2024年12月8日 主日礼拝
前奏
招詞 ローマの信徒への手紙12章16節
アドベントキャンドルの点火
賛美 新生讃美歌 149番 来たれやインマヌエル
主の祈り
信仰告白
献金
聖句 ゼカリヤ書6章9~15節
祈祷
宣教 「平和の計画が二人の間に生ずる」
祈祷
賛美 新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
頌栄 新生讃美歌 679番
祝祷
後奏
今日はイエス・キリストのお誕生を記念し、感謝し、お祝いをするクリスマスの前の、「アドベント(待降節)」と言われる期間(クリスマス前の約4週間)の第二日曜日です。
礼拝の初めに二本目のアドベントキャンドルに火が灯されました。
二本目のアドベントキャンドルには“平和”という意味と願いとが込められています。今日は、旧約聖書の『ゼカリヤ書』の中の一箇所から神様の平和の言葉を私たちは共に聞いていきます。
今日の箇所の初めの9節に「主の言葉がわたしに臨んだ」と書かれています。この“わたしme”というのは、ゼカリヤという名の預言者の事です。
ゼカリヤは、バビロン捕囚(バビロニア帝国に国を滅ぼされ、多くのイスラエルの民がバビロンへ連れていかれた出来事)が終わって、エルサレムにイスラエルの民たちが帰ることを許された時代の預言者でした。
バビロン捕囚は約70年続きました。イスラエルを滅ぼしたバビロニア帝国がペルシャ帝国に滅ぼされることによって、バビロンに囚われていたイスラエルの民たちは、ようやく国へ帰ることが許されました。
『エズラ記』の初めに次のように書かれています。
エズラ1:1~4
1ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。
2「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。
3あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいてくださるように。
4すべての残りの者には、どこに寄留している者にも、その所の人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の献げ物を持たせるようにせよ。」
聖書は、主である神がペルシャの王キュロスの心を動かされたので、イスラエルの民たちはバビロンからエルサレムへ帰ることが許された、と言います。
イスラエルの民たちが自分たちの国へ帰り、そこでかつてバビロニアによって破壊された神殿を再建するように許されたのも、それは神がペルシャ王キュロスの心をそのように動かしてくださったからだ、と言うのです。
つまり、バビロン捕囚の終結は、神の恵みであり、イスラエルの民たちが自力で成し遂げた出来事ではなかった、ということです。
私たちが聖書のそのようなメッセージに触れる時、私たちが今も頂く善きものは全て、神からの賜物と恵みであることを知らされます。
何か良き物を私たちが自分の努力や力で手に入れたり、それを成し遂げたと思おうとするときに、私たちは聖書を通した神のメッセージにより、“すべては神の恵みとして私たちに与えられた”という謙虚な思いにさせられるのです。
すべての恵みの源は、主なる神であることを覚えて、私たちは常に感謝の思いを持ち続けたいと願います。
エルサレムではバビロンによって破壊されていた神殿の再建工事が始まりました。しかし、神殿再建工事は、イスラエルの民たちが神殿を再建することをよく思わない他の住民たちに妨害されます(エズラ記4章にそのことが書かれています)。
そのように神殿再建の工事は一時中断しました。しかし、『エズラ記』5章の初めに次のように書かれているように、神殿再建の工事は再開されます。
エズラ5:1~2
1預言者ハガイとイドの子ゼカリヤが、ユダとエルサレムにいるユダの人々に向かってその保護者であるイスラエルの神の名によって預言したので、
2シェアルティエルの子ゼルバベルとヨツァダクの子イエシュアは立ち上がって、エルサレムの神殿建築を再開した。神の預言者たちも彼らと共にいて、助けてくれた。
預言者であったハガイとゼカリヤが、神の言葉を民たちに伝えることによって、民たちは立ち上がって神殿再建の工事に再び取り掛かることができたのです。
神の言葉こそが私たち人を励まし、一度は挫折してしまったことや、または新しいことをこれから始めようという時に、勇気と希望と力を与えてくれます。
私たちが毎週こうして礼拝を通して、神の御言葉を共に聞き分かち合うのも、私たちは礼拝によって霊的な力、霊の糧を頂いて生きる者であるからです。
御言葉によってこそ私たちは真の命を頂き、生きることができます。私たちはまず礼拝で御言葉を聞き分かち合うことによって、神の言葉こそが
私たちを強め生かすことを学び、神の言葉を私たちの力としていきましょう。
アドベント第二日曜日の今日、ゼカリヤ書のこの箇所(6章9~15節)を私たちが聞こうとする理由は何でしょうか。
