2026年1月10日土曜日

2026年1月11日 主日礼拝
前奏
招詞  エゼキエル書2章1節
賛美  新生讃美歌 16番 み栄えあれ 愛の神
主の祈り
賛美  新生讃美歌493番 み子イエス世人のため
祈りの時
献金
聖句  使徒言行録9章32~43節
祈祷
宣教  「起きなさい」
祈祷
賛美  新生讃美歌134 生命のみことば たえにくすし
頌栄  新生讃美歌671番
祝祷

 新約聖書の『使徒言行録』の9章32節から、この章(9章)の終わりまでの箇所が、今日の聖書箇所です。
 9章の前半では、サウロが復活のイエス・キリストと出会い、キリスト者を激しく迫害していたそれまでの彼から、キリストの熱心な伝道者へと変わる劇的な変化が描かれていました。
 サウロ(後のパウロ)はキリストを信じる者となり、そして今度は自分が迫害され、命さえ奪われそうな危険にあいながらも、イエス・キリストを伝える伝道者へと変えられました。
 サウロのような、聖書に登場する人物を通して、人は主イエス・キリストとの真の出会いを経験することによって本当に変えられる、ということを私たちは示されます。
 主イエス・キリストと出会い、キリストを主と信じ、キリストを私たちの中心にお迎えすることによって、キリストにある力がこの私たちのものともなるのです。
 ですから、私たちのうちに宿ってくださる復活のイエス・キリストの力によって、人は強くなれる、変えられるという希望を私たちは頂くことができるのです。
 そしてサウロや、また今日の箇所で登場するペトロなど、キリストの弟子たち、使徒たちの姿を通して、彼らを通して働いたキリストの力は今の私たちにも与えられると、わたしたちは確信していきたいと願います。

 今日の箇所では、キリストの弟子であり、そして使徒とも言われた、弟子たちの中でも指導的な立場にあったペトロ(Peter)が登場します。
イエス様が生きておられた時、ペトロはイエス様の最初の弟子の一人であり、イエス様の一番弟子といってもよい存在でした。
 そのペトロが長年の病気であった人を癒した様子、そしてそのほかに、死んだ人をも生き返らせた時の話が今日の聖書箇所では伝えられています。

この箇所を通して、神のメッセージを私たちは共に聞いてまいりましょう。
今日の最初の32節に、”ペトロは方々を巡り歩いた“と書かれています。”リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った“と書かれているリダとは、エルサレムから約40キロほど離れたところにあった町でした。
ペトロは、復活の主に出会って、また聖霊の導きを受けてからは、一箇所(エルサレム)に留まることなく、あちらこちらへと出かけ、”聖なる者“(英語では”主の者たち)のところへと出かけて行ったのです。
”聖なる者たち“(英語ではLord’s people”主の者たち“)とは、罪がなく汚れの無い清い人という意味ではありません。
“聖なる者たち”、あるいは“主の者たち”ですから、彼らはキリストを主と信じるクリスチャンのことが言われています。
キリスト者はどのような意味で“聖なる者”と言うことができるのでしょうか。それはキリストによって清い者としていただいた者、キリストによって罪赦された者、ということです。
自分の努力や功績によって、神に優秀だと認められた、ということではないのです。キリスト者とは、ただ神の憐れみによって選ばれて、キリストの者、神の子とされた、その大きな恵みを信じ、その恵みをただ受け取った者です。

神が私たちの心に働きかけてくださり、神がこの私を選んでくださった、神が私を呼んでくださった、神がキリストを通して私を聖なる者としてくださった、とキリスト者は信じるのです。
そう信じる者は、必然的に神に対して、また人に対してへりくだる(謙虚な)者とさせられるしかない、と私は信じます。
 キリストの者とされた、神の者とされた恵みを覚え、私たちは自分を誇ることなく、いつも主なる神をこそ誇る者でありたいと願います。
ペトロはリダで、中風という病気(なんらかの理由で、体に麻痺があり、体の自由がきかない病気)のため、8年間病床にあったアイネアという男の人に出会いました。
ペトロはアイネアに「イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言いました。

するとアイネアはすぐ起き上がりました。これが今日の箇所で起きている一つ目の、ペトロによる癒しの出来事です。
ペトロは“イエス・キリストがいやしてくださる”とアイネアに言いました。この言葉の重要性はどれほど強調してもしすぎることがありません。
ペトロは“わたしがあなたをいやす”とは言わなかったのです。“イエス・キリストがあなたをいやしてくださる。だから起きなさい。自分で床を整えなさい”とペトロは言ったのです。
ペトロは次の箇所の、ヤッファという別の町で出会ったタビタ(ドルカス(かもしか))、もう死んでいた彼女を蘇らせた場面でも、「タビタ、起きなさい」と言いました。
「タビタ、起きなさい」という言葉には、“イエス・キリストがあなたを生き返らせてくださる”というキリストへの信仰があります。
わたしたちの注目は、病気の人が奇跡的に癒された、一度死んだ人が生き返った、という方へ、どうしても向くと思います。
アイネアの病が癒されたこと、皆に慕われていたタビタが生き返ったこと、それらはいずれも素晴らしい出来事です。
重い病気、苦しい病気を患っている人が治りたいと思うのは当然ですし、わたしたちも自分や、あるいは自分の家族や親しい人が病気で苦しんでいたら、その癒しを願い、神に祈ります。

