2025年12月21日 主日(アドベント第四 クリスマス)礼拝
前奏
招詞 エレミヤ書23章5節
アドベントキャンドルの点火(愛)
賛美 新生讃美歌 162番 天なる使いよ 地をめぐり行き
主の祈り
賛美 新生讃美歌263番 満たしめたまえ み霊よ
信仰告白
献金
聖句 ヨハネの手紙一 3章11~18節
祈祷
宣教 「あなたがたの初めから聞いている教え」
祈祷
賛美 新生讃美歌157 来たれ 友よ 喜びもて
バプテスマ式
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
後奏
12月25日のクリスマス(降誕節)前の約4週間の期間であるアドベント(待降節)の期間を今私たちは過ごしております。
アドベントの間にある4回の日曜日ごとに、わたしたちは礼拝の初めに一本ずつ蝋燭(ろうそく)に火を灯してきました。
キリスト教会の伝統で、それらの4本のろうそくの火にはそれぞれ、希望、平和、喜び、愛、という意味が込められています。
それらは、イエス・キリストがこの世界にもたらしてくださった美徳、また賜物であり、それらによって私たちは、この世で生きることが許されています。
今日は、アドベント第4日曜日です。今日の礼拝の初めに灯された蝋燭の火は“愛”を表します。
イエス・キリストは人として今から約2025年前にお生まれになりました。イエス様は、希望、平和、喜び、そして愛をこの世界にもたらすために世に来られました。
またイエス様は、私たち全ての人を救うという使命をもって、この世界にお生まれになりました。
私たちは何から救われなくてはならなかったのでしょうか。私たちは、わたしたち自身が犯した罪から救われなくてはなりませんでした。
今日の聖書の箇所には、“兄弟を憎む”とか、“人殺し”などの、恐ろしい言葉が書かれています。
“クリスマスというお祝いの時に、なぜそのような御言葉を私たちは聞かねばならないのか”と思われた方もおられるかもしれません。
しかし、イエス様の愛と救いを私たちが本当に理解するためには、私たちが犯した罪について、聖書を通して私たちがしっかりと向き合うことが、どうしても必要なのです。
クリスマスが、なぜそれほど感謝と喜びの時であるのか、を理解するためには、私たちが一体何から救われたのかを、私たちが理解することが欠かせないのです。
今日の箇所の中の15節に次のように書かれています。
15兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。
“兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しには永遠の命がとどまっていません”。この言葉は、この手紙を書いたヨハネが、自分の先生であるイエス様から直接聞いた教えがもとになっています。
イエス様は次のようにおっしゃいました。マタイによる福音書5章21~22節です。
21「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
だいたい私たちは、自分のことを完璧に正しい、善い人だとは思っていなくても、自分はそこそこましな方である、と思っていないでしょうか。
自分よりもひどい人、悪い人は他に一杯いる。そんな人たちに比べれば、自分は努力して、正しくあろうと努めながら、生きていると、私などはどこか心の中でそう思っております。
しかし、イエス様のお言葉は容赦ありません。兄弟に腹を立てるものは裁きを受けるのです。兄弟に“ばか”と言って相手を見下す人は火の地獄に投げ込まれるのです。
それが神の正しさの基準です。その基準に、自分自身の努力や正しさで達することが出来る人はだれもいません。私たちは全員が罪の裁きに向き合わねばならない者なのです。
今日の箇所の中では、旧約聖書の『創世記』の初めに書かれている、兄カインによる弟アベル殺人の例が書かれています。
自分の行いが悪かった兄カインが、行いの正しかった弟アベルを殺した。
“そんな悪いこととは私は無関係だ”と私たちは思います。しかし、私たちの心の奥深くに潜む、罪の性質において、わたしたちは誰もがカインなのです。
悪い者は、正しい者に反発し、悪い者は力づくで正しい者を亡き者にしようとする、ということです。
私自身、いかに人を心から愛せない者であるか、人を赦せない者であるか、という自分自身に正直に向き合うとき、イエス様のお言葉は本当に真実であると、認めるしかないと思わされます。
