2024年11月29日金曜日

2024年12月1日 主日礼拝

前奏
招詞  イザヤ書7章14節
アドベントキャンドルの点火(希望)
賛美 新生讃美歌 148番 久しく待ちにし
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌301番 いかなる恵みぞ
献金
聖句 ローマの信徒への手紙8章18~25節
祈祷
宣教 「目には見えないものを望んで」
祈祷
賛美 新生讃美歌491番 信ぜよ み神を
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
後奏

 今日から、教会の暦ではアドベント(待降節=誕生(キリストの誕生)を待つ時)と言われる期間に入ります。
アドベントは、クリスマス前の約4週間の期間を指し、今日から12月24日(クリスマス・イヴ)までがアドベントの期間になります。
 クリスマスには、私たちキリスト教会は、イエス・キリストがこの世界に生まれてこられたことを記念し、お祝いを致します。
 イエス・キリストは全ての人の救い主として、この世界に来てくださったと聖書は伝えます。

 新約聖書の『ヨハネの手紙一』の2章2節には、次のように書かれています。
 この方(*キリスト)こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。

 その“わたしたち”とは、キリストを信じるクリスチャンのことが言われているのだと思われます。
もしくは、旧約聖書の中で、神によって最初に選ばれ、神の救いが告知されたイスラエルの民のことが言われているのかもしれません。
 しかし、キリストがお生まれになったことにより、罪の赦しと贖いは全世界のあらゆる民に及ぶということが明らかになりました。
 同じ『ヨハネの手紙一』の4章14節には次のように書かれています。

わたしたちはまた、御父が御子(*キリスト)を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。

ここでも、「イエス・キリストは全世界の救い主として世に来られた」と伝えています。
 全世界の救い主が来られたという出来事を、私たちが常に記憶し、感謝し、喜ぶため、そしてその喜びの知らせを世に伝え続けるために、キリスト教会は毎年繰り返し、クリスマスを記念いたします。
キリストが救い主として私たちの世界に来られたということは、私たちは救い出される必要がある者だ、ということです。
 私たちはどのような状態から救い出される必要があるのでしょうか。

今日の聖書箇所の20節に次のように、「被造物は虚無に服している」と書かれています。英語訳(NIV)では”frustration”と訳されています。
“虚無”、あるいは“フラストレーション”いずれも、“失望”や“落胆”と言い換えてもよいと私は思います。
この世にあって私たちは誰もが失望や落胆の中に生きている、あるいはどうしても満たされない欲求(願い)を抱えながら生きている、と聖書は言うのです。
 私たちが、神が造られたこの世界にあって、どうしても満たされない心、不満や不安を抱えながら生きる原因は私たち人間による罪が原因であると、聖書は伝えています。

人は罪によって、私たちの世界の創造主である神のご栄光から自ら遠ざかってしまいました。
人は本来神に従って、神の栄光を頂いて生きる者として造られました。しかし人は、自分を中心にして生きるようになったため、罪が私たちの中に入り込みました。
自分中心に生きるようになったため、私たちは神からも離れ、また自分以外の他者からも離れて、互いに完全には理解し合えない存在として生きるようになりました。
本来、神の栄光を豊かに受けて生きるように造られ、また他者とも何事も隠すことなく理解し合って生きるように造られた者が、自分中心に生きる道を選んでしまったことが、私たちの苦しみの一つの原因としてあるのだと思います。

 私たちは神から離れてしまったので、神の御計画、神の御意志が分からなくなりました。ですから私たちは悩みます。
また自分以外の他者と完全に理解し合えず、時に怒りや憎しみさえも抱くようになり、そのために私たちは苦しむということもあります。
この世にあって、この世のものによってはどうしても満たされない私たちの心、虚無やフラストレーションを抱えて私たちは苦しんでいます。
 しかし、今日の箇所の初めの節であるローマの信徒への手紙8章18節を読んでみましょう。

18現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。

様々な事情や理由で苦しんでおられる方が、“現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りない”、“それは取るに足りない(大した問題ではない)”と言われると、納得できないかもしれません。
 しかし、この「ローマ人への手紙」の筆者(パウロ)がこのように表現したのは、人々の苦しみを軽視したのではなく、“将来わたしたちに現わされるはずの栄光”の素晴らしさを何とか強調したいために、このように彼は表現したのだと思います。
私たちにはこの世にあって苦しみがあり、理解できない理不尽な不幸に見舞われることもあります。それでも「同時に希望もある」と今日の箇所は言います(聖書全体がそう言います)。

今日の21節では、“滅びへの隷属 bondage to decay”という言葉が使われています。

神から離れ、神のご栄光を受けることができず、その結果他者とも本当の意味で理解し、受け入れ合うことができない状態が“滅び”であると言えるでしょう。それは神からも人からも離れた状態です。
しかし、その滅びへの隷属から解放される(自由になる)希望がある、と今日の箇所は伝えます。
今日の箇所で、「イエス・キリスト」という言葉ははっきりとは出てきませんが、イエス・キリストによる自由と解放の希望が今日の箇所で書かれていることは明らかです。
今の世では私たちには苦しみがあり、その苦しみを自分の力ではとても解決できないことも多いでしょう。
しかし現在の苦しみが、やがて神様による栄光へと変えられる、と言う希望があることを、聖書は伝えるのです。
先ほど私は「今日の箇所は、人の苦しみを決して軽視していない」と申し上げました。それは22節~23節の言葉を見ても、はっきりと理解できると思います。

22~23節
22被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
23被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。

今神を信じる信仰者であっても、(信仰者でなくても)皆うめくように苦しんでいる、とこの箇所は言うのです。
この言葉を通して、私たちの造り主である神が、私たちの苦しみを本当に分かってくださっており、共に担ってくださっていることが分かります。
 この世ではどうしても満たされない心、現在の苦しみの先には、神のご栄光にあずかることができるという希望があるのです。その希望によって私たちは生きる力を頂くことができます。
神のご栄光にあずかるとは、やがて私たちは神の子とされ、この体が贖われる、すなわち復活のイエス・キリストと共に、永遠の命に生かされる、ということです。
この世界では、私たちは不完全で限界、欠点のある存在です。真の神から離れた不安定で不安な状態の中に生かされています。

しかし神は、御子イエス・キリストをこの世界にお遣わしになることで、キリストを通して私たちも神の子となることができる恵みを与えてくださいました。
今日の箇所より前の、ローマ6章5節には次のように書かれています。
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

私たちはキリストを通して、キリストへの信仰によって、神の子としての身分を頂けるのです。私たちは復活のイエス・キリストと一体になり、復活の力と希望が私たちにも与えられるのです。
“この希望によって、私たちは今の世の苦しみから救われている”と今日の箇所は伝えます。どんなに困難なことがあっても、この希望を私