2024年12月29日 主日礼拝
前奏
招詞 イザヤ書32章15節
賛美 新生讃美歌120番 主をたたえよ 力みつる主を
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌301番 いかなる恵みぞ
献金
聖句 使徒言行録1章6~11節
祈祷
宣教 「聖霊が降るとあなたがたは力を受ける」
祈祷
賛美 新生讃美歌 81番 父なるわが神
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
後奏
2024年最後の主日礼拝を今日私たちは迎えています。今年2024年も、御言葉を通して、主なる神が私たちに語りかけ続けてくださり、私たちを支え続けてくださり、導き続けてくださったことに、感謝をささげたいと思います。
今年度4月から、私(たち)は礼拝の中で旧約聖書の初めから新約聖書の終わりまで、聖書全体を一年間の礼拝メッセージで網羅しようという、大胆な(かつ無茶な?)試みに取り組んでいます。
聖書の初めから終わりまでを、大まかにでも網羅することで、私たちは主なる神が、私たち人間の思いと計画を超えた、偉大な思いとご計画をお持ちであることを知ることができます。
聖書の中心は、神の御子イエス・キリストの福音です。聖書はキリストが人となってこの世界にお生まれになり、そして私たちの罪の贖いのために十字架の上で死なれたことを、伝えています。
そしてイエス様が三日目に復活なさったことにより、神の思いとご計画、何よりも神の御愛がはっきりと私たちに示されました。
私たち人はそれぞれ、自分自身の願いや思い、色々な考えを持ち、計画を立てたりします。
しかし、十字架と復活の主キリストを主なる神と信じ、キリストの導きに従って歩むことこそが、わたしたち人が選び取るべき道だと、聖書から私たちは示されます。
「主の御言葉に立つ」という年間主題によって、今年度(2024年度)私たちの教会は歩んでいます。
もうすぐ新しい年(2025年)となりますが、新しい年もまた主の御言葉に立ち続け、御言葉によって霊的に養われ続けていきたいと私たちは願います。
礼拝メッセージのスケジュールは、先週のクリスマス礼拝までで、新約聖書の福音書までのメッセージを終えました。
新約聖書の中には、イエス・キリストが生まれてから、十字架にかけられて死に、そして復活するまでを描いた「福音書gospels」と言われる書が4つあります(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)。
そしてその4つの福音書の後、イエス・キリストが復活して天に昇って行かれた後、イエス様の弟子たち(使徒とも言われた弟子たち)が、イエス・キリストの福音を各地に伝えていく「使徒言行録」が続きます。
今日の聖書箇所は、使徒言行録1章からの箇所です。
先ほどお読みいただいた6節からの箇所のすぐ前の箇所ですが、使徒言行録1章3節に次のように書かれています。
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
イエス様は苦難を受け(十字架にかかり死に)、そしてその後復活して“ご自分が生きていること”を数多くの証拠をもって使徒たちに示されました。
イエス様は、使徒たちが実際に見て、触ることもできるように、復活の体を伴って死から彼らの前にそのお姿を現されました。
イエス様の復活は、夢や幻覚などではなく、この地上で人の目にもはっきりと示された神のなさった出来事だったのです。
イエス様の弟子たちは、復活したイエス様に出会い、大変驚き、中には疑う者もいたのですが、しかし彼らは彼らの主が復活したことを目の当たりにし、再び大きな力と希望を受けました。
今日の箇所で、使徒たちがイエス様に次のように尋ねています。
「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」
弟子たちは、他のイエスラエルの民たちと同様、彼らの救い主がイスラエルを建て直してくださり、彼らを支配している国(ローマ帝国)の圧政から解放してくださる、とずっと信じていました。
しかし、彼らのその望みは、イエス様が無残に十字架にかかり殺されたことで完全に断たれた、と彼らは思って、彼らは絶望していました。
しかし、そんな彼らの前に復活した主イエス・キリストが現れたのです。彼らは復活の主と出会い、喜ぶと共に、“イスラエルが解放される”と言う望みもまだ終わっていない、とも思って喜んだのでしょう。
ですから彼らはイエス様に尋ねたのです。
「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」
イエス様はこうお答えになりました。(7節)
父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
自分たちの国が建て直され、解放される、と言う決定的な時は、それは天の父なる神が神の権威よって定めることだ、と言うのです。(人間が定めるのではない、と言うのです)
私たち信仰者は、神がお定めになる時に従って、大切な時とタイミングを待つということが求められます。
私たちには色々な願いや思いがあります。今日は今年最後の主日礼拝です。
今年一年を振り返って、皆さんはそれぞれ、今年願っていたことが叶った、あるいはその通りにはならなかった、など色々な思いを持っておられるのではないでしょうか。
願い通りにならなかったことで落胆している、がっかりしている、と言う方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、私たちはそのような時にこそ、聖書の御言葉を通して、神の御心を知り、神の時を待つ、神の御計画を信じる、と言うことを教えられます。
私たちの思いや願いをはるかに超えた、神の御計画があります。そして神はお定めになった時に、そのご計画を成就されるのです。
ですから私たちは、天の父なる神が、ご自分の権威によってお定めになった時と時期があることを信じ、神の御旨を求め、その御旨にしたがって歩んでいこうと、今日改めて決意をいたしましょう。
イスラエルの国が建て直される、それはすなわち信仰的に、今の私たち信仰者一人ひとりの信仰が建て直される、罪からの解放の喜びが与えられということでもあります。
それには一つの徴(しるし)が伴うことが、今日の箇所に書かれています。
それが8節に書かれています。8節をお読みします。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
聖霊が降ることによって与えられる力とは、どのような力でしょうか。
『エフェソの信徒への手紙』を書いたパウロが、その手紙の中で次のように、祈っています。
エフェソの信徒への手紙3章16~17節
どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
神の霊である聖霊が降る時、私たちの内なる人が強められる、とここでは書かれています。
私たちの内なる人が強められるとは、すなわち私たちの心のうちに、聖霊によってイエス・キリストが住んでくださる、ということです。
そして私たちの内にキリストが住まわれるとは、私たちがキリストの愛に根ざし、キリストの愛にしっかりと立つ者(キリストの愛によって建て上げられる者)となる、ということです。
ですから聖霊が私たちに与えられるということは、キリストが私の心のうちに住んでくださっている確信によって測られると言うこともできるでしょう。
そしてキリストが私たちの心の内におられること、キリストによってこの私がいかに尊い者とされ、愛されているかを確信することができる、というのも聖霊の働きです。
そしてキリストの愛によって満たされた私たちが、その愛をもって自分以外の他者に、またこの社会に向き合うということを通して、神の国がこの世界に広がっていくようになるのです。
聖書の神、主は最初イスラエル民族をお選びになり、彼らに救いの御業を示されました。やがてイスラエル民族は、神の救いは彼らだけに与えられていると信じるようになっていきます。
しかし、聖霊が使徒たちに降ると、彼らはキリストの愛に満たされて、エルサレムばかりではなく、ユダヤ、サマリヤの全土、地の果てに至るまで、彼らはキリストの証人となる、と今日の箇所で言われています。
エルサレム、ユダヤと言う枠を超えて、主の十字架と復活によってはっきりと示された罪の赦しと主の御愛は、地の果てにまで、あらゆる国や地域、すべての民に伝えられていくのです。
そして福音がそのように伝えられていく原動力は、通常、ある国が他国を支配する時に用いる武力や、相手を無理やり押さえつけるような何らかの力ではないのです。
それは聖霊によって与えられるイエス・キリストの愛だと、聖書は伝えるのです。
