2024年12月1日 主日礼拝
前奏
招詞 イザヤ書7章14節
アドベントキャンドルの点火(希望)
賛美 新生讃美歌 148番 久しく待ちにし
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌301番 いかなる恵みぞ
献金
聖句 ローマの信徒への手紙8章18~25節
祈祷
宣教 「目には見えないものを望んで」
祈祷
賛美 新生讃美歌491番 信ぜよ み神を
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
後奏
今日から、教会の暦ではアドベント(待降節=誕生(キリストの誕生)を待つ時)と言われる期間に入ります。
アドベントは、クリスマス前の約4週間の期間を指し、今日から12月24日(クリスマス・イヴ)までがアドベントの期間になります。
クリスマスには、私たちキリスト教会は、イエス・キリストがこの世界に生まれてこられたことを記念し、お祝いを致します。
イエス・キリストは全ての人の救い主として、この世界に来てくださったと聖書は伝えます。
新約聖書の『ヨハネの手紙一』の2章2節には、次のように書かれています。
この方(*キリスト)こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。
その“わたしたち”とは、キリストを信じるクリスチャンのことが言われているのだと思われます。
もしくは、旧約聖書の中で、神によって最初に選ばれ、神の救いが告知されたイスラエルの民のことが言われているのかもしれません。
しかし、キリストがお生まれになったことにより、罪の赦しと贖いは全世界のあらゆる民に及ぶということが明らかになりました。
同じ『ヨハネの手紙一』の4章14節には次のように書かれています。
わたしたちはまた、御父が御子(*キリスト)を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
ここでも、「イエス・キリストは全世界の救い主として世に来られた」と伝えています。
全世界の救い主が来られたという出来事を、私たちが常に記憶し、感謝し、喜ぶため、そしてその喜びの知らせを世に伝え続けるために、キリスト教会は毎年繰り返し、クリスマスを記念いたします。
キリストが救い主として私たちの世界に来られたということは、私たちは救い出される必要がある者だ、ということです。
私たちはどのような状態から救い出される必要があるのでしょうか。
今日の聖書箇所の20節に次のように、「被造物は虚無に服している」と書かれています。英語訳(NIV)では”frustration”と訳されています。
“虚無”、あるいは“フラストレーション”いずれも、“失望”や“落胆”と言い換えてもよいと私は思います。
この世にあって私たちは誰もが失望や落胆の中に生きている、あるいはどうしても満たされない欲求(願い)を抱えながら生きている、と聖書は言うのです。
私たちが、神が造られたこの世界にあって、どうしても満たされない心、不満や不安を抱えながら生きる原因は私たち人間による罪が原因であると、聖書は伝えています。
人は罪によって、私たちの世界の創造主である神のご栄光から自ら遠ざかってしまいました。
人は本来神に従って、神の栄光を頂いて生きる者として造られました。しかし人は、自分を中心にして生きるようになったため、罪が私たちの中に入り込みました。
自分中心に生きるようになったため、私たちは神からも離れ、また自分以外の他者からも離れて、互いに完全には理解し合えない存在として生きるようになりました。
本来、神の栄光を豊かに受けて生きるように造られ、また他者とも何事も隠すことなく理解し合って生きるように造られた者が、自分中心に生きる道を選んでしまったことが、私たちの苦しみの一つの原因としてあるのだと思います。
私たちは神から離れてしまったので、神の御計画、神の御意志が分からなくなりました。ですから私たちは悩みます。
また自分以外の他者と完全に理解し合えず、時に怒りや憎しみさえも抱くようになり、そのために私たちは苦しむということもあります。
この世にあって、この世のものによってはどうしても満たされない私たちの心、虚無やフラストレーションを抱えて私たちは苦しんでいます。
しかし、今日の箇所の初めの節であるローマの信徒への手紙8章18節を読んでみましょう。
18現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
様々な事情や理由で苦しんでおられる方が、“現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りない”、“それは取るに足りない(大した問題ではない)”と言われると、納得できないかもしれません。
しかし、この「ローマ人への手紙」の筆者(パウロ)がこのように表現したのは、人々の苦しみを軽視したのではなく、“将来わたしたちに現わされるはずの栄光”の素晴らしさを何とか強調したいために、このように彼は表現したのだと思います。
私たちにはこの世にあって苦しみがあり、理解できない理不尽な不幸に見舞われることもあります。それでも「同時に希望もある」と今日の箇所は言います(聖書全体がそう言います)。
今日の21節では、“滅びへの隷属 bondage to decay”という言葉が使われています。
神から離れ、神のご栄光を受けることができず、その結果他者とも本当の意味で理解し、受け入れ合うことができない状態が“滅び”であると言えるでしょう。それは神からも人からも離れた状態です。
しかし、その滅びへの隷属から解放される(自由になる)希望がある、と今日の箇所は伝えます。
今日の箇所で、「イエス・キリスト」という言葉ははっきりとは出てきませんが、イエス・キリストによる自由と解放の希望が今日の箇所で書かれていることは明らかです。
今の世では私たちには苦しみがあり、その苦しみを自分の力ではとても解決できないことも多いでしょう。
しかし現在の苦しみが、やがて神様による栄光へと変えられる、と言う希望があることを、聖書は伝えるのです。
先ほど私は「今日の箇所は、人の苦しみを決して軽視していない」と申し上げました。それは22節~23節の言葉を見ても、はっきりと理解できると思います。
22~23節
22被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
23被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
今神を信じる信仰者であっても、(信仰者でなくても)皆うめくように苦しんでいる、とこの箇所は言うのです。
この言葉を通して、私たちの造り主である神が、私たちの苦しみを本当に分かってくださっており、共に担ってくださっていることが分かります。
この世ではどうしても満たされない心、現在の苦しみの先には、神のご栄光にあずかることができるという希望があるのです。その希望によって私たちは生きる力を頂くことができます。
神のご栄光にあずかるとは、やがて私たちは神の子とされ、この体が贖われる、すなわち復活のイエス・キリストと共に、永遠の命に生かされる、ということです。
この世界では、私たちは不完全で限界、欠点のある存在です。真の神から離れた不安定で不安な状態の中に生かされています。
しかし神は、御子イエス・キリストをこの世界にお遣わしになることで、キリストを通して私たちも神の子となることができる恵みを与えてくださいました。
今日の箇所より前の、ローマ6章5節には次のように書かれています。
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
私たちはキリストを通して、キリストへの信仰によって、神の子としての身分を頂けるのです。私たちは復活のイエス・キリストと一体になり、復活の力と希望が私たちにも与えられるのです。
“この希望によって、私たちは今の世の苦しみから救われている”と今日の箇所は伝えます。どんなに困難なことがあっても、この希望を私たちから奪うものは何もありません。
キリストに繋がり、神の子となり復活するという希望を分かち合うために、私たちはこうして教会にもつながっています。
この希望を世に伝え続けるために、私たちはキリストの教会を建て上げています。
この希望は今はっきりと目に見える(完全に理解できる)ものではありません。
しかしこの希望は、2000年前、人として確かにこの世界にお生まれになった、神の子イエス・キリストの誕生によって保証されている確かな希望です。
私たちは何かを期待して待つということが、どれほど嬉しいことであるかを、体験的にも知っていると思います。
何か楽しい計画や予定が先にあることが分かっていると、それに向けて今を頑張ろうと私たちは思います。
勉強や仕事にしても、その先にある夢や目標があるので、今の苦しみに何とか耐えよう、と私たちは頑張ることができます。
もしそのような夢や目標がないと、今の苦しみに向き合うことは、とても難しくなるでしょう。
繰り返しますが、私たちの人生には苦しみがあります。今のこの苦しみには意味があるのか、こんなに苦しいのだったらこんな人生、生きていたくない、とさえ思うこともあるかもしれません。
しかし神は、イエス・キリストを私たちに究極の希望として与えてくださり、キリストと共に神の子とされ、やがてキリストの復活にも結ばれる、と言う希望の約束を与えてくださいました。
キリストと共にある永遠の命が私たちに約束されているので、私たちはこの世にあっても希望をもって生きることができます。
この希望によって私たちは救われているのです。この目には見えない、しかし確かな希望によって救われているのです。
イエス・キリストが人としてお生まれになったことによって、私たちの生きるこの人生には尊い意味があるのだと、苦しみは決して無駄、無意味ではないのだと、私たちは信じてよいのです。
人として生まれ、そして私たちの罪のために十字架にかかって死なれたお方、そして三日後に復活したお方を信じ、そのお方と繋がることによって、私たちは希望を得ることができるのです。
