2025年3月15日土曜日

2025年3月16日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編148篇5節
賛美  新生讃美歌 513番 長き道 山や谷
主の祈り
賛美  新生讃美歌 388番 主よ わが心に
献金
聖句  ヤコブの手紙 1章12~18節
祈祷
宣教  「試練と誘惑」
祈祷
賛美  新生讃美歌 552番 わたしが悩むときも
頌栄  新生讃美歌 673番
祝祷
後奏

 今日の聖書箇所は、新約聖書の『ヤコブの手紙』1章からの御言葉です。この手紙を書いた人はヤコブと言う人です。
  彼は自分のことを1章1節で、「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」と言っています。
 このヤコブは、イエス・キリストの弟の一人であったヤコブだと言われています。彼はイエス様の死後(復活、昇天の後)、エルサレム教会で指導的な立場に就くようになりました。
  ヤコブはイエス様の弟として、小さな頃から人としての兄イエスの姿を見て育ったでしょう。そして彼は、イエス様が約30歳頃から始めた伝道活動の様子も目の当たりにしていたでしょう。
 地上の家族としては自分の兄でしたが、イエス様がなさったこと、そのお言葉(教え)と行いと、そして十字架で死んで復活されたことを通して、ヤコブは自分の兄は確かにキリスト、真の救い主であると信じるようになったのです。

誰であっても人は、イエス・キリストの前には僕(しもべservant)であることが、イエス様の弟のヤコブが自分のことを”キリストの僕“と言っていることからも分かります。
この地上での生まれ(たとえ血縁で、イエス様と結ばれていたとしても)や地位に関係なく、人は信仰によって誰もが“キリストの僕”なのです。
 私たちは主キリストの僕です。つまり私たちの主人、先生はイエス・キリストだけです。キリストのもとで私たちは誰もが主の僕です。
私たちは僕として主に仕える者です。そして、主に仕えるとは私たち人同士が互いに仕え合うということをも意味します。
 イエス様が私たちに命じられたことを端的に言えば、それは“互いに愛し合いなさい。互いに仕えなさい”ということにつきます。

 “キリスト教では何か戒律(決まり)のようなものがありますか?食べてはいけないものや、飲んではいけないものがありますか?”と、人から聞かれることが私たちはあるのではないでしょうか。
 クリスチャンは、特定の食べ物を食べることを禁じられていたり、お酒を飲むことなどを禁じられてはいません。
 キリスト教の母体となったユダヤ教では(旧約聖書の中では)、食べてよいものと食べてはいけないもの(清いものと清くないもの)に関する細かな食物規定がありました。
しかし、イエス・キリストが人としてお生まれになり、ご自身を私たちすべての人間の罪の贖いとして捧げてくださったことにより、全ては新しくされました。

イエス様は次のようにおっしゃいました。
「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」(マタイによる福音書15章11節)

 何を食べるかが問題ではなく、口から出るもの、すなわち私たちの心からどのような思いが言葉となって出て来るのかが問題であると、イエス様はお教えになったのです。
私たちが語る言葉が他者を傷つける言葉でなく、他者をいたわり、他者に愛を伝える言葉であるかどうかが重要だ、ということです。
 そして、イエス様のその教えの根本である「互いに愛し合いなさい。互いに仕え合いなさい」という戒めは、これを本当に守ろうとするならば、それは大変難しい、厳しい教えであると私は思います。
  どうすれば私たちはイエス様の教えに従うことができるのでしょうか。

 私たちがイエス様の教えに従うためには、イエス様を通して私たちが天の父なる神の御心を知り、神を信じて信頼するということが必要です。
 神とはどのようなお方であるのか、神は私たちに何をお与えになるのか、ということを私たちは知らねばなりません。
  イエス様を通して私たちが確信させられることは、主なる神は私たちに善きもの、最善のものを与えてくださる、ということです。
  今日の箇所の17節に「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです 」と書かれています。
  私たちは、神がお与えになるものを時に喜べない、むしろそれが苦しく思える時もあります。それは試練が私たちに与えられた時です。
 私たちが生きていく上では色々な試練があります。苦しいこと、時に悲しいこと、苦難が私たちを見舞うことがあります。
  それが果たして本当に神から与えられたものであるのかどうかは、私たちは祈りをもって慎重に見極めなくてはなりません。
  しかし今日の箇所は言います。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。」もしそれが、神が私たちにお与えになった試練であるならば、その試練を耐え忍ぶ人は幸いだ、と聖書は言うのです。
 12節の続きには、「その人(試練を耐え忍ぶ人)は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」と書かれています。

