマス・イヴの12月24日(水)までがアドベントです。
 イエス・キリストは人として、今から約2025年前にお生まれになりました。キリストが人として世に生まれたとことは、歴史的な一つの事実です。
 しかしキリストは神の子であり、また神と等しいお方、神そのものでもあられたお方でした。
ですから、そのようなお方がこの地上の世界にお生まれになったという出来事は、歴史上に起こる(起こった)他の多くの出来事や、他の多くの普通の人間の誕生とは、その意味が全く異なります。
 何ものにも制限を受けることのない、無限であり永遠である神が、人としてお生まれになったその特別な出来事は、今も継続して続いている、不思議な出来事です。

私たちキリスト教会がこうして毎年クリスマスを特別な日として迎えるのは、この世界に来られたイエス・キリストが、永遠の命、そして聖霊によって今も生きておられ、私たちと共におられる、と信じるからです。
 今から約2025年前、現在のパレスチナ、イスラエルの地にイエス・キリストはお生まれになりました。イエス様はユダヤ人としてお育ちになり、人としての命を生きられました。
  イエス・キリストは、私たち人に、実に多くの恵みと賜物を与えるために、この世にお生まれになりました。イエス様はそのために、ご自身の全てを捧げてくださいました。
イエス・キリストが私たちに与えてくださったもので、もっとも大切であり代表的と言ってよい恵み、それはアドベントの蝋燭の火がそれぞれ意味する、希望、平和、喜び、愛です。

 今日の聖書箇所(ローマの信徒への手紙5章1~11節)には、それらの恵みの全てが凝縮されて描かれています。
 希望、平和、喜び、愛、キリストによるこれらの恵みを頂けるのならば、私たちのこの地上での命は、この上なく満たされた、祝福されたものとなります。
 今日は、第一アドベントのろうそくの火が意味する“希望”について、私たちは御言葉から聞いていきたいと願います。
希望は、私たちの精神、心、魂を力づけ、私たちに生きる力を与えます。
しかし、その希望が、私たち人間の願望や考えに基づいて作り上げられた希望であるならば、そのような希望は一時的で、やがて消えてなくなります。
 私たちが生きている上で達成したいこと、手に入れたいもの、手に入れたいと願う地位、それらを得ることが、しばしば私たちの目標、そして希望となり得ます。
 そのような希望は決して悪いものではありません。しかし、そのような私たち自身の願いに基づく希望は、私たちが生きる上で一番大切な、私たちの魂を支えるような土台や基盤とはなり得ません。
 私たちは、自分で造り出したのではない、揺るぐことのない確かな希望が必要です。
それは、たとえ時代や場所が変わっても、また私たちがどのような境遇(失敗や挫折)に置かれようとも、変わることのない確固とした希望です。
そのような希望(確かな希望)を、今日の聖書箇所では「神の栄光にあずかる希望」と言っています。
 この世界の造り主、永遠である神のご栄光を頂けるという希望が、私たちにはキリストを通して与えられているのです。
 人は本来、神の栄光のもとに生きるものとして造られました。しかし、私たちはそれを自らの意志(罪)によって手放してしまった、と聖書は伝えます。

ローマの信徒への手紙3:23~24 (Romans 3:23~24)
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 「人は皆、罪を犯して」とは、私たち人が、本来その方と共に、その方に従って生きるべき神から離れて、自分を中心にして生きるようになったということです。
 旧約聖書の創世記では、最初の人間であるアダムとエヴァが、神の戒めに背いて、“善悪の知識の木”を食べたこと、を人間による罪の始まりとして描きます。
それからの人間の歴史は、“何が正しいのかは自分が決める”、“自分で造り出した希望や栄光を求め、それを得るために生きる”という生き方を始めた、と言えます。
 そんな私たちに、イエス・キリストの父なる神は、ご自身だけが与えることのできる、真の栄光、その栄光の中に身をおいて生きることができる希望の道へ立ち返るように、私たちに向けて呼びかけておられます。
 私たちは自らの罪によって神の栄光を受けられなくなったのですが、神はイエス・キリストによってその罪を赦し、私たちを再びご自分の栄光に生きる道を与えてくださったのです。
 永遠なる神が与えてくださる栄光、死んで復活されたイエス・キリストによってはっきりと示された神の栄光を頂ける、その希望があることを、わたしたちは改めて信じようではありませんか。

 今日の聖書箇所の言葉をよく読みますと、神の栄光にあずかる希望とは、苦難を受けることが前提となっていることが分かります。
真の希望、揺るがない希望に至るためには、私たちは苦難を経ねばならないのです。
苦難の経験が私たちに、いかなる境遇をも耐え忍ぶという”忍耐“を与え、忍耐は練達を生む、そして練達が希望を生む、と言うのです。
ここでの”忍耐“、”練達“とは、私たちが苦難の中で、主なる神に一層依り頼むことによって深まる神への信頼、と言ってもよいと私は思います。
 私たちはできることならば、苦しいことは避けて通りたいと願います。しかし、苦難によって、その先にある確かな希望が与えられると、聖書は言うのです。
 3節で、“わたしは苦難を誇りとする”とまで、この手紙の著者であるパウロは書いています。
私たちは、“こんなことは、よっぽど心と精神の強い人だから言えることだ”と、思うかもしれません。

