2025年10月4日土曜日

2025年10月5日 主日礼拝
前奏
招詞  詩編32篇8節
賛美  新生讃美歌507番 主の手に委ねて
主の祈り
賛美 新生讃美歌320番 輝いて生きる
祈りの時
献金
聖句  使徒言行録7章17~36節
祈祷
宣教  「あなたをエジプトへ遣わそう」
祈祷
賛美  新生讃美歌544番 ああ嬉しわが身も
頌栄  新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内


今日の聖書箇所である、新約聖書『使徒言行録』7章の中から、ステファノというキリストの伝道者による宣教の言葉を、私たちは聞いています。
 そこでステファノが語っているのは、モーセという人に関する物語、モーセの生涯についてです。
モーセは旧約聖書の中の『出エジプト記』に登場する人物で、イスラエル民族の信仰にとって、とても重要な人物の一人です。
聖書は、『旧約聖書』と『新約聖書』の二つがあり、旧約聖書と新約聖書を合わせて『聖書』です。

 旧約聖書は、神が天地を創造したことから語られる『創世記』から始まります。そして、神がイスラエル民族をお選びになり、彼らにご自身を現わされた歴史が伝えられます。
 旧約聖書には、多くの預言者の言葉も残されており、彼ら預言者を通して、神がどのような言葉や戒めをイスラエルの民に伝えたかを、私たちは知ることができます。
旧約聖書にはイエス・キリストは直接は登場しません。旧約聖書の時代は、キリストが人として生まれる、ずっと前の時代であるからです。
キリスト教はイエス・キリストを神として信じていますから、キリストの生涯とそのお言葉を中心として書かれた新約聖書を、私たちの信仰の中心として読みます。
しかし、キリストのことが直接は記録されていない旧約聖書も、クリスチャンにとって、神の言葉としてとても大切です。
なぜなら神が、天地創造と、イスラエル民族を選んだその出来事を通して、救い主キリストを世界に送るご計画と、その準備をされていたことを、旧約聖書は伝えているからです。

エフェソの信徒への手紙1章4節に次のように書かれています。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

この言葉から、旧約聖書を通しても、その全てを貫いているのは、神が私たちをキリストによって選び、私たちを愛し、私たちを神の前に聖なる者にしようとしてくださっている、ということであることが分かります。
 ステファノは、最高法院で、“神を冒瀆した”という容疑のために尋問されていました。
そこでステファノが聖書の話をした理由は、真の神のご計画、神の真実を、彼を非難している者たちに知らせたい、という強い願いがあったからでした。
 神の言葉は、聖書の言葉を通してこそ、最も力強く、人の心を捉える力をもって語られるからです。
 今日のステファノの話の中では、モーセという人の一生が、神が彼をどのように用いられたのかが、本当に短く凝縮されています。
 モーセは120歳まで生きた、イスラエル民族の指導者でした。その一生を短い言葉や内容で説明しきることはできません。
しかし、たとえ短い言葉の中にも、モーセと言う人が神に選ばれ、どのような働きをしたのか、という点については知ることができます。

 私たちはモーセ自身を知るというよりも、神がモーセを通して、どのようなことをしてくださったのか、むしろそのことを知らされます。
 モーセが生まれた時、イスラエル民族(彼らはヘブライ人とも言われた)の数がエジプト中に増えていました。
 そしてそれがエジプトの王には脅威に映ったのです。
出エジプト記1章8~10節に次のように書かれています。

8そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、
9国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。
10抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」

ヨセフは神の助けによって、エジプトで大きな働きをしたイスラエル人でしたが、その新しい王は、そのように、かつてヨセフを通して現わされた神の御業を知らない王でした。
そんな王にとって、どんどん数を増していくイスラエル人たちは、ただ恐れの対象でしかありませんでした。
イスラエル人たちが増えることを恐れた王は、生まれてくるイスラエル人の男の子を殺害するように、助産婦たちに命じました。
後にイエス様が生まれた時にも、“ユダヤ人の新しい王が生まれた”という知らせを聞いて怒ったヘロデ王が、幼い男の子全員の殺害を命じた出来事が、新約聖書に記されています。
ですから聖書が(旧新約を通して)伝えていることの一つは、人間が、状況によってはどれほど残忍になれるのか、ということです。
そしてその人間の罪の性質は、時代を経ても決して変わっていない、ということを聖書は伝えています。
その罪を、私たち人間は自分自身で乗り越えて、罪を無くすことはできないのです。
その罪は、人間を超えた大いなるお方、すなわち創造主なる神様に赦していただくしか解決方法がないのです。
私たちが抱える、深刻で根深いその罪を赦すため、イエス・キリストがこの世界にお生まれになり、十字架にかかって死んでくださいました。
ですから私たちは、キリストの十字架によって罪赦されたというその一点において、辛く悲しい現実の中、私たちの罪の性質の中にも、希望をもって生きることができるのです。
時代が変わっても、人の世がどれほど移り変わっても、決して変わらない神の愛と罪の赦しが、キリストを通して私たちに与えられていることを私たちは喜び、そのことに感謝をささげようではありませんか。