クリスマスは、その確かな希望の始まりを告げる出来事です。私たちはクリスマス、イエス・キリストのお誕生を覚えて、キリストにある希望を共にいただいていきましょう。
アドベントは主イエス・キリストの御降誕(お誕生)を待ちわびる季節です。
主を待ち望む、その希望に生かされる幸いを覚えて、このアドベントの時を私たち共に過ごしてまいりましょう。
2024年11月29日金曜日
2024年11月23日土曜日
2024年11月24日 主日礼拝
前奏
招詞 出エジプト記19章5節
賛美 新生讃美歌1番 聖なる 聖なる 聖なるかな
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌236番 主の流された尊い血しお
世界バプテスト祈祷週間を覚えて
献金
聖句 マタイによる福音書28章16~20節
祈祷
宣教 「すべての民をわたしの弟子にしなさい」
祈祷
賛美 新生讃美歌 213番 われらに伝えよ
頌栄 新生讃美歌 676番
祝祷
後奏
今日も、新しい一週間の初めの日を、こうして私たち共に礼拝をすることによって始めることができることを、私は大変うれしく思います。
こうして礼拝をすることができる自由が私たちに与えられていることは、決して当たり前のことではありません。
今週は、私たちの教会も加盟しています日本バプテスト連盟の「世界バプテスト祈祷週間」World Baptist Prayer Weekです。日本バプテスト連盟によって支援されている、国内外での宣教の働き、その働きに仕えている宣教師の方々などを覚えて、特に今日私たちは祈りを合わせます。
国外では、信教の自由が保証されておらず、キリスト教信仰を持つことが困難な地域や国も沢山あります。(国内であっても、キリスト教宣教が非常に困難な地域もあるでしょう)
そのような場所で働いておられる宣教師や伝道師の方たちの働き、安全と生活とが守られますように祈りたいと思います。
またそれらの地域、場所で、イエス・キリストの福音によって救われる人々が起こされますようにと、私たちは祈りを合わせたいと願います。
私たちが信じ、礼拝する神は、イエス・キリストを通してご自身を現わされた神です。そしてイエス・キリストは十字架の上での死から、新しい命へとよみがえったお方です。
今日の聖書の箇所は、マタイによる福音書の最後の部分です。
イエス様の弟子たちが、復活の主イエス・キリストとお会いする今日の箇所から、神のメッセージを私たち共に聞いてまいりましょう。
最初の16節をお読みします。
16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
十一人の弟子とは、イエス様の直弟子であった弟子たちで「使徒」とも言われた弟子たちでした。使徒は、それまでは十二人いました。
しかしそのうちの一人であってイスカリオテのユダは、イエス様をユダヤの当局者たちに売り渡したことへの罪の意識から自ら命を絶ってしまい、弟子たちは11人になっていました。
弟子たちは、自分たちの先生であるイエス様が十字架にかけられて死んだ衝撃と悲しみ、また仲間であったユダを失ったことの悲しみの中にもあったのだと私は想像します。
イエス様は、イスラエルのエルサレムで十字架にかけられ(死刑になり)殺されました。
そしてイエス様は、週の始めの日(日曜日)の明け方に、その墓を見に来た二人の女性(マグダラのマリアともう一人のマリア)に姿を現わされました。マタイ28章の初めに、そのように書かれています。
その女性たちにイエス様は、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言いました(28章10節)。
二人のマリアはイエス様に言われた通り弟子たちに、イエスさまの言ったその言葉を伝えたのでしょう。弟子たちはその言葉に従って、エルサレムからガリラヤへと行きました。
そこで、ある山の上で、弟子たちはイエス様に出会いました。十字架にかけられて死んだお方が復活されたのです。弟子たちはイエス様にひれ伏しました。
ひれ伏す、とは“礼拝する”という意味であり、英語訳聖書(NIV)ではそのように訳されています。
弟子たちがその時礼拝したように、今私たちも礼拝で、復活のイエス様にお会いし、復活のイエス・キリストを礼拝します。
復活のイエス・キリストがここに私たちと共におられ、私たちに語りかけ、私たちを力づけてくださるのです。
イエス様は“ガリラヤへ行きなさい。そこで復活した私に会える”と弟子たちに約束され、その通り弟子たちにそのお姿を現わされました。
今のわたしたちにとってのガリラヤは教会です。私たちは教会で、死んでよみがえったお方、復活の主イエス・キリストにお会いできるのです。
死の力、闇の力を復活によって滅ぼされたイエス様に私たちは教会でお会いします。復活したイエス・キリストの力がみなぎる教会でありたいと、私たちは願います。
しかし17節には“そこには疑う者もいたbut some doubted.”と書かれています。弟子たちの中には、復活のイエス様を目で見ても、まだ疑う者もいたのです。
イエス様の弟子たちの信仰は完璧ではなかったのです。人間は本来疑り深く、誰も完全な信仰を持った人などおりません。弟子たちもその例外ではありませんでした。
それでも、そんな不完全な私たちにも、イエス様はご自身を現わされ、お言葉を通して教えてくださるお方です。私たちも、いつも何の疑いもなく、強い信仰を持っていられるわけではないでしょう。
時に信仰が揺らぎ、疑いさえ持つことが私たちにもあるのではないでしょうか。しかしそれでも、そんな私たちの疑いや弱さにも関わらず、復活の主イエス・キリストは出会ってくださり、み言葉を通して教えてくださるのです。
18節で“イエスは近寄って来て言われた”と書かれています。イエス様の方から弟子たちの方へ来てくださったのです。
神なるお方がご自分から私たちのところへ来てくださいました。私たちの側から神様へ到達したのではないのです。そんなことは不可能です。
私たちが神のところへ行ってお言葉を頂くのではなく、わたしたちが神の声を聴くことができるために、神のほうから私たちのほうへ来てくださったのです。その恵みを私たちは感謝したいと思います。
18節~20節前半をお読みします。
18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
イエス様は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」とおっしゃっています。すべての権能をお持ちのお方が、私たちを「すべての民をイエス様の弟子にするために」派遣するのです。
私たちはまず、キリスト者を宣教の働きのために派遣されるお方(イエス様)は、天と地のすべての権能(権威)をお持ちのお方であることを確信しましょう。
すべての権能をお持ちのお方が私たちを、福音宣教の働きのためにお遣わしになるのです。ですから、そのお方の許しがなければ、何も私たちを妨げたり、くじけさせるものはないのです。
そしてイエス様は「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とご命令しました。今のキリスト者もこの命令に従って生きる者です。
それにしても“すべての民をわたしの弟子にしなさい”というイエス様の御命令を達成するのに、一体どれほどの時間がかかるのでしょうか。
すべての民をイエス・キリストの弟子に、という、このいわゆる“大宣教命令”は、今だに達成されていない壮大なご命令です。
これは、キリスト教会が場所と世代を超えてずっと課せられているものなのでしょう。
すべての民をわたしの弟子(イエス様の弟子)にしなさい、というこの大命令(神様の壮大なビジョン)の実現のため、(それがいつ実現するかは確かでないままに)、キリスト教会はずっと存在してきているのです。
一人ひとりは小さな私たちが、また私たちの教会も小さくても、神様のそんな壮大なご計画と使命のために私たちは生かされていると思うと、心が奮い立つような気がしないでしょうか。
私たち自身ではなく、全ての権威をお持ちのイエス・キリストの神に信頼しつつ、全ての民をイエス様の弟子にしなさい、というイエス様のご命令にしたがってまいりましょう。
そしてもちろん私たちキリスト者も、主の弟子として常に成長しつづける、終わりのない信仰の旅路を私たち共に歩んでまいりましょう。
イエス様の弟子になるとは、どういうことでしょうか。それはまず、父と子と聖霊の名によってバプテスマ(洗礼)を受けることです。
聖書は、父なる神と、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神が三つにして一つのお方であるという、三位一体の神を伝えています。
父なる神と、御子イエス・キリスト、そして聖霊が、三つの区別されるお方でありながら、しかし同じ一つの神である、という人間の理屈では説明できない、大変不思議な、しかし真実を聖書は伝えます。
天の父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神の三位一体の神を信じる信仰を告白して、その信仰の証として、教会は新しい信仰者(決心者)にバプテスマを授けなさい、とイエス様ご自身によって、私たちははっきりと命じられているのです。
私たちの教会では再来週、一人の姉妹が信仰を告白し、バプテスマをお受けになります。私たちはそのことを大変うれしく思います。そして神に感謝をいたします。
キリストの命令によって、私たちは新たな信仰者にバプテスマを授ける権限が与えられていることを今一度覚え、その責任をも自覚したいと思います。
そしてイエス様は「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われます。
イエス様は私たちに大切なことを沢山教えてくださいました。
その一つ一つを私たちが常に学び、理解と信仰を深めると同時に、イエス様の教えを残らず世に伝える、というのも私たちキリスト者に課せられた使命です。
そう思うと、何だかとても私たちには担いきれない物凄く重い責任のように思えます。確かに、それは私たちだけで担える責任と使命ではありません。