キリストの愛が私たちの内に本当に満ちて、そのキリストの御愛に基づいて私たちが生き、行動する時、私たちは他者と本当に理解し合うことができるようになり、またキリストの愛が私たちを通して広がっていくでしょう。
そして無理やり力によって相手に自分の要求を飲ませたりする方法によってではなく、キリストの愛に基づいて互いの間に理解と思いやりが生まれる時、そこから生まれる何か新しいことや変化、その出来事は、本当に力あるものになるのでしょう。
今日の箇所で、イエス様は弟子たちの前から、“やがてまた私は戻ってくる”という約束と共に、天に昇っていかれました。
今私たちの目に、イエス様は目には見えませんが、主はその約束通り、聖霊によって私たちの内に住んでくださり、主の御愛で私たちを満たしてくださっています。
今年一年、私たちそれぞれ、また私たちの教会も、様々な失敗や挫折なども経験したと思います。逆に、達成できたことも、多くの喜び、恵みもあったと思います。
私たちは、聖霊によって与えられる確信を持ちましょう。主が定めた時、その時その時期に主の大きなご計画は実現するのです。そのような主の時、神の時の中に私たちは生かされていることを信じましょう。
そして私たちに、主の聖霊がさらに豊かに与えられ、主の御愛で満たされた私たちが、主の御愛をこの世に伝えていく器として、ますます大きく用いられますようにと願い、祈ろうではありませんか。
2024年12月28日土曜日
2024年12月6日金曜日
2024年12月3日火曜日
2024年12月22日 主日礼拝
前奏
招詞 イザヤ書9章1節
アドベントキャンドルの点火
賛美 新生讃美歌 157番 来たれ 友よ 喜びもて
主の祈り
賛美 新生讃美歌 301番 いかなる恵みぞ
献金
特別賛美
聖句 マタイによる福音書2章1~11節
祈祷
宣教 「最初のキリスト礼拝」
祈祷
賛美 新生讃美歌 167番 天にはさかえ
頌栄 新生讃美歌 679番
祝祷
後奏
キリスト教会では、12月25日をイエス・キリストの誕生日として、記念し、お祝いをいたします。
先ほどお読みいただいた今日の聖書箇所には、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」と書かれています。
実は聖書の中には、イエス様が「何月何日に生まれた」という記録はありません。ですから、12月25日がイエス様の本当のお誕生日かどうかは、私たちにはわからないのです。
キリスト教会が12月25日をクリスマスとして祝うようになったのは、キリスト教初期の時代に、当時ローマで信じられていた太陽神ミトラ(Mithra)を崇拝するミトラ教が、“不敗の太陽神 (the Invincible Sun God)”を祝う祭りを12月25日に行っていたことに由来するようです。
クリスチャンたちは、イエス・キリストこそが、”真の太陽“であり、新しい命を人間にもたらす唯一、真の神であることを信じました。
ローマ帝国においてもキリスト教がだんだんと信じられるようになり、ミトラ教は衰退していきました。
そのような経緯で12月25日には、ミトラの神ではなく、クリスチャンたちがキリストの誕生を記念するようになっていったようです。
ですから、12月25日という日付は、聖書の中には記録がありませんが、その日付は、聖書が伝える唯一真の神を多くの人たちが信じ、(人間が作り出した偶像を信じるのではなく)、真の神をあがめるようになった信仰の決意の歴史を表すものです。
12月25日という日付自体には、キリストの誕生日としての正確な根拠がありませんが、しかしイエス・キリストが生まれた時代については、聖書にはっきりと書かれています。
初めに私が申し上げましたように、今日の箇所の始めに「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」と書かれています。
ヘロデ王とは、通常“ヘロデ大王 Herod the Great”と言われる、当時ローマ帝国の庇護を受けながら、ユダヤを王として治めていた人でした。(その在位は紀元前37年から紀元前4年までと言われます)
今日の箇所よりも後の箇所に書かれているように、ヘロデは“王としての自分の地位を脅かす新しい王が生まれた”という知らせ(ニュース)を恐れ、ベツレヘムの周辺一帯で生まれた二歳以下の男の子を一人残らず殺させました。
ですから、ヘロデは、恐ろしく大変残忍な性格であったと言えます。
または、“彼(ヘロデ)の生い立ちや王という地位が、彼をそのような人にしてしまった、人間は誰でも彼(ヘロデ)のようになる可能性がある”ということを私たちは知るべきなのかもしれません。
イエス様はそのような王がユダヤに君臨していた時(およそ2000年前)に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。
そのとき「占星術の学者たち」(英語ではMagi (伝統的には“賢者”(wise men)とも訳されてきた)が、東の方からエルサレム(ユダヤの首都)のヘロデ王のところへやってきました。
新共同訳聖書で「占星術の学者たち」と訳された理由は、彼らが星の動きを見ることによって、“ユダヤ人の新しい王(救い主)が生まれた”という解釈をすることができたから、だと思われます。
彼らは、星(天体)の動きを観察し、それを解釈することができる、当時の天文学の専門家だったのです。
彼らの知識は、当時の水準としてはかなり高いものであり、彼らは当時の最先端の学者たちであったのでしょう。
その彼らが東の方からはるばるエルサレムへとやってきました。“東の方”が正確にどこかは書かれていないので分かりません。
それはかつてバビロン捕囚によってイスラエルの民たちが囚われていたバビロン、あるいはそのもっと東の方という説もあります。だとすると、彼らが辿った旅の道のりは千数百キロにも及びます。
正確には分かりませんから推測するしかないのですが、彼ら学者たちが、相当の長い道のりを、それだけの危険を冒して、相当の日数をかけてエルサレムへたどり着いたことは確かだと私は思います。
マタイ福音書は、その時お生まれになったイエスという人が、人間がそれほどの危険を冒し、時間をかけてでも、また持っているものの多く(全て)を捧げてでも、お会いすべきお方、私たちが信じるべき尊いお方なのだ、ということを告げているのです。
また彼ら学者たちは、ユダヤ人ではなく、東の方の国出身の、ユダヤ人たちから見れば“異邦人たち”でした。
彼ら異邦人の学者たちは、バビロン捕囚でバビロンの地域へ移り住んでいたユダヤ人たちからもたらされた聖書の話に親しんでいたのではないか、と思われます。
“いずれユダヤに真の王、救い主がお生まれになる”という聖書の預言を、彼ら学者たちは信じて、大きな期待を持って待っていたのでしょう。
ユダヤの王、救い主がお生まれになったという知らせが、ユダヤ人ではない異邦人たちによってヘロデ王に知らされた、という事実も、このお方(イエス様)が、イスラエル、ユダヤという地域や国、民族を超える、私たちすべての人間の救い主であることを表します。
私はかつてキリストを信じる前は、“キリスト教は西洋のもの”という考えをもっており、日本人の私が信じられるものではない、と思っていました。
正確には、キリスト教は歴史的には確かに西洋(ローマ、ヨーロッパ諸国)で発展しましたが、イエス・キリストはイスラエルでお生まれになったユダヤ人ですので、“キリスト教は西洋のもの”という認識は必ずしも正しくありません。
かつて“キリスト教は西洋のもの”という理由で、キリスト教を拒絶していた私自身の中には、一種の偏見や壁(それは“差別prejudice”と言ってもいいかもしれません)があったのだなと、今私は思わされます。
真実というものは、人間の世界での国とか民族、人種の違いを超えるものです。
人間の世界での私たちの違いを超える神の真実があるにもかかわらず、その真実よりも、人間の世界での国や民族の違いにこだわり、時には自分の所属する国や民族に偏った誇り(プライド)を大切にしようとすることは、正しいことでしょうか。
私たちはすべて神によって造られたものであり、神は私たち一人ひとりを、異なる特徴をもった者としてお造りになりました。
神によって造られた私たちは、一人一人違っても、しかし私たちをお造りになった唯一の神を知り、人間の世界での国や地域、人種や民族などの違いを超越した神を信じて共に生きていくようにと、神がそう望んでおられることを聖書は告げています。
わたしたちは、聖書の告げるその真実に、心を開き聖書の言葉に耳を傾け続けていきたいと願います。
そして今の私たちは幸いなことに、今日の聖書箇所での、占星術の学者たちのように、真の神、救い主を求めて、救い主とお会いするために、何百キロ、何千キロという旅をする必要はないのです。
わたしたちは神とお会いするために、エルサレムまで行く必要はないのです。なぜなら、神は今、ここに私たちと共におられるからです。それは本当でしょうか?