今日の22節に、「モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。」と書かれています。
しかし実際には、神がモーセを、イスラエル人の指導者となるように呼び出した時、彼は“わたしは話しが上手ではありません。誰も私の話など聞きません”と言って、何度も神からの呼びかけを拒みました。
しかし神から見たモーセは、人々に神の言葉を伝えるために必要な賜物を、すばらしい話と行いができるその賜物を、エジプトで受けた教育を通して、既に与えられた人だったのです。
モーセは、不思議な運命(神の助け)により、エジプトの王室で育てられることになりました。そこで、後にイスラエルの偉大な指導者となるために必要な素養が授けられたのです。
モーセに、指導者となるために必要な教育を(エジプトを通して)神が与えてくださっていたように、神は今も私たちにも、様々な方法を通して、私たちが自分では気づいていないかもしれないよき賜物、素質を沢山与えてくださっています。
それは、私たちにとっては好ましくない、困難で苦しい経験を通して与えられることもあります。
ですから私たちは、自分にとって辛く、難しい状況の中でも、“今神はこのことを通して、わたしに何を教え、何を与えようとしてくださっているのか”という信仰を持ちたいと願います。
 23節以降で、モーセが同胞のイスラエル人たちを助けようと思い立った、ということが書かれています。
 モーセは、一人のイスラエル人がエジプト人に虐待されている場面を目撃します。それでモーセはそのエジプト人を殴り殺してしまうのです。出エジプト記2章にそのことが記されています。

 25節に次のように書かれています。
25モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。

モーセは、自分の手を通して神が兄弟たち(同胞のイスラエル人たち)を救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思っていました。
その時モーセはまだ、自分だけの正義感が先走って、強引に自分が正しいと思うことを衝動的にしてしまう、未熟な人だったのでしょう。
周りからも指導者と認められるほどに彼はまだ成熟していませんでした。そしてモーセは、そこからミディアンという地方に逃れて行って、そこに40年間滞在します。
ミディアン地方での40年間は、それはモーセがイスラエルの指導者としての役割を後に果たすための準備の期間であったと言えます。

イエス様は、人間としての年齢では30歳ぐらいの時に、公の伝道活動を始められたことが福音書で伝えられています。
 イエス様も、人としての生活と経験をそれまで積み重ねる中で、伝道者としての活動を始める準備をしておられたと言ってよいと私は思います。
そしてイエス様は公の伝道活動を始められたとき、その初めに荒野で40日間、悪魔からの試みを受けました。(マタイ4章、ルカ4章)

 信仰者として成長し、準備万端整えてスタートすれば、あとはもうどんな苦難も困難もない、ということではないのです。
むしろ信仰生活は、ずっと困難の連続であるとも言えます。
しかし信仰による苦難は、それを試練として、私たちが自分自身の弱さ、罪に気づき、それに向き合い、そして“神がこの私と共にいてくださるので、神によってこの私は力を得て生きていくことができる”と増々確信することができる過程でもあります。
 ですから、今試練のただなかにある方がおられましたら、神の助け、神が共におられることを信じ、イエス様に委ねて、歩まれますように、また私たちがお互いに支え、祈ることができますようにと私は心より願います。

 神はミディアン地方で40年間過ごしたモーセを呼び出して、彼をエジプトへ遣わそうとされました。
 モーセがそれまでに歩んできた道、彼が経験してきたすべてのことは、神によってエジプトへ遣わされ、奴隷状態にあるイスラエルの民をエジプトから救い出すためでした。
 かつて同胞を助けようとして、そして同胞もそれを理解してくれるはずだと独善的に思っていたモーセとは違い、その時には神がはっきりとモーセを召し出したのです。

今日の34節に、神の言葉が、記されています。
34わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』

 今日の箇所で、ステファノは、モーセの物語を語りながら、モーセと共におられ、モーセに使命をお与えになった主なる神が、ステファノ自身とも共におられることを確信していたのだと思います。
そしてその神の恵みが、今やイエス・キリストを通して完全に現わされたことを同胞のユダヤ人たちに何とか伝えたいと強く、強くステファノは望んでいたのでしょう。
 ステファノの宣教(メッセージ)の言葉を通して伝えられる神の業と神の愛を、私たちも一層確信し、神から力を受けて、信仰の日々を歩んでまいりましょう。
 私たちの日々の一歩一歩の歩み、そしてこれから進むべき道を、私たちは聖書の御言葉によって、聖霊によって示されていきたいと願います。
そして、神がわたしたちに“あなたがたを遣わす”と言われる、その方向へ向かって、私たちは歩んでいこうではありませんか。