 しかし、決してそうではなく、“わたしは苦難と誇りとする”と言う言葉は、苦難に向き合う力、苦しみを乗り超える力が自分自身の内にはないことを認めた人こそが、言うことができる言葉です。
“自分には、この困難を乗り越える力はない。しかし、主なる神が、この苦難をわたしと共に担ってくださっている”という真実に触れた人こそが、“わたしは苦難を誇りとする”と言うことができます。
私たちの苦難を共に担ってくださる方、イエス・キリストとはそのようなお方です。

クリスマスは、そのようなお方、神でありながら人となり、私たちの苦難、苦しみを共に負ってくださる方が世にお生まれになったことに、私たちが感謝を献げる時です。
 私たちの人生には、病気や、別離、生活上の心配など、多くの困難があります。家族の問題、人間関係の問題が私たちを常に苦しめます。
私たちはそれらにひとりで立ち向かうのではないことを、あらためて私たちは覚えましょう。
 主が私たちと共に歩んでくださる、そして主と共に歩む信仰の生き方によって私たちは忍耐、練達(神が私と共に生きてくださり、神が私を支えてくださっている、ことを増々知り、経験する)を生み、そしてそのような練達が、ゆるぐことのない希望を生むのです。
 アドベント、そしてクリスマスは、私たちの救い主、この地上で生きる私たちの真の同伴者(共に生きてくださるお方である)イエス様のお誕生を覚える時です。
私たちは、イエス様こそが、お生まれになった時から、大きな苦難の中にその生(命)をお受けになったことを、聖書から知らされます。
イエス様がお生まれになった時は、家畜である馬と同じ場所にしかイエス様一家の場所は与えられていなかったことが聖書では伝えられています。
 イエス様は、言ってみれば、その人生の最初から人に拒絶され、のけ者にされるような扱いを受けたのです。イエス様の生涯は栄光とはほぼ遠いものでした。

年齢にして30歳を過ぎられた時から始められた公の伝道生活の中で、イエス様は、人々からの称賛や誉をお受けになることもありました。
しかしイエス様は、決してそのような人からの称賛を、真の“栄光”としてご自分から求めようとはされませんでした。
イエス様はご自身の生き方を通して、真の栄光は主なる神にのみあり、神の栄光の中にこそ、真の確かな希望があることを、その生き方とお言葉を通して、人々にお伝えになりました。
 そのようにしてまでイエス様は、真の栄光を求めて生きるように(移り変わりやすい、不確かな、人からの栄光を求めないように)、私たちに伝えてくださったのです。
そして今日の6節に書かれている通り、イエス様がその定められた時に死んでくださったのは、“不信心な者のため”でした。
もし今、“私は自分が一体何者なのか分からない”、“自分が生きている意味が分からない、自分の価値が分からない”と思われる方がおられましたら、私たちは共に、十字架にかかって死なれたイエス・キリストを見上げましょう。
 正しい人のため、善い人のためにではなく、私たち全ての“罪人”のために命を投げ出すために、この世に生まれてきてくださったお方、イエス様の誕生を私たちは喜びましょう。
イエス様の誕生、死、そして復活の中に、私たちに対する神様の限りない御愛が、私たちが生ることの意義、価値がはっきりと示されているのです。
  主なる神であるイエス・キリスト共に生きる命、そして私たちが必ず経験させられる人生の様々な苦難の先には、そのような苦難を主と共に耐え、主に力を頂いて生きる経験の先には、大きな確かな希望が、約束されているのです。

その希望は、今日の5節に書かれている通り、私たちをけっして欺くことのない希望です。それは、いついつまでも希望であることを止めない永遠の希望です。
 私たちが自分自身を神に委ねて、自分自身の中には誇り得るもの、栄光と言えるものは何も持たない者であることを認め、神の栄光を認め神からの栄光だけを求める時、神は惜しみなくそのご栄光の中に私たちを生かしてくださいます。
 私たちは日常で色々な失敗もします。また落ち込むような出来事も沢山あるでしょう。
しかし、キリストにある希望が、神様がその栄光を私たちに豊かに与えてくださる(与えてくださった)という希望が私たちを常に支えるのです。
 神の栄光にあずかる、その確かで変わることのない希望を頂いて、私たちはこのアドベントの期間、そして日々を信仰によって歩んでいきたいと願います。

2025年11月22日土曜日

2025年11月23日(日)主日礼拝

前奏
招詞 ペトロの手紙一 3章15節
賛美 新生讃美歌146番  み栄えとみ座を去り
主の祈り
賛美 新生讃美歌554番   イエスに導かれ
献金
聖句  列王記一8章27~29、41~43節
祈祷
宣教  「地上のすべての民は御名を知る」
祈祷
賛美 新生讃美歌384番  語り伝えよ 神のみ言葉
頌栄 新生讃美歌676番  
祝祷
後奏
歓迎・案内


今日は「バプテスト世界祈祷週間」と言う、日本バプテスト女性連合が推進する、祈りの週間を覚えながらの礼拝メッセージを、私はいたします。
正確には今年度は、来週の11月30日(日)~12月7日(日)までが、バプテスト世界祈祷週間です。
一週間早いのですが、今日のメッセージで、バプテスト世界祈祷週間を覚えながら、神のメッセージを私達は聞いていきたいと思います。
バプテスト世界祈祷週間では、日本バプテスト女性連合が推進、支援する国内外の様々な宣教の働き、その働きに仕える人たちを覚えて祈ります。
具体的なそれらの働きについては、来週の礼拝の中で、女性会の皆様によりご紹介を頂く予定になっています。

