2026年1月18日 主日礼拝
前奏
招詞 申命記31章6節
賛美 新生讃美歌120番 主をたたえよ 力みつる主を
主の祈り
賛美 新生讃美歌493番 み子イエス世人のため
献金
聖句 使徒言行録10章1~8節
祈祷
宣教 「絶えず神に祈る」
祈祷
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の聖書箇所の舞台はカイサリアと言われた町です。カイサリアは、イスラエルの北西部の地中海沿岸にあった町です。
当時(今から約2,000年前)のカイサリアは、その時のローマ帝国によるユダヤ支配の拠点の一つでした。
カイサリアは、ユダヤの王であったヘロデ大王のもとで発展をとげた港町でした。「カイサリア」という名前は「カイサルの町」という意味なのです。
ローマ皇帝カイサルの名前から、その名前が付けられました。カイサリアを発展させ、またローマ皇帝にちなんで町の名前を「カイサリア」と名付けたのも、ヘロデ大王でした。
ヘロデ大王は、ローマ帝国からユダヤの王に任命されていました。ヘロデにとって、ローマ帝国からの後ろ盾は、王としての自分の立場と権力を維持するために欠かせないものだったのです。
そんな彼が、栄えた港町に皇帝の名前をつけて、いろいろとその町の整備を進めもしたのは、ローマ皇帝にできるだけ媚びを売り、ユダヤの王としての自分の立場を確かで強いものにしたいと願ったからだと思われます。
このヘロデ大王は、イエス様がお生まれになった時、エルサレムの東の方からやってきた占星術の学者たちから「ユダヤ人の王が生まれた」という話を聞いて、不安になったということが伝えられています(マタイ2章)。
自分の安定した地位や立場が脅かされる、となれば、だれでもヘロデのように不安に思うでしょう。
ヘロデは、誰がその新しい王なのか、が分からないと、その時生まれた男の子を全員殺すようにと命令しました。
今の私たちキリスト者は、その時新しく生まれたユダヤの王が、世界の人々を罪から救うためにこられた真の王であり救い主イエス・キリストであったことを知っています。
しかしだからと言って、私たちはヘロデ王のことを、ただ愚かだと言って非難することは、私たちにはできないと私は思います。
私たちはイエス・キリストを真の王として、私たちの中心にお迎えしているかどうか、を常に吟味する必要があるからです。
ヘロデ大王のように、自分に代わって王となる者を殺すため、それが誰だか正確に分からないため、生まれてきた男の子の赤ちゃんを全員殺す、という残忍なことは私たちはいたしません。
しかし、私たちが、救い主イエス・キリストを信じていると言いながら、もしイエス様を本当に自分の中心にお迎えして、そのお方に従って生きることを実践できていないのならば、どうでしょうか。
そうであれば、真の王であるお方を自分から排除している、という点で、ヘロデ王と変わらないのではないか、と思わされます。
ヘロデが町の名に帝国の皇帝の名をつけて、その人間の皇帝に媚びを売り、人間の皇帝からの後ろ盾に頼って自分を守ろうした弱さは、私たちも抱えているものです。
私たちは、その名が崇められ、称えられるべきお方は、イエス・キリストの主なる神だけであること、また私たちを本当に強くし、支えるものは、神のお力以外にない、ということを今一度確認したいと願います。
今日の箇所に、このカイサリアにいたコルネリウスという人が登場します。彼は「イタリア隊」と言われたローマの軍の部隊の百人隊長でした。
百人隊長は、数十人から百人の兵士から成る軍の隊の隊長でした。
実は福音書の中では、百人隊長と言われる人たちが何人か登場し、しかも彼らは重要な信仰を見せる人物として描かれています。
マタイ福音書の27章で、イエス様が最後に十字架の上で息を引き取られた時、それを目撃していた百人隊長が、他の人々と一緒に「本当に、この人は神の子だった」と言ったことが記されています(マタイ27章54節)。
彼は十字架の上で息を引き取られたイエス様を見て、“本当に、この人こそ神の子だった”という信仰の告白をした、と言ってもよいと私は思います。
ルカ福音書の7章の初めには、自分の部下の兵士が病気で死にかかっていたため、イエス様に自分のところへ来てくれるようにと頼んだ、ある百人隊長の様子が描かれています。
そこでその百人隊長は人をやってイエス様に次のように言わせました。
「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根にお迎えできるような者ではありません。。。。ただひと言おっしゃってください。。。。」と言って、神の御言葉に対する揺るぎない信頼を彼は見せました。
“あなたのお言葉さえ頂ければ、必ずその通りになります”という驚くべき信仰を、ユダヤ人ではない人たちが見せていたのです。
当時のユダヤ教の考えでは、ユダヤ人ではない人は異邦人であり、異邦人は神の恵みの対象外、だからユダヤ人は異邦人と交際をしてはいけないとさえ、考えられていました。
しかし、神はユダヤ人以外の異邦人をも選び、イエス・キリストを神の子と認める信仰を既に彼らにもお与えになっていたのです。
神が人となられたイエス様ご自身が、そのような人と人の間の壁、民族と民族、国と国との間に作られた隔ての壁を打ち壊し、平和を打ち立てるお働きをなさいました。
