2025年1月25日土曜日

2025年1月26日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編62篇9節
賛美  新生讃美歌 125番 造られしものよ
主の祈り
主の晩餐
賛美  新生讃美歌 261番 み霊なる聖き神
献金
聖句  ガラテヤの信徒への手紙1章6~10節
祈祷
宣教  「他の福音はない」
祈祷
賛美  新生讃美歌 492番 わが身の望みは
頌栄  新生讃美歌 671番
祝祷
後奏

 キリスト教信仰、すなわちイエス・キリストを神、救い主と信じる信仰は、「恵み」として私たちに与えられたものです。
 神は、キリストの恵みの中で生きるようにと、私たちを招いてくださいました。キリストへの信仰は、“神からの私たちへの招き”によって始まりました。
  それは無償の招きです。私たちが自らの努力や知恵によって到達して獲得したものでは決してありません。
私たちは、色々な招きやお誘いを、日常生活の中で人から受けることがあります。結婚式やその他の催しごとへの招待状を私たちがいただくこともあります。
 私たちは、そのような招待を受けたとき、その招待をお受けして出席するかどうかを決断いたします。
 私たちが何かの招待を受ける時、それはその招待を受ける側が、招待する側から見て、“この人には参加してほしい”、“この人は参加するのに相応しい人だ”と見なされた、ということです。

 招待する側は、いわば何らかの条件や考えに基づいて、誰を招待するかを選ぶのです。
先週執り行われたアメリカ大統領就任式では、外交の慣例では通常招待はされない、地位の海外の要人たちにも招待が送られたようで、それが異例のこととして、ニュースになっておりました。
 そのような政治的な行事への招待には、打算的と言いますか、将来的な利益を見据えた戦略的な考えもその背後にあるのでしょう。
 「つきあう友達を選べ」とも、私たちは人からよく言われたと思います。「良い友だちを選んでつきあいなさい」、「悪い人と友達にはなるな」と、私自身(そこまではっきりは、言わなかったと思いますが)、自分の子どもたちにも言ったことがあると思います。
 人と人との間の友情は純粋な絆であってほしい、と私は願いますが、自分自身の心の中を見ると、友達さえも自分の損得勘定で選んでいるのではないか、と私は自分のことを顧みて、思わされます。

 それでは、神の招き、神は人をどのように選び、神であるご自分を信じるようにと、イエス・キリストを信じる恵みの道へと、招いてくださるのでしょうか。
 神の目から(あるいは人の目から見ても)相応しい人、優秀な人、信心深い人、敬虔な人が選ばれて、そのような人たちだけが招かれて、神を信じる(イエス・キリストを信じる)クリスチャンになるのでしょうか。
 そうではありません。クリスチャンは、信仰が深まるほど、つまり神への信頼と感謝が深まるほどに、“神の恵みには全く相応しくない、この私が神によって選ばれて、救われた”と知らされていきます。
 今日の聖書箇所であるガラテヤの信徒への手紙を書いたパウロも、“キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた。私はその罪人の頭だ”と言いました(1テモテ1:15)
 キリスト者として、神の恵みを本当に知っているかどうかは、「私は罪人の頭だ」というその言葉が、自分自身のものとなっているかどうか、によって分かると言えます。

 神の赦しと恵みは、罪人の頭であるこの私に与えられた、と言う感謝と謙遜が、キリスト信仰には伴わなくてはならないのです。
 今日の箇所の初めに、「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と書かれています。
  このように書かれた背景としては、この手紙を書いたパウロと、この手紙の宛先であるガラテヤ地方の教会とに起きた、ある問題と出来事が、あります。
かつて、このパウロが伝道したことによって、ガラテヤという地方にキリスト教会が出来ました。
 しかしパウロがガラテヤを去った後、別の人たちがそこへやって来て、パウロが伝えたものとは違う“別の福音”を述べ伝えたと言われています。彼らは「ユダヤ主義者」と言われる人たちでした。
「ユダヤ主義者」とは、ユダヤ人のクリスチャンでした。しかし彼らは、“ユダヤ人でない異邦人がキリスト者になるには、まずユダヤ教に改宗し、そしてユダヤ教で定められた数々の律法をも遵守しなくてはならない”と主張した人たちでした。

キリストを信じるとは、神が人となられたお方であるイエス・キリストの招きにお応えして、キリストのもとへ立ち返ることです。
 神は一人子であるイエス・キリストを通してご自身のことを表されました。つまり、私たちはイエス・キリストを通して、「神とはどのようなお方か」を知ることができるのです。
 キリストの招きは無条件です。あえて条件がある、と言うならば、それはただその招きを私たちが受けるだけです。私たちが心を開き、イエス様に自分の心の中に入って来ていただくこと、だけです。
 しかし確かに、心を開き、イエス様に入ってきていただく、神の無条件の恵みをただ感謝して頂く、というのも難しいことなのかもしれません。

