2025年6月1日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編16篇2節
賛美 新生讃美歌105番 くしき主の光
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌262番 み霊よくだりて
献金
聖句 使徒言行録2章22~31節
祈祷
宣教 「命に至る道を示されて」
祈祷
賛美 新生讃美歌86番 み言葉もて霊の火を
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の聖書の箇所は、使徒言行録2章の中間の部分です。この2章の初めには、五旬祭(ペンテコステ)と言われるユダヤ教の、収穫感謝の祝日の日に、集まっていた弟子たちに聖霊が降ったことが描かれています。
神の霊である聖霊がキリストの弟子たちに降ったペンテコステの日を出来事を祝う礼拝を、私たちは来週(6月8日)に持ちます。
聖霊が弟子たちに降ったペンテコステの出来事は、そこからキリスト教会が誕生した、と言われる出来事でもあります。
なぜなら、聖霊を受けた弟子たちが、その時色々な国の言葉で神の偉大な業、について語り始めたからです。
現在のキリスト教会も、神の偉大な業を語ること、伝えることが神様から託されています。そして教会は、その神の業を、私たちの周りの社会、世界へと向けて語るのです。
神の偉大な御業、そして神の愛と恵みについて語り伝えるという、教会としてのその働きが始まったのが、ペンテコステの日なのです。
今日の箇所は、そのペンテコステの出来事の時、集まっていた多くの人たちに向けて語りだしたペトロの話(説教)の続きです。
今日の箇所の初めの22節をお読みします。
22イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。
ペトロがここで最初に言っていることは「ナザレの人イエスは神から遣わされたお方です」ということです。
“神から遣わされたお方、すなわち神に等しいお方がナザレの人であった”、ということは、その時にペトロの話を聞いていたユダヤ人たちにとっては受け入れがたいことでした。
ナザレというのは、イスラエルの北にあるガリラヤと言われた地域の中の小さな村です。イエス様はそこでお育ちになりました。
マタイ福音書によれば、イエス様はユダヤのベツレヘムという町でお生まれになりました。
その時ユダヤの王であったヘロデ王が、”自分に代わる新しい王が生まれた“という知らせを(東の方から来た学者たちから)聞いて、その子を見つけ出そうとします。
しかしその子を見つけることができず、結局ヘロデ王がベツレヘム一帯にいた二歳以下の男の子を全員殺させるという、大変残忍な出来事が起きました。
ヘロデのその虐殺を逃れるために、イエス様の父のヨセフと、ヨセフの妻マリア、そして赤ちゃんのイエス様はエジプトへと逃れます。
そしてヘロデが死んだ後、ヨセフたちはイスラエルへ戻ってきましたが、ベツレヘムではなく、ガリラヤ地方のナザレで住むようになったと聖書に書かれています。(マタイ2章)。
そのナザレは、ガリラヤの中でも小さな村で、他の地域の人たちからは、蔑まれていました。そのことは、例えばヨハネ福音書の中の次の箇所からも分かります。
ヨハネ福音書の1章43節からの場面で、フィリポ(後の12弟子の一人)がイエス様に出会います。
フィリポはイエス様が神の子であると信じ、イエス様に従いました。そしてフィリポはナタナエルという自分の仲間に、イエス様のことを伝えます。
しかしその時ナタナエルがこう言います。「ナザレから何か良いものが出るだろうか(でるはずがない)」(ヨハネ1:46)。
イエス様の生きた当時、それほどナザレという村は、他の場所の人たちから、ガリラヤの中でさえも特に見下され、蔑まれていたということです。
しかし、神の子であるイエス様は、神のご計画によって、そのナザレでお育ちになり、「ナザレの人イエス」と呼ばれるようになりました。
人の目から見れば“ナザレから何か良いものが出るだろうか(出るはずがない)”と思われていたナザレが、神によって選ばれ、神の子が人としてお育ちになる、という大変特別な場所となったのです。
当時のユダヤの人々がナザレに対して抱いていたような蔑みと差別の思いを、今の私たちも何かに(誰かに)対して持っているかもしれません。それが人の罪の一つです。
しかし、人からは蔑まれているものが、神の目には尊いものとされ、特別に用いられるということを覚え、私たちは自分の心の中の差別や偏見の罪にも気づき、悔い改めたいと願います。
ペトロは、ナザレの人イエスは、神の業をなさったけれども、人の罪のために十字架にかけて殺された、と話します。
ペトロは「あなたがたが、イエス様を十字架にかけて殺した」とまで言って(23節)、イエス様はペトロ自身をも含む、全ての人の罪のために十字架にかけられた、ということを述べます。
そしてペトロは、十字架にかけられて殺されたイエス様が、死の苦しみから解放されて、復活させられた、と述べます。キリストの復活をペトロは力強く述べたのです。
この時、なぜペトロにここまでの確信があったのでしょうか。
それはまず、ペトロ自身が復活のイエス様にお会いしたからです。そしてペトロには、聖書の御言葉による確信もその時与えられていました。
ペトロは、旧約聖書の『詩編』に記されたダビデによる詩編を引用して、次のように話し始めます。
今日の箇所の25節をお読みします。これは詩編16篇からの引用です。
25ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。
(もう一度)
『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。
この主(the Lord)とは、主なる神です。そしてこの”主“とはイエス・キリストのことだ、とペトロは断言するのです。つまり、イエス様は主であり、神である、ということです。
「わたしは、いつも目の前に主を見ていた」~ダビデによるこの詩編の言葉に、ペトロは、イエス様が生きている間に、ずっと自分と一緒にいてくださった時のことを重ねて思い出していたでしょう。
“イエス様がただの人間でしかなったのならば、主が一緒にいてくださった時、決してあのような安心感と平安は得られなかったはずだ”と、ペトロは思い出していたのだと私は想像します。
弟子たちがイエス様と一緒に船に乗り込んで湖にこぎ出した時、激しい嵐にあって、舟が沈みそうになった時がありました。
その時弟子たちは恐れましたが、イエス様が風と湖とをお叱りになると嵐が止まりました。ペトロは、そのように嵐をも静めたイエス様の姿を思い出していたかもしれません。
主が共にいてくだされば、主が私たちと共におられるならば、私たちは決して動揺しないのです。
どんなに激しい嵐にも、主イエス様の御言葉の力の前には、私たちを屈服させる力はないからです。
ですから、どんなに苦しい、不安な状況であっても、まず主なる神であるイエス様にその状況を私たちはお委ねして、イエス様に自分を支えていただきましょう。
主が私たちを支えてくださる~聖書が伝えるその約束に、私たちは信頼していこうではありませんか。
27~28節をお読みします。
27あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。
28あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
ペトロは、彼自身この言葉を語りながら、自分の霊的な命が生き返ることを経験していたのだと私は思います。
ペトロは霊的には一度死んでいたと言えます。イエス様が生きておられた時、ペトロはイエス様に大きな望みをかけていましたが、最後イエス様が捕まった時には彼はイエス様を捨てて逃げてしまいました。
彼は信仰的に完全に一度躓き、霊的に死んだのです。しかし復活の主に出会い、主のお言葉によって励まされることで、ペトロは再び立ち上がって霊的な自分自身の復活を経験したのです。
そしてイエス様こそが”命に至る道”、全ての人がその道を通って神と共に生きる永遠の命へと至る道なのだ、ということが、まさに詩編のその言葉の通り、ペトロにも示されたのです。
私たちにも、真の命に至る道がイエス様によって示されました。イエス様がその道そのものであるのです。
イエス・キリストという命の道を歩く限り、私たちから神と共にある喜びと恵みを奪うものは何もありません。
神の御前から離れることなく、キリストと言う命に至る道を歩くならば、わたしたちは喜びで満たされるのです。
今も御言葉によって示されるイエス・キリストという命の道を、私たちは共に信仰をもって歩んでまいりましょう。
詩編16篇10節からの引用の言葉を含む、今日の30~31節をお読みします。
30ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。
31そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。
ダビデの詩編の言葉を通して、このように約束されていました。ダビデの子孫の一人としてお生まれになるお方が、真の王としてお生まれになる、というのです。
そして人はその罪により、キリストであるお方を十字架にかけて殺してしまうけれども、キリストは、死の領域に置かれたままではおられない、というのです。
ダビデの言葉を通して語られていた通りのそのお方が、ナザレのイエスであった、とペトロは確信し、彼はそのことをはっきりと語りました。
人として確かに生きられたイエス様が神であって、そのお方が人の罪を背負った苦しい死を経験され、そして復活させられたのです。
聖書によって、そのお方が死んだままではおられない、と預言されていた通り、イエス様は死んだままではおられず、復活なさったのです。
ここで、今日の箇所の最初の22節に戻ります。
神は、イエス様を通して、色々な奇跡と、不思議な業(わざ)、しるしを行い、それらによってイエス様が神から遣わされた方であることを証明なさった、と書かれています。
私たちも、信仰の目を開いて、今も復活の主がなさってくださっている数々の奇跡、御業、しるしに目を留めたいと願います。
私たちがこうして同じ信仰を持ち、キリストによって呼び集められて、共に礼拝をささげることができるのも、大きな奇跡(神の恵み)ではないでしょうか。
偉大なる神の御業を信仰の目によって認め、主キリストの力によって私たち共に生かされてまいりましょう。
私たちが、たとえどれほど苦しい状況に置かれようとも、希望や光が私たちには見えないと思える時でも、死んだままではおられない、復活の主イエス・キリストが、死からよみがえった力をもって私たちをいつも支えてくださいます。
主がいつも共にいてくださいます。ですからわたしたちは恐れたり、動揺したりする必要はないのです。主にすがり、主に依り頼みつつ、新しい週の日々も生きてまいりましょう。