どんな宣教活動の働きも、その働きに先立つ、キリスト者の仲間たちによる祈り、継続した祈りによる支援が、どんな宣教(伝道)活動にも必要です。
幸い私たちの教会は、日本バプテスト連盟という全国的な宣教協力団体に加盟しています。私たちの教会は、連盟に連なる諸教会・伝道所の祈りによって、今も支えられているのです。
そして私たちは、自分たちが支えられるだけでなく、私たちも連盟に連なる諸教会、また連盟の働きなどを覚えて、祈りと支援とを捧げます。
 バプテスト世界祈祷週間も、私たちが祈りによって支え合う(支え合っている)ことを確認し、またそうすることができることを本当に喜ぶ機会でもあると、私は理解しています。
今年度私たちは、新約聖書の『使徒言行録』から、神の言葉を礼拝メッセージとして聞いてきています。
今日は、新約聖書からではなく、旧約聖書の『列王記一』8章の中の、ある祈りの言葉から、神の言葉(メッセージ)を聞き、そして国内外で行われている宣教活動、またその働き人たちについても思いを巡らせる時を持ってまいりましょう。

列王記上8章は、父親のダビデ王の後を継いでイスラエルの王となったソロモンが、神殿の建築を完成させた後に捧げた祈りの言葉によって、その多くを占められています。
この章でのソロモンの祈りは、私たちに祈りについて、実の多くのことを教えてくれています。
皆さんは、祈りをどのように捉えていらっしゃるでしょうか。
祈りは難しい、なかなか出来ない、と思われている方もおられるでしょう。確かに、祈りは難しくもあります。しかし、やはり祈りは、キリスト者にとって、とても嬉しいものでもあります。
キリスト者が神からいただく賜物の一つ、もっとも尊い賜物といってもよいほどの恵み、それが祈りです。
祈りは、私たちを神に近づけ、そして私たちを自分以外の他者とも近づけるものであると、今日の箇所のソロモンの祈りから、私たちは教えられます。
キリスト者の歩みとは、神に祈ることへの喜びが増していく歩み、そして神と、また人とも親しくなっていく歩みである、と言ってよいと私は思います。
私自身は、“もっともっと私は祈りの喜びを身に着けたい”、”祈りの喜びを知りたい。祈りの喜びを教えてください“と神に祈っています。
以前、初めて教会に来てくださった方が、キリスト者が(私たちが)教会で祈る姿がとても印象的で感動した、というお話を私は聞いたことがあります。
その方がいらっしゃった日は、月の初めの日曜日で、私たちの礼拝の中で“祈りの時”がある日でした。
その方は、教会で私たちが、お互いのことや、また社会や世界のことをも覚えて一緒に祈っているという事実と、その私たちの祈りの姿が、とても印象的であって感動した、そうです。
 もちろん祈りは、人に見せるためにするものではありません。しかし、私たちは祈ることで、神と私たち自身がつながります。
そして私たちの祈るその姿も、他の人たちに、神に祈ることができる喜び、神と繋がることの喜びという、信仰の一つの側面を伝えることにもなるのです。
私たちの祈りの姿が、神様の素晴らしさを、私たちの祈りを聞いてくださる神の素晴らしさを、少しでも人に伝えることができるとは、それは何とすばらしい、嬉しいことではないでしょうか。
 私たちは、そのような祈りの喜び、また祈りのもつ力や効果(影響)を、さらに知っていきたいと願います。

 ソロモンは、父ダビデ王の願いを継いで、荘厳な神殿を完成させました。7年の歳月をかけて、膨大な資材、材料、労働力を用いて、主なる神のための神殿をソロモン王が完成させたのです。
 しかしそのような大事業を達成しても、その時のソロモンの心は、あくまで神の前に謙遜なものでした。今日の箇所の最初のソロモンの祈りの言葉をもう一度聞いてみましょう。

27神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。

ソロモンが完成させた神殿は、当時としてものすごく巨大で荘厳なものでした。
ですからソロモンが、“これは私が成し遂げたことだ”と言って、傲慢な思いに囚われてしまっていたとしても決して不思議ではない、と私は思います。
 しかし、ソロモンは自分がなしとげた、その神殿造営の事業を誇ることをまったくしていません。なぜなら、彼は神がどれほど偉大なお方であるかを忘れることがなかったからです。
 人々は、新しく建てられた巨大で荘厳な神殿、そしてまたソロモンの持つ莫大な富に驚いたでしょう。
しかしソロモン自身は“この神殿など、神の偉大さに比べれば、何物でもありません”ということを良くしっていたのです。
 “神は地上にお住まいなることなどないのです。天の天もあなた(神)をお納めすることができません。”
 “わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません”、とソロモンは祈っています。
 ソロモンは、ここで卑屈になっているのではありません。
そうではなく、神との関係の中で、いかに自分が小さく何者でもないか、自分が地上で成し遂げることなど、神の前にどれほどの価値もない、ということを、ソロモンは良く知っていた(知らされていた)のです。
 それは、それほどソロモンと神との関係が親密で豊かなものであった、ということです。
逆説的(一見、互いに反することを言っている)かもしれませんが、神様と豊かで親密な関係を築けば築くほど、私たちは自分自身や、自分がすることなどがいかに小さく、何物でもないか、を知らされるのです。

