2025年12月6日土曜日

2025年12月7日 主日(アドベント第二)礼拝

前奏
招詞 詩編29篇11節
アドベントキャンドルの点火
賛美 新生讃美歌149番 来たれやインマヌエル
主の祈り
賛美 新生讃美歌263番(月の讃美歌)  満たしめたまえ み霊よ
祈りの時
献金
聖句  ヨハネによる福音書14章25~31節
祈祷
宣教  「キリストの平和」
祈祷
賛美 新生讃美歌515番 静けき河の岸辺を
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷


イエス・キリストがお生まれになったクリスマスを待ちわびる、待降節(アドベント)第二の主日(日曜日)礼拝を、今日私たちは捧げております。
 今日の私が選びました聖書箇所は、ヨハネによる福音書14章の中で、イエス様が十字架にかけられて死ぬ前に、ご自分の弟子たちに向けて、最後の教え(お言葉)を語っておられる箇所です。
 イエス様の誕生を待ちわびるアドベントの時期に、この箇所を私が選んだ理由は、ここでのイエス様のお言葉の中には、イエス様が私たちに与えてくださる真の希望、そして平和が、はっきりと語られているからです。
 ヨハネ福音書14章から17章までには、イエス様が弟子たちに向けて語った、イエス様が捕らえられ十字架にかけられる前の、最後の言葉が納められています。
 今日の箇所の最初の節25節で「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した」と、イエス様は弟子たちに向けて言っています。

 そして30節には「もはや、あなたがたと多くを語るまい。I will not say much more to you,」と言われたイエス様の言葉も書かれています。
 「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した」、そして「もはや、あなたがたと多くを語るまい」という言葉から、私は“イエス様は、本当に悔いのない生き方を地上で全うされたのだな”と思わされました。
 イエス様は地上で人として、限りのある命を生きられました。生きている間に、語ることができる言葉にも、限りがありました。
 「もはや、あなたがたと多くを語るまい」と言った後には、イエス様は「世の支配者が来るからである」と言っています。
イエス様は、“もうすぐ権力者たちに私は捕まるので、もうこれ以上あなたがたに私は語る(教える)ことができない”という意味も込めて、そのように言ったのでしょう。
 しかし、イエス様は同時に、「わたしは語るべきことは全て、あなたたちに語った(弟子たちに伝えた)」、「父なる神から託された使命をわたしは果たした」という思いもあったのだろうと、私は思うのです。

 イエス様は、これから十字架におかかりになります。十字架の上で、私たち全ての者の罪を背負って死ぬという、最大の使命がイエス様を待っていました。
 しかし、捕らえられて十字架の上で死ぬ前に、イエス様は、語るべきことは全て弟子たちに語られたのです。
イエス様は弟子たちに、神の言葉を余すところなく語り、彼らが、ご自分が地上からいなくなった後も、御言葉から力を頂いて信仰を生き続けることができるように、イエス様は必要なことを全て語ってくださったのです。
 イエス様のお言葉は、今は聖書として、福音書として、私たちに残され、私たちは聖書を通してイエス様のお言葉を今でも聞くことができます。
神の言葉が私たちに残されているのですから、それは何と私たちにとって心強いことではないでしょうか。それは、私たちにとって大きな希望と幸いではないでしょうか。
しかし、聖書の言葉は、簡単に理解できるものではありません。聖書の言葉、イエス様の言われたことの中にも、難しい箇所や、または今の私たちが受け入れることが困難な言葉もあります。

しかしイエス様は、私たちが聖書の言葉を聞くとき、また読むときに、その御言葉について教えてくれる助け手を、天の父なる神は送ってくださると、今日の箇所のお言葉の中で約束しておられます。

26節にこう書かれています。
しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

まさにその通りに、今も、目には見えない神の霊、聖霊が私たちの心に働きかけ、聖書の御言葉の意味を教えてくれるのです。
聖霊の導きと助けによってでなければ、私たちは決して聖書の御言葉、イエス様の語った言葉を自分のものとすることはできません。
聖霊とは確かに不思議な存在です。私たちは三位一体の神、父、子、聖霊の神を信じています。ですから、聖霊も神と等しい存在です。
聖霊は目には見えませんが、今も確かに私たちを導き、聖書の言葉を神の言葉として聞き信じます。
聖霊は、御言葉を通して、御子イエス・キリストと父なる神と私たちとを結びつけてくださいます。
「聖書の言葉はどうもよく分からない」と思われる方がおられましたら、どうぞ心を開いて、神の霊である聖霊を心に迎え入れるお気持ちで、聖書の言葉に改めて向き合ってくださればと、私は願います。

そして、教会でこのように語られる宣教の言葉も、神の霊である聖霊が助けてくださり、語られる言葉が神のメッセージとして豊かに私たちひとり一人の心に響きますように、わたしたちに力となりますようにと、皆さんにはぜひ祈っていただきたいと、私は願います。
 そしてまた御言葉の意味を私たちに説き明かしてくださる、御言葉を通して私たちに霊的に生きる力を与えてくださる聖霊の力に、私たちは大いに期待をして、信仰生活を生きていきたいと願います。