しかし、私たちは安心してよいのです。なぜなら、イエス様が次のように約束してくださっているからです。20節後半、今日の箇所の最後の言葉をお読みします。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
“わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる”~イエス様は大変な責任と使命を私たちにお与えになる共に、こんなに素晴らしい恵みをも、ここで約束してくださっているのです。
神の子イエス・キリストが世の終わりまで、いつもわたしたちと共にいてくださる、というのです。
イエス・キリストの福音宣教の働きも、私たちだけで行うのではありません。イエス様が今も、また世の終わりまでいつも私たちと共にいて、私たちの働き導き、助けてくださるのです。
復活のイエス・キリストが、私たちの信仰生活を、そして私たちの福音宣教の働きを先頭に立って導いてくださいます。
今、国内外で様々な宣教の働きに仕えておられる方を覚えて祈ると同時に、私たち一人ひとり、私たちの教会も、福音宣教の働きにつかえる喜びとまた福音宣教に仕える決意を新たにしたいと願います。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる~イエス様のこのお約束は、いつまでも真実であり続けます。
前奏
招詞 出エジプト記19章5節
賛美 新生讃美歌1番 聖なる 聖なる 聖なるかな
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌236番 主の流された尊い血しお
世界バプテスト祈祷週間を覚えて
献金
聖句 マタイによる福音書28章16~20節
祈祷
宣教 「すべての民をわたしの弟子にしなさい」
祈祷
賛美 新生讃美歌 213番 われらに伝えよ
頌栄 新生讃美歌 676番
祝祷
後奏
今日も、新しい一週間の初めの日を、こうして私たち共に礼拝をすることによって始めることができることを、私は大変うれしく思います。
こうして礼拝をすることができる自由が私たちに与えられていることは、決して当たり前のことではありません。
今週は、私たちの教会も加盟しています日本バプテスト連盟の「世界バプテスト祈祷週間」World Baptist Prayer Weekです。日本バプテスト連盟によって支援されている、国内外での宣教の働き、その働きに仕えている宣教師の方々などを覚えて、特に今日私たちは祈りを合わせます。
国外では、信教の自由が保証されておらず、キリスト教信仰を持つことが困難な地域や国も沢山あります。(国内であっても、キリスト教宣教が非常に困難な地域もあるでしょう)
そのような場所で働いておられる宣教師や伝道師の方たちの働き、安全と生活とが守られますように祈りたいと思います。
またそれらの地域、場所で、イエス・キリストの福音によって救われる人々が起こされますようにと、私たちは祈りを合わせたいと願います。
私たちが信じ、礼拝する神は、イエス・キリストを通してご自身を現わされた神です。そしてイエス・キリストは十字架の上での死から、新しい命へとよみがえったお方です。
今日の聖書の箇所は、マタイによる福音書の最後の部分です。
イエス様の弟子たちが、復活の主イエス・キリストとお会いする今日の箇所から、神のメッセージを私たち共に聞いてまいりましょう。
最初の16節をお読みします。
16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
十一人の弟子とは、イエス様の直弟子であった弟子たちで「使徒」とも言われた弟子たちでした。使徒は、それまでは十二人いました。
しかしそのうちの一人であってイスカリオテのユダは、イエス様をユダヤの当局者たちに売り渡したことへの罪の意識から自ら命を絶ってしまい、弟子たちは11人になっていました。
弟子たちは、自分たちの先生であるイエス様が十字架にかけられて死んだ衝撃と悲しみ、また仲間であったユダを失ったことの悲しみの中にもあったのだと私は想像します。
イエス様は、イスラエルのエルサレムで十字架にかけられ(死刑になり)殺されました。
そしてイエス様は、週の始めの日(日曜日)の明け方に、その墓を見に来た二人の女性(マグダラのマリアともう一人のマリア)に姿を現わされました。マタイ28章の初めに、そのように書かれています。
その女性たちにイエス様は、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言いました(28章10節)。
二人のマリアはイエス様に言われた通り弟子たちに、イエスさまの言ったその言葉を伝えたのでしょう。弟子たちはその言葉に従って、エルサレムからガリラヤへと行きました。
そこで、ある山の上で、弟子たちはイエス様に出会いました。十字架にかけられて死んだお方が復活されたのです。弟子たちはイエス様にひれ伏しました。
ひれ伏す、とは“礼拝する”という意味であり、英語訳聖書(NIV)ではそのように訳されています。
弟子たちがその時礼拝したように、今私たちも礼拝で、復活のイエス様にお会いし、復活のイエス・キリストを礼拝します。
復活のイエス・キリストがここに私たちと共におられ、私たちに語りかけ、私たちを力づけてくださるのです。
イエス様は“ガリラヤへ行きなさい。そこで復活した私に会える”と弟子たちに約束され、その通り弟子たちにそのお姿を現わされました。
今のわたしたちにとってのガリラヤは教会です。私たちは教会で、死んでよみがえったお方、復活の主イエス・キリストにお会いできるのです。
死の力、闇の力を復活によって滅ぼされたイエス様に私たちは教会でお会いします。復活したイエス・キリストの力がみなぎる教会でありたいと、私たちは願います。
しかし17節には“そこには疑う者もいたbut some doubted.”と書かれています。弟子たちの中には、復活のイエス様を目で見ても、まだ疑う者もいたのです。
イエス様の弟子たちの信仰は完璧ではなかったのです。人間は本来疑り深く、誰も完全な信仰を持った人などおりません。弟子たちもその例外ではありませんでした。
それでも、そんな不完全な私たちにも、イエス様はご自身を現わされ、お言葉を通して教えてくださるお方です。私たちも、いつも何の疑いもなく、強い信仰を持っていられるわけではないでしょう。
時に信仰が揺らぎ、疑いさえ持つことが私たちにもあるのではないでしょうか。しかしそれでも、そんな私たちの疑いや弱さにも関わらず、復活の主イエス・キリストは出会ってくださり、み言葉を通して教えてくださるのです。
18節で“イエスは近寄って来て言われた”と書かれています。イエス様の方から弟子たちの方へ来てくださったのです。
神なるお方がご自分から私たちのところへ来てくださいました。私たちの側から神様へ到達したのではないのです。そんなことは不可能です。
私たちが神のところへ行ってお言葉を頂くのではなく、わたしたちが神の声を聴くことができるために、神のほうから私たちのほうへ来てくださったのです。その恵みを私たちは感謝したいと思います。
18節~20節前半をお読みします。
18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
イエス様は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」とおっしゃっています。すべての権能をお持ちのお方が、私たちを「すべての民をイエス様の弟子にするために」派遣するのです。
私たちはまず、キリスト者を宣教の働きのために派遣されるお方(イエス様)は、天と地のすべての権能(権威)をお持ちのお方であることを確信しましょう。
すべての権能をお持ちのお方が私たちを、福音宣教の働きのためにお遣わしになるのです。ですから、そのお方の許しがなければ、何も私たちを妨げたり、くじけさせるものはないのです。
そしてイエス様は「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とご命令しました。今のキリスト者もこの命令に従って生きる者です。
それにしても“すべての民をわたしの弟子にしなさい”というイエス様の御命令を達成するのに、一体どれほどの時間がかかるのでしょうか。
すべての民をイエス・キリストの弟子に、という、このいわゆる“大宣教命令”は、今だに達成されていない壮大なご命令です。
これは、キリスト教会が場所と世代を超えてずっと課せられているものなのでしょう。
すべての民をわたしの弟子(イエス様の弟子)にしなさい、というこの大命令(神様の壮大なビジョン)の実現のため、(それがいつ実現するかは確かでないままに)、キリスト教会はずっと存在してきているのです。
一人ひとりは小さな私たちが、また私たちの教会も小さくても、神様のそんな壮大なご計画と使命のために私たちは生かされていると思うと、心が奮い立つような気がしないでしょうか。
私たち自身ではなく、全ての権威をお持ちのイエス・キリストの神に信頼しつつ、全ての民をイエス様の弟子にしなさい、というイエス様のご命令にしたがってまいりましょう。
そしてもちろん私たちキリスト者も、主の弟子として常に成長しつづける、終わりのない信仰の旅路を私たち共に歩んでまいりましょう。
イエス様の弟子になるとは、どういうことでしょうか。それはまず、父と子と聖霊の名によってバプテスマ(洗礼)を受けることです。
聖書は、父なる神と、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神が三つにして一つのお方であるという、三位一体の神を伝えています。
父なる神と、御子イエス・キリスト、そして聖霊が、三つの区別されるお方でありながら、しかし同じ一つの神である、という人間の理屈では説明できない、大変不思議な、しかし真実を聖書は伝えます。
天の父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神の三位一体の神を信じる信仰を告白して、その信仰の証として、教会は新しい信仰者(決心者)にバプテスマを授けなさい、とイエス様ご自身によって、私たちははっきりと命じられているのです。
