2025年3月22日土曜日

2025年3月23日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編31篇6節
賛美  新生讃美歌 3番 あがめまつれ うるわしき主
主の祈り
主の晩餐
賛美  新生讃美歌388番 主よ わが心に
献金
聖句  ヨハネの手紙一 3章19~24節
祈祷
宣教 『わたしたちは真理に属している』
祈祷
賛美  新生讃美歌92番 喜びたたえよ
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷
後奏


今日の聖書の箇所は『ヨハネの手紙一』の一箇所です。この手紙を書いたヨハネは、『ヨハネによる福音書』の著者である、イエス様の十二人の直弟子の一人であった、ヨハネであると言われます。
ヨハネは「福音書」Gospelという形式で、彼自身が共に生きたイエス様の生涯とイエス様の語ったお言葉、そしてイエス様が十字架にかけられて死に、復活したことを記録しました。
一方、この手紙のほうではヨハネは、イエス・キリストを信じる信仰者が、いかに信仰生活を生きるべきか、特に“信仰者が互いに愛し合う”というその生き方に重点を置いています。
ヨハネがこの手紙を書いたのは、イエス様が死んでから60年ぐらい後であっただろうと言われています。
 イエス様が地上にはおられなくなってから、もう60年も経ったのならば、ヨハネの中でイエス様のことは、遠い過去の記憶になっていたのでしょうか。

 「昔、私たちの先生だったイエス様は、素晴らしい神の国について私たちに教えてくださったな。懐かしいな」と思い出すような対象にイエス様はなっていたのでしょうか。
 まったくそうではありませんでした。ヨハネにとって60年前に死んだイエス様は、まさにキリスト(救世主)として、今も変わらずに”生きておられる“存在でした。
ヨハネの手紙の言葉の一つ一つが、このヨハネが、聖霊を通して働かれるイエス・キリストの力を受けていたことを表しています。
 イエス・キリストは人間としては、もう地上には生きておられなくても、ヨハネの中で、また彼と共にキリストを信じる者同士の間で、イエス様は確かに生き続けておられたのです。

 今も変わらずキリストは生き続け、わたしたちに生きた神の言葉を語り続けてくださっています。わたしたちは、今もこうして、その神の生きた言葉に共に頂くことができます。
 今日の箇所少し前の3章16節に次のように書かれています。

ヨハネの手紙一/ 03章 16節
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

ヨハネの福音書の3章16節には次のように書かれています。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

どちらも3章16節です。本質的に、どちらも同じことが書かれています。”イエス・キリストがわたしたちのために死んでくださった。神がその独り子を私たちに与えてくださった。それによって私たちは愛を知った“ということです。
しかしヨハネの手紙では「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」と書かれています。
イエス様の死後60年たっても、“主は私たちのために命を捨ててくださった”という事実そして真実は、ヨハネにとって過去の一つの記憶などではありませんでした。
むしろそれ(イエス様が命を捨ててくださったこと)は、“だから、わたしたちも兄弟のために命をすてるべきだ”とヨハネに言わせるほどに、彼(ヨハネ)の信仰の生き方を突き動かす原動力であり続けたのです。
神が人の罪を救うために死なれたように、私たちは人のために死ぬことはできません。人が人の罪を救うことはできないからです。
しかし、神がこの私のために命を捨ててくださったことを本当に信じるならば、その信仰は他者への愛を実践する生き方として具体的な形をとるべきだ、とヨハネは言っているのです。
イエス・キリストは私たちのために命をすててくださいました。それによって私たちは愛を知りました。これが聖書が今も変わらず伝える中心的なメッセージです。

 そして“その真の愛を知らされた私たちは互いに愛し合おう。イエス様が命を捨ててくださるほどに、わたしたちがまず愛されたのだから”と、聖書は私たちを今も促し続けるのです。
 イエス様が十字架の上で命を捨ててくださったことにより、私たちは自分がいかに神に愛されているか、価値ある者とされているか、を知ることができます。
 もし私たちの中で、“自分には価値がない”、“自分は愛されていない”と思われる方がいれば、そのお方はぜひイエス・キリスト、十字架の上のイエス・キリストを見上げていただきたいと私は願います。
 十字架の上で命を捨ててくださったイエス・キリストこそが、真の愛を、すなわち“このわたしが神の前に、どれほど愛され尊い者とされているのか”ということを教えてくださるからです。

 今日の箇所の初めに「これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます」と書かれています。
 真理とはすなわちイエス・キリストのことです。
具体的にはイエス・キリストの御言葉であり、イエス・キリストの愛です。真理ですから、それは時代と共に変わったり、その力が弱っていくということがありません。
 いつまでも変わらない確かなもの、絶対的なもの、いつまでも力を持ち続けるもの、私たちを励まし続けるもの、それが真理です。それはキリストの御言葉でありキリストの愛です。