 それは、私たちがなかなか自分の心を開いて、自分の心の中心にイエス様を迎えることができないからです。
私たちの中心には、頑固な(そして傲慢な)自分自身が居座っていて、その場所をなかなか救い主にさえ明け渡すことができない、からです。
 そして私たちは、たとえ一度はキリストの福音を信じ受け入れても、それからしばらくすると、その信仰を手放し、離れてしまうことがあり得ます。
 純粋なキリストへの信頼と信仰以外の、何か別のものが私たちの間に入り込むとき、そのようなことが起こります。
 ユダヤ主義者たちは、“ユダヤ教の律法をしっかりと守ること”を信仰、そして救いの条件だと考えました。
 ある意味、彼らは真面目で熱心な人たちだった、とも言えるでしょう。
定められた律法をしっかりと守ること、今の私たちキリスト者で言えば、それは例えば“礼拝に出席すること”、“献金をすること”、“奉仕をすること”などが当てはまるでしょう。

そして、それらをしっかりと行わなければ、キリスト者にはなれない(キリスト者ではない)、という考えが、いわば現代のユダヤ主義です。
しかし、それは順番が逆です。キリストの無償の恵みを知り、その恵みをただ感謝と悔い改めをもって頂くならば、それは信仰生活の実践となって現れてきます。(その逆ではないのです)
これは私の出身教会の牧師が、仏教のある僧侶の言葉として、時々礼拝メッセージの中で紹介していた言葉ですが、このような言葉があります。
「靴を揃えることは信仰ではないが、信仰は靴を揃えます」
 (他者の靴を揃える=自分、あるいは他者が脱いだ靴を、玄関で、綺麗に揃える(line up, straighten up)

昨年、私たちのS姉がしてくださった証の中で、“妹のご友人のクリスチャンの方が、結婚式で、皆さんの靴を黙々と揃えている姿が印象的であった”と、証してくださいました。
黙々と(声高にそれを見せびらかすようなことはく)靴を揃える、というその行為と姿の土台には、その方のイエス様への信仰があった、ということです。
ですからその姿(自然な信仰の姿)は、S姉の心を打ち、後々までS姉の記憶となって残ったのだと、私は信じます。

 イエス様は弟子たちにこうおっしゃいました。

「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」ルカによる福音書22章27節
 「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」とイエス様はおっしゃいました。そしてイエス様は、そのお言葉通りに生きられました。
 イエス様は、ご自身神と等しいお方でありながら、ご自分を徹底的に低くされました。そして食事の席で他の人たちに給仕する者にまでなられたのです。
 そのお方が、最後は人々からの失望、そして嘲りと侮辱とを一身に受けて、十字架にかかって死なれました。
 イエス様はそのようにしてご自身の命を差し出し、神を神とすることができず、神から離れて自分を自分の中心とし、仕える者ではなく人に仕えてもらうことをいつも望むような私たちのために、犠牲の贖いとなってくださいました。

 もしも、イエス様への信仰以外に、私たち人の善い行いとか、律法を守るとか、宗教的な規則を守るなどの外見的な事柄が、私たちの救いの条件となるならば、それはイエス様の十字架の死を意味のないものとすることです。
 私たちの教会は十字架を屋根の尖塔の上に掲げています。バプテストリー(洗礼槽)の上の窓も十字架の形になっています。
 キリスト教会は、キリストに救われたことを信じるキリスト者の群れとして、“私たちの救いはイエス・キリストの十字架の贖いの業だけによる、それは純粋な恵み(無償、無条件の)です”と告白し、常にその信仰を表明しているのです。

 キリストの十字架の贖いの御業以外に、もし私たちが救いの条件を何か別に付けくわえるようなことがあれば、(あるいは逆に、十字架の贖いの御業を否定したりするのであれば)、私たちはキリストの救いを自ら手放し、神に敵対するものと見なされても仕方がないでしょう。

8節に次のように書かれています。

8しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。

 “だれであっても、イエス・キリストの福音ではない、キリストによる無償の恵み以外の何かによる、偽物の福音をあなたがたに伝えようとするならば、それがたとえ私たちであっても呪われろ”と、とても激しい言葉が書かれています。
“わたしたちであっても even if we”というところが、とても重要だと思います。聖書の御言葉は、私たちが他者を非難するためにあるのではなく、まずその御言葉を聞く私たち自身が戒められるためにある、ということを、ここから教えられます。
つまり、この手紙を書いたパウロは、「この私であっても、間違った福音を伝えてしまう、そのような弱さと罪をいつでも抱え持っているのだ」とここで表明しているのです。
イエス・キリストの福音以外の何かを(例えば、自分自身の能力や経験、実績など)誇り、私たちがそのようなものを救いの条件であるかのように人にも伝えてしまう、その危険が常にある、ということです。

もし私たちがそのような過ちへと道を踏み外そうとするならば、その時にはどうぞ十字架のイエス・キリストが私たちを正してくださいますように、という自戒の願いも込めて、パウロはその信仰の言葉を、ここに残したのです。
イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださいました。主は復活され、今も生きて私たちの救い(真の命を頂いて、新しく生まれ変わって生きること)のために、今も働いておられます。
イエス・キリストによるその救いは、私たちがただ心を開き、神に立ち返って、信じ受け取るだけで、私たちに与えられます。

その救いを受け取るのには、私たちの側で何か達成(クリア)しなくてはならない行動や、人格や、その他いかなる基準も条件も存在しません。
 ただキリストのみ、キリストへの信仰のみが私たちの間で常に分かち合われ、述べ伝えられ、キリストのみが、私たちの間で崇められますように。キリストへの感謝と喜び、賛美が私たちの間で豊かに表されますように、祈りましょう。