私たちの教会では再来週、一人の姉妹が信仰を告白し、バプテスマをお受けになります。私たちはそのことを大変うれしく思います。そして神に感謝をいたします。
キリストの命令によって、私たちは新たな信仰者にバプテスマを授ける権限が与えられていることを今一度覚え、その責任をも自覚したいと思います。
そしてイエス様は「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われます。
イエス様は私たちに大切なことを沢山教えてくださいました。
その一つ一つを私たちが常に学び、理解と信仰を深めると同時に、イエス様の教えを残らず世に伝える、というのも私たちキリスト者に課せられた使命です。
そう思うと、何だかとても私たちには担いきれない物凄く重い責任のように思えます。確かに、それは私たちだけで担える責任と使命ではありません。
しかし、私たちは安心してよいのです。なぜなら、イエス様が次のように約束してくださっているからです。20節後半、今日の箇所の最後の言葉をお読みします。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
“わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる”~イエス様は大変な責任と使命を私たちにお与えになる共に、こんなに素晴らしい恵みをも、ここで約束してくださっているのです。
神の子イエス・キリストが世の終わりまで、いつもわたしたちと共にいてくださる、というのです。
イエス・キリストの福音宣教の働きも、私たちだけで行うのではありません。イエス様が今も、また世の終わりまでいつも私たちと共にいて、私たちの働き導き、助けてくださるのです。
復活のイエス・キリストが、私たちの信仰生活を、そして私たちの福音宣教の働きを先頭に立って導いてくださいます。
今、国内外で様々な宣教の働きに仕えておられる方を覚えて祈ると同時に、私たち一人ひとり、私たちの教会も、福音宣教の働きにつかえる喜びとまた福音宣教に仕える決意を新たにしたいと願います。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる~イエス様のこのお約束は、いつまでも真実であり続けます。
2024年11月16日土曜日
2024年11月17日 主日礼拝
前奏
招詞 イザヤ書46章10節
賛美 新生讃美歌105番 くしき主の光
主の祈り
賛美 新生讃美歌236番 主の流された尊い血しお
証し
献金
聖句 ヨハネによる福音書19章28~30節
祈祷
宣教 「成し遂げられた」
祈祷
賛美 新生讃美歌379番 行きて告げよあまねく
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏
私たちは誰もがいずれ最後の時、すなわち死の時を迎えます。わたしたちはやがて必ず訪れる死に、どう向き合えばよいのでしょうか。
自分の死に向きあうことは、“今をどう生きるのか”、“与えられたこの命をどう活かして、人生をどう生きるのか”ということを真剣に考えることにつながると私は思います。
以前、私たちの教会の、年配のご夫婦と、人生の終わりに向けての学びをご一緒にしたことがあります。
お葬儀や、死後のお墓や遺骨のことについて、ただ自分の希望としてこうしたい、ああしたい、ではなくて“聖書はどう言っているのか”、“信仰に基づいて、自分のお葬儀や遺骨のことをどのように考えるべきなのか”を学んで準備を始めたいと、ご本人たちが希望なさったからです。
その学びは回数にしては2,3回ほどだったと思いますが、私がご夫妻を訪問した時に、一緒に聖書を読みながら、死に備えること、お葬儀や遺骨のことなどについて私たちは共に考えました。
それは、信仰的にどのように死に備えるかを改めて考える時として、私にとっても大変良い時となりました。
死について考えることは、すなわち生について考えることです。そして、わたしたちが自分の生、人生について考えるとき、わたしたちは「わたしは何のために生まれてきたのか」、「人生の目的とは何だろうか」と考えることがあると思います。
わたしたちは自分の人生の中で“何かを成し遂げたい”と、どこかで願っているのではないでしょうか。“成し遂げる”とまでは思わないとしても、人生の最後の時に「私の人生には少なくとも何かの意味があった」と、そう思いたいのではないでしょうか。
今日私たちは、イエス様の十字架の上でのそのお姿と、その時イエス様が言われた最後のお言葉から、私たちが“人生で本当にすべきこと”について、考えたいと思います。
28節をお読みします。
この後(のち)、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして聖書の言葉が実現した
イエス様は十字架の上で「渇く I am thirsty」と言われました。そして「渇く」とイエス様が言われることにより、“聖書の言葉が実現した”と書かれています。
この“聖書の言葉”とは、詩編22篇15~16節(14~15 NIV)の言葉です。
詩編22篇15~16節
「わたしは水となって注ぎ出され 骨はことごくはずれ 心は胸の中で蠟のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」
主が「渇く」苦しみを味わわれたのは、聖書に記された通りの苦しみに、イエス様を通して、主なる神自身が直面しているのだと、ヨハネ福音書の著者ヨハネは解釈したのです。
マルコ福音書によれば、イエス様は十字架の上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか)と大声で叫ばれました。
その言葉も詩編22篇の冒頭の言葉でした。ですからイエス様自身も、死にゆく十字架の上で、この詩編の言葉を思い浮かべていたのです。
イエス様は、ご自分に課せられた使命、苦難の意味を聖書の言葉、詩編の言葉の中に見いだし、聖書の言葉から力を得ていたのです。
私たちも、自分の人生の意味、意義を聖書の言葉の中にこそ見いだすことができます。そうして生きる力を聖書の言葉から頂くことができます。
私たちの人生には詩編で歌われているような苦しみの局面もあるでしょう。しかし同時に、詩編23篇のように、「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」という、本当に希望と力となる神の御言葉も同時に私たちは頂くのです。
ですから、苦しい時にも私たちを支え、力を与えて導く、聖書の言葉に、私たちはいつも親しんでいたいと願います。
そしてイエス様が「渇く」と言われたことの意味はなんでしょうか。それは、私たち全ての人間を救おうとするための神の「渇き」です。それは“主は私たちに、全てを与えてくださった”ということです。
主なる神は、私たち人間に、もう他に与えるものは何もないほどに、何も出し惜しみすることなく、私たちの救いに必要なものを全てイエス様を通して与えてくださったのです。
イエス様はヨハネ7章37節(John 7:37)で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われました。
イエス様を信じれば、私たちの内から生きた水が川のように流れ出る、朽ちることのない生きた水を頂けるというのです。
しかしそのためには、主ご自身が十字架の上で完全な“渇き”という苦しみを経験しなくてはなりませんでした。
“渇いているものはだれでも私のところに来て飲みなさい”と言われたイエス様ご自身が、十字架の上で徹底的に渇かれたのです。
渇いている者の苦しみを誰よりも主ご自身が経験されたのです。それによって私たちが癒され、満たされるためにです。
このイエス様の姿を見て、私たちはどうするように促されるでしょうか。イエス様がなさったように全てを与えるということ、私たちにはできません。
しかし、『渇く』と言って、最後まで持てる全てを与え続けられた、主イエス・キリストの生き方に少しでも倣って生きようと努力することは、私たちにもできます。
私たちも、イエス様のように“与える”生き方をしたいと思います。「渇く」と言って私たちに命を与えてくださった主のお姿を見あげましょう。
そして私たちも、自分以外の他者の必要に気づいて、自分にできることがあるのならば、自分が持っている何かを、できる限りにおいて“与える”生き方をしていきたいと思います。
29節~30節をお読みします。
「そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」
最後に「頭を垂れて息を引き取られた」と書かれています。“息を引き取る”とはギリシア語では「霊を委ねる、明け渡す」という言い方がされています。
主イエスは、ご自身の霊を天の父なる神にお委ねになったのです。それは、“父なる神への完全な従順”であり“父なる神への完全な信頼”の姿です。
十字架の上のイエス様に、「海綿(スポンジ)にふくまれたぶどう酒」を人々が差し出しました。このぶどう酒は、イエス様の渇きをほんの一瞬でも癒したでしょう。
そのぶどう酒には、肉体の痛みを和らげる“麻酔”のような効果もあったのではないかと言われています。
イエス様は、差し出されたぶどう酒をお受けになりました。神であるイエス・キリストは、本来人の助けなど必要ない方です。
そのお方が、ご自分の持てるものを全て人のために与えつくして「渇く」と言われた後に、今度は苦しむ自分に人が差し出したぶどう酒を、まるで神が人からの憐みをお受けになるようにお受けになったのです。
そうして、そこで、成し遂げられねばならないことがすべて「成し遂げられた」とイエス様はおっしゃいました。
マタイ福音書の中のイエス様の言葉ですが、イエス様は弟子たちを派遣するときに、「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と言われました。
十字架の上でイエス様ご自身が、まさに“この小さな者の一人”になられて、人々が差し出すぶどう酒をお受けになられました。
私たち人にはプライド(自尊心)があります。プライドが自分を支えている、ということがよくあります。