それは本当なのです。聖書には次のように書かれています。
マタイによる福音書18章20節でイエス様が次のようにおっしゃっています。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」
私たちが、キリストの名によって、すなわちキリストを神と信じ、その信仰によって結ばれて、心合わせて集うならば、その場にイエス様は共にいてくださる、というのです。
私たちキリスト教会が、人間的な思いや欲によって集まるのではなく、キリストの名、イエス・キリストの恵みと愛に引き寄せられて集まる時、キリストにご栄光を共にお返しする時、その場にイエス様は共にいてくださいます。
つまり、私たちがキリストへの信仰を持って集まるところであれば、どこであってもイエス様はその場に共にいてくださる、というのです。何という大きな恵みでしょうか。
私たちはこれからも、聖書の御言葉を共に聞き、神の霊である聖霊の導きをいただいて、私たちがキリストの名を信じて集まる場に、イエス様が共にいてくださる、との恵みを分かち合って信仰生活を歩んでいこうではありませんか。
また、今まだその信仰をお持ちでない、決心をしておられないお方も、ぜひ教会へ続けて来ていただいて、真の神との出会いを経験していただきたいと、私たちは心から願っております。
学者たちが最初に行ったヘロデの宮殿に、ユダヤ人の王(イエス様)はおられませんでした。
イエス様は、大工のヨセフと母マリアとの間に、そのユダヤの普通の家庭で、一人の男の子としてお生まれになったからです。
ヘロデに「その子のことを探し出してくれ、調べてくれ」と言われ(8節)、学者たちは出かけていきました。
すると彼らが東の方で見た星が彼らを導いて、そしてその幼子(イエス様)のいる場所の上に止まりました(10節)。
そこで彼らは喜びにあふれ、そしてその家へと入っていきます。
11節をお読みします。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
彼ら学者たちは、そこで見たひとりの幼子にひれ伏して、拝み、その子に、彼らが持っていた宝を捧げました。
黄金は王であるお方への捧げもの、そして乳香(ある種の木の樹液から作られた香料)は、神と人とをつなぐ大祭司であるお方への捧げものを象徴すると言われます。
そして没薬とは、死者の体の腐敗を防ぐ防腐剤としても使われていたことから、すべての人の罪の贖いのために、やがて十字架で死なれるキリストの死を象徴するものだと言われます。
ですからその時、この学者たちは、彼らが持っていた宝物を、真の王であるお方、そして神と人とをつなぐ大祭司でもあるお方に、そして私たちのためにその命を捧げてくださるお方へと、宝物を捧げたのです。
彼らは、その時、最初のキリスト礼拝を捧げたと言ってよいと、私は思うのです。
今私たちは、キリストをどのように礼拝しているでしょうか。キリストを心から信じ、あがめ、私たちの宝をそのお方に捧げているでしょうか。
神であるお方が人としてお生まれになりました。そのお方がイエス・キリストです。それは私たちの罪の赦しと救いのためです。
キリストがそのようにして私たちの世界に生まれきてくださったことを信じ、喜び、そして感謝しましょう。
キリストの名によって私たちはこれからも集まり続け、私たちが持っている最良のものを、まず私たち自身をイエス様へとお捧げし、真のキリスト礼拝を捧げてまいりましょう。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」~イエス様のこの恵みの御言葉は、いつまでも真実であり、そして私たちにとっての現実であり続けます。
前奏
招詞 イザヤ書9章1節
アドベントキャンドルの点火
賛美 新生讃美歌 157番 来たれ 友よ 喜びもて
主の祈り
賛美 新生讃美歌 301番 いかなる恵みぞ
献金
特別賛美
聖句 マタイによる福音書2章1~11節
祈祷
宣教 「最初のキリスト礼拝」
祈祷
賛美 新生讃美歌 167番 天にはさかえ
頌栄 新生讃美歌 679番
祝祷
後奏
キリスト教会では、12月25日をイエス・キリストの誕生日として、記念し、お祝いをいたします。
先ほどお読みいただいた今日の聖書箇所には、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」と書かれています。
実は聖書の中には、イエス様が「何月何日に生まれた」という記録はありません。ですから、12月25日がイエス様の本当のお誕生日かどうかは、私たちにはわからないのです。
キリスト教会が12月25日をクリスマスとして祝うようになったのは、キリスト教初期の時代に、当時ローマで信じられていた太陽神ミトラ(Mithra)を崇拝するミトラ教が、“不敗の太陽神 (the Invincible Sun God)”を祝う祭りを12月25日に行っていたことに由来するようです。
クリスチャンたちは、イエス・キリストこそが、”真の太陽“であり、新しい命を人間にもたらす唯一、真の神であることを信じました。
ローマ帝国においてもキリスト教がだんだんと信じられるようになり、ミトラ教は衰退していきました。
そのような経緯で12月25日には、ミトラの神ではなく、クリスチャンたちがキリストの誕生を記念するようになっていったようです。
ですから、12月25日という日付は、聖書の中には記録がありませんが、その日付は、聖書が伝える唯一真の神を多くの人たちが信じ、(人間が作り出した偶像を信じるのではなく)、真の神をあがめるようになった信仰の決意の歴史を表すものです。
12月25日という日付自体には、キリストの誕生日としての正確な根拠がありませんが、しかしイエス・キリストが生まれた時代については、聖書にはっきりと書かれています。
初めに私が申し上げましたように、今日の箇所の始めに「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」と書かれています。
ヘロデ王とは、通常“ヘロデ大王 Herod the Great”と言われる、当時ローマ帝国の庇護を受けながら、ユダヤを王として治めていた人でした。(その在位は紀元前37年から紀元前4年までと言われます)
今日の箇所よりも後の箇所に書かれているように、ヘロデは“王としての自分の地位を脅かす新しい王が生まれた”という知らせ(ニュース)を恐れ、ベツレヘムの周辺一帯で生まれた二歳以下の男の子を一人残らず殺させました。
ですから、ヘロデは、恐ろしく大変残忍な性格であったと言えます。
または、“彼(ヘロデ)の生い立ちや王という地位が、彼をそのような人にしてしまった、人間は誰でも彼(ヘロデ)のようになる可能性がある”ということを私たちは知るべきなのかもしれません。
イエス様はそのような王がユダヤに君臨していた時(およそ2000年前)に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。
そのとき「占星術の学者たち」(英語ではMagi (伝統的には“賢者”(wise men)とも訳されてきた)が、東の方からエルサレム(ユダヤの首都)のヘロデ王のところへやってきました。
新共同訳聖書で「占星術の学者たち」と訳された理由は、彼らが星の動きを見ることによって、“ユダヤ人の新しい王(救い主)が生まれた”という解釈をすることができたから、だと思われます。
彼らは、星(天体)の動きを観察し、それを解釈することができる、当時の天文学の専門家だったのです。
彼らの知識は、当時の水準としてはかなり高いものであり、彼らは当時の最先端の学者たちであったのでしょう。
その彼らが東の方からはるばるエルサレムへとやってきました。“東の方”が正確にどこかは書かれていないので分かりません。
それはかつてバビロン捕囚によってイスラエルの民たちが囚われていたバビロン、あるいはそのもっと東の方という説もあります。だとすると、彼らが辿った旅の道のりは千数百キロにも及びます。
正確には分かりませんから推測するしかないのですが、彼ら学者たちが、相当の長い道のりを、それだけの危険を冒して、相当の日数をかけてエルサレムへたどり着いたことは確かだと私は思います。
マタイ福音書は、その時お生まれになったイエスという人が、人間がそれほどの危険を冒し、時間をかけてでも、また持っているものの多く(全て)を捧げてでも、お会いすべきお方、私たちが信じるべき尊いお方なのだ、ということを告げているのです。
また彼ら学者たちは、ユダヤ人ではなく、東の方の国出身の、ユダヤ人たちから見れば“異邦人たち”でした。
彼ら異邦人の学者たちは、バビロン捕囚でバビロンの地域へ移り住んでいたユダヤ人たちからもたらされた聖書の話に親しんでいたのではないか、と思われます。
“いずれユダヤに真の王、救い主がお生まれになる”という聖書の預言を、彼ら学者たちは信じて、大きな期待を持って待っていたのでしょう。
ユダヤの王、救い主がお生まれになったという知らせが、ユダヤ人ではない異邦人たちによってヘロデ王に知らされた、という事実も、このお方(イエス様)が、イスラエル、ユダヤという地域や国、民族を超える、私たちすべての人間の救い主であることを表します。
私はかつてキリストを信じる前は、“キリスト教は西洋のもの”という考えをもっており、日本人の私が信じられるものではない、と思っていました。
正確には、キリスト教は歴史的には確かに西洋(ローマ、ヨーロッパ諸国)で発展しましたが、イエス・キリストはイスラエルでお生まれになったユダヤ人ですので、“キリスト教は西洋のもの”という認識は必ずしも正しくありません。
かつて“キリスト教は西洋のもの”という理由で、キリスト教を拒絶していた私自身の中には、一種の偏見や壁(それは“差別prejudice”と言ってもいいかもしれません)があったのだなと、今私は思わされます。
真実というものは、人間の世界での国とか民族、人種の違いを超えるものです。
人間の世界での私たちの違いを超える神の真実があるにもかかわらず、その真実よりも、人間の世界での国や民族の違いにこだわり、時には自分の所属する国や民族に偏った誇り(プライド)を大切にしようとすることは、正しいことでしょうか。
私たちはすべて神によって造られたものであり、神は私たち一人ひとりを、異なる特徴をもった者としてお造りになりました。
神によって造られた私たちは、一人一人違っても、しかし私たちをお造りになった唯一の神を知り、人間の世界での国や地域、人種や民族などの違いを超越した神を信じて共に生きていくようにと、神がそう望んでおられることを聖書は告げています。
わたしたちは、聖書の告げるその真実に、心を開き聖書の言葉に耳を傾け続けていきたいと願います。
そして今の私たちは幸いなことに、今日の聖書箇所での、占星術の学者たちのように、真の神、救い主を求めて、救い主とお会いするために、何百キロ、何千キロという旅をする必要はないのです。
わたしたちは神とお会いするために、エルサレムまで行く必要はないのです。なぜなら、神は今、ここに私たちと共におられるからです。それは本当でしょうか?
