2024年12月15日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編32篇11節
アドベントキャンドルの点火(喜び)
讃美 新生讃美歌 173番 ああベツレヘムよ
主の祈り
讃美 新生讃美歌301番 いかなる恵みぞ
献金
聖句 ヨハネによる福音書3章22~26節
祈祷
宣教 「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」
祈祷
讃美 新生讃美歌 160番 天なる神には
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
後奏
今日は、クリスマス前の待降節(アドヴェント)第三日曜日です。
礼拝の初めに、三本目のアドヴェントキャンドルに火が灯されました。その三本目のろうそくの火は「喜び」を表します。
イエス・キリストが人として世に生まれてこられたクリスマスの出来事は、私たちにとっての大きな喜びです。私たちの喜びの源はイエス・キリストです。
キリストがおられるところに喜びがあります。キリストがおられ、キリストが人々によって認められ、あがめられるところには喜びがあるのです。
今日も私たちは教会で、礼拝を通して、キリストを主なる神と認め、キリストをあがめ、そしてキリストが私たちと共におられることの喜びを分かち合いたいと願います。
今日の聖書の箇所は、ヨハネによる福音書3章22節から30節までの箇所です。
次の一文で今日の箇所は始まります。
22その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
イエス様は、ご自分の弟子たちと一緒にユダヤ地方へ行かれ、そこに滞在して、そしてバプテスマ(洗礼)を授けておられました。
先週、私たちの教会では一人の姉妹がバプテスマをお受けになりました。バプテスマとは、一人の人が、イエス・キリストを主、救い主と信じ、クリスチャンとして歩んでいくことを告白し、表明する儀式です。
私たちキリスト教会は、人々にイエス・キリストの福音を伝え、そして信じる人にバプテスマを授けなさい、とイエス様によって命令されています。
マタイによる福音書28章19~20節に次のように書かれています。
19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
このように、イエス様の教えを世に伝え、信じる人にバプテスマを授けるのは、キリスト者の共同体である教会が、イエス様から受けた命令です。(それは、“大宣教命令”と言われます)
そして今日の箇所では、イエス様が自らバプテスマを人々に授けておられます。イエス様は、ご自分の弟子たちを連れ、ユダヤの各地方へ出かけていき、神の国について述べ伝えました。
イエス様はそこで色々な人々に出会い、彼らに神の国を伝え、そして信じる者に信仰のしるしとしてのバプテスマを授けておられたのです。
イエス様自身がバプテスマを授ける様子を見て、弟子たちは後に自分たちがバプテスマを授けるときに、イエス様のバプテスマの様子を思い出したでしょう。
イエス様は、やがてご自分が天に上げられ、この地上では弟子たちと共にいなくなる時に備えておられたのだと私は思います。
イエス様は弟子たちと一緒にいる時に、“どのように神の国を伝道するのか”、“どのようにバプテスマを授けるのか”ということを、弟子たちに実際に見せながら教えていたのだと、私は想像します。
私は今牧師として教会に仕えさせていただいています。今の自分の牧師としての働きには、かつて私自身の牧師だった方たち(過去所属した教会の牧師たち)から学んだことが、その基礎としてあります。
イエス様が、ご自身で宣教する姿、バプテスマを授ける姿が弟子たちに伝えられ、そしてイエス様の弟子たちがそのようにして学んだことは、時代を超えて今のキリスト教会にも受け継がれているのだと、私は思います。
私たちは今を生きる信仰者として、今の時代の現実にしっかりと目を据えながら、過去から継承されてきた伝道、信仰の内容も大切に、学び続けたいと願います。
23節に次のように書かれています。
23他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
このヨハネとは、バプテスマのヨハネと言われた伝道者です。バプテスマのヨハネはイエス様にもバプテスマ(洗礼)を施した、新約聖書のイエス様の時代の宗教指導者の一人でした。
バプテスマのヨハネは、その当時非常に影響力も、また人気もあった指導者だったと思われます。
しかし、今日の箇所ではイエス様のバプテスマと、バプテスマのヨハネによるバプテスマには明らかな違いがあったことが描かれています。
それは、イエス様は神の子であるご自身の権威で、神の霊である聖霊によってバプテスマを授けていたのに対し、バプテスマのヨハネは、ただ水によってバプテスマを授けていたということです。
ヨハネ福音書1章31節以降の箇所で、バプテスマのヨハネが“わたしは水でバプテスマを授ける。しかし、水でバプテスマを授けるためにわたしをお遣わしになった方(キリスト)は聖霊によってバプテスマを授ける”と言っています。
バプテスマのヨハネのバプテスマは、あくまで人間の手による(その本当の権威は神に拠るのであって、人にはない)バプテスマでした。
私たちキリスト教会は、神様の、いわば代理人として、今も水でバプテスマを授けます。しかし、聖霊によって真のバプテスマをお授けになるお方はイエス・キリストなのです。