それは今日の箇所の言葉が、実際にはイエス・キリストが生まれる何百年(約600年前)も前の出来事でありながら、今日の箇所の出来事は、やがてお生まれになるイエス・キリストの到来を預言している箇所であるからです。
11~12節に次のように書かれています。
11銀と金を受け取り、冠をつくり、それをヨツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭に載せて、
12宣言しなさい。万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す。
ここでゼカリヤの言葉を通して、『この人(ここでは大祭司ヨシュア)に冠をかぶせなさい(この人を王としなさい)』という命令が伝えられています。
そしてその王となるお方は「若枝」であると書かれています。そのお方は一つの小さな枝、生まれたばかりの若い枝のような王である、と言うのです。
それは大木のような強いイメージを持ったお方ではなく、その姿は小さな若い枝のようなお方なのです。それはまだ地面から生えたばかりの芽のようなお方です。それはまさに、わたしたちの主イエス・キリストです。
私たちは、クリスマスに、イエス・キリストが人間の子(赤ちゃん)として、ヨセフとマリアの間に生まれてきたことを知っています。
生まれたばかりの人間の赤ちゃんは、保護者の守りと世話がなければ一日も生きていくことはできない、本当に弱い存在です。
神であるお方がそんなお姿でこの世界にお生まれになったとは、信じられないことです。しかし、それが主なる神の御計画でした。
小さな赤ちゃんとして、まるで生え出たばかりの芽のようなお姿で私たちの間に来られる主を、私たちは私たちの王としてお迎えし、そのお方に王冠をお捧げいたしましょう。
私たちは、自分を中心とする罪を抱えています。言ってみれば私たちは自分が自分の王様であるのです。
私たちは、聖書が伝えるイエス・キリストを私たちの王として、私たちの自分の王冠を脱ぎ捨て、王なるキリストに、そのふさわしい王の冠をお返ししましょう。
そして今日の箇所は、その王は「神殿を立て直す」と言います(12節)。この神殿は、現実としては、その当時、バビロニア帝国によって一度壊されたエルサレムの神殿のことを指します。
しかし、信仰的には、ここでその王が建て直す神殿とは、私たち信仰者一人ひとりのことです。私たちの王なるお方、キリストは私たちをキリストの神殿として建て直してくださるお方であるからです。
私たち一人ひとりは神の神殿です。新約聖書のコリントの信徒への手紙一の3章16節に次のように書かれています。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
私たちの王であるキリストは、私たち信仰者一人ひとりを、そしてまた私たちの教会を、主の神殿として、再び建て上げてくださいます。
私たちはいろいろと自分自身が壊されるような、それまで信じていたものが(あるいは自分自身が)信じられなくなったり、まったく自信を失ってしまったりするときがあると思います。
何かに失敗して、“もう立ち直れない、自分の人生にはこれから先になんの希望もない”としか思えないような絶望を感じる時もあるでしょう。
どこへ向かえばよいのか分からない、という時もあると思います。しかし、私たちの主は、主の神殿としての私たちを再建してくださるお方として、この世に来てくださいました。
ですから私たちは何度失敗しても、倒れても、主なる神キリストが私たちの王として、私たちを再建してくださるという、聖書の御言葉に信頼をしましょう。
そして決してあきらめることなく、聖書の御言葉から希望を頂いて、生きていこうではありませんか。
13節をお読みします。
13彼こそ主の神殿を建て直し/威光をまとい、王座に座して治める。その王座の傍らに祭司がいて/平和の計画が二人の間に生ずる。
キリストが私たち信仰者という神殿を立て直し、キリストが私たちの王として私たちをお治めになります。
「その王座の傍らに(一人の)祭司がいて」と書かれていますが、これは王としてのキリストが、神と人とを結び付ける大祭司としての務めも果たされる、ということだと私は理解いたしました。
王として、また大祭司としてのキリストが私たちを治め、導かれます。
そしてキリストによって私たちが治められる時、その時私たち人の間で平和(英語では“ハーモニー(調和)”と訳されています)が生ずる、というのです。
キリストが私たちを治めてくださり、また私たちがキリストを私たちの真の王としてあがめ、そのお言葉に聞き従って生きる時、私たち人同士の間で、真の平和(ヘブライ語のシャローム)が生まれる、というのです。
そのような意味で本当に平和の王であるキリストの到来、キリストのお誕生を記念するクリスマスを前に、今私たちは改めて、王なるキリストに全ての栄光をお返ししましょう。
主なる神がご自分のすべてを私たちに与えてくださることで、今も私たちの間に平和をもたらしてくださる方であることを覚え、心からの感謝を主にお捧げしようではありませんか。