しかし、そのような私たちに、大きな、考えられないほどの希望の光が注がれました。希望、平和、喜び、そして愛、それらすべての美徳と賜物を、ご自身で完全に体現するお方が現れたのです。
そうです、御子イエス・キリストが、わたしたちのために、私たちを罪と悪とから救い出すために世に来てくださった、すなわち主イエス・キリストがお生まれになったのです。
それがクリスマスの出来事です。クリスマスは、その出来事の偉大さ、いかに私たちにとって重大な出来事であるかを、私たちの言葉によっては完全に説明しきれないほどの、恵みの出来事です。
今日の16節をお読みします。
16イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。
主イエスの直弟子の一人であったヨハネは、イエス様が十字架の上で死んだことを、“主はわたしたちのために命を捨ててくださった。それによって私たちは、愛とは何か、愛するとは何かということを教えられた、と言うのです。
そしてヨハネは、またヨハネ以外の他のキリストの弟子たちも、“主イエス・キリストがわたしたちのために命を捨ててくださった、それによってわたしたちは愛ということを知った”、このことをずっと伝えていかなくてはならない、と示されたのです。
キリスト者、そしてキリスト教会は、その思いを今も引き継いで、“イエス・キリストは私たちのために命を捨ててくださった、それによって私たちは何が愛であるかを知った”という喜びの知らせを、世に伝え続けています。
しかし、その16節には、まだ続きがあります。3章16節の言葉を改めて全部お読みします。
16イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
”(わたしたちの命を)わたしたちの兄弟姉妹たちのために、私たちも捨てるべき、とは恐ろしい言葉です。
これは自分の命を粗末にしてよい、ということでは勿論ありません。むしろ、自分の命が尊く大切であるからこそ、私たちの命は、他者をも生かすほどの価値がある、ということです。
そして大切なことは、主イエス・キリストによって真の愛を知らされた者は、その生き方がそのような者として変えられるはずだ、ということです。
神の子、主イエス・キリストがこの私(わたしたち)のために死んでくださった。それによって私たちは真の愛を知らされた。
そうであるならばば、キリストによって真の愛を知らされた者、キリスト者はその生き方がキリストの愛によって必ず変わるはずだ、ということです。
もし、私たちの生き方が、キリストを信じる前と全く変わっていない、というならば、私たちは、本当にキリストの恵みのうちに生きているのだろうか、と自分自身に真剣に問う必要があります。
“わたしたちも兄弟のために命を捨てるべき”という教えは、自分中心の生き方を悔い改めて自分の命が他者を生かすためにもあるのだ、このわたしの存在は他者の利益のためにあるのだ、と言う思いと生き方へと私たちが変えられることです。
それは、今日の箇所の最後の17~18節にあるように、苦しむ身近な人々に心を合わせ、他者の苦しみに共感をし、他者の痛みを自分のこととして捉えて、何か具体的な一つの(たとえ小さくても)行動へと踏み出すことです。
主は私たちのために命を捨ててくださった。それによって私たちは愛を知った。私は愛されている、大切な存在であることを知った、だから私も他者を愛する、主の愛は私たちをそのように変えていくのです。
今日の箇所の初めの11節に次のように書かれています。
11なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
使徒ヨハネが、そしてキリスト教会がずっと受け継いできたこの教え、他者を尊重し、他者の利益、他者のために生き、そのような私たちが”互いに愛し合う“という信仰の生き方が、キリスト信者たちが初めから聞いてきた教えです。
この大切な教えは、今も、これからも変わらない教えとして、私たちの信仰の指針として私たちを導く教えであり、私たちの力であり続けます。
クリスマスを迎える今、私たちは、キリストの愛に基づいて、”互いに愛し合いなさい“。この尊い教え(御言葉)を私たちは心に納め、また自らの生き方として実践していきたいと願います。