それは本当なのです。聖書には次のように書かれています。
マタイによる福音書18章20節でイエス様が次のようにおっしゃっています。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」
私たちが、キリストの名によって、すなわちキリストを神と信じ、その信仰によって結ばれて、心合わせて集うならば、その場にイエス様は共にいてくださる、というのです。
私たちキリスト教会が、人間的な思いや欲によって集まるのではなく、キリストの名、イエス・キリストの恵みと愛に引き寄せられて集まる時、キリストにご栄光を共にお返しする時、その場にイエス様は共にいてくださいます。
つまり、私たちがキリストへの信仰を持って集まるところであれば、どこであってもイエス様はその場に共にいてくださる、というのです。何という大きな恵みでしょうか。
私たちはこれからも、聖書の御言葉を共に聞き、神の霊である聖霊の導きをいただいて、私たちがキリストの名を信じて集まる場に、イエス様が共にいてくださる、との恵みを分かち合って信仰生活を歩んでいこうではありませんか。
また、今まだその信仰をお持ちでない、決心をしておられないお方も、ぜひ教会へ続けて来ていただいて、真の神との出会いを経験していただきたいと、私たちは心から願っております。
学者たちが最初に行ったヘロデの宮殿に、ユダヤ人の王(イエス様)はおられませんでした。
イエス様は、大工のヨセフと母マリアとの間に、そのユダヤの普通の家庭で、一人の男の子としてお生まれになったからです。
ヘロデに「その子のことを探し出してくれ、調べてくれ」と言われ(8節)、学者たちは出かけていきました。
すると彼らが東の方で見た星が彼らを導いて、そしてその幼子(イエス様)のいる場所の上に止まりました(10節)。
そこで彼らは喜びにあふれ、そしてその家へと入っていきます。
11節をお読みします。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
彼ら学者たちは、そこで見たひとりの幼子にひれ伏して、拝み、その子に、彼らが持っていた宝を捧げました。
黄金は王であるお方への捧げもの、そして乳香(ある種の木の樹液から作られた香料)は、神と人とをつなぐ大祭司であるお方への捧げものを象徴すると言われます。
そして没薬とは、死者の体の腐敗を防ぐ防腐剤としても使われていたことから、すべての人の罪の贖いのために、やがて十字架で死なれるキリストの死を象徴するものだと言われます。
ですからその時、この学者たちは、彼らが持っていた宝物を、真の王であるお方、そして神と人とをつなぐ大祭司でもあるお方に、そして私たちのためにその命を捧げてくださるお方へと、宝物を捧げたのです。
彼らは、その時、最初のキリスト礼拝を捧げたと言ってよいと、私は思うのです。
今私たちは、キリストをどのように礼拝しているでしょうか。キリストを心から信じ、あがめ、私たちの宝をそのお方に捧げているでしょうか。
神であるお方が人としてお生まれになりました。そのお方がイエス・キリストです。それは私たちの罪の赦しと救いのためです。
キリストがそのようにして私たちの世界に生まれきてくださったことを信じ、喜び、そして感謝しましょう。
キリストの名によって私たちはこれからも集まり続け、私たちが持っている最良のものを、まず私たち自身をイエス様へとお捧げし、真のキリスト礼拝を捧げてまいりましょう。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」~イエス様のこの恵みの御言葉は、いつまでも真実であり、そして私たちにとっての現実であり続けます。
2024年12月2日月曜日
2024年12月15日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編32篇11節
アドベントキャンドルの点火(喜び)
讃美 新生讃美歌 173番 ああベツレヘムよ
主の祈り
讃美 新生讃美歌301番 いかなる恵みぞ
献金
聖句 ヨハネによる福音書3章22~26節
祈祷
宣教 「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」
祈祷
讃美 新生讃美歌 160番 天なる神には
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
後奏
今日は、クリスマス前の待降節(アドヴェント)第三日曜日です。
礼拝の初めに、三本目のアドヴェントキャンドルに火が灯されました。その三本目のろうそくの火は「喜び」を表します。
イエス・キリストが人として世に生まれてこられたクリスマスの出来事は、私たちにとっての大きな喜びです。私たちの喜びの源はイエス・キリストです。
キリストがおられるところに喜びがあります。キリストがおられ、キリストが人々によって認められ、あがめられるところには喜びがあるのです。
今日も私たちは教会で、礼拝を通して、キリストを主なる神と認め、キリストをあがめ、そしてキリストが私たちと共におられることの喜びを分かち合いたいと願います。
今日の聖書の箇所は、ヨハネによる福音書3章22節から30節までの箇所です。
次の一文で今日の箇所は始まります。
22その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
イエス様は、ご自分の弟子たちと一緒にユダヤ地方へ行かれ、そこに滞在して、そしてバプテスマ(洗礼)を授けておられました。
先週、私たちの教会では一人の姉妹がバプテスマをお受けになりました。バプテスマとは、一人の人が、イエス・キリストを主、救い主と信じ、クリスチャンとして歩んでいくことを告白し、表明する儀式です。
私たちキリスト教会は、人々にイエス・キリストの福音を伝え、そして信じる人にバプテスマを授けなさい、とイエス様によって命令されています。
マタイによる福音書28章19~20節に次のように書かれています。
19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
このように、イエス様の教えを世に伝え、信じる人にバプテスマを授けるのは、キリスト者の共同体である教会が、イエス様から受けた命令です。(それは、“大宣教命令”と言われます)
そして今日の箇所では、イエス様が自らバプテスマを人々に授けておられます。イエス様は、ご自分の弟子たちを連れ、ユダヤの各地方へ出かけていき、神の国について述べ伝えました。
イエス様はそこで色々な人々に出会い、彼らに神の国を伝え、そして信じる者に信仰のしるしとしてのバプテスマを授けておられたのです。
イエス様自身がバプテスマを授ける様子を見て、弟子たちは後に自分たちがバプテスマを授けるときに、イエス様のバプテスマの様子を思い出したでしょう。
イエス様は、やがてご自分が天に上げられ、この地上では弟子たちと共にいなくなる時に備えておられたのだと私は思います。
イエス様は弟子たちと一緒にいる時に、“どのように神の国を伝道するのか”、“どのようにバプテスマを授けるのか”ということを、弟子たちに実際に見せながら教えていたのだと、私は想像します。
私は今牧師として教会に仕えさせていただいています。今の自分の牧師としての働きには、かつて私自身の牧師だった方たち(過去所属した教会の牧師たち)から学んだことが、その基礎としてあります。
イエス様が、ご自身で宣教する姿、バプテスマを授ける姿が弟子たちに伝えられ、そしてイエス様の弟子たちがそのようにして学んだことは、時代を超えて今のキリスト教会にも受け継がれているのだと、私は思います。
私たちは今を生きる信仰者として、今の時代の現実にしっかりと目を据えながら、過去から継承されてきた伝道、信仰の内容も大切に、学び続けたいと願います。
23節に次のように書かれています。
23他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
このヨハネとは、バプテスマのヨハネと言われた伝道者です。バプテスマのヨハネはイエス様にもバプテスマ(洗礼)を施した、新約聖書のイエス様の時代の宗教指導者の一人でした。
バプテスマのヨハネは、その当時非常に影響力も、また人気もあった指導者だったと思われます。
しかし、今日の箇所ではイエス様のバプテスマと、バプテスマのヨハネによるバプテスマには明らかな違いがあったことが描かれています。
それは、イエス様は神の子であるご自身の権威で、神の霊である聖霊によってバプテスマを授けていたのに対し、バプテスマのヨハネは、ただ水によってバプテスマを授けていたということです。
ヨハネ福音書1章31節以降の箇所で、バプテスマのヨハネが“わたしは水でバプテスマを授ける。しかし、水でバプテスマを授けるためにわたしをお遣わしになった方(キリスト)は聖霊によってバプテスマを授ける”と言っています。
バプテスマのヨハネのバプテスマは、あくまで人間の手による(その本当の権威は神に拠るのであって、人にはない)バプテスマでした。
私たちキリスト教会は、神様の、いわば代理人として、今も水でバプテスマを授けます。しかし、聖霊によって真のバプテスマをお授けになるお方はイエス・キリストなのです。