そのような真実に自分が属していると信じることができるならば、そこには真の安心(平安)があります。
 この世のものは移り変わります。人の心も流行も、考え方や常識なども、時代と共に変わっていきます。
しかしイエス・キリストはいつまでも変わりません。キリストの愛と御言葉は決して変わりません。そのキリストの真実に私たちは属しているのです。ですからそこには安心と平安があります。

 教会で、変わることのないイエス・キリストの御言葉が語られ続け、その御言葉が分かち合われ、御言葉に基づいた愛の実践がなされるならば、そこには確かな希望が生まれるでしょう。
 今、教会に集う人々、クリスチャンの数は非常に少ないです。私たちの教会も小さな群れです。キリストの福音を宣教するための、良き知恵と方策が私たちにも与えられますようにと、私たちは共に思いを合わせて祈りたいと願います。
 しかしまず何よりも、決して変わることのないイエス・キリストの御言葉があり、その御言葉は常に私たちと共にある、という真実を覚え、その真実の上に私たちは立ち続けようではありませんか。
 御言葉という、決して変わることのない宝を、私たちは頂いているのですから、私たちは安心してよいのです。
 20節に「心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、全てをご存じである」と書かれています。
 私たちは、自分自身に正直に向き合う時、自分で自分を責めてしまう時があるのではないでしょうか。
自分の嫌な面や欠点を思い知らされたり、また何か失敗をしてしまったりして、自分で自分が許せなかったり、自分のことが嫌いになることもあると思います。
自分の罪を知らされ、こんな自分が神の前に出て行くことなど決してできない、と思うことがあるかもしれません。そう思うほどに自分の罪に向き合うことは、大切なことでもあります。
しかし、そのように自分を責めるようなことがあっても、それでも神は私たちの心より大きいお方ですから、やはり私たちは安心できるのです。
 神は、私たちに欠点があっても、嫌な部分があっても、それでも私たちを赦し、神のご愛の中で生きるようにと、私たち一人ひとりを招いてくださったからです。
 自分の欠点や嫌な部分に向き合わされ、その上でなお、神に赦された大きな喜びを最初に体験したのは、ペテロやヨハネなどの、イエス様の最初の直弟子たちでした。

 この手紙の筆者であるヨハネも含め、イエス様の弟子たちは、イエス様が捕まったとき、全員イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。
 弟子のペトロは、“あなたは鶏が二度泣く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう”と彼に言ったイエス様の言葉を思い出し、実際にそうなった瞬間に、彼は泣き崩れました。
そんな弟子たちが、復活のイエス・キリストに出会い、自分の罪が赦されたことを知り、それからは力強くイエス・キリストの福音を伝道していく者になりました。
 彼らの伝道の原動力は、“人は自分自身の努力や功績によって救われるのではない。弱く、欠点があり、また卑怯でさえある人間が、ただ神様の憐れみによって罪赦され、救われるのだ”という確信でした。
 自分自身を誇らず、ただ私はキリストの愛と憐れみによってのみ赦され、生かされ、そして愛されている、というのが福音です。その福音が私たちにとっての本当の力であり希望です。

 そして、その希望こそが私たちの生き方を変えていきます。

今日の箇所の22節に「神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからですreceive from him anything we ask, because we keep his commands and do what pleases him.」と書かれています。

続く23節は、次の通りです。
その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。
“イエス・キリストの名”というのは、イエス・キリストが神であるということ、キリストがなさったこと、キリストの御言葉など、イエス・キリストの本質を表します。
信仰者はイエス様の御言葉、イエス様の愛、イエス様のなさったことすべてを信じ、それらに信頼して生きていきます。
そして信仰者が共にキリストの名を信じ、キリストの名によって集まる時、そこではキリストの愛が分かち合われ、実践されていきます。
 そのようにキリストの名が信じられ、信仰によって互いに愛し合う信仰の共同体の中で、私たちが心を合わせて何かを神に願い祈りあうならば、その祈りは何でも適えられる、と今日の箇所で約束されているのです。

 “神に願うことは何でも適えられる”と聞くと、”本当にそうだろうか。適えられない願いや祈りもあるではないか“と私たちは思うかもしれません。
そのような疑いを持つ時も、そのような疑いを持つ時こそ、私たちは、イエス・キリストは私たちのために十字架の上で命を捨ててくださった、という出来事に心を向けましょう。
そしてそこに神から私たちに向けられた、大きな御愛があることを、私たちは改めて確信いたしましょう。
わたしたちのために、その独り子をお与えになった神が、私たちが心あわせて、互いに愛し合う関係の中で、共に祈るその願いを、聞いて下さらないはずがないではありませんか。
 これからも私たちはキリストの御言葉を通して、キリストの御愛を豊かにいただいてまいりましょう。
 そしてキリストの愛を豊かにいただくことによって、互いを大切に愛し合う信仰を、私たちは大切にしていこうではありませんか。