2024年12月29日 主日礼拝
前奏
招詞 イザヤ書32章15節
賛美 新生讃美歌120番 主をたたえよ 力みつる主を
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌301番 いかなる恵みぞ
献金
聖句 使徒言行録1章6~11節
祈祷
宣教 「聖霊が降るとあなたがたは力を受ける」
祈祷
賛美 新生讃美歌 81番 父なるわが神
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
後奏
2024年最後の主日礼拝を今日私たちは迎えています。今年2024年も、御言葉を通して、主なる神が私たちに語りかけ続けてくださり、私たちを支え続けてくださり、導き続けてくださったことに、感謝をささげたいと思います。
今年度4月から、私(たち)は礼拝の中で旧約聖書の初めから新約聖書の終わりまで、聖書全体を一年間の礼拝メッセージで網羅しようという、大胆な(かつ無茶な?)試みに取り組んでいます。
聖書の初めから終わりまでを、大まかにでも網羅することで、私たちは主なる神が、私たち人間の思いと計画を超えた、偉大な思いとご計画をお持ちであることを知ることができます。
聖書の中心は、神の御子イエス・キリストの福音です。聖書はキリストが人となってこの世界にお生まれになり、そして私たちの罪の贖いのために十字架の上で死なれたことを、伝えています。
そしてイエス様が三日目に復活なさったことにより、神の思いとご計画、何よりも神の御愛がはっきりと私たちに示されました。
私たち人はそれぞれ、自分自身の願いや思い、色々な考えを持ち、計画を立てたりします。
しかし、十字架と復活の主キリストを主なる神と信じ、キリストの導きに従って歩むことこそが、わたしたち人が選び取るべき道だと、聖書から私たちは示されます。
「主の御言葉に立つ」という年間主題によって、今年度(2024年度)私たちの教会は歩んでいます。
もうすぐ新しい年(2025年)となりますが、新しい年もまた主の御言葉に立ち続け、御言葉によって霊的に養われ続けていきたいと私たちは願います。
礼拝メッセージのスケジュールは、先週のクリスマス礼拝までで、新約聖書の福音書までのメッセージを終えました。
新約聖書の中には、イエス・キリストが生まれてから、十字架にかけられて死に、そして復活するまでを描いた「福音書gospels」と言われる書が4つあります(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)。
そしてその4つの福音書の後、イエス・キリストが復活して天に昇って行かれた後、イエス様の弟子たち(使徒とも言われた弟子たち)が、イエス・キリストの福音を各地に伝えていく「使徒言行録」が続きます。
今日の聖書箇所は、使徒言行録1章からの箇所です。
先ほどお読みいただいた6節からの箇所のすぐ前の箇所ですが、使徒言行録1章3節に次のように書かれています。
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
イエス様は苦難を受け(十字架にかかり死に)、そしてその後復活して“ご自分が生きていること”を数多くの証拠をもって使徒たちに示されました。
イエス様は、使徒たちが実際に見て、触ることもできるように、復活の体を伴って死から彼らの前にそのお姿を現されました。
イエス様の復活は、夢や幻覚などではなく、この地上で人の目にもはっきりと示された神のなさった出来事だったのです。
イエス様の弟子たちは、復活したイエス様に出会い、大変驚き、中には疑う者もいたのですが、しかし彼らは彼らの主が復活したことを目の当たりにし、再び大きな力と希望を受けました。
今日の箇所で、使徒たちがイエス様に次のように尋ねています。
「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」
弟子たちは、他のイエスラエルの民たちと同様、彼らの救い主がイスラエルを建て直してくださり、彼らを支配している国(ローマ帝国)の圧政から解放してくださる、とずっと信じていました。
しかし、彼らのその望みは、イエス様が無残に十字架にかかり殺されたことで完全に断たれた、と彼らは思って、彼らは絶望していました。
しかし、そんな彼らの前に復活した主イエス・キリストが現れたのです。彼らは復活の主と出会い、喜ぶと共に、“イスラエルが解放される”と言う望みもまだ終わっていない、とも思って喜んだのでしょう。
ですから彼らはイエス様に尋ねたのです。
「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」
イエス様はこうお答えになりました。(7節)
父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
自分たちの国が建て直され、解放される、と言う決定的な時は、それは天の父なる神が神の権威よって定めることだ、と言うのです。(人間が定めるのではない、と言うのです)