私たちは、私たちが神を信じ、そしてバプテスマを受けるように導かれる時、そのバプテスマを聖霊によって真に授けておられるのは、イエス・キリストの神であることを、牧師や教会の権威ではない、ということを胸に留めたいと思います。
今日の箇所の26節を見てみましょう。
26彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
ヨハネの弟子たちは、イエスという新しい指導者のもとへ、多くの人たちがひきよせられているのを見て、嫉妬の気持ちに駆られたようです。
ヨハネの弟子たちは、イエスと言う人を、自分たちの先生のライバルのような存在として見ており、またイエス様に従う弟子たちを、自分たちと対抗(あるいは競争)する人たち、と考えたのでしょう。
ヨハネの弟子たちは、“自分たちの先生のほうがもともとは人気があって、自分たちのグループの方に従う人のほうが多かったのに、今は多くの人が あのイエスという新しい指導者のところへ行ってしまっている”というのが悔しかったのでしょう。
このようなライバル心、あるいは虚栄心は、私たち誰もが心の中に持っているものではないでしょうか。ヨハネの弟子たちの姿は、私たち自身の姿でもあるのでしょう。
しかし、自分の弟子たちにヨハネは次のように答えました。
天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
私たちは、様々なよいものを、天の神からいただきます。自分の能力、才能、その他すべての良いものを天の神から頂きます。
バプテスマのヨハネは、伝道者としての資質、あるいはその使命自体を彼にお与えになったのは天の父なる神であると確信していました。
バプテスマのヨハネは、天の父なる神が彼に与えてくださった使命に、与えられた賜物を用いて、ただ忠実に従うことに喜びを見いだしていました。
神から与えられた賜物ですから、それを他人が与えられた賜物と比較したり、優劣を競ったりする必要はまったくないのです(そうすべきでないのです)。
私たちは、神がそのご計画に基づき私たちそれぞれに与えてくださったものを感謝し、喜ぶことが出来る者でありたいと願います。
また頂いた賜物を大切に、その賜物を用いて、神の国の宣教の働きのために仕えていきたいと願います。
さらにヨハネは自分を花嫁と花婿を結び付ける介添え人の役割に例えています(29節)。キリストが花婿であり、そしてキリストを信じ従う人たちのことを花嫁に例えているのです。
バプテスマのヨハネは、多くの人がキリストを信じ、キリストに従うことができる道を備えるのが自分の使命だと示されていました。
人々を、自分に従うようにするのではなく、人々をイエス・キリストを信じるように導くのが自分の使命であると、ヨハネは確信していたのです。
ですから、多くの人が(花嫁が)イエス・キリスト(花婿)のところへ行き、その教えを受けている、と言う事実は、ヨハネにとってそれ以上の喜びはない喜びでした。
ヨハネは、“わたしは喜びで満たされている”と言っています(29節)。キリストが来られた事、その声を聞き彼は喜びで満たされている、と言うのです。
私たちも、イエス・キリストの声を聞くときに、キリストの声を私たちに命を与え導く、命の言葉として聞くとき、最上の喜びで満たされます。
私たちを喜びで満たす神の言葉、キリストの御言葉を、私たちはいつも聞き、その御言葉によって養われ、そして私たちの人生を生きる力をも頂いてまいりましょう。
今日の箇所最後の節である30節をお読みします。
30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
“あの方”とは、言うまでもなくイエス・キリストです。イエス・キリストが栄えること、キリストの名があがめられ、キリストが信じられることが、私たち人にとっての最大の喜びであるのです。
私たちの中で、キリストがあがめられる時、キリストが私たちの中で大きくなる時、逆に私たち自身は小さく、衰えていきます。
自分中心の私たちは“わたしは、わたしは”という思いが、どうしても最初に来ます。それほどあからさまでなくても、私たちの正直な気持ちは“自分が先”でしょう。
ですから自分の欲求が満たされない時、人が自分の思い通りにならない時、私たちは不満を抱きます。
自分の思い通りにならない時、私たちは神に対してさえも不満を抱くでしょう。
しかし、私たち自身の中で、キリストがもっとも大きな存在となれば、キリストの思い、すなわち神の御心こそが最も大切なものとなります。
キリストが私たちの中で大きくなり、栄えるならば、私たち自身の思いよりも、キリストの思いのほうがはるかに重要で大切なものになります。
“イエス様は、どう思っておられるのだろうか、イエス様はこの私にどのように生きてほしいとお望みなのだろうか”ということが私たちの最大の関心事になるのです。
キリストこそが私たち一人ひとりの中で、また私たちの教会でもっとも栄えるお方であるように、そのような信仰を私たちはいただいてまいりましょう。
私たちの中でもっとも栄えるべきお方、最もあがめられるべきお方、栄光の主が、小さな男の子としてこの世界にお生まれになったことを思い起こすクリスマスが、今年もやってきます。
主イエス・キリストが世に来られた事を心から喜ぶ、クリスマスを感謝して今年もお迎えいたしましょう。
そしてキリストこそが常に私たちの間で最もあがめられ、もっとも栄えるお方でありますようにと、祈り求めましょう。
前奏
招詞 詩編32篇11節
アドベントキャンドルの点火(喜び)
讃美 新生讃美歌 173番 ああベツレヘムよ
主の祈り
讃美 新生讃美歌301番 いかなる恵みぞ
献金
聖句 ヨハネによる福音書3章22~26節
祈祷
宣教 「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」
祈祷
讃美 新生讃美歌 160番 天なる神には
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
後奏
今日は、クリスマス前の待降節(アドヴェント)第三日曜日です。
礼拝の初めに、三本目のアドヴェントキャンドルに火が灯されました。その三本目のろうそくの火は「喜び」を表します。
イエス・キリストが人として世に生まれてこられたクリスマスの出来事は、私たちにとっての大きな喜びです。私たちの喜びの源はイエス・キリストです。
キリストがおられるところに喜びがあります。キリストがおられ、キリストが人々によって認められ、あがめられるところには喜びがあるのです。
今日も私たちは教会で、礼拝を通して、キリストを主なる神と認め、キリストをあがめ、そしてキリストが私たちと共におられることの喜びを分かち合いたいと願います。
今日の聖書の箇所は、ヨハネによる福音書3章22節から30節までの箇所です。
次の一文で今日の箇所は始まります。
22その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
イエス様は、ご自分の弟子たちと一緒にユダヤ地方へ行かれ、そこに滞在して、そしてバプテスマ(洗礼)を授けておられました。
先週、私たちの教会では一人の姉妹がバプテスマをお受けになりました。バプテスマとは、一人の人が、イエス・キリストを主、救い主と信じ、クリスチャンとして歩んでいくことを告白し、表明する儀式です。
私たちキリスト教会は、人々にイエス・キリストの福音を伝え、そして信じる人にバプテスマを授けなさい、とイエス様によって命令されています。
マタイによる福音書28章19~20節に次のように書かれています。
19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
このように、イエス様の教えを世に伝え、信じる人にバプテスマを授けるのは、キリスト者の共同体である教会が、イエス様から受けた命令です。(それは、“大宣教命令”と言われます)
そして今日の箇所では、イエス様が自らバプテスマを人々に授けておられます。イエス様は、ご自分の弟子たちを連れ、ユダヤの各地方へ出かけていき、神の国について述べ伝えました。
イエス様はそこで色々な人々に出会い、彼らに神の国を伝え、そして信じる者に信仰のしるしとしてのバプテスマを授けておられたのです。
イエス様自身がバプテスマを授ける様子を見て、弟子たちは後に自分たちがバプテスマを授けるときに、イエス様のバプテスマの様子を思い出したでしょう。
イエス様は、やがてご自分が天に上げられ、この地上では弟子たちと共にいなくなる時に備えておられたのだと私は思います。
イエス様は弟子たちと一緒にいる時に、“どのように神の国を伝道するのか”、“どのようにバプテスマを授けるのか”ということを、弟子たちに実際に見せながら教えていたのだと、私は想像します。
私は今牧師として教会に仕えさせていただいています。今の自分の牧師としての働きには、かつて私自身の牧師だった方たち(過去所属した教会の牧師たち)から学んだことが、その基礎としてあります。