 親密な、神への祈りは、神との豊かな関係は、神の前に自分自身を低くし、神の偉大さの前に、私たち自身をひれ伏せさせるものである、ということを私たちは覚えたいと願います。
 また私たちは、誰が私たちの祈りを聞いてくださっているのか、ということを、今日あらためて確認したいと思います。
それは天地の造り主である神、私たちの救いのために、イエス・キリストを地上にお送りくださり、十字架の上でその命を捧げてくださった神です。
そのような神が、私たちの祈りを聞いてくださるのです。
 ですから私たちは祈る時、「神が私の祈りを聞いてくださるのは当たり前」と前提するのではなく、今日の箇所でのソロモンの祈りのように、”この僕がささげる祈りを聞き届けてください“と、心から願い祈るような信仰者でありたいと願います。
 繰り返しますが、神が私たちの祈りを聞いてくださること、それは決して当たり前のことではないのです。
今私たちは、イエス様のお名前によって何でも神に向かって申し上げ、祈ることができる、その法外な恵みに心を留めましょう。
 今日の箇所の、8章41節からの箇所に目を向けたいと思います。そこからソロモンの祈りは、“あなたの民イスラエルに属さない異邦人foreigner who does not belong to your people Israel”へと及んでいきます。

 イスラエルの民は、“自分たちは神に選ばれた特別な民”、“自分たちは、信仰の父アブラハムを抱く特別な民”という思いを強く持つ人たちでした。
 しかし、すでにソロモンの時代から、主なる神の恵みが、イスラエルの民以外の異邦人、(ユダヤ人から見れば)外国人にも、また全ての民にも及ぶようにという、まさに神の思いが、ソロモンの祈りの中ではっきりと祈られているのです。
“神の御名が伝えられ、神を信じるようになった異邦人たちも、この神殿に来ることができますように、そして彼らが祈る時、彼らの祈りをもあなたが聞いてください”、と王であるソロモンが祈っているのです。
ソロモンは、“すべての民が、いろいろな国や地域の人が集う神殿を夢(ビジョン)として思い描く祈り”をここで捧げています。
全ての民が集い、共に祈り、礼拝を献げる、そんな神殿を思い描きつつ、そのような夢(ビジョン)に基づいて、ソロモンはここで祈りを捧げているのです。
多くの国や地域の方々があつまるここ別府の地で、宣教のビジョンを与えられ、キリスト教会として立つことを許された私たち別府国際バプテスト教会では、多くの国の人々が共に集うことが実現しています。

このように私たちを結びつけるのは、人の働きによるのではありません。それはイエス・キリストの恵み、キリストの福音の力です。
イエス様がこの私のために十字架の上で死んでくださった。その恵みに、キリスト者は生かされています。その恵みへの感謝と応答として、私たちは教会に集います。
尊いイエス・キリストの恵みが、キリストの恵みのみが、私たちを一つに結び付けてくれます。
そしてイエス・キリストの恵みによって造り上げられる私たちの間の連帯、キリスト者同士の連帯、教会同士の連帯が、私たちを互いに祈る者へと変えていくのです。
 そして主なる神は、そのように、主の恵みによって結び付けられた私たちを、主の福音宣教の働きのために用いられます。

先日の教会組織記念礼拝で、私たちの教会の今までの歩み、歴史を振り返る時を私たちは持ちました。
私たちの信仰の先達たちの祈り、遠くは海外(特にアメリカのバプテスト教会)からの篤い祈りと献金が、ありました。
遠く日本まで、日本の福音宣教のために遣わされてきた宣教師たちの働きがあったことを私たちは知っています。
今のように、決して簡単には海外に行くということができなかった時代に、遠い日本での福音宣教を具体的に思い描いて祈り、宣教師を送り出し、そして尊い献金を捧げた信徒たちがいたことを私たちは改めて覚えて感謝したいと思います。
そして私たちが受けた恵みを、その恵みを、私たちはまた、主の福音を必要としている他の人々へ受け渡していきたいと願います。
私たちが生きる地域での福音宣教にも私たちは仕え、また、ここからは遠くの地で福音宣教のために仕えている働き人をも覚えて、私たちは祈りと献金を捧げたいと願います。
キリストの福音に生かされ、キリストの福音を伝える、その働きを共に担うことができることを、私たちは喜ぼうではありませんか。

2025年11月15日土曜日

2025年11月16日 主日礼拝

前奏
招詞 イザヤ書64章7節
賛美 新生讃美歌105番  くしき主の光
主の祈り
賛美 新生讃美歌554番   イエスに導かれ
献金
聖句  使徒言行録9章1~19a節
祈祷
宣教  「あなたのなすべきことが知らされる」
祈祷
賛美 新生讃美歌339番    教会の基
頌栄 新生讃美歌676番  
祝祷
後奏
歓迎・案内