私たちは“自分は自分の力で生きている”と思いたいですし、できるだけ人の世話にはなりたくない、と思っていないでしょうか。(私はそういう傾向が強いと思います)。
このプライドを捨てる、または乗り越えることができれば、私たちの間の人間関係の問題の多くは解決し、私たちは、聖書の言うように、自分以外の他者を自分よりも優れた者として尊敬することができるようになると思います。
そして私たちは他者から差し出される助けを感謝して受け取ることができるようになると思います。
主なる神イエス・キリストが、徹底的な苦しみの中、人から差し出されたぶどう酒を受けられました。ですからわたしたちも、お互いのために、ほんの少しの助けであっても互いに差し伸べましょう。
そして自分が一方的に与えるだけではなく、自分が苦しむ時、助けが必要な時には、他者から差し出される助けを感謝して受け取りましょう。
他者の助けによって私たちは生きていいのだと、そうやって生きるべきなのだと、イエス様の姿から私たちは教えられます。そのようにして私たちは共に生かされていくのです。
私たちは時に過去を振り返り、そして現在の自分を見て、「わたしの人生とは一体何だったのだろうか、何なのだろうか」と疑問に思うことがあるかもしれません。
しかし、私たちは十字架のイエス・キリストを見上げるならば、何かが不足しているように感じることも、また、“私はもっと何かをしなくてはいけないのでないか”と思って、焦る必要もありません。
なぜなら、主はわたしたちのために十字架の上で、“すべてを成し遂げてくださった”と聖書は伝えているからです。
私たちがすべきことは、ただこの十字架の主イエス・キリストを見あげて、そして、イエス・キリストが私たちにすべてを与えてくださった恵みを知り、感謝をすることだけです。
そして、この与えられた恵みを自分以外の他者と分かち合い、信仰を自らの生き方と言葉で告白し、生き方において信仰を実践していくことです。
そして人を支え、同時に自分も人に支えられながら、ただ自分だけが与える一方的な関係ではなくて、誰もがお互いに支え合う関係の中で私たちは生きていくのです。
与え、そして受け取る(支えられる)、イエス・キリストが十字架の上で最後に見せてくださったそのお姿に倣い、私たちにとって必要なことは全て主によって「成し遂げられた」のだと感謝をして希望を持って、新しい週の日々も私たち共に生かされてまいりましょう。
前奏
招詞 イザヤ書46章10節
賛美 新生讃美歌105番 くしき主の光
主の祈り
賛美 新生讃美歌236番 主の流された尊い血しお
証し
献金
聖句 ヨハネによる福音書19章28~30節
祈祷
宣教 「成し遂げられた」
祈祷
賛美 新生讃美歌379番 行きて告げよあまねく
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏
私たちは誰もがいずれ最後の時、すなわち死の時を迎えます。わたしたちはやがて必ず訪れる死に、どう向き合えばよいのでしょうか。
自分の死に向きあうことは、“今をどう生きるのか”、“与えられたこの命をどう活かして、人生をどう生きるのか”ということを真剣に考えることにつながると私は思います。
以前、私たちの教会の、年配のご夫婦と、人生の終わりに向けての学びをご一緒にしたことがあります。
お葬儀や、死後のお墓や遺骨のことについて、ただ自分の希望としてこうしたい、ああしたい、ではなくて“聖書はどう言っているのか”、“信仰に基づいて、自分のお葬儀や遺骨のことをどのように考えるべきなのか”を学んで準備を始めたいと、ご本人たちが希望なさったからです。
その学びは回数にしては2,3回ほどだったと思いますが、私がご夫妻を訪問した時に、一緒に聖書を読みながら、死に備えること、お葬儀や遺骨のことなどについて私たちは共に考えました。
それは、信仰的にどのように死に備えるかを改めて考える時として、私にとっても大変良い時となりました。
死について考えることは、すなわち生について考えることです。そして、わたしたちが自分の生、人生について考えるとき、わたしたちは「わたしは何のために生まれてきたのか」、「人生の目的とは何だろうか」と考えることがあると思います。
わたしたちは自分の人生の中で“何かを成し遂げたい”と、どこかで願っているのではないでしょうか。“成し遂げる”とまでは思わないとしても、人生の最後の時に「私の人生には少なくとも何かの意味があった」と、そう思いたいのではないでしょうか。
今日私たちは、イエス様の十字架の上でのそのお姿と、その時イエス様が言われた最後のお言葉から、私たちが“人生で本当にすべきこと”について、考えたいと思います。
28節をお読みします。
この後(のち)、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして聖書の言葉が実現した
イエス様は十字架の上で「渇く I am thirsty」と言われました。そして「渇く」とイエス様が言われることにより、“聖書の言葉が実現した”と書かれています。
この“聖書の言葉”とは、詩編22篇15~16節(14~15 NIV)の言葉です。
詩編22篇15~16節
「わたしは水となって注ぎ出され 骨はことごくはずれ 心は胸の中で蠟のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」
主が「渇く」苦しみを味わわれたのは、聖書に記された通りの苦しみに、イエス様を通して、主なる神自身が直面しているのだと、ヨハネ福音書の著者ヨハネは解釈したのです。
マルコ福音書によれば、イエス様は十字架の上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか)と大声で叫ばれました。
その言葉も詩編22篇の冒頭の言葉でした。ですからイエス様自身も、死にゆく十字架の上で、この詩編の言葉を思い浮かべていたのです。
イエス様は、ご自分に課せられた使命、苦難の意味を聖書の言葉、詩編の言葉の中に見いだし、聖書の言葉から力を得ていたのです。
私たちも、自分の人生の意味、意義を聖書の言葉の中にこそ見いだすことができます。そうして生きる力を聖書の言葉から頂くことができます。
私たちの人生には詩編で歌われているような苦しみの局面もあるでしょう。しかし同時に、詩編23篇のように、「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」という、本当に希望と力となる神の御言葉も同時に私たちは頂くのです。
ですから、苦しい時にも私たちを支え、力を与えて導く、聖書の言葉に、私たちはいつも親しんでいたいと願います。
そしてイエス様が「渇く」と言われたことの意味はなんでしょうか。それは、私たち全ての人間を救おうとするための神の「渇き」です。それは“主は私たちに、全てを与えてくださった”ということです。
主なる神は、私たち人間に、もう他に与えるものは何もないほどに、何も出し惜しみすることなく、私たちの救いに必要なものを全てイエス様を通して与えてくださったのです。
イエス様はヨハネ7章37節(John 7:37)で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われました。
イエス様を信じれば、私たちの内から生きた水が川のように流れ出る、朽ちることのない生きた水を頂けるというのです。
しかしそのためには、主ご自身が十字架の上で完全な“渇き”という苦しみを経験しなくてはなりませんでした。
“渇いているものはだれでも私のところに来て飲みなさい”と言われたイエス様ご自身が、十字架の上で徹底的に渇かれたのです。
渇いている者の苦しみを誰よりも主ご自身が経験されたのです。それによって私たちが癒され、満たされるためにです。
このイエス様の姿を見て、私たちはどうするように促されるでしょうか。イエス様がなさったように全てを与えるということ、私たちにはできません。
しかし、『渇く』と言って、最後まで持てる全てを与え続けられた、主イエス・キリストの生き方に少しでも倣って生きようと努力することは、私たちにもできます。
私たちも、イエス様のように“与える”生き方をしたいと思います。「渇く」と言って私たちに命を与えてくださった主のお姿を見あげましょう。
そして私たちも、自分以外の他者の必要に気づいて、自分にできることがあるのならば、自分が持っている何かを、できる限りにおいて“与える”生き方をしていきたいと思います。
29節~30節をお読みします。
「そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」
最後に「頭を垂れて息を引き取られた」と書かれています。“息を引き取る”とはギリシア語では「霊を委ねる、明け渡す」という言い方がされています。
主イエスは、ご自身の霊を天の父なる神にお委ねになったのです。それは、“父なる神への完全な従順”であり“父なる神への完全な信頼”の姿です。
十字架の上のイエス様に、「海綿(スポンジ)にふくまれたぶどう酒」を人々が差し出しました。このぶどう酒は、イエス様の渇きをほんの一瞬でも癒したでしょう。
そのぶどう酒には、肉体の痛みを和らげる“麻酔”のような効果もあったのではないかと言われています。
イエス様は、差し出されたぶどう酒をお受けになりました。神であるイエス・キリストは、本来人の助けなど必要ない方です。
そのお方が、ご自分の持てるものを全て人のために与えつくして「渇く」と言われた後に、今度は苦しむ自分に人が差し出したぶどう酒を、まるで神が人からの憐みをお受けになるようにお受けになったのです。
そうして、そこで、成し遂げられねばならないことがすべて「成し遂げられた」とイエス様はおっしゃいました。
マタイ福音書の中のイエス様の言葉ですが、イエス様は弟子たちを派遣するときに、「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と言われました。
十字架の上でイエス様ご自身が、まさに“この小さな者の一人”になられて、人々が差し出すぶどう酒をお受けになられました。
私たち人にはプライド(自尊心)があります。プライドが自分を支えている、ということがよくあります。
