2025年11月1日土曜日

2025年11月2日 主日礼拝

前奏
招詞 詩編96篇3節
賛美  新生讃美歌61番  さわやかな朝となり
主の祈り
祈りの時
献金
聖句  使徒言行録8章26~40節
祈祷
宣教 「読んでいることがお分かりになりますか」
祈祷
賛美  新生讃美歌510番 主の言葉の
頌栄  新生讃美歌676番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 今日の聖書箇所で、主の天使がフィリポに現われ、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへくだる道(寂しい道)に行け」と言いました。
 フィリポは、キリストの伝道者であり、もともとはエルサレムの教会の中で発生した問題である「食事の公平な分配」という働きに仕えるために選ばれた7人のうちの一人でした。
 その時代は今から約2000年前です。それは、イエス・キリストが十字架につけられて死に、そして復活し、天へと昇って行かれた後でした。
 イエス様は今や人としてこの地上にお住まいにはならなくなりました。イエス様は弟子たちとは、肉体をもった人間としてはもう共にいなくなったのです。
しかし、神の霊である聖霊、イエス様が“あなたたちに私が送る”と約束なさった助け主である聖霊を弟子たちは受けました。

聖霊を受けた弟子たちによって、神の福音(イエス・キリストの福音)が、それから多くの人々に伝えられるようになっていきました。
 現在も、私たちキリスト教会と、教会に連なる一人ひとりのキリスト者が、イエス・キリストの福音伝道の担い手として、その働きを続けています。
 キリストを信じ、キリストの福音によって生かされて、キリストの福音を伝える働きに仕えることができるのは、私たちにとって大きな喜びです。
 私たちは十字架と復活のイエス・キリストの恵みによって生かされています。
そのことを信じ喜ぶ私たちは、その嬉しい(喜びの)知らせを他者に知らせる働きにも、喜びをもって仕えていきたいと願います。

 最初に申し上げましたように、今日の箇所でフィリポは主の天使の声を聞きます。主の天使とは神のメッセージを人に伝える存在です。
 神を信じるとは、ただ頭の中で知的に神の存在を認めて信じる、ということだけではありません。
神を信じるとは、神の声に従って、神が示す道を進むということです。
 しかし、フィリポにははっきりと主の(天使の)声が聞こえましたが、今の私たちに神の声がはっきりと耳で聞こえるということは、(全くないことはないとしても)通常はないことだと私は思います。
 しかし、神の示す道を求めて、私たちが祈り、聖書の言葉の中にその答えを求める時、神はその御声を私たちに伝えてくださいます。
また、私たちが、信仰の友、信仰の家族と共に祈り、神が示す道を一緒に求める時、行くべき道が示されることがあります。
 ですから私たちは、信仰の共同体の一員であるということが、とても大切なのです。
信仰の共同体の一員となり、共に祈り合える信仰の家族として、神が語る声を求めて、共に祈ることができることは、私たちにとって大きな喜びです。
 そのような信仰共同体である、私たちの教会を私たちは愛し、大切にしてきたいと願います。

フィリポに今日の箇所で示された道は、「エルサレムからガザへくだる道」であり、そこは「寂しい道」であったと書かれます。
 このエルサレムとガザという地名(都市名)は、皆さんご存じのように、今現在まさにその地で激しい、悲惨な対立と戦闘が行われている場所です。
そこで数多くの人たちが苦しんでいる、大切な命が失われていることが伝えられています。
 憎しみの連鎖、対立が終わり、大切な命が守られますようにと、私たちはあきらめずに、祈り続けたいと願います。
 フィリポは主に示されて、その時エルサレムからガザへと続く、その“寂しい道”へ進むようにと示されました。
 寂しい道ですから、そこは、あまり人が行きたがらないような道、人気のない寂(さび)れた道(場所)であったのでしょう。
 フィリポも本心としては、そのような寂しい道へはできれば行きたくなかったかもしれません。しかし彼は主(神)の声に聞き従いました。
 私たちも、自分の進むべき道が、神によって示されたその道が、自分にとってはあまり好ましくない、嬉しくない場所であるという時があるかもしれません。
しかし、もし神の示しが与えられたのであれば、その方向(道)へと進んで行くことができる信仰者でありたいと私たちは願います。
なぜなら、その先には、私たちが考える以上の、あるいは想像さえできなかった、すばらしい出会いや神がご用意してくださった出来事が待っているかもしれないからです。

今日の箇所で起きていることは、まさにそのような一つの出会いでした。
エチオピアの女王カンダケの高官(王様に仕える高い地位の人)で、女王の全財産を管理していたというエチオピア人の宦官が登場します。
「宦官」は、通常は去勢された男性で、当時の王室に仕える高官のことでした。
この人は女王の全財産を管理していたといいますから、王国の財務大臣と言ってよいでしょう。それは相当高い地位であると言えます。
そのような高い地位の人も、また彼はエチオピア人であって、ユダヤ人から見れば外国人であり異邦人であった彼も、エルサレムに真の神を礼拝に来ていたのです。
どれほど高い地位にあっても、どれほど社会的な地位や名声があっても、真の神を求める心が、この人には与えられていたのです。
その宦官がエルサレムでの礼拝を終えて、馬車に乗って国へ帰るところでした。そして彼は馬車の中で、イザヤ書(旧約聖書の中の一つの書)を朗読していました。
29節によれば、そこで“霊”がフィリポに言いました。「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」。そしてフィリポが走り寄ると、その宦官がイザヤ書を朗読しているのが聞こえました。