 新約聖書の『使徒言行録』を礼拝メッセージの聖書箇所として、今年度の初めから私たちは聞いてきております。今日は、その第9章からの箇所です。
サウロ(後のパウロ)が、キリストに従う者たちを激しく迫害していた迫害者から、キリストを信じ、キリストを熱心に伝道する伝道者として変えられるという、彼の劇的な回心の場面が今日の箇所には書かれています。
クリスチャンはそれぞれ、回心、つまりキリストを信じていない状態から、キリストを信じる者へと変えられた経験を持っています。
ある人は、家族や保護者がクリスチャンであり、幼い頃から教会へ通っていたという場合もあります。
そのような場合は、キリストを信じるようになったという変化(経緯)が、必ずしもはっきりしたものではない、(少なくとも、そのような自覚はあまりない)ということもあります。

しかし、特に私たちバプテスト教会では、自らの明確な希望と決断によって、公に信仰を告白し、そしてバプテスマ(洗礼)を受けてクリスチャンになるという儀式を、大切にしています。
バプテスマは、ただの儀式(形だけのこと)ではなく、一人の信仰者の新たな誕生(回心)という、とても大きな意味がある出来事です。
私の場合は、バプテスマを受けたのは、今から26年前のことでした。
私はキリスト者の家庭で生まれ育ったわけではありません。
そんな私がキリスト者になり、牧師にまでなったという話を聞くと、多くの方が、「あなたがキリスト者になるきっかけ、牧師にまでなるきっかけは何だったのですか」と聞いてくださることがあります。
最初のきっかけは、やはり今の妻と出会って、クリスチャンであった彼女に教会に誘われ、聖書も読むように促されて、そして彼女によって熱心に祈られた、ということです。
ほかにも、教会の本当に多くの方々が私のために祈ってくださいました。
教会の交わりへと導かれ、聖書の御言葉に触れ、多くの方々に祈っていただくことを通して、私はキリストを信じる決心へと導かれました。

私の場合は、それは今日の箇所にあるように、ある時突然天から光が照らされ、復活のイエス様の声を直接聞くという劇的(瞬間的)な出来事ではありませんでした。
しかし、自分中心に歩んでいた自分の生き方が変えられ(方向転換させられ)、自分の中心に自分ではなく、イエス様をお迎えして生きようと、(少なくとも)決心をしたという意味で、私の場合も、それは大きな転機、回心であったと私は思います。
そしてそのように私が決断をすることができたのは、既にイエス・キリストが十字架にかかり私の罪を贖い、赦し、そして復活によって永遠の命と希望を与えてくださるという恵みの出来事が、神によってなされていたからです。
十字架と復活のイエス・キリストにより、私たちが救われるための道は既に用意されたのです。
そのことを私たちは信じて、神によって用意された救いの道、永遠の命へと続く希望の道を私たちは歩くことができる幸いを感謝したいと願います。

今日の箇所でサウロは、“この道に従う者”を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げて、エルサレムに連行しよう“としていました。そのための許可を、彼は大祭司から受けたのです。
“この道に従う(あるいは、属する)者”とはイエス・キリストを信じ、キリストという道を歩んでいる人(信仰を実践している人)のことです。
男女を問わず、つまり誰であっても、とにかくその人がキリストを信じているというならばサウロは決して容赦しようとはしませんでした。
それぐらい徹底的な迫害の姿勢をサウロは持っていたということです。
サウロにとっては、キリストに従うという者は誰であっても許せない相手でした。その一人ひとりが実際にどんな人なのか、などは関係なかったのです。
この道に従う者、すなわちキリストに従うという人は誰であっても、彼にとっては全てが敵だったのです。
人間は怒りや憤りに駆られると、サウロが”クリスチャンは全員敵だ“と見なしたように、実際の(生身の)人間一人ひとりの存在や、それぞれの人柄や性格に心を向けるということができなくなります。
行き過ぎた怒りや憤りの感情は、そのように私たちから正常な判断を奪うのです。
私たちは、人間一人ひとりの存在、出会わされるひとり一人の心に、思いを寄せることができる、そのような心を大切にしたいと私は願います。

男女を問わず、とにかくキリストの道に従う者ならば誰でも捕まえる、という迫害の息を弾ませてダマスコへの道を急いでいたサウロに、天から光が照らされました。
サウロは地に倒れました。そして彼に語りかける声が聞こえました。
「サウル、サウル(サウロの呼び名)、なぜ、わたしを迫害するのか」(4節)
その声は、主イエス・キリストの声でした。主イエス・キリストが、“サウル、サウル”と彼の名前を読んでサウロに語りかけたのです。
サウロにとっては、すべてのクリスチャンが敵でした。クリスチャンは全員迫害すべき敵であり、彼らにはそれぞれ名前があることなど、サウロには関係なかったでしょう。
そんなサウロに、復活の主イエス・キリストは「サウル、サウル」と彼の名前で呼びかけたのです。名前を呼ぶ、ということは、その人の人格を認め、尊重するということです。
私たちの主なる神は、私たちひとり一人を名前で呼んでくださるお方です。神は私たちの名前を呼んでくださり、私たちひとり一人を神の前に特別な一人だと認めてくださるお方です。
神は私たちひとり一人を名前をもって読んでくださるお方であり、神は私たちの心の内までをすべて知っていてくださるお方です。そのようなお方に知られている、大切なものとされていることを、私たちは大いに喜びましょう。
主の声は、サウロに、“起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる“Now get up and go into the city, and you will be told what you must do.”と告げました。(6節)