私たちは“自分は自分の力で生きている”と思いたいですし、できるだけ人の世話にはなりたくない、と思っていないでしょうか。(私はそういう傾向が強いと思います)。
このプライドを捨てる、または乗り越えることができれば、私たちの間の人間関係の問題の多くは解決し、私たちは、聖書の言うように、自分以外の他者を自分よりも優れた者として尊敬することができるようになると思います。
そして私たちは他者から差し出される助けを感謝して受け取ることができるようになると思います。
主なる神イエス・キリストが、徹底的な苦しみの中、人から差し出されたぶどう酒を受けられました。ですからわたしたちも、お互いのために、ほんの少しの助けであっても互いに差し伸べましょう。
そして自分が一方的に与えるだけではなく、自分が苦しむ時、助けが必要な時には、他者から差し出される助けを感謝して受け取りましょう。
他者の助けによって私たちは生きていいのだと、そうやって生きるべきなのだと、イエス様の姿から私たちは教えられます。そのようにして私たちは共に生かされていくのです。
私たちは時に過去を振り返り、そして現在の自分を見て、「わたしの人生とは一体何だったのだろうか、何なのだろうか」と疑問に思うことがあるかもしれません。
しかし、私たちは十字架のイエス・キリストを見上げるならば、何かが不足しているように感じることも、また、“私はもっと何かをしなくてはいけないのでないか”と思って、焦る必要もありません。
なぜなら、主はわたしたちのために十字架の上で、“すべてを成し遂げてくださった”と聖書は伝えているからです。
私たちがすべきことは、ただこの十字架の主イエス・キリストを見あげて、そして、イエス・キリストが私たちにすべてを与えてくださった恵みを知り、感謝をすることだけです。
そして、この与えられた恵みを自分以外の他者と分かち合い、信仰を自らの生き方と言葉で告白し、生き方において信仰を実践していくことです。
そして人を支え、同時に自分も人に支えられながら、ただ自分だけが与える一方的な関係ではなくて、誰もがお互いに支え合う関係の中で私たちは生きていくのです。
与え、そして受け取る(支えられる)、イエス・キリストが十字架の上で最後に見せてくださったそのお姿に倣い、私たちにとって必要なことは全て主によって「成し遂げられた」のだと感謝をして希望を持って、新しい週の日々も私たち共に生かされてまいりましょう。
2024年11月9日土曜日
2024年11月10日 主日礼拝宣教
前奏
招詞 詩編32篇7節
賛美 新生讃美歌 618番 主のためにわれは生く
主の祈り
賛美 新生讃美歌 236番 主の流された尊い血しおで
献金
聖句 ルカによる福音書9章18~27節
祈祷
宣教 「死と復活の予告」
祈祷
賛美 新生讃美歌230番 丘の上に立てる十字架
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏
「イエス・キリスト」は、歴史上の偉大な人物、あるいは歴史に大きな影響を与えた人物の一人である、というのがキリスト教を信じていない人たちの間では、一般的な考え方であると思います。
そのように一般的には、イエス・キリストはあくまで偉大な人間の一人と考えられています。イエス様は、隣人愛を人々に教え(自ら実践し)、多くの人たちの病を癒したりした、偉大な人間の一人、というのです。
今日の聖書箇所でイエス様は一緒にいた弟子たちに次のようにお尋ねになりました。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とイエス様は弟子たちに聞いたのです。
弟子たちは答えました。「『洗礼者ヨハネだ』と人々は言っています。ほかに『エリヤだ』、または『誰か昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
洗礼者ヨハネは、イエス様にもバプテスマ(洗礼)を授けた人でした。彼は、人々に神様へ立ち返ること(悔い改めること)を強く勧め続けた、当時の偉大な宗教指導者でした。
エリヤは旧約聖書の時代の偉大な預言者の一人です。預言者とは、神の言葉を預かって人々に伝える役割を果たした人たちでした。
『誰か昔の預言者が生き返ったのだ』とは、“このイエスという人は、とても素晴らしい業を行っているから、昔の偉大な預言者が生き返ったに違いない”という人たちがいた、ということです。
“生き返った”というのは、正確には、それほど偉大な預言者の再来のようなお方だ、という意味でしょう。
イエス様の何百年も前に死んだ預言者たちが、実際に生き返ったとは、それを言った人たちも信じてはいなかったと思います。
しかし、洗礼者ヨハネも、またエリヤやその他の偉大な預言者たちも、彼らはあくまで人間でした。彼らは神ではありませんでした。
現在の一般的な考えと同じく、イエス様の時代にも多くの人々はまだ、「イエスという人は偉大だが、あくまで一人の人間だ」と考えていたということです。
そこでイエス様は弟子たちに、次のように尋ねました。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(20節)。
“人々が私について色々言っているのは分かった。つまり人々は私のことを偉大ではあるが、人間の一人だと言っているのだろう。では、あなたたちは私を何者だと言うのか?”とイエス様は聞いたのです。
その問いに対して、ペトロが答えました。「神からのメシアです。」メシアとは、もともとヘブライ語で“油を注がれた者”という意味です。
それは、イスラエルで王や祭司が就任する時に特別な香油が注がれたことに由来し、やがて“神の救い主”を意味するようになった言葉だと言われます。
新約聖書の時代、イエス様が生きられたその時代には、やがて来られるメシア(神の救い主)が、イスラエルの民たちを、彼らを支配しているローマ帝国から救い出すと信じられるようになっていました。
そのように、イエス様の時代、人々は政治的解放者(軍事的な指導者)としての救い主の到来を待ち望んでいたのです。
ペトロが「あなたは、神からのメシアです」と答えると、イエス様は弟子たちを戒めて、そのことをだれにも言ってはいけない、と命じました(21節)。
なぜイエス様は、弟子たちがそのように告白すること、“イエスはメシアだ”と告白することを止められたのでしょうか。
メシアはやがてギリシア語でキリストと訳され、イエス・キリスト、つまり“イエスはキリスト(救い主)”という信仰告白の言葉が生まれました。
「あなたは神からのメシアです」という、この言葉の内容は間違っていません。それは真実でした。イエス様は、間違いなく神から遣わされた真のメシア(救い主)でした。
しかし、イエス様はペトロのその告白に対して、弟子たちに“そのことをだれにも話してはいけない”と命じられました。なぜでしょうか?
それはペトロはじめ弟子たちが“メシア”が本当に意味すること、イエス様が成し遂げようとされていることをまだ理解していなかったからです。
弟子たちは、イスラエルの国を再興してくれる、自分たちの国をローマ帝国から解放してくれる偉大なメシアを期待していました。
しかしイエス様が来られたのは、そのようなメシアになるためではありませんでした。22節でイエス様は次のようにおっしゃいました。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
イエス様は、これからご自分に降りかかろうとしていること、人々から拒絶され、十字架の上で殺されて、そしてその後三日目に復活することについて、話されました。
キリストは、まず人々に拒絶されて殺される、そしてその後よみがえる、と言って、イエス様はご自分の死と復活について予告されたのです。
イエス様は、神と同等であるご自分が命を差し出すことによって人々を救う、そのような意味で人を真の意味で解放する(人を罪から解放する)メシアである、とおっしゃったのです。
イエス様は、人々の憎悪、悪意、嘲りを一身に受けて、そして人による不当な裁判で殺されていく、そのような死を通して、人を真の解放へと導くお方として、メシアであったのです。
人を真に解放するためにまずご自分が死ななければならない、とイエス様はおっしゃいました。
実際にその出来事が起きた時、弟子たちがその現実に向き合うことができるように、イエス様はご自分の死と、そして復活について事前に予告しておられたのです。
私たちは、今イエス・キリストをどのようなお方だと告白しているでしょうか。「あなたがたはわたしを何者だと言うか」とイエス様に今問われたら、私たちは何と答えるでしょうか。
私たちは、自分で勝手に想像し作りあげた救い主のイメージでキリストを信じ、告白していないでしょうか。
私たちは常に聖書に聞いて、聖霊に導かれて、聖書が伝えるイエス・キリストをその正しい姿で、理解をしたいと願います。
そして私たちも、“あなたは神のメシア(キリスト、救い主)です”と信仰の告白をしたいと願います。
私たちは心からそう信じて、「このお方が私たちを深い罪から救ってくださった」と信じ、喜んで、そのように告白をし続けようではありませんか。
イエス様は続けて次のようにもおっしゃいました。23~25節をお読みします。
23それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
25人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
イエス様は弟子たちに、そして時代を超えて今の私たち信仰者にも、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。
“自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って”とはどういうことでしょうか。十字架とは、普通に考えれば、私たちそれぞれが負っている“重荷”を意味すると考えられます。
しかし、皆さんの中には、もうすでに十分な“重荷”を背負っておられ、辛い状況の中を生きておられる、という方もおられると思います。
私たち誰もが生きている上での重荷を背負っています。そんな私たちにイエス様は、ご自分に従うために、さらに重たい重荷、そのような意味での十字架を背負え、と言うのでしょうか?
