2025年12月13日土曜日

2025年12月14日 主日(アドベント第三)礼拝

前奏
招詞  詩編47篇1節
アドベントキャンドルの点火(喜び)
賛美  新生讃美歌 153番 エッサイの根より生い出でたる
主の祈り
賛美  新生讃美歌263番 満たしめたまえ み霊よ
献金
聖句  ヨハネによる福音書15章11~16節
祈祷
宣教  「キリストの喜び」
祈祷
賛美  新生讃美歌379番 行きて告げよあまねく
頌栄  新生讃美歌679番
祝祷
後奏
歓迎・案内


2025年のアドベント(待降節)の期間を今、私たちは過ごしています。2025年も間もなく終わろうとしています。あと半月で、新しい年を私たちは迎えます。
年は変わりますが、キリストにある希望に生かされている私たちは、新しい年にも、主なる神の祝福と希望は変わらず私たちと共にあり続けることを知っております。
それは、変わらぬ祝福と希望を、神はイエス様を通して約束してくださっており、そして私たちの主なる神はご自身のお言葉に忠実なお方、約束を必ず守り果たしてくださるお方であることを、私たちは確信しているからです。

新約聖書のテトスへの手紙二(2 Titus)の2章10~13節に次のように書かれています。

11実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
12その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、
13また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。

“すべての人々に救いをもたらす神の恵み”とは、イエス・キリストの恵みです。
そしてキリストの恵みは、わたしたちに“思慮深く”、”正しく(罪と悪を遠ざけ)“、”信心深く(神と共に)“生活するように教えます。
そして神は私たちに、祝福に満ちた希望、すなわちわたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むようにと、教えておられます。
神から私たちへ向けられた祝福と希望である、イエス・キリストのお誕生を、私たちは今年のクリスマスでも、大いに喜び、お祝いし、感謝を神に捧げたいと願います。
そしていずれまたこの地上に来られる主イエス・キリストの再臨を待ち望む、その希望をも新たにする、クリスマスを迎えたいと私たちは願います。
今日はアドベント第三の日曜日の礼拝です。三本目のアドベントキャンドルの火の意味は、“喜び”です。

今日の聖書箇所の言葉は、ヨハネ福音書15章の中の、イエス様ご自身のお言葉です。今日の11節で、“これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである”とイエス様は言われました。
イエス様は、私たちが喜びで満たされることを願い、またそのために必要なものを、全て与えてくださいました。
この世には色々な喜びの出来事があります。別に教会に来ていなくても、聖書を読んでいなくても、神様を信じていなくても、それでも充実した楽しい人生を送っているように見える人は多くいる、かもしれません。
しかし、消えることのない確かな希望により、私たちの喜びが完全に満たされるには、私たちには神の恵み、真の神の恵みの言葉がどうしても必要であると、イエス様は言われるのです。
神の言葉によってしか、また神に繋がることでしか、私たちの喜びが満たされ、満ち溢れ、そして決して変わらぬ満足が私たちに与えられることはありません。

この15章の初めでイエス様は、ご自身を“ぶどうの木”に例えられ、お話をされました。
わたしたちがぶどうの木であるイエス様にしっかりと繋がり続けることで、豊かな実を結ぶことが出来るようになる、とイエス様はおっしゃっています。
わたしたちが“ぶどうの木につながる”とは、キリストの体である教会に繋がる、その木の枝同士である互い(信仰の家族、仲間)に繋がる、そして聖書の御言葉と祈りによって霊的に神様と繋がり続けるということです。
そのようにキリストの体であるぶどうの木(教会)に繋がる人は皆、イエス様の御言葉によって養われ、互いに支え合い豊かな実を結び、喜びが満たされるのです。
私たちの喜びの源はイエス・キリストの恵みです。そしてイエス様は、実に色々なことを言葉によって話してくださいました。

先週の礼拝メッセージで私は、イエス様は生きておられる間に語るべきことを全て弟子たちに、また私たちに向けて全て語ってくださった(語りきってくださった)と私は申し上げました。
イエス様が、私たちが生きるために必要な、また私たちが喜びで満たされるために必要な言葉を全て語りきってくださったので、私たちは喜びと希望とで満たされるのです。
私たちの喜び、本当の喜び、喜びの源泉は、イエス様の御言葉にあります。御言葉を通してこそ、“神が私たちと共にいてくださること”を私たちは確信し、また神が共にいてくださることが私たちの無上の喜びとなります。