イエス様が、ご自身で宣教する姿、バプテスマを授ける姿が弟子たちに伝えられ、そしてイエス様の弟子たちがそのようにして学んだことは、時代を超えて今のキリスト教会にも受け継がれているのだと、私は思います。
私たちは今を生きる信仰者として、今の時代の現実にしっかりと目を据えながら、過去から継承されてきた伝道、信仰の内容も大切に、学び続けたいと願います。
23節に次のように書かれています。
23他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
このヨハネとは、バプテスマのヨハネと言われた伝道者です。バプテスマのヨハネはイエス様にもバプテスマ(洗礼)を施した、新約聖書のイエス様の時代の宗教指導者の一人でした。
バプテスマのヨハネは、その当時非常に影響力も、また人気もあった指導者だったと思われます。
しかし、今日の箇所ではイエス様のバプテスマと、バプテスマのヨハネによるバプテスマには明らかな違いがあったことが描かれています。
それは、イエス様は神の子であるご自身の権威で、神の霊である聖霊によってバプテスマを授けていたのに対し、バプテスマのヨハネは、ただ水によってバプテスマを授けていたということです。
ヨハネ福音書1章31節以降の箇所で、バプテスマのヨハネが“わたしは水でバプテスマを授ける。しかし、水でバプテスマを授けるためにわたしをお遣わしになった方(キリスト)は聖霊によってバプテスマを授ける”と言っています。
バプテスマのヨハネのバプテスマは、あくまで人間の手による(その本当の権威は神に拠るのであって、人にはない)バプテスマでした。
私たちキリスト教会は、神様の、いわば代理人として、今も水でバプテスマを授けます。しかし、聖霊によって真のバプテスマをお授けになるお方はイエス・キリストなのです。
私たちは、私たちが神を信じ、そしてバプテスマを受けるように導かれる時、そのバプテスマを聖霊によって真に授けておられるのは、イエス・キリストの神であることを、牧師や教会の権威ではない、ということを胸に留めたいと思います。
今日の箇所の26節を見てみましょう。
26彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
ヨハネの弟子たちは、イエスという新しい指導者のもとへ、多くの人たちがひきよせられているのを見て、嫉妬の気持ちに駆られたようです。
ヨハネの弟子たちは、イエスと言う人を、自分たちの先生のライバルのような存在として見ており、またイエス様に従う弟子たちを、自分たちと対抗(あるいは競争)する人たち、と考えたのでしょう。
ヨハネの弟子たちは、“自分たちの先生のほうがもともとは人気があって、自分たちのグループの方に従う人のほうが多かったのに、今は多くの人が あのイエスという新しい指導者のところへ行ってしまっている”というのが悔しかったのでしょう。
このようなライバル心、あるいは虚栄心は、私たち誰もが心の中に持っているものではないでしょうか。ヨハネの弟子たちの姿は、私たち自身の姿でもあるのでしょう。
しかし、自分の弟子たちにヨハネは次のように答えました。
天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
私たちは、様々なよいものを、天の神からいただきます。自分の能力、才能、その他すべての良いものを天の神から頂きます。
バプテスマのヨハネは、伝道者としての資質、あるいはその使命自体を彼にお与えになったのは天の父なる神であると確信していました。
バプテスマのヨハネは、天の父なる神が彼に与えてくださった使命に、与えられた賜物を用いて、ただ忠実に従うことに喜びを見いだしていました。
神から与えられた賜物ですから、それを他人が与えられた賜物と比較したり、優劣を競ったりする必要はまったくないのです(そうすべきでないのです)。
私たちは、神がそのご計画に基づき私たちそれぞれに与えてくださったものを感謝し、喜ぶことが出来る者でありたいと願います。
また頂いた賜物を大切に、その賜物を用いて、神の国の宣教の働きのために仕えていきたいと願います。
さらにヨハネは自分を花嫁と花婿を結び付ける介添え人の役割に例えています(29節)。キリストが花婿であり、そしてキリストを信じ従う人たちのことを花嫁に例えているのです。
バプテスマのヨハネは、多くの人がキリストを信じ、キリストに従うことができる道を備えるのが自分の使命だと示されていました。
人々を、自分に従うようにするのではなく、人々をイエス・キリストを信じるように導くのが自分の使命であると、ヨハネは確信していたのです。
ですから、多くの人が(花嫁が)イエス・キリスト(花婿)のところへ行き、その教えを受けている、と言う事実は、ヨハネにとってそれ以上の喜びはない喜びでした。
ヨハネは、“わたしは喜びで満たされている”と言っています(29節)。キリストが来られた事、その声を聞き彼は喜びで満たされている、と言うのです。
私たちも、イエス・キリストの声を聞くときに、キリストの声を私たちに命を与え導く、命の言葉として聞くとき、最上の喜びで満たされます。
私たちを喜びで満たす神の言葉、キリストの御言葉を、私たちはいつも聞き、その御言葉によって養われ、そして私たちの人生を生きる力をも頂いてまいりましょう。
今日の箇所最後の節である30節をお読みします。
30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
“あの方”とは、言うまでもなくイエス・キリストです。イエス・キリストが栄えること、キリストの名があがめられ、キリストが信じられることが、私たち人にとっての最大の喜びであるのです。
私たちの中で、キリストがあがめられる時、キリストが私たちの中で大きくなる時、逆に私たち自身は小さく、衰えていきます。
自分中心の私たちは“わたしは、わたしは”という思いが、どうしても最初に来ます。それほどあからさまでなくても、私たちの正直な気持ちは“自分が先”でしょう。
ですから自分の欲求が満たされない時、人が自分の思い通りにならない時、私たちは不満を抱きます。
自分の思い通りにならない時、私たちは神に対してさえも不満を抱くでしょう。
しかし、私たち自身の中で、キリストがもっとも大きな存在となれば、キリストの思い、すなわち神の御心こそが最も大切なものとなります。
キリストが私たちの中で大きくなり、栄えるならば、私たち自身の思いよりも、キリストの思いのほうがはるかに重要で大切なものになります。
“イエス様は、どう思っておられるのだろうか、イエス様はこの私にどのように生きてほしいとお望みなのだろうか”ということが私たちの最大の関心事になるのです。
キリストこそが私たち一人ひとりの中で、また私たちの教会でもっとも栄えるお方であるように、そのような信仰を私たちはいただいてまいりましょう。
私たちの中でもっとも栄えるべきお方、最もあがめられるべきお方、栄光の主が、小さな男の子としてこの世界にお生まれになったことを思い起こすクリスマスが、今年もやってきます。
主イエス・キリストが世に来られた事を心から喜ぶ、クリスマスを感謝して今年もお迎えいたしましょう。
そしてキリストこそが常に私たちの間で最もあがめられ、もっとも栄えるお方でありますようにと、祈り求めましょう。
2024年12月1日日曜日
2024年12月8日 主日礼拝
前奏
招詞 ローマの信徒への手紙12章16節
アドベントキャンドルの点火
賛美 新生讃美歌 149番 来たれやインマヌエル
主の祈り
信仰告白
献金
聖句 ゼカリヤ書6章9~15節
祈祷
宣教 「平和の計画が二人の間に生ずる」
祈祷
賛美 新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
頌栄 新生讃美歌 679番
祝祷
後奏
今日はイエス・キリストのお誕生を記念し、感謝し、お祝いをするクリスマスの前の、「アドベント(待降節)」と言われる期間(クリスマス前の約4週間)の第二日曜日です。
礼拝の初めに二本目のアドベントキャンドルに火が灯されました。
二本目のアドベントキャンドルには“平和”という意味と願いとが込められています。今日は、旧約聖書の『ゼカリヤ書』の中の一箇所から神様の平和の言葉を私たちは共に聞いていきます。
今日の箇所の初めの9節に「主の言葉がわたしに臨んだ」と書かれています。この“わたしme”というのは、ゼカリヤという名の預言者の事です。
ゼカリヤは、バビロン捕囚(バビロニア帝国に国を滅ぼされ、多くのイスラエルの民がバビロンへ連れていかれた出来事)が終わって、エルサレムにイスラエルの民たちが帰ることを許された時代の預言者でした。
バビロン捕囚は約70年続きました。イスラエルを滅ぼしたバビロニア帝国がペルシャ帝国に滅ぼされることによって、バビロンに囚われていたイスラエルの民たちは、ようやく国へ帰ることが許されました。
『エズラ記』の初めに次のように書かれています。
エズラ1:1~4
1ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。
2「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。
3あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいてくださるように。
4すべての残りの者には、どこに寄留している者にも、その所の人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の献げ物を持たせるようにせよ。」
聖書は、主である神がペルシャの王キュロスの心を動かされたので、イスラエルの民たちはバビロンからエルサレムへ帰ることが許された、と言います。
イスラエルの民たちが自分たちの国へ帰り、そこでかつてバビロニアによって破壊された神殿を再建するように許されたのも、それは神がペルシャ王キュロスの心をそのように動かしてくださったからだ、と言うのです。
つまり、バビロン捕囚の終結は、神の恵みであり、イスラエルの民たちが自力で成し遂げた出来事ではなかった、ということです。
私たちが聖書のそのようなメッセージに触れる時、私たちが今も頂く善きものは全て、神からの賜物と恵みであることを知らされます。
何か良き物を私たちが自分の努力や力で手に入れたり、それを成し遂げたと思おうとするときに、私たちは聖書を通した神のメッセージにより、“すべては神の恵みとして私たちに与えられた”という謙虚な思いにさせられるのです。
すべての恵みの源は、主なる神であることを覚えて、私たちは常に感謝の思いを持ち続けたいと願います。
エルサレムではバビロンによって破壊されていた神殿の再建工事が始まりました。しかし、神殿再建工事は、イスラエルの民たちが神殿を再建することをよく思わない他の住民たちに妨害されます(エズラ記4章にそのことが書かれています)。
そのように神殿再建の工事は一時中断しました。しかし、『エズラ記』5章の初めに次のように書かれているように、神殿再建の工事は再開されます。
エズラ5:1~2
1預言者ハガイとイドの子ゼカリヤが、ユダとエルサレムにいるユダの人々に向かってその保護者であるイスラエルの神の名によって預言したので、
2シェアルティエルの子ゼルバベルとヨツァダクの子イエシュアは立ち上がって、エルサレムの神殿建築を再開した。神の預言者たちも彼らと共にいて、助けてくれた。
預言者であったハガイとゼカリヤが、神の言葉を民たちに伝えることによって、民たちは立ち上がって神殿再建の工事に再び取り掛かることができたのです。
神の言葉こそが私たち人を励まし、一度は挫折してしまったことや、または新しいことをこれから始めようという時に、勇気と希望と力を与えてくれます。
私たちが毎週こうして礼拝を通して、神の御言葉を共に聞き分かち合うのも、私たちは礼拝によって霊的な力、霊の糧を頂いて生きる者であるからです。
御言葉によってこそ私たちは真の命を頂き、生きることができます。私たちはまず礼拝で御言葉を聞き分かち合うことによって、神の言葉こそが
私たちを強め生かすことを学び、神の言葉を私たちの力としていきましょう。
アドベント第二日曜日の今日、ゼカリヤ書のこの箇所(6章9~15節)を私たちが聞こうとする理由は何でしょうか。
それは今日の箇所の言葉が、実際にはイエス・キリストが生まれる何百年(約600年前)も前の出来事でありながら、今日の箇所の出来事は、やがてお生まれになるイエス・キリストの到来を預言している箇所であるからです。
11~12節に次のように書かれています。
11銀と金を受け取り、冠をつくり、それをヨツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭に載せて、
12宣言しなさい。万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す。
ここでゼカリヤの言葉を通して、『この人(ここでは大祭司ヨシュア)に冠をかぶせなさい(この人を王としなさい)』という命令が伝えられています。
そしてその王となるお方は「若枝」であると書かれています。そのお方は一つの小さな枝、生まれたばかりの若い枝のような王である、と言うのです。
それは大木のような強いイメージを持ったお方ではなく、その姿は小さな若い枝のようなお方なのです。それはまだ地面から生えたばかりの芽のようなお方です。それはまさに、わたしたちの主イエス・キリストです。
私たちは、クリスマスに、イエス・キリストが人間の子(赤ちゃん)として、ヨセフとマリアの間に生まれてきたことを知っています。
生まれたばかりの人間の赤ちゃんは、保護者の守りと世話がなければ一日も生きていくことはできない、本当に弱い存在です。
神であるお方がそんなお姿でこの世界にお生まれになったとは、信じられないことです。しかし、それが主なる神の御計画でした。
小さな赤ちゃんとして、まるで生え出たばかりの芽のようなお姿で私たちの間に来られる主を、私たちは私たちの王としてお迎えし、そのお方に王冠をお捧げいたしましょう。
私たちは、自分を中心とする罪を抱えています。言ってみれば私たちは自分が自分の王様であるのです。
私たちは、聖書が伝えるイエス・キリストを私たちの王として、私たちの自分の王冠を脱ぎ捨て、王なるキリストに、そのふさわしい王の冠をお返ししましょう。
そして今日の箇所は、その王は「神殿を立て直す」と言います(12節)。この神殿は、現実としては、その当時、バビロニア帝国によって一度壊されたエルサレムの神殿のことを指します。
しかし、信仰的には、ここでその王が建て直す神殿とは、私たち信仰者一人ひとりのことです。私たちの王なるお方、キリストは私たちをキリストの神殿として建て直してくださるお方であるからです。
私たち一人ひとりは神の神殿です。新約聖書のコリントの信徒への手紙一の3章16節に次のように書かれています。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
私たちの王であるキリストは、私たち信仰者一人ひとりを、そしてまた私たちの教会を、主の神殿として、再び建て上げてくださいます。
私たちはいろいろと自分自身が壊されるような、それまで信じていたものが(あるいは自分自身が)信じられなくなったり、まったく自信を失ってしまったりするときがあると思います。
何かに失敗して、“もう立ち直れない、自分の人生にはこれから先になんの希望もない”としか思えないような絶望を感じる時もあるでしょう。
どこへ向かえばよいのか分からない、という時もあると思います。しかし、私たちの主は、主の神殿としての私たちを再建してくださるお方として、この世に来てくださいました。
ですから私たちは何度失敗しても、倒れても、主なる神キリストが私たちの王として、私たちを再建してくださるという、聖書の御言葉に信頼をしましょう。
そして決してあきらめることなく、聖書の御言葉から希望を頂いて、生きていこうではありませんか。
13節をお読みします。
13彼こそ主の神殿を建て直し/威光をまとい、王座に座して治める。その王座の傍らに祭司がいて/平和の計画が二人の間に生ずる。
キリストが私たち信仰者という神殿を立て直し、キリストが私たちの王として私たちをお治めになります。
「その王座の傍らに(一人の)祭司がいて」と書かれていますが、これは王としてのキリストが、神と人とを結び付ける大祭司としての務めも果たされる、ということだと私は理解いたしました。
王として、また大祭司としてのキリストが私たちを治め、導かれます。
そしてキリストによって私たちが治められる時、その時私たち人の間で平和(英語では“ハーモニー(調和)”と訳されています)が生ずる、というのです。
キリストが私たちを治めてくださり、また私たちがキリストを私たちの真の王としてあがめ、そのお言葉に聞き従って生きる時、私たち人同士の間で、真の平和(ヘブライ語のシャローム)が生まれる、というのです。
そのような意味で本当に平和の王であるキリストの到来、キリストのお誕生を記念するクリスマスを前に、今私たちは改めて、王なるキリストに全ての栄光をお返ししましょう。
主なる神がご自分のすべてを私たちに与えてくださることで、今も私たちの間に平和をもたらしてくださる方であることを覚え、心からの感謝を主にお捧げしようではありませんか。
前奏
招詞 ローマの信徒への手紙12章16節
アドベントキャンドルの点火
賛美 新生讃美歌 149番 来たれやインマヌエル
主の祈り
信仰告白
献金
聖句 ゼカリヤ書6章9~15節
祈祷
宣教 「平和の計画が二人の間に生ずる」
祈祷
賛美 新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
頌栄 新生讃美歌 679番
祝祷
後奏
今日はイエス・キリストのお誕生を記念し、感謝し、お祝いをするクリスマスの前の、「アドベント(待降節)」と言われる期間(クリスマス前の約4週間)の第二日曜日です。
礼拝の初めに二本目のアドベントキャンドルに火が灯されました。
二本目のアドベントキャンドルには“平和”という意味と願いとが込められています。今日は、旧約聖書の『ゼカリヤ書』の中の一箇所から神様の平和の言葉を私たちは共に聞いていきます。