  ここで言われている一つのことは、試練を耐え忍ぶということは、神を愛することに繋がる、ということです。
  試練は苦しいものですが、ある試練を受けることで、私たちは同じような試練や苦しみを受けている人の気持ちが分かるようになることがあると思います。
  そのような試練の経験を自分がしなかったのならば、そのような気持ちを持つことはなかっただろう、という経験をした方もおられると思います。
 例えば、病気になることは辛い経験です。しかし病気になり健康を失うことで、普段健康であることがいかに幸いなことであるのかを感謝することもあります。
 病気になることで、病に苦しむ他の人の気持ちが理解できるようになる、ということもあります。
 いつも健康であれば、それが当たり前になり、そのことで神様に感謝することさえ私たちはしなくなるかもしれません。
  しかし一度健康を害し、普段健康であることの有難さを知れば、健康であることに私たちは本当に感謝するようになる、その健康を与えてくださる神に感謝するようになります。
 そのように試練を経験し、それを耐え忍ぶことによって、私たちが神に感謝をし、神は善きものを与えてくださるお方であると信じるようになるのであれば、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」という言葉は確かに真実です。
 神が私たちにお与えになる試練であれば、それを通してわたしたちは忍耐と、そして神への信頼と愛を持つことができるようになると、私たちは信じていきたいと願います。

 13~15節をお読みします。
13誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
14むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。
15そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。

神が私たちを悪へ誘いこむようなことは決してなさらないのです。もし私たちが悪い誘惑に誘い込まれるようなことがあるのならば、それは私たち自身の欲望が生む罪のせいだ、と聖書は言います。
神は試練を通して私たちを、神を愛しまた人を愛する者へと成長させてくださいます。その神は私たちを悪いものへ誘惑なさることを決してなさいません。
もし私たちが悪いものに誘われ、罪と死の道へ引きずられていくのならば、それは私たち自身の内にある欲望が原因であり、つまり私たち自身の責任だというのです。
この点でイエス様の教え、聖書の教えは大変に厳しいです。「何を食べてはいけない。何を飲んではいけない」という戒めを表面的に守るかどうかが問題ではないからです。
試練を耐え忍び、悪い誘惑に打ち勝ち、神を愛し人を愛する者となるかどうかが、私たちの救いにとって重要なことであるのです。
そして聖書は、そのような救いはイエス・キリストを通して私たちに与えられたことを伝えます。

今日の18節にこう書かれています。
18御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

 「真理の言葉」とはイエス・キリストの言葉であり、イエス・キリストそのもののことです。
これは、父なる神は、イエス・キリストの御言葉によってわたしたちを新しく生まれ変わらせてくださったということです。
今も日ごとに、イエス・キリストの御言葉によって神は私たちを新しく生まれ変わらせてくださっています。
 私たちが何よりも主の御言葉を信じ、御言葉そのものであるイエス・キリストを信じ、キリストに従って生きるとき、私たちは古い罪ある性質から、罪赦された清く愛のある者へと変えられるのです。

 18節後半「それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです」
 初穂とは、神に捧げられる最上の供え物のことです。ここに私たちの生きる究極の目的が書かれています。
  私たちは主なる神の御言葉であるイエス・キリストによって新しく生まれ変わります。
罪赦されて、神を愛し、人を愛する者へと変えられていきます。そのような自分を私たちは神に、そして人に捧げるのです。
 神の愛を本当に知らされた者は、もはや自分のために、自分の利益のために生きることをせず、神のため、人のためにと生きるようになるのです。自分を捧げてそのように生きるのです。
  これは人間の力や経験、努力によっては決して到達できるものではありません。
 真の神であるお方が人となって、最も苦しい試練を十字架の上でお受けになった出来事を通して、私たちはキリストの愛を知り、その愛によって自分自身も愛ある者へと変えられていきます。
私たちは、私たちに代わって苦難を受けられたキリストの愛を頂いて、試練を耐え忍び、神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕える者に変えられていきます。
私たちが、愛のある者へと変えられるため、イエス様が十字架の道へと向かって行っていくださいました。その苦難の道のりを覚える受難節(レント)の時を今私たちは過ごしています。
イエス様が背負われたもの、歩まれた苦難の道に私たちは今こそ思いを巡らせましょう。
そしてイエス様が教えてくださり、また私たちに与えてくださった愛を、私たちは心からの感謝と悔い改めをもって、今日も受け取っていこうではありませんか。