私たち信仰者は、神がお定めになる時に従って、大切な時とタイミングを待つということが求められます。
私たちには色々な願いや思いがあります。今日は今年最後の主日礼拝です。
今年一年を振り返って、皆さんはそれぞれ、今年願っていたことが叶った、あるいはその通りにはならなかった、など色々な思いを持っておられるのではないでしょうか。
願い通りにならなかったことで落胆している、がっかりしている、と言う方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、私たちはそのような時にこそ、聖書の御言葉を通して、神の御心を知り、神の時を待つ、神の御計画を信じる、と言うことを教えられます。
私たちの思いや願いをはるかに超えた、神の御計画があります。そして神はお定めになった時に、そのご計画を成就されるのです。
ですから私たちは、天の父なる神が、ご自分の権威によってお定めになった時と時期があることを信じ、神の御旨を求め、その御旨にしたがって歩んでいこうと、今日改めて決意をいたしましょう。
イスラエルの国が建て直される、それはすなわち信仰的に、今の私たち信仰者一人ひとりの信仰が建て直される、罪からの解放の喜びが与えられということでもあります。
それには一つの徴(しるし)が伴うことが、今日の箇所に書かれています。
それが8節に書かれています。8節をお読みします。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
聖霊が降ることによって与えられる力とは、どのような力でしょうか。
『エフェソの信徒への手紙』を書いたパウロが、その手紙の中で次のように、祈っています。
エフェソの信徒への手紙3章16~17節
どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
神の霊である聖霊が降る時、私たちの内なる人が強められる、とここでは書かれています。
私たちの内なる人が強められるとは、すなわち私たちの心のうちに、聖霊によってイエス・キリストが住んでくださる、ということです。
そして私たちの内にキリストが住まわれるとは、私たちがキリストの愛に根ざし、キリストの愛にしっかりと立つ者(キリストの愛によって建て上げられる者)となる、ということです。
ですから聖霊が私たちに与えられるということは、キリストが私の心のうちに住んでくださっている確信によって測られると言うこともできるでしょう。
そしてキリストが私たちの心の内におられること、キリストによってこの私がいかに尊い者とされ、愛されているかを確信することができる、というのも聖霊の働きです。
そしてキリストの愛によって満たされた私たちが、その愛をもって自分以外の他者に、またこの社会に向き合うということを通して、神の国がこの世界に広がっていくようになるのです。
聖書の神、主は最初イスラエル民族をお選びになり、彼らに救いの御業を示されました。やがてイスラエル民族は、神の救いは彼らだけに与えられていると信じるようになっていきます。
しかし、聖霊が使徒たちに降ると、彼らはキリストの愛に満たされて、エルサレムばかりではなく、ユダヤ、サマリヤの全土、地の果てに至るまで、彼らはキリストの証人となる、と今日の箇所で言われています。
エルサレム、ユダヤと言う枠を超えて、主の十字架と復活によってはっきりと示された罪の赦しと主の御愛は、地の果てにまで、あらゆる国や地域、すべての民に伝えられていくのです。
そして福音がそのように伝えられていく原動力は、通常、ある国が他国を支配する時に用いる武力や、相手を無理やり押さえつけるような何らかの力ではないのです。
それは聖霊によって与えられるイエス・キリストの愛だと、聖書は伝えるのです。
キリストの愛が私たちの内に本当に満ちて、そのキリストの御愛に基づいて私たちが生き、行動する時、私たちは他者と本当に理解し合うことができるようになり、またキリストの愛が私たちを通して広がっていくでしょう。
そして無理やり力によって相手に自分の要求を飲ませたりする方法によってではなく、キリストの愛に基づいて互いの間に理解と思いやりが生まれる時、そこから生まれる何か新しいことや変化、その出来事は、本当に力あるものになるのでしょう。
今日の箇所で、イエス様は弟子たちの前から、“やがてまた私は戻ってくる”という約束と共に、天に昇っていかれました。
今私たちの目に、イエス様は目には見えませんが、主はその約束通り、聖霊によって私たちの内に住んでくださり、主の御愛で私たちを満たしてくださっています。
今年一年、私たちそれぞれ、また私たちの教会も、様々な失敗や挫折なども経験したと思います。逆に、達成できたことも、多くの喜び、恵みもあったと思います。
私たちは、聖霊によって与えられる確信を持ちましょう。主が定めた時、その時その時期に主の大きなご計画は実現するのです。そのような主の時、神の時の中に私たちは生かされていることを信じましょう。
そして私たちに、主の聖霊がさらに豊かに与えられ、主の御愛で満たされた私たちが、主の御愛をこの世に伝えていく器として、ますます大きく用いられますようにと願い、祈ろうではありませんか。