今日の箇所の初めの9節に「主の言葉がわたしに臨んだ」と書かれています。この“わたしme”というのは、ゼカリヤという名の預言者の事です。
ゼカリヤは、バビロン捕囚(バビロニア帝国に国を滅ぼされ、多くのイスラエルの民がバビロンへ連れていかれた出来事)が終わって、エルサレムにイスラエルの民たちが帰ることを許された時代の預言者でした。
バビロン捕囚は約70年続きました。イスラエルを滅ぼしたバビロニア帝国がペルシャ帝国に滅ぼされることによって、バビロンに囚われていたイスラエルの民たちは、ようやく国へ帰ることが許されました。
『エズラ記』の初めに次のように書かれています。
エズラ1:1~4
1ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。
2「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。
3あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいてくださるように。
4すべての残りの者には、どこに寄留している者にも、その所の人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の献げ物を持たせるようにせよ。」
聖書は、主である神がペルシャの王キュロスの心を動かされたので、イスラエルの民たちはバビロンからエルサレムへ帰ることが許された、と言います。
イスラエルの民たちが自分たちの国へ帰り、そこでかつてバビロニアによって破壊された神殿を再建するように許されたのも、それは神がペルシャ王キュロスの心をそのように動かしてくださったからだ、と言うのです。
つまり、バビロン捕囚の終結は、神の恵みであり、イスラエルの民たちが自力で成し遂げた出来事ではなかった、ということです。
私たちが聖書のそのようなメッセージに触れる時、私たちが今も頂く善きものは全て、神からの賜物と恵みであることを知らされます。
何か良き物を私たちが自分の努力や力で手に入れたり、それを成し遂げたと思おうとするときに、私たちは聖書を通した神のメッセージにより、“すべては神の恵みとして私たちに与えられた”という謙虚な思いにさせられるのです。
すべての恵みの源は、主なる神であることを覚えて、私たちは常に感謝の思いを持ち続けたいと願います。
エルサレムではバビロンによって破壊されていた神殿の再建工事が始まりました。しかし、神殿再建工事は、イスラエルの民たちが神殿を再建することをよく思わない他の住民たちに妨害されます(エズラ記4章にそのことが書かれています)。
そのように神殿再建の工事は一時中断しました。しかし、『エズラ記』5章の初めに次のように書かれているように、神殿再建の工事は再開されます。
エズラ5:1~2
1預言者ハガイとイドの子ゼカリヤが、ユダとエルサレムにいるユダの人々に向かってその保護者であるイスラエルの神の名によって預言したので、
2シェアルティエルの子ゼルバベルとヨツァダクの子イエシュアは立ち上がって、エルサレムの神殿建築を再開した。神の預言者たちも彼らと共にいて、助けてくれた。
預言者であったハガイとゼカリヤが、神の言葉を民たちに伝えることによって、民たちは立ち上がって神殿再建の工事に再び取り掛かることができたのです。
神の言葉こそが私たち人を励まし、一度は挫折してしまったことや、または新しいことをこれから始めようという時に、勇気と希望と力を与えてくれます。
私たちが毎週こうして礼拝を通して、神の御言葉を共に聞き分かち合うのも、私たちは礼拝によって霊的な力、霊の糧を頂いて生きる者であるからです。
御言葉によってこそ私たちは真の命を頂き、生きることができます。私たちはまず礼拝で御言葉を聞き分かち合うことによって、神の言葉こそが
私たちを強め生かすことを学び、神の言葉を私たちの力としていきましょう。
アドベント第二日曜日の今日、ゼカリヤ書のこの箇所(6章9~15節)を私たちが聞こうとする理由は何でしょうか。
それは今日の箇所の言葉が、実際にはイエス・キリストが生まれる何百年(約600年前)も前の出来事でありながら、今日の箇所の出来事は、やがてお生まれになるイエス・キリストの到来を預言している箇所であるからです。
11~12節に次のように書かれています。
11銀と金を受け取り、冠をつくり、それをヨツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭に載せて、
12宣言しなさい。万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す。
ここでゼカリヤの言葉を通して、『この人(ここでは大祭司ヨシュア)に冠をかぶせなさい(この人を王としなさい)』という命令が伝えられています。
そしてその王となるお方は「若枝」であると書かれています。そのお方は一つの小さな枝、生まれたばかりの若い枝のような王である、と言うのです。
それは大木のような強いイメージを持ったお方ではなく、その姿は小さな若い枝のようなお方なのです。それはまだ地面から生えたばかりの芽のようなお方です。それはまさに、わたしたちの主イエス・キリストです。
私たちは、クリスマスに、イエス・キリストが人間の子(赤ちゃん)として、ヨセフとマリアの間に生まれてきたことを知っています。
生まれたばかりの人間の赤ちゃんは、保護者の守りと世話がなければ一日も生きていくことはできない、本当に弱い存在です。
神であるお方がそんなお姿でこの世界にお生まれになったとは、信じられないことです。しかし、それが主なる神の御計画でした。
小さな赤ちゃんとして、まるで生え出たばかりの芽のようなお姿で私たちの間に来られる主を、私たちは私たちの王としてお迎えし、そのお方に王冠をお捧げいたしましょう。
私たちは、自分を中心とする罪を抱えています。言ってみれば私たちは自分が自分の王様であるのです。
私たちは、聖書が伝えるイエス・キリストを私たちの王として、私たちの自分の王冠を脱ぎ捨て、王なるキリストに、そのふさわしい王の冠をお返ししましょう。
そして今日の箇所は、その王は「神殿を立て直す」と言います(12節)。この神殿は、現実としては、その当時、バビロニア帝国によって一度壊されたエルサレムの神殿のことを指します。
しかし、信仰的には、ここでその王が建て直す神殿とは、私たち信仰者一人ひとりのことです。私たちの王なるお方、キリストは私たちをキリストの神殿として建て直してくださるお方であるからです。
私たち一人ひとりは神の神殿です。新約聖書のコリントの信徒への手紙一の3章16節に次のように書かれています。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
私たちの王であるキリストは、私たち信仰者一人ひとりを、そしてまた私たちの教会を、主の神殿として、再び建て上げてくださいます。
私たちはいろいろと自分自身が壊されるような、それまで信じていたものが(あるいは自分自身が)信じられなくなったり、まったく自信を失ってしまったりするときがあると思います。
何かに失敗して、“もう立ち直れない、自分の人生にはこれから先になんの希望もない”としか思えないような絶望を感じる時もあるでしょう。
どこへ向かえばよいのか分からない、という時もあると思います。しかし、私たちの主は、主の神殿としての私たちを再建してくださるお方として、この世に来てくださいました。
ですから私たちは何度失敗しても、倒れても、主なる神キリストが私たちの王として、私たちを再建してくださるという、聖書の御言葉に信頼をしましょう。
そして決してあきらめることなく、聖書の御言葉から希望を頂いて、生きていこうではありませんか。
13節をお読みします。
13彼こそ主の神殿を建て直し/威光をまとい、王座に座して治める。その王座の傍らに祭司がいて/平和の計画が二人の間に生ずる。
キリストが私たち信仰者という神殿を立て直し、キリストが私たちの王として私たちをお治めになります。
「その王座の傍らに(一人の)祭司がいて」と書かれていますが、これは王としてのキリストが、神と人とを結び付ける大祭司としての務めも果たされる、ということだと私は理解いたしました。
王として、また大祭司としてのキリストが私たちを治め、導かれます。
そしてキリストによって私たちが治められる時、その時私たち人の間で平和(英語では“ハーモニー(調和)”と訳されています)が生ずる、というのです。
キリストが私たちを治めてくださり、また私たちがキリストを私たちの真の王としてあがめ、そのお言葉に聞き従って生きる時、私たち人同士の間で、真の平和(ヘブライ語のシャローム)が生まれる、というのです。
そのような意味で本当に平和の王であるキリストの到来、キリストのお誕生を記念するクリスマスを前に、今私たちは改めて、王なるキリストに全ての栄光をお返ししましょう。
主なる神がご自分のすべてを私たちに与えてくださることで、今も私たちの間に平和をもたらしてくださる方であることを覚え、心からの感謝を主にお捧げしようではありませんか。
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