キリストを主と信じる私たちの間では、互いの間の様々な違いが争いや、互いに排除することが起こらないように、イエス様によって打ち立てられた平和を私たちの間で実現していきたいと願います。
今日の箇所で、その百人隊長について、何と言われているでしょうか。
その百卒長について言われていることは、2節に書かれている通り「彼は信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」ということです。
彼はローマの軍隊の百人隊長でしたが、彼は真の将軍、王は主なる神であることを認めていたのです。
カイサリアという、ローマ皇帝の名を冠した町で、ローマの軍隊の隊長であった人が、神を真に恐れる生活を家族も一緒にしていた、というのは、驚きの事実です。
そして最も大切なことは、彼が“絶えず祈っていた”ということです。
“絶えず祈る”を、私は今日のメッセージの題といたしました。絶えず、いつも神に祈る、とは何と祝福された信仰の姿勢ではないでしょうか。祈ることができることは、私たちの信仰による最大の祝福の一つです。
祈りを通して、私たちは神に自分を委ねることができ、神にお話しをすることが許され、そして祈りを通して神が私たちに語ってくださるからです。
コルネリウスの祈りは、神を信じ神に委ねようとする祈りであったと私は信じます。また、絶えず祈るとは、あきらめずに祈り続ける、という生活です。
その百人隊長の祈りの中には、聞かれる(叶えられる)祈りも、聞かれない(叶えられない)祈りもあったと思います。
しかしそれでも、絶えず祈り続けることが、その百人隊長の生活の原動力になっていたのだと私は信じます。
彼は絶えず神を信じ、祈り続けたので、その彼の真摯な信仰は自分の家族にまで影響を及ぼしたのです。
コルネリアスがしていた多くの施しという行いも、絶えず神に祈ることで、祈りを通して神からいただく恵みと力に基づいていたのでしょう。
彼はそのような祈りの生活を通して“私たちが本当に畏れるべきは、人間の権力者であるローマ皇帝ではなく、真の神である”という信仰が与えられていたのです。
私たちも、神こそ畏れるお方であることを知り、神の前にへりくだり、自らを低くし、人は神のように畏れ敬う対象ではない、ということを知っていきたいと願います。
コルネリウスに、ある日の午後三時ごろ、神の天使が呼びかけました。午後の三時は、ユダヤ教の祈りの時間の一つでした。
コルネリウスは常に、規則正しく、真摯な信仰習慣としての祈りを捧げていたのだと理解してよいと私は思います。
神の天使が“コルネリウス”、と彼に呼びかけました。その時、彼は怖くなった、と書かれています。
神から(天使から)直接声によって呼びかけられて、彼は恐れたのです。しかし、コルネリウスは「主よ、何でしょうか」と聞きました。
通常の出来事、普通の感覚を超えた出来事に、コルネリウスは恐れつつも、“主よ、何でしょうか”と神の御心を尋ねようとしました。
私たちも、どのような時にも”主よ、何でしょうか“と言って、主の御心をいつも尋ねて、御心に従い行く生き方をしたいと願います。
神の天使はコルネリウスに、“彼の祈りと施しは神の前に届いて覚えられた”と告げました。
コルネリウスは祈りの生活を通して神と豊かな関係を結び、神から頂く恵み、神からいただく愛によって、彼は多くの施しを他者にすることができました。
コルネリウスが他者に豊かに施して、与えることができたのは、それは彼自身が有り余る恵みと愛、力を神から頂いていたからです。コルネリスに神の恵みと愛、神の力の自覚があったからです。
私たちの信仰の源、信仰の実践の源は、主なる神から私たちが頂く恵みと愛と力です。神から頂く恵みと愛と力とを、私たちは常に私たちの信仰の原動力としていきたいと願います。
神の天使はコルネリウスに、“今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい”と言いました。
ユダヤ人であり、イエス・キリストの使徒であったペトロと、ローマの百人隊長であるコルネリウスとの出会いが、その時神のご計画の中で進められていたのです。
今日の箇所以降で、彼らの出会いが、神の救いがユダヤ人以外の異邦人にも開かれており全ての人々に開かれている、ということを明らかにするものとして、展開していきます。
私たちにも、色々な人との出会いが与えられています。神が大いなるそのご計画の中で、私たち人同士の出会いを導いてくださっているのだと、私たちは信じることができると私は思います。
また私たちの間で起こる出会い、神によって起こされるその出会いの一つ一つが、神の大きな御計画の一部をなしている、と思うと、私たちは非常に力づけられる思いがいたします。
神によって与えられる出会いを、私たちは大切にしていきたいと願います。
そして私たちは祈りの生活を通して、御言葉に聞き従う生き方を日々していきたいと願います。
絶えず祈り神の言葉を聞く事によって、新たな示し、また新たな出会いが与えられることもあるでしょう。
これから先、神が私たちに用意してくださっているご計画と導きに期待をし、神に信頼をして、私たちは歩んでいこうではありませんか。