 「あなたのなすべきことが知らされる」という主の言葉を、私は今日のメッセージの題ともいたしました。
 それまでサウロは、自分の意志で、自分の怒りに基づいて、クリスチャンを激しく迫害していました。彼は自分ではそれを神に対して正しいことだ、とさえ思っていたでしょう。
 しかし、そんなサウロに主は、“自分の考えや信念を中心にして生きることをやめ、自分に示される外からの声、神の御声に聞き従って生きる者になれ”と今日の箇所で、主は言われたのだと私は信じます。
それは、自分が中心ではなく、神は私に何をお望みなのか、神から示される、そして周りの人々を通しても示される神のみ旨を求めて、それに聞き従って生きる者になりなさい、と言う、私たちも向けられたメッセージです。
 キリスト者は、自分の中心に自分をおくことを止めようと決心した者です。
自分中心ではなく、自分の心の中心に神に入ってきていただき、神に示されることに従って生きる者に、私達はなりたいと願います。
 その時サウロが向かっていたダマスコに、アナニアというキリストの弟子がいました。彼に幻の中で主が現れて、サウロがいる家をたずねるように、と告げました。

 アナニアにとって(アナニアだけでなく、多くのキリスト者にとって)サウロは、とんでもない人間でした。
 サウロがキリストに従う者たちを激しく迫害していることは、広く知れ渡っていたのです。アナニアも当然そのことを知っていました。
 13~14節のアナニアの言葉は、“あんな人のところへ行くのは絶対いやです”という彼の思いの表れだと私は思います。
 しかし主は、サウロのことを、「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるためにわたしが選んだ器であるThis man is my chosen instrument to proclaim my name to the Gentiles and their kings and to the people of Israel. 」と言われました。
 この”器“(英語訳ではinstrument(道具))という言葉もとても大切です。私たちは神に選ばれた器(道具)です。神の言葉、神の愛、福音を頂き、そして他者に福音を伝える”器“です。
 神は、私たちを神の福音を告げ広めるための器(道具)として用いられるのです。
私たちは神の”器“として、主導権をその器を用いられる神に明け渡して生きることを、神から期待されています。
 私たちはそのような”器“として生きる用意があるでしょうか。神が私たちをお用いになって、神の福音、その良き知らせが伝えられるための器として、神に従って生きる用意があるでしょうか。
 それとも自分自身に固執して、私たちは自分中心に生き続けるのでしょうか。
私たちは、神によって造られたものです。神によって造られた私たちは、神のご計画に基づいて、神のお定めになった大きな目的のために仕える”器“として生きる時に、最もその人らしく生きることができるのです。
 ですから私たちは、神の”器“として生きる、そのような信仰者となる思いと決意を新たにしようではありませんか。
 アナニアは、主の声に従い、主に言われた通りに、サウロのいる家にまで行きました。アナニアがサウロの上に手を置いて、彼は「兄弟サウル」と呼びかけました。
主に導かれて出会ったのでなければ、アナニアにとってサウロは“兄弟”(仲間)と呼びかけることができる相手ではありませんでした。
 しかし主によって出会わされたサウロは、アナニアにとって今や自分の”兄弟“であったのです。私たちも、特に神によって出会わされた信仰の家族(友)者同士を”兄弟姉妹“と呼び合います。
 私たちが同じ神を信じ、神によって互いに出会わされ、信仰の家族とされ、互いを”兄弟姉妹“と呼び合うことができるのは、何と幸いなことではないでしょうか。
 最初に、わたしたちそれぞれがキリスト者になるきっかけ、ということを私はお話いたしました。私の場合は、申し上げましたように最初の直接のきっかけは妻との出会いでした。

 そしてそれからも、導かれた教会で受け入れられて、そこで支えられて、愛されて、わがままで生意気だった私に教会の人たちの厚い祈りが注がれました。
 神は私のために祈ってくれる、本当に多くの人たちと私を出会わせてくださいました。
その方々の祈りと願いが私をキリストを信じて生きる決心に導き、そして牧師として仕える決心へと導いてくれたと、私は信じています。
 私たち教会が神から頂いた大きな祝福の恵み(賜物)であり、同時に重要な責務でもあることは、“祈り”です。
私たちは真の神に向かって祈ることができます。そして私たちは互いを覚えて、お互いのためにも祈り合うことができます。また、そうすることがキリスト者として責務でもあるのです。
 サウロは今日の箇所で、劇的な回心を経験しますが、自分の上に手をおいて祈ってくれたアナニアは、それからもサウロにとって特別な人、信仰の友であり続けたでしょう。
 私たちも、それぞれに信仰の友をいただき、また新たに誰かの信仰の友となりながら、他者のために祈る者となり、また互いに祈り合う関係の中にも生かされてまいりましょう。
 私たちは、信仰による出会いの中で、互いに関わり、名前を呼び合い、祈り合うという神の家族同士であることを喜びながら生きることができます
そのような幸いな信仰を、私たちは生きていきたいと願います。

2025年11月8日土曜日

 2025年11月9日 主日礼拝


前奏
招詞 詩編121篇7~8節
賛美  新生讃美歌125番
主の祈り
賛美  新生讃美歌554番
特別賛美
献金
教会組織を感謝して
聖句 ヨハネによる福音書14章6節
祈祷
宣教 「わたしを踏んで行きなさい」
祈祷
賛美  新生讃美歌534番
頌栄  新生讃美歌676番
祝祷
後奏
歓迎・案内