フィリポはそこで、その宦官に尋ねます。“読んでいることがお分かりになりますか?” 
フィリポが言ったことは、聞きようによっては、ずいぶん失礼な言い方です。
それは「随分熱心に聖書を読んでいるようですが、あなたはその内容が分かるのですか?」という質問だからです。
しかしフィリポは、その宦官がイザヤ書を朗読している様子から、彼が神の言葉を熱心に求め、神のメッセージをそこから聞きたいと本当に願っている、その思いを感じることができたのです。
そこでフィリポは、まさに“今が時だ”と直感して、「読んでいることがお分かりになりますか」と問いかけることで、神の言葉を伝える(神の言葉を分かち合う)機会を、そこでしっかりと捉えたのです。
宦官はこう答えました。「手引きしてくれる人がいなければ、どうしてわかりましょう
宦官のこの答えは非常に正直な答えです。彼は、“自分だけでは、ここ(聖書)に書かれていることの意味は分かりません”と告白しているからです。

 分からないことを分からないと認めることは、私たちにとってなかなか難しいと思います。私たちにはプライド(見栄)があるからです。
 プライドが邪魔をして、“わたしはできない”、“わたしは知らない”と言えない、(言いたくない)ことが私たちにはないでしょうか。
 しかし、実際私たちは多くのこと(ほとんどのこと)を知りません。ほとんどの大事な事を自分は知らない、と認めて、謙虚に他者から教えてもらうということはとても大切です。
 そのよう意味で、今日の箇所で、フィリポと宦官は、非常に率直な、お互いに心を開き合った会話(対話)をしています。このような対話が、私たちにもとても大切です。
 聖書の言葉は自分一人でも読むことができます。
しかしそれと同時に、他の信仰者とも共に聖書を読み、その内容を互いに教え合い、他者の理解や受け止め方をも聞くときに、自分だけで読んでいては決して分からない(気づかない)、聖書の御言葉の深い意味を私たちは知ることができます。
聖書の言葉を共に聞き、教え合う、それを喜ぶ、成熟した信仰者として私たちひとり一人が、教会で成長していこうではありませんか。
 フィリポは、その宦官が読んでいたイザヤ書53章の言葉から説明して、イエス・キリストについての福音を告げ知らせました。
 イザヤ書53章のその箇所には、次のように書かれていました(今日の32~33節です)

「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。
33卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」

 旧約聖書「イザヤ書」のこの箇所は、キリストがどのようにして人の罪を背負い、十字架にかけられるのか、キリストが何の抵抗もせずに、ただ黙ってその使命をお受けになるのか、ということが預言されている箇所です。
フィリポは、イザヤ書のこの預言の言葉が、イエス・キリストによって実現した、キリストは確かに世に来られて、そして人の罪を背負い十字架で死んだ、ということを、宦官に説明したのです。
聖書の言葉は旧約,新約を通して、イエス・キリストを指し示しています。
教会で宣教者(牧師)を通して語られるメッセージも、その土台は聖書であり、その主題はイエス・キリストです。
説教者そして伝道者としての私の切なる願いは、毎週の礼拝とそこで語られる聖書のメッセージを通して、皆さんがイエス・キリストに新しく出会われる、ということです。
 礼拝を終えて教会を後にするときに、皆さんお一人お一人が、“今日の聖書の言葉を通してイエス様にお会いした”と思っていただきたいと私は願っています。

 フィリポと宦官が、イエス・キリストの福音を分かち合いながら進んでいくと、彼らは水のある所にきました(36節)。
 そこは“寂しい道”であって、“寂しい道”とは、“荒野”のような場所を意味すると言われます。荒野ですから、そこには水が非常に乏しかったと考えられます。
 普通なら水を見つけることが難しい場所で、イエス・キリストの福音を分かちあっていたフィリポと宦官は、水がある場所に来た、というのです。
 そこで宦官は言いました。
宦官は、“今がその時だ”、“聖書に書かれていることが今私は分かった。それはキリストの恵みなのだ”と信じたのです。
しかもそこには水がありました。“今こそ私がキリストを信じ、その証として洗礼(バプテスマ)を受ける時なのだ”、という確信が宦官には与えられました。
 この二人の不思議な出会いと、彼らが進んでいたその道に、通常なら水を見つけることが難しい場所に水のある所を見つけた、という事実は、それらがいずれも神の(聖霊の)導きであったことを示しています。

 フィリポとエチオピアの宦官とを、今日の場面で導いたのは、神の霊である聖霊でした。人同士が出会うとは不思議な出来事です。そこにはやはり神の采配があると、私たちは信じることができます。
 私たちは、こうして教会で毎週礼拝をしています。こうしていつも共に神の御言葉を聞いています。
 当たり前のように思えるこの出来事(私たちが共にする礼拝)も、やはりそれは神の霊の導きによって実現している、恵みの出来事(奇跡の出来事)と言ってよいと私は信じます。
 私たちは、神の御言葉の恵みの計り知れなさを認め、感謝をし、御言葉を聞き、御言葉を共に分かち合うたびごとに、礼拝の度ごとにイエス様と新たに出会わせていただきましょう。
 そしてキリストを信じ、新たに生きるという決心を、わたしたちはしていこうではありませんか。