私たちは、私たちが神を信じ、そしてバプテスマを受けるように導かれる時、そのバプテスマを聖霊によって真に授けておられるのは、イエス・キリストの神であることを、牧師や教会の権威ではない、ということを胸に留めたいと思います。
今日の箇所の26節を見てみましょう。
26彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
ヨハネの弟子たちは、イエスという新しい指導者のもとへ、多くの人たちがひきよせられているのを見て、嫉妬の気持ちに駆られたようです。
ヨハネの弟子たちは、イエスと言う人を、自分たちの先生のライバルのような存在として見ており、またイエス様に従う弟子たちを、自分たちと対抗(あるいは競争)する人たち、と考えたのでしょう。
ヨハネの弟子たちは、“自分たちの先生のほうがもともとは人気があって、自分たちのグループの方に従う人のほうが多かったのに、今は多くの人が あのイエスという新しい指導者のところへ行ってしまっている”というのが悔しかったのでしょう。
このようなライバル心、あるいは虚栄心は、私たち誰もが心の中に持っているものではないでしょうか。ヨハネの弟子たちの姿は、私たち自身の姿でもあるのでしょう。
しかし、自分の弟子たちにヨハネは次のように答えました。
天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
私たちは、様々なよいものを、天の神からいただきます。自分の能力、才能、その他すべての良いものを天の神から頂きます。
バプテスマのヨハネは、伝道者としての資質、あるいはその使命自体を彼にお与えになったのは天の父なる神であると確信していました。
バプテスマのヨハネは、天の父なる神が彼に与えてくださった使命に、与えられた賜物を用いて、ただ忠実に従うことに喜びを見いだしていました。
神から与えられた賜物ですから、それを他人が与えられた賜物と比較したり、優劣を競ったりする必要はまったくないのです(そうすべきでないのです)。
私たちは、神がそのご計画に基づき私たちそれぞれに与えてくださったものを感謝し、喜ぶことが出来る者でありたいと願います。
また頂いた賜物を大切に、その賜物を用いて、神の国の宣教の働きのために仕えていきたいと願います。
さらにヨハネは自分を花嫁と花婿を結び付ける介添え人の役割に例えています(29節)。キリストが花婿であり、そしてキリストを信じ従う人たちのことを花嫁に例えているのです。
バプテスマのヨハネは、多くの人がキリストを信じ、キリストに従うことができる道を備えるのが自分の使命だと示されていました。
人々を、自分に従うようにするのではなく、人々をイエス・キリストを信じるように導くのが自分の使命であると、ヨハネは確信していたのです。
ですから、多くの人が(花嫁が)イエス・キリスト(花婿)のところへ行き、その教えを受けている、と言う事実は、ヨハネにとってそれ以上の喜びはない喜びでした。
ヨハネは、“わたしは喜びで満たされている”と言っています(29節)。キリストが来られた事、その声を聞き彼は喜びで満たされている、と言うのです。
私たちも、イエス・キリストの声を聞くときに、キリストの声を私たちに命を与え導く、命の言葉として聞くとき、最上の喜びで満たされます。
私たちを喜びで満たす神の言葉、キリストの御言葉を、私たちはいつも聞き、その御言葉によって養われ、そして私たちの人生を生きる力をも頂いてまいりましょう。
今日の箇所最後の節である30節をお読みします。
30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
“あの方”とは、言うまでもなくイエス・キリストです。イエス・キリストが栄えること、キリストの名があがめられ、キリストが信じられることが、私たち人にとっての最大の喜びであるのです。
私たちの中で、キリストがあがめられる時、キリストが私たちの中で大きくなる時、逆に私たち自身は小さく、衰えていきます。
自分中心の私たちは“わたしは、わたしは”という思いが、どうしても最初に来ます。それほどあからさまでなくても、私たちの正直な気持ちは“自分が先”でしょう。
ですから自分の欲求が満たされない時、人が自分の思い通りにならない時、私たちは不満を抱きます。
自分の思い通りにならない時、私たちは神に対してさえも不満を抱くでしょう。
しかし、私たち自身の中で、キリストがもっとも大きな存在となれば、キリストの思い、すなわち神の御心こそが最も大切なものとなります。
キリストが私たちの中で大きくなり、栄えるならば、私たち自身の思いよりも、キリストの思いのほうがはるかに重要で大切なものになります。
“イエス様は、どう思っておられるのだろうか、イエス様はこの私にどのように生きてほしいとお望みなのだろうか”ということが私たちの最大の関心事になるのです。
キリストこそが私たち一人ひとりの中で、また私たちの教会でもっとも栄えるお方であるように、そのような信仰を私たちはいただいてまいりましょう。
私たちの中でもっとも栄えるべきお方、最もあがめられるべきお方、栄光の主が、小さな男の子としてこの世界にお生まれになったことを思い起こすクリスマスが、今年もやってきます。
主イエス・キリストが世に来られた事を心から喜ぶ、クリスマスを感謝して今年もお迎えいたしましょう。
そしてキリストこそが常に私たちの間で最もあがめられ、もっとも栄えるお方でありますようにと、祈り求めましょう。