*本日メッセージの公開はありません。    

2025年11月1日土曜日

2025年11月2日 主日礼拝

前奏
招詞 詩編96篇3節
賛美  新生讃美歌61番  さわやかな朝となり
主の祈り
祈りの時
献金
聖句  使徒言行録8章26~40節
祈祷
宣教 「読んでいることがお分かりになりますか」
祈祷
賛美  新生讃美歌510番 主の言葉の
頌栄  新生讃美歌676番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 今日の聖書箇所で、主の天使がフィリポに現われ、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへくだる道(寂しい道)に行け」と言いました。
 フィリポは、キリストの伝道者であり、もともとはエルサレムの教会の中で発生した問題である「食事の公平な分配」という働きに仕えるために選ばれた7人のうちの一人でした。
 その時代は今から約2000年前です。それは、イエス・キリストが十字架につけられて死に、そして復活し、天へと昇って行かれた後でした。
 イエス様は今や人としてこの地上にお住まいにはならなくなりました。イエス様は弟子たちとは、肉体をもった人間としてはもう共にいなくなったのです。
しかし、神の霊である聖霊、イエス様が“あなたたちに私が送る”と約束なさった助け主である聖霊を弟子たちは受けました。

聖霊を受けた弟子たちによって、神の福音(イエス・キリストの福音)が、それから多くの人々に伝えられるようになっていきました。
 現在も、私たちキリスト教会と、教会に連なる一人ひとりのキリスト者が、イエス・キリストの福音伝道の担い手として、その働きを続けています。
 キリストを信じ、キリストの福音によって生かされて、キリストの福音を伝える働きに仕えることができるのは、私たちにとって大きな喜びです。
 私たちは十字架と復活のイエス・キリストの恵みによって生かされています。
そのことを信じ喜ぶ私たちは、その嬉しい(喜びの)知らせを他者に知らせる働きにも、喜びをもって仕えていきたいと願います。

 最初に申し上げましたように、今日の箇所でフィリポは主の天使の声を聞きます。主の天使とは神のメッセージを人に伝える存在です。
 神を信じるとは、ただ頭の中で知的に神の存在を認めて信じる、ということだけではありません。
神を信じるとは、神の声に従って、神が示す道を進むということです。
 しかし、フィリポにははっきりと主の(天使の)声が聞こえましたが、今の私たちに神の声がはっきりと耳で聞こえるということは、(全くないことはないとしても)通常はないことだと私は思います。
 しかし、神の示す道を求めて、私たちが祈り、聖書の言葉の中にその答えを求める時、神はその御声を私たちに伝えてくださいます。
また、私たちが、信仰の友、信仰の家族と共に祈り、神が示す道を一緒に求める時、行くべき道が示されることがあります。
 ですから私たちは、信仰の共同体の一員であるということが、とても大切なのです。
信仰の共同体の一員となり、共に祈り合える信仰の家族として、神が語る声を求めて、共に祈ることができることは、私たちにとって大きな喜びです。
 そのような信仰共同体である、私たちの教会を私たちは愛し、大切にしてきたいと願います。

フィリポに今日の箇所で示された道は、「エルサレムからガザへくだる道」であり、そこは「寂しい道」であったと書かれます。
 このエルサレムとガザという地名(都市名)は、皆さんご存じのように、今現在まさにその地で激しい、悲惨な対立と戦闘が行われている場所です。
そこで数多くの人たちが苦しんでいる、大切な命が失われていることが伝えられています。
 憎しみの連鎖、対立が終わり、大切な命が守られますようにと、私たちはあきらめずに、祈り続けたいと願います。
 フィリポは主に示されて、その時エルサレムからガザへと続く、その“寂しい道”へ進むようにと示されました。
 寂しい道ですから、そこは、あまり人が行きたがらないような道、人気のない寂(さび)れた道(場所)であったのでしょう。
 フィリポも本心としては、そのような寂しい道へはできれば行きたくなかったかもしれません。しかし彼は主(神)の声に聞き従いました。
 私たちも、自分の進むべき道が、神によって示されたその道が、自分にとってはあまり好ましくない、嬉しくない場所であるという時があるかもしれません。
しかし、もし神の示しが与えられたのであれば、その方向(道)へと進んで行くことができる信仰者でありたいと私たちは願います。
なぜなら、その先には、私たちが考える以上の、あるいは想像さえできなかった、すばらしい出会いや神がご用意してくださった出来事が待っているかもしれないからです。

今日の箇所で起きていることは、まさにそのような一つの出会いでした。
エチオピアの女王カンダケの高官(王様に仕える高い地位の人)で、女王の全財産を管理していたというエチオピア人の宦官が登場します。
「宦官」は、通常は去勢された男性で、当時の王室に仕える高官のことでした。
この人は女王の全財産を管理していたといいますから、王国の財務大臣と言ってよいでしょう。それは相当高い地位であると言えます。
そのような高い地位の人も、また彼はエチオピア人であって、ユダヤ人から見れば外国人であり異邦人であった彼も、エルサレムに真の神を礼拝に来ていたのです。
どれほど高い地位にあっても、どれほど社会的な地位や名声があっても、真の神を求める心が、この人には与えられていたのです。
その宦官がエルサレムでの礼拝を終えて、馬車に乗って国へ帰るところでした。そして彼は馬車の中で、イザヤ書(旧約聖書の中の一つの書)を朗読していました。
29節によれば、そこで“霊”がフィリポに言いました。「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」。そしてフィリポが走り寄ると、その宦官がイザヤ書を朗読しているのが聞こえました。