しかし、今日の箇所は“神様を信じたら、難しい病気でも治るような奇跡、死者が生き返る奇跡が必ず起こる”ということを伝えているのではありません。
もし私たちが目に見える具体的な奇跡が、わたしたちの願いと祈りに応じて必ず起こるのだ、と言うならば、それは自分を神様の地位に置くということになります。
では今日の箇所で私たちはどのような信仰のメッセージを聞くことができるでしょうか。
それは、人間である私が癒す(命、希望を与える)のではなく、“イエス・キリストがあなたを癒す”、“イエス・キリストこそが癒し主であり、命の源である”ということです。
 そしてペトロが、一度死んだ人に向かって「タビタ、起きなさい」と言うほどに、そこまで主に信頼をし、主なる神にすべてを委ねるほどの信仰が人に与えられる、ということです。
ペトロは、そのような信仰姿勢を、すべて主であるイエス様から学んでいました。ペトロは地上で宣教活動をしておられた時のイエス様から、直接多くのことを学んでいたのです。

 今日の箇所でのペトロの行動には、彼がイエス様から学んだこと、ペトロが実際に見ていたイエス様の姿が大変よく反映されています。
特に、タビタを生き返らせた時のペトロの振舞いは、マルコ福音書5章40節からの箇所で、イエス様がヤイロという会堂長の娘を生き返らせた時のイエス様の行動を、とてもよく反映しています。
ペトロは、その時イエス様がどのようになさったかをよく覚えており、できるだけ忠実にその行動をまねた、と言えるでしょう。
最初は模倣(まね)から入る、ということにも意味があると私は思います。模倣がやがて、その実態と意味を伴い、中身を伴った信仰へと育っていく、ということがあるのではないでしょうか。
例えば、私たちが祈る、ということも、人前で祈ることは、最初はなかなか出来いかもしれません。長年のクリスチャンでも人前で祈ってくださいと急に言われると、躊躇することは多いと思います。
そんな時、最初はだれかほかの人の祈りを真似する、用意された祈りの見本のような言葉をそのまま祈る、ということも意味のあることです。
その祈りの意味を考え、求めつつ、真剣に祈るならば、最初は模倣(真似)であったとしても、信仰の実体を伴った祈りへと変えられていくことは可能なのです。
私たちは、参考にできる信仰の姿勢は、どんどん真似をしていきましょう。

ヤイロの娘を生き返らせた時、イエス様は会堂長の家に着く前に、“その娘はなくなりました。だからもう来ていただかなくて結構です”と言う知らせを聞きました。
しかしイエス様は言いました”恐れることはない。信じなさい“。そう言って、イエス様はヤイロの家へ向かっていくことを止めずに、ヤイロの家の中に入りました。
イエス様は皆を家から外に出して、そして子どもの手を取って、“少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい”と言いました。そしてその子は生き返ったのです。
ペトロは、イエス様のその時の様子を思い出して、“主は、少女が死んだという知らせを聞いても、決して(もう終わりだ、私がそこへ行ってももう意味はない)とはおっしゃらなかった”と、その時のことを思い出したのでしょう。
だからペトロもあきらめなかったのです。彼(ペトロ)自身が、主の癒し、死者さえ生き返らせた主の御業を直接目撃していたので、彼は主に倣って、決してあきらめなかったのです。

“タビタは死んだけれども、これですべてが終わり、あらゆる希望が打ち砕かれた、ということではないのだ。神の御業は必ず起こる”という信仰の思いが、ペトロにその時一層強く与えられたのです。
それでペトロはイエス様がしたように、皆を外へ出して、そして彼はひざまづいて祈りました。
“神の御業が起こされますように。神の御心の通りになりますように”とペトロは真剣に願い、へりくだって、神に祈りを捧げたのでしょう。
ペトロは「タビタ起きなさい」と、イエス・キリストがヤイロの死んだ娘に言ったのとほぼ同じ言葉を発しました。その言葉を発する信仰がペトロに与えられたのです。

そのことが主の御心ならば、その通りになるという信仰がペトロに与えられたのです。私たちは、この奇跡の出来事の表面的なことに囚われるのではなく、これほどの信仰をペトロにお与えになった主なる神の偉大さに、心を留めたいと願います。
 わたしたちも信仰の経験を重ねていく毎に、イエス・キリストの恵みを経験していく毎に、主への信頼が深まっていきます。

主なる神は真実であり、常に誠実なお方だ、ご自身の約束を守ってくださるお方だと、私たちはますます神を信頼し、神により頼むようになっていきます。
 そして、教会には多くの疲れた人、傷ついた人、打ち倒された人たちやってきます。今私たちの中にも、そのように疲れ切った人、傷ついた人たちがおられるでしょう。
多くの人たちが神の癒しを求めています。この私も神の癒しを求めています。自分で立ちあがる力を私も求めています。
 そのような時、わたしたちは疲れて神の恵み、神の力と癒しを求める人たちに、“イエス・キリストが癒してくださる。起きなさい。(なぜなら、キリストがあなたに立ち上がる力をくださるから)”というメッセージを伝えていきたいと願います。
 死んだと思っても、決してそれですべてが終わりではない。神の御業は必ず起こる。神の恵みは私たちに与えられ続ける、という希望を私たちはイエス様から常にいただけるのです。
 また私たちは、お互いに、そのような信仰の言葉で、励まし合っていける教会になりたいとも願います。
キリストが私たちを日々立ち上がらせてくださいます。キリストが私たちに日々命を与え、一歩一歩と前へ進ませてくださいます。キリストにより頼み、そのように信仰の日々を私たちは歩んでいこうではありませんか。