27節のお言葉をお読みします。
27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

 今日の礼拝の初めに、二本目のアドベントキャンドルに火が灯されました。二本目のアドベントキャンドルの意味は、”平和“です。
二本目のアドベントキャンドルは、キリストの平和が今も私たちを、この世界を照らしていることを私たちが確認するために、灯されます。
イエス様は「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と言われました。
”世が与えるような平和“とは何でしょうか。
それは一つには、自分に反対する者に対抗することのできる力や武器などを身に着けて、自分の言うことを聞かない相手は、無理やりにでも言うことを聞かせる、という方法です。
 また一つには、財力や社会的地位などを身に着けて、お金の力や権力によって相手に言うことを聞かせる、あるいはそれによって自分が望むことを達成する、自分が欲しいものを手に入れる、という方法です。いわば、力を前提とした平和です。
 しかしイエス様は、そのような方法とは全く違う、私たちでは考えられない方法によって、平和を与えると約束され、その通りに生きられました。

イエス様が与えると約束してくださった“わたしの平和、キリストの平和”とは、神と等しいご自身が十字架の上で死に、その十字架の上で私たち全ての者の罪を背負い、身代わりになって死ぬことによって、与えられる平和でした。
 私たち人は、本来自分で負うべき罪を、そのお方(イエス・キリスト)に負わせたのです。私たちが払うべき罪の代償を、私たちはイエス様に払わせてしまったのです。
イエス様が、平和を壊す邪悪なもの、私たち人の罪を赦すために、悪も罪もご自分と一緒に十字架に釘付けにしてくださったのです。
 悪の力に対して、同じような力で対抗するというのではなく、イエス様は悪の力をご自分自身と共に十字架に張り付けにすることで、悪の力を完全に無力にしたのです。
イエス様が与えると約束してくださった“わたしの平和、キリストの平和”とは、神と等しいお方が十字架の上で死に、その十字架の上で私たち全ての者の罪を背負い、身代わりになって死ぬことによって、与えられる平和です。

しかし世の中の現実は、まったく悪が滅びているようには見えないのではないでしょうか。確かにその通りです。
私たちは、悪が蔓延しているとしか思えない世の現実から目をそらすことを、すべきではありません。
現実から目をそらすのではなく、私たちは聖書の御言葉を聖霊を通して読み、そして与えられる信仰を通して、世の中と世界の現実を見ようではありませんか。
この世の悪に打ち勝ったキリストの十字架を見上げて、キリストは十字架の上でこの世の悪を既に滅ぼし、私たちに真の平和を与えてくださった、と私たちは信じて、この世の現実の中で生きるのです。
 十字架の上のイエス・キリスト、”キリストの平和”を約束してくださったイエス様の言葉を信じて生きるキリスト者は、世の現実の中にあって、”キリストの平和“が私たちには与えられていることを信じて、生きてまいりましょう。
 今日の箇所の最後の節(31節)でイエス様が言われたお言葉をお読みします。このお言葉に導かれて、今日の礼拝メッセージを私は終わります。

31わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

 御子イエス・キリストは父なる神を愛し、そしてご自身も父なる神に愛された存在でした。父なる神との愛の関係の中で、父の命じられた通りにイエス様は生きられました。
イエス様は弟子たちに促します。“さあ、立て。ここから出かけて行こう”。
“悪と罪に満ちた世の中で、神は既に勝利されたことを信じ、その希望を世に示そう”、とイエス様は今も私たちを促されます。
私たちは、こうして教会で共に礼拝をして、神の声によって励まされ、強められる、希望を頂くという幸いを頂いています。
そして“ここから出かけて行こう”というイエス様の声によって、私たちは自分の生きる場所へと、ここからまた遣わされていきます。

 “ここから出かけて行こう”、と言って、今日の箇所でイエス様が行こうとされるその道は、十字架へ向かう道でした。
イエス様でしか負うことのできない、私たちの罪の贖いのための十字架を背負う場へとイエス様は出かけようとされたのです。
 私たちも、私たちのために、最も重い十字架を背負ってくださったイエス様に従って、イエス様と共に歩む信仰の道を歩みだしていくのです。
日々、立ち上がって、私たちはイエス様と一緒に歩む信仰の道を歩んでまいりましょう。苦しくてもイエス様が私たちと共にいてくださいます。それは間違いのないことです。
 主が私たちの手をとって私たちを立ちあがらせてくださり、主が私たちと共に歩んでくださいます。ですからわたしたちは安心してよいのです。
主イエス・キリストは、約束通り、いつどんなときにも、私たちと共にいてくださいます。平和の救い主として、私たちに平和を与えてくださっています。ですから私たちは恐れる必要はないのです。
 主が私たちと共におられます。平和の救い主イエス・キリストが私たちの平和の源です。
この方なくして、真の平和はありません。真の平和がキリストを通して与えられたことを、私たちは大いに喜ぼうではありませんか。