フィリポはそこで、その宦官に尋ねます。“読んでいることがお分かりになりますか?” 
フィリポが言ったことは、聞きようによっては、ずいぶん失礼な言い方です。
それは「随分熱心に聖書を読んでいるようですが、あなたはその内容が分かるのですか?」という質問だからです。
しかしフィリポは、その宦官がイザヤ書を朗読している様子から、彼が神の言葉を熱心に求め、神のメッセージをそこから聞きたいと本当に願っている、その思いを感じることができたのです。
そこでフィリポは、まさに“今が時だ”と直感して、「読んでいることがお分かりになりますか」と問いかけることで、神の言葉を伝える(神の言葉を分かち合う)機会を、そこでしっかりと捉えたのです。
宦官はこう答えました。「手引きしてくれる人がいなければ、どうしてわかりましょう
宦官のこの答えは非常に正直な答えです。彼は、“自分だけでは、ここ(聖書)に書かれていることの意味は分かりません”と告白しているからです。

 分からないことを分からないと認めることは、私たちにとってなかなか難しいと思います。私たちにはプライド(見栄)があるからです。
 プライドが邪魔をして、“わたしはできない”、“わたしは知らない”と言えない、(言いたくない)ことが私たちにはないでしょうか。
 しかし、実際私たちは多くのこと(ほとんどのこと)を知りません。ほとんどの大事な事を自分は知らない、と認めて、謙虚に他者から教えてもらうということはとても大切です。
 そのよう意味で、今日の箇所で、フィリポと宦官は、非常に率直な、お互いに心を開き合った会話(対話)をしています。このような対話が、私たちにもとても大切です。
 聖書の言葉は自分一人でも読むことができます。
しかしそれと同時に、他の信仰者とも共に聖書を読み、その内容を互いに教え合い、他者の理解や受け止め方をも聞くときに、自分だけで読んでいては決して分からない(気づかない)、聖書の御言葉の深い意味を私たちは知ることができます。
聖書の言葉を共に聞き、教え合う、それを喜ぶ、成熟した信仰者として私たちひとり一人が、教会で成長していこうではありませんか。
 フィリポは、その宦官が読んでいたイザヤ書53章の言葉から説明して、イエス・キリストについての福音を告げ知らせました。
 イザヤ書53章のその箇所には、次のように書かれていました(今日の32~33節です)

「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。
33卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」

 旧約聖書「イザヤ書」のこの箇所は、キリストがどのようにして人の罪を背負い、十字架にかけられるのか、キリストが何の抵抗もせずに、ただ黙ってその使命をお受けになるのか、ということが預言されている箇所です。
フィリポは、イザヤ書のこの預言の言葉が、イエス・キリストによって実現した、キリストは確かに世に来られて、そして人の罪を背負い十字架で死んだ、ということを、宦官に説明したのです。
聖書の言葉は旧約,新約を通して、イエス・キリストを指し示しています。
教会で宣教者(牧師)を通して語られるメッセージも、その土台は聖書であり、その主題はイエス・キリストです。
説教者そして伝道者としての私の切なる願いは、毎週の礼拝とそこで語られる聖書のメッセージを通して、皆さんがイエス・キリストに新しく出会われる、ということです。
 礼拝を終えて教会を後にするときに、皆さんお一人お一人が、“今日の聖書の言葉を通してイエス様にお会いした”と思っていただきたいと私は願っています。

 フィリポと宦官が、イエス・キリストの福音を分かち合いながら進んでいくと、彼らは水のある所にきました(36節)。
 そこは“寂しい道”であって、“寂しい道”とは、“荒野”のような場所を意味すると言われます。荒野ですから、そこには水が非常に乏しかったと考えられます。
 普通なら水を見つけることが難しい場所で、イエス・キリストの福音を分かちあっていたフィリポと宦官は、水がある場所に来た、というのです。
 そこで宦官は言いました。
宦官は、“今がその時だ”、“聖書に書かれていることが今私は分かった。それはキリストの恵みなのだ”と信じたのです。
しかもそこには水がありました。“今こそ私がキリストを信じ、その証として洗礼(バプテスマ)を受ける時なのだ”、という確信が宦官には与えられました。
 この二人の不思議な出会いと、彼らが進んでいたその道に、通常なら水を見つけることが難しい場所に水のある所を見つけた、という事実は、それらがいずれも神の(聖霊の)導きであったことを示しています。

 フィリポとエチオピアの宦官とを、今日の場面で導いたのは、神の霊である聖霊でした。人同士が出会うとは不思議な出来事です。そこにはやはり神の采配があると、私たちは信じることができます。
 私たちは、こうして教会で毎週礼拝をしています。こうしていつも共に神の御言葉を聞いています。
 当たり前のように思えるこの出来事(私たちが共にする礼拝)も、やはりそれは神の霊の導きによって実現している、恵みの出来事(奇跡の出来事)と言ってよいと私は信じます。
 私たちは、神の御言葉の恵みの計り知れなさを認め、感謝をし、御言葉を聞き、御言葉を共に分かち合うたびごとに、礼拝の度ごとにイエス様と新たに出会わせていただきましょう。
 そしてキリストを信じ、新たに生きるという決心を、わたしたちはしていこうではありませんか。