そしてイエス様の御言葉によって喜びで満たされた私たちもまた、お互いへの配慮と愛を、言葉をもって表します。もちろん、行いを伴わない言葉だけでは意味がありません。
しかしやはり私たちは与えられた言葉によって、他者への愛と配慮、感謝などを伝え愛、愛のある信仰の言葉によって、互いに励まし合うことができるのではないでしょうか。
思っていることを言葉にするのは難しいものです。言いたいこと、思っていること、感じていることを、言葉でどう表現してよいのか分からない、という時も私たちには多くあります。
あるいは、“どうせ言っても分かってもらえない”、と思って、私たちは自分の思いを人に伝えることをあきらめてしまうこともあります。
しかし、イエス様は、言葉によって弟子たちを教え、言葉を伝える続けることをあきらめになりませんでした。弟子たちがどんなに無理解でも、神の言葉(福音)をイエス様は語り続けてくださいました。
そのようにイエス様が語り続け、弟子たちに言葉を残してくださったのは、わたしの喜び、すなわちキリストの喜びが私に満ちるためであったのです。

イエス様の御言葉、イエス様があきらめずに語り続けてくださった御言葉によって、私たちは今も喜びで満たされるのです。その幸いを私たちは感謝いたしましょう。
また今日の箇所では、イエス様が弟子たちに、また私たちに向けて、本当に驚くべきことをおっしゃっています。

14~15節

14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

神は本当に高いところにおられるお方であり、本来私たちでは近づくこともできないお方です。神はあまりに偉大で、私たちがその偉大さを完全に理解することはできないお方です。
 そのようなお方が私たちのことを“友達だ”とおっしゃってくださっているのです。そんなことがあり得るのでしょうか?
 だれか有名な人、すばらしい人と友達であれば、それは私たちにとって自慢のたねとなります。
 すごく地位の高い人、例えば総理大臣や大統領、王様と知り合いや家族、あるいは友達だ、と言えば大抵の人は、それをとても栄誉なことであり、自慢したいと思うでしょう。
 神であるお方、神の子が私たちのことを“友達だ”と言ってくださっているのです。神と友達である、そんなあり得ない最高の栄誉と栄光を、私たちはイエス・キリストを通していただいているのです。
 私たちが神の友達となるような資質や素晴らしい美徳を持っていたから神が私たちを友だと言ってくださったのではありません。
 神はただ大きな、溢れる愛をもって、罪に満ちた私たちを選び、私たちを御言葉によって、喜びで満たされるようにと、神の友となるようにと、導き出してくださったのです。

 しかし、私たちが本当に神の友となるためには守られなくてはならないことがあります。それは14節に書かれています。それは「私(神、イエス様)の命じることを行うならば」です。
そして今日の箇所でイエス様が弟子たち(また私たち)に向けて命じられていることは、次のただ一つです。
17節
互いに愛し合いなさい、これがわたしの命令である。

 私は、イエス様のこの命令、キリスト者に与えられた命令は、私たちにとって大きな祝福であると同時に、最も厳しい戒め(命令)」であると思います。
なぜなら、私たちは他者を愛せないからです。「いや、わたしは人を愛している」という方がおられるでしょうか。
すばらしい人、善き、愛すべき人であれば、当然私たちはそのような人を愛します。しかし、イエス様は“あなたがたが好きな人だけ、気の合う人だけを愛しなさい”とは言っておられないのです。
 イエス様がおっしゃったのは、無条件で”互いに愛し合いなさい“。あなたにとって決して愛せないと思える人でも、とても尊敬できないような人であっても、”互いに愛しなさい“、これがイエス様の命令です。

そしてその命令が守られるのならば、“わたし(イエス様)はあなたがたを友と呼ぶ”という、その最高の栄誉が私たちのものとなるのです。
 ここまで聞いて、「そんなこと、わたしには無理です。わたしにはできません」と思われる方がおられるのではないでしょうか。正直申し上げて、私自身がそう言いたいのです。

 しかし、13節のイエス様のお言葉を聞いてみましょう。

13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」、このお言葉をイエス様ご自身が成し遂げてくださいました。
 イエス・キリストがクリスマスに生まれ来られたのには、大きな目的と使命とがありました。それはイエス様がご自身の命を、私たちのために捨ててくださる、ということでした。
 イエス様が、“あなたたちをわたしは友と呼ぶ。あなたたちは私の友達なんだ”と言って、そのことを証明し、また私たちの罪を赦すために、イエス様は十字架にかかって死んでくださいました。
 クリスマスは、そのような私たちの救い主、唯一真、最高の神でありながら、私たちを“友”と呼んでくださり、その友のために、ご自身のお命を捨ててくださった神のお誕生を覚える時です。
 私たちの救い主、そして私たちを”友“と呼んでくださるイエス・キリストの神が、私たちのために世に生まれてこられました。
これ以上ない、この栄光をいただいて、私たちは今年のクリスマスを、大きな、最高の喜びをもって感謝をして迎えてまいりましょう。