私には、とてもそうは思えません。イエス様が、“日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい”という意味は、まずイエス様が私たちのために一番重い十字架を背負ってくださったことを知りなさい、という意味だと思います。
そのイエス様が、私たちと共に今も歩んでくださっています。ですから、私たち一人ひとりに与えられた人生の重荷をイエス様にお委ねして、共に担ってもらって、歩んでいこう、生きていこうとイエス様は呼びかけておられるのだと、私は思います。
日々(毎日)、私たちと共におられるイエス様に信頼して、イエス様と共に歩むことが信仰によって可能になるのです。イエス様の愛と憐れみの中に、この身を置いて生きる幸いを、今日また私たちは確信しようではありませんか。
24節でイエス様がおっしゃったことをもう一度聞いてみましょう。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」
このイエス様の言葉も、文字通りにではなく、その意味するところを理解せねばなりません。私たちが、イエス様のために自分の命を差し出す、ということではありません。
イエス様は、私たちから命を差し出してもらう必要はありません。そうではなく、イエス様が私たちの罪の贖いのために、ご自身の命を捨ててくださったのです。
イエス様が“私のために命を失う”とおっしゃったのは、私たちが生きる目的の中心をイエス様に置くということです。
私たち自身の願いや思いを先に置くのではなく、イエス様を通して示された神の御心を生きる目的にして日々生きる、ということです。
私たちは自分が願った通り、思い描いた通りに物事が進まないと満足できず不満を感じます。自分が願った通りにならないと、「私の人生は失敗した」とさえ思ってしまうかもしれません。
しかし、私たちが生きる目的をイエス様に置いて、生きる方向性をイエス・キリストに向けるのならば、その時私たちは本当の命を生きることになります。
キリストを心の真ん中に置いて、キリストに向かって生きる生き方へ方向転換をすることで、神中心でなく自分中心であった罪が正され、私たちの命は本当の意味で救われるのです。
自分中心という罪と、その罪によって引き起こされる悲惨な状態から解放され(救われて)、神中心の確固たる平安に満ちた生き方へと方向転換することで、私たちは真の命を頂くことができます。
そのような真の命を頂くため、私たちはイエス・キリストを救い主であると、言葉と生き方両方によって告白をしながら、キリストに従って日々生きていきましょう。
最も重い、私たちの罪の赦しのための十字架をイエス様が担い、その十字架の上で死んでくださいました。そのことを日々思い起こして、感謝と悔い改めの心を神に捧げてまいりましょう。
私たちの人生の重荷を共に担ってくださるイエス様が共におられます。信仰の目で、共におられるイエス様を認め、信仰による希望と感謝の日々を私たちは歩んでいこうではありませんか。
前奏
招詞 詩編32篇7節
賛美 新生讃美歌 618番 主のためにわれは生く
主の祈り
賛美 新生讃美歌 236番 主の流された尊い血しおで
献金
聖句 ルカによる福音書9章18~27節
祈祷
宣教 「死と復活の予告」
祈祷
賛美 新生讃美歌230番 丘の上に立てる十字架
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏
「イエス・キリスト」は、歴史上の偉大な人物、あるいは歴史に大きな影響を与えた人物の一人である、というのがキリスト教を信じていない人たちの間では、一般的な考え方であると思います。
そのように一般的には、イエス・キリストはあくまで偉大な人間の一人と考えられています。イエス様は、隣人愛を人々に教え(自ら実践し)、多くの人たちの病を癒したりした、偉大な人間の一人、というのです。
今日の聖書箇所でイエス様は一緒にいた弟子たちに次のようにお尋ねになりました。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とイエス様は弟子たちに聞いたのです。
弟子たちは答えました。「『洗礼者ヨハネだ』と人々は言っています。ほかに『エリヤだ』、または『誰か昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
洗礼者ヨハネは、イエス様にもバプテスマ(洗礼)を授けた人でした。彼は、人々に神様へ立ち返ること(悔い改めること)を強く勧め続けた、当時の偉大な宗教指導者でした。
エリヤは旧約聖書の時代の偉大な預言者の一人です。預言者とは、神の言葉を預かって人々に伝える役割を果たした人たちでした。
『誰か昔の預言者が生き返ったのだ』とは、“このイエスという人は、とても素晴らしい業を行っているから、昔の偉大な預言者が生き返ったに違いない”という人たちがいた、ということです。
“生き返った”というのは、正確には、それほど偉大な預言者の再来のようなお方だ、という意味でしょう。
イエス様の何百年も前に死んだ預言者たちが、実際に生き返ったとは、それを言った人たちも信じてはいなかったと思います。
しかし、洗礼者ヨハネも、またエリヤやその他の偉大な預言者たちも、彼らはあくまで人間でした。彼らは神ではありませんでした。
現在の一般的な考えと同じく、イエス様の時代にも多くの人々はまだ、「イエスという人は偉大だが、あくまで一人の人間だ」と考えていたということです。
そこでイエス様は弟子たちに、次のように尋ねました。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(20節)。
“人々が私について色々言っているのは分かった。つまり人々は私のことを偉大ではあるが、人間の一人だと言っているのだろう。では、あなたたちは私を何者だと言うのか?”とイエス様は聞いたのです。
その問いに対して、ペトロが答えました。「神からのメシアです。」メシアとは、もともとヘブライ語で“油を注がれた者”という意味です。
それは、イスラエルで王や祭司が就任する時に特別な香油が注がれたことに由来し、やがて“神の救い主”を意味するようになった言葉だと言われます。
新約聖書の時代、イエス様が生きられたその時代には、やがて来られるメシア(神の救い主)が、イスラエルの民たちを、彼らを支配しているローマ帝国から救い出すと信じられるようになっていました。
そのように、イエス様の時代、人々は政治的解放者(軍事的な指導者)としての救い主の到来を待ち望んでいたのです。
ペトロが「あなたは、神からのメシアです」と答えると、イエス様は弟子たちを戒めて、そのことをだれにも言ってはいけない、と命じました(21節)。
なぜイエス様は、弟子たちがそのように告白すること、“イエスはメシアだ”と告白することを止められたのでしょうか。
メシアはやがてギリシア語でキリストと訳され、イエス・キリスト、つまり“イエスはキリスト(救い主)”という信仰告白の言葉が生まれました。
「あなたは神からのメシアです」という、この言葉の内容は間違っていません。それは真実でした。イエス様は、間違いなく神から遣わされた真のメシア(救い主)でした。
しかし、イエス様はペトロのその告白に対して、弟子たちに“そのことをだれにも話してはいけない”と命じられました。なぜでしょうか?
それはペトロはじめ弟子たちが“メシア”が本当に意味すること、イエス様が成し遂げようとされていることをまだ理解していなかったからです。
弟子たちは、イスラエルの国を再興してくれる、自分たちの国をローマ帝国から解放してくれる偉大なメシアを期待していました。
しかしイエス様が来られたのは、そのようなメシアになるためではありませんでした。22節でイエス様は次のようにおっしゃいました。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
イエス様は、これからご自分に降りかかろうとしていること、人々から拒絶され、十字架の上で殺されて、そしてその後三日目に復活することについて、話されました。
キリストは、まず人々に拒絶されて殺される、そしてその後よみがえる、と言って、イエス様はご自分の死と復活について予告されたのです。
イエス様は、神と同等であるご自分が命を差し出すことによって人々を救う、そのような意味で人を真の意味で解放する(人を罪から解放する)メシアである、とおっしゃったのです。
イエス様は、人々の憎悪、悪意、嘲りを一身に受けて、そして人による不当な裁判で殺されていく、そのような死を通して、人を真の解放へと導くお方として、メシアであったのです。
人を真に解放するためにまずご自分が死ななければならない、とイエス様はおっしゃいました。
実際にその出来事が起きた時、弟子たちがその現実に向き合うことができるように、イエス様はご自分の死と、そして復活について事前に予告しておられたのです。
私たちは、今イエス・キリストをどのようなお方だと告白しているでしょうか。「あなたがたはわたしを何者だと言うか」とイエス様に今問われたら、私たちは何と答えるでしょうか。
私たちは、自分で勝手に想像し作りあげた救い主のイメージでキリストを信じ、告白していないでしょうか。
私たちは常に聖書に聞いて、聖霊に導かれて、聖書が伝えるイエス・キリストをその正しい姿で、理解をしたいと願います。
そして私たちも、“あなたは神のメシア(キリスト、救い主)です”と信仰の告白をしたいと願います。
私たちは心からそう信じて、「このお方が私たちを深い罪から救ってくださった」と信じ、喜んで、そのように告白をし続けようではありませんか。
イエス様は続けて次のようにもおっしゃいました。23~25節をお読みします。
23それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
25人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
イエス様は弟子たちに、そして時代を超えて今の私たち信仰者にも、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。
“自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って”とはどういうことでしょうか。十字架とは、普通に考えれば、私たちそれぞれが負っている“重荷”を意味すると考えられます。
しかし、皆さんの中には、もうすでに十分な“重荷”を背負っておられ、辛い状況の中を生きておられる、という方もおられると思います。
私たち誰もが生きている上での重荷を背負っています。そんな私たちにイエス様は、ご自分に従うために、さらに重たい重荷、そのような意味での十字架を背負え、と言うのでしょうか?
私には、とてもそうは思えません。イエス様が、“日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい”という意味は、まずイエス様が私たちのために一番重い十字架を背負ってくださったことを知りなさい、という意味だと思います。
そのイエス様が、私たちと共に今も歩んでくださっています。ですから、私たち一人ひとりに与えられた人生の重荷をイエス様にお委ねして、共に担ってもらって、歩んでいこう、生きていこうとイエス様は呼びかけておられるのだと、私は思います。
日々(毎日)、私たちと共におられるイエス様に信頼して、イエス様と共に歩むことが信仰によって可能になるのです。イエス様の愛と憐れみの中に、この身を置いて生きる幸いを、今日また私たちは確信しようではありませんか。
24節でイエス様がおっしゃったことをもう一度聞いてみましょう。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」
このイエス様の言葉も、文字通りにではなく、その意味するところを理解せねばなりません。私たちが、イエス様のために自分の命を差し出す、ということではありません。
イエス様は、私たちから命を差し出してもらう必要はありません。そうではなく、イエス様が私たちの罪の贖いのために、ご自身の命を捨ててくださったのです。
イエス様が“私のために命を失う”とおっしゃったのは、私たちが生きる目的の中心をイエス様に置くということです。
私たち自身の願いや思いを先に置くのではなく、イエス様を通して示された神の御心を生きる目的にして日々生きる、ということです。
私たちは自分が願った通り、思い描いた通りに物事が進まないと満足できず不満を感じます。自分が願った通りにならないと、「私の人生は失敗した」とさえ思ってしまうかもしれません。
しかし、私たちが生きる目的をイエス様に置いて、生きる方向性をイエス・キリストに向けるのならば、その時私たちは本当の命を生きることになります。
キリストを心の真ん中に置いて、キリストに向かって生きる生き方へ方向転換をすることで、神中心でなく自分中心であった罪が正され、私たちの命は本当の意味で救われるのです。
自分中心という罪と、その罪によって引き起こされる悲惨な状態から解放され(救われて)、神中心の確固たる平安に満ちた生き方へと方向転換することで、私たちは真の命を頂くことができます。
そのような真の命を頂くため、私たちはイエス・キリストを救い主であると、言葉と生き方両方によって告白をしながら、キリストに従って日々生きていきましょう。
最も重い、私たちの罪の赦しのための十字架をイエス様が担い、その十字架の上で死んでくださいました。そのことを日々思い起こして、感謝と悔い改めの心を神に捧げてまいりましょう。
私たちの人生の重荷を共に担ってくださるイエス様が共におられます。信仰の目で、共におられるイエス様を認め、信仰による希望と感謝の日々を私たちは歩んでいこうではありませんか。
2024年11月1日金曜日
2024年11月3日 主日礼拝
前奏
招詞 エレミヤ書17章7節
賛美 新生讃美歌 339番 教会の基
主の祈り
賛美 新生讃美歌523番 主われを愛す
献金
聖書人形劇
特別賛美
聖句 ヨハネによる福音書14章1~14節
祈祷
宣教 「「わたしは道であり、真理であり、命である」
祈祷
賛美 新生讃美歌 338番 よきおとずれを語り伝え
頌栄 新生讃美歌 676番
祝祷
後奏
人は、何かを信じて生きていくものだと、私は思います。何かを信じて生きていく、という時の「何かを信じる」とは、もっと詳しく言えば、どういうことでしょうか?
人が何かを信じて生きるとは、その信じる対象が、その人にとって大変重要なものであり、その人が生きていくための指針や価値観の中心となっている、ということだと思います。
別の言い方をすれば、それに従って生きていく、という対象です。皆さんにとって、それに従って生きていくという対象は何でしょうか?
何らかの思想や信条、あるいは尊敬できる他の人、ひょっとしたら「正直に言えば、それはお金だ」と思う方もいらっしゃるでしょうか。確かに金銭は、誰にとっても、必要なものです。
あるいは“信じるものは、自分自身だけ”という方もいらっしゃるでしょうか。あるいは、「何を信じて生きていくのか。そのような対象は特にない。人は、ただ生きているだけだ」という考えもあるかもしれません。
私にとって、それに従って生きていく、というその対象は神です。クリスチャンである私にとっての神とは、イエス・キリストというお方を通してご自身のことを人に現わされた神です。
しかし私が、いつもキリストの神のお考えを理解し、いつも神に従って生きることができている、ということではありません。
クリスチャンであり、また今は牧師として教会のリーダーの役割を担わせていただいている私であっても、弱く欠点を持った人間である私は、神にいつも従うことができているわけではないのです。
そもそも何が本当に神のお考えであるのか、神が私に何をお望みであるのかが、はっきりと分からない場合も多いのです。
それでも私にとっての神とは、イエス・キリストを通してご自身のことを人に現わしてくださったお方であり、そのお方に従って生きていきたいと、私は少なくとも願っています。
イエス・キリストは約2,000年前に十字架にかかり(死刑になって)死にました。今、キリストの姿は目には見えません。キリストの声をはっきりと耳で聞くことも、通常は私たちにはできません。
しかし今も私たちは、イエス・キリストの行ったことと、イエス・キリストが言ったその言葉を、聖書を通して知ることができます。
世の中には、様々な“神”と言われるものがありますが、キリスト教では、イエス・キリストを通してご自身を現わされたお方こそが、唯一真の神であると信じています。
“イエス・キリストを通してご自身を現わされた”とは、神ご自身がイエスという人、一人の人間となってこの世に生まれ、他の人々と全く同じように人としての命を生きた、ということです。
イエス様(教会で、クリスチャンは日本語でイエス・キリストのことを“イエス様”と呼ぶことが多いので、ご了承ください)自身が、ご自分が神と等しい存在であることを、はっきりとおっしゃいました。
聖書にはそのことが書かれています。先ほどお読みいただいた聖書の箇所(ヨハネによる福音書)にも、イエス様がご自分は神と等しい存在であることを前提にして語った言葉が記されています。
先ほどお読みいただいた聖書箇所の初めで、イエス様は次のように言っています。
神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
“神を信じなさい”と言ったのに続いて“わたしをも信じなさい”とイエス様は言ったのです。これは、“神を信じるのと同じように、わたしをも信じなさい”つまりイエス様はご自身を神と等しいお方であると、表明したことになります。
また、今日の箇所では、イエス様の弟子の一人であったフィリポという人が次のように言っています。
「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(8節)
“父をわたしたちに示してください”、とは“父なる神を私たちに見せてください”ということです。
フィリポの言ったことは、私たちもよく理解できるのではないでしょうか。人はよく、“目で見たら、何かの証拠を見せてくれたら、神を信じる”と言うことがあると思います。
私たちは自分の目で見ることができ、また誰が聞いても納得できるような証拠が示されれば、それを信じることができる、と通常は考えると思います。
フィリポに対してイエス様は次のようにお答えになりました。
わたしを見た者は、父を見たのだ。(9節)
次のようにもイエス様はおっしゃっています。10節をお読みします。
10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
イエス様は、ご自分が父なる神の中にいて、そして父なる神もご自身(イエス様)のうちにおられる、と言っているのです。
初めてお聞きになると、分かりにくい、あるいはとても信じられないことかもしれません。
しかし、イエス様がおっしゃったことは、“父なる神とイエス様は等しいお方であること、つまりイエス様は神である”ということを伝えているのです。
そして聖書は、イエス・キリストを通してご自身を現わされた神が、唯一真の神である、と伝えています。
それがキリスト教が人気がない理由の一つであることを私は知っています。「神は唯一だ、などと言うから“キリスト教は視野が狭い”と思われるのだ」という意見が、クリスチャンの中にもあるかもしれません。
しかし、私は神の言葉を託された牧師として、その点(神は唯一、イエス・キリストのみ)を薄めたり、妥協してお伝えすることはできません。
今日の聖書箇所の中で、イエス様が次のように言っています。今日のメッセージのタイトルにもしました、6節に書かれている言葉です。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
イエス様は“わたしは一つの道(a way)であり、一つの真理(a truth)であり、一つの命(a life)である(わたし以外にも、神に至る道、真理、命はある)”とは、決して言っていません。
方向さえ正しければ、どの道を通っても、どの交通機関を利用しても、行先と方向が正しければ目的地に到着することができます。
もし道を間違っていれば、行きたい目的地へ到着することはできません。しかしイエス様は、ご自分こそが父なる神へと至る道そのものだ(他に道は無い)、と断言したのです。
もしただの人間がこんな主張をしたのであれば、それほど独善的で異常な主張はないでしょう。
ですから、イエス様の言うことを聞いた私たちには、“ご自分こそが父なる神に至る唯一の道、そしてご自分は神と等しいお方”と主張したイエス様の言うことを、完全に拒否するか、あるいは信じるのか、二つに一つの選択肢が示されます。
そこまでして、“独善的に”ご自身の唯一性を主張し、“わたしに従いなさい”と促す神とは一体、どのようなお方なのでしょうか?
一言で言えば“神は愛”です。聖書にそのものの言葉が記されています。ヨハネの手紙一4章16節に「神は愛です」と書かれています。時間があれば、ぜひその前後もお読みしたいのですが、皆さん聖書を手にとって、ぜひご自分でお読みください。
「神は愛です」とは、「あなたは神様にとって大切な存在です。神はあなたを愛しておられる(大切だと思っておられる)」ということです。
最初に私は、「私にとって、それに従って生きていくという対象は神(イエス・キリストの神)です」と申し上げました。
それだけ聞くと、神とは、人間にただ命令するだけの主人、マネージャーのようなお方だと思えるかもしれません。
そうではないのです。神はイエス・キリストを通して、イエス様の行いとお言葉を通して、今も私たちに向かって“あなたがたは大切な存在であり、愛された尊い存在だ”ということを伝えてくださるお方です。
そして、自分が神に愛されている、尊い存在であることが分かると、私たちはそのお方(神に)従いたいと願うようになります。
そして神に自分が愛されていることを知ると、人は自分自身と、また自分以外の他者をも愛せるように(大切にすることができる)ようになるのです。すくなくとも、他者を愛したいと願うようになります。(それができずに、悩みもします)。
ぜひ皆様には、そのような神、私たちを愛し、そして私たちに自分と他者をも愛するようにと促すイエス・キリストがおられると言う可能性に、心を開いていただきたいと願います。
最期に、今から6年前に、天に召された(亡くなった)教会のメンバーのお一人(女性)が、ご自分が亡くなることを悟られ、死の直前に教会の皆さんに残してくださったメッセージを、お読みします。
時々今でも私はこの小さなノートを見返すのですが、これは、一人の信仰者が、“愛なる神を信じて、神の平安のうちに確かに生きて、そしてこの地上での生を終えられた”という確かな証しです。
「信仰の友との出会いは 私に よろこびと平安をもたらし心から感謝します。大変しあわせな人生でした。聖霊(*神の霊)に抱かれて主イエスさまのもとへ参ります。祈って下さいね。皆様のおしあわせをお祈りしています。主イエスさまの御名に依り アーメン」
同じ方のメッセージがもう一つあります。そちらもお読みします。
「牧師さまへ 生前中は、大変お世話さまになりました。イエスさまの御手を(*わたしが)離さぬようにお祈り下さい」。
皆様がイエス・キリストの神と出会われますように。真実の神様の愛と平安が、皆様お一人お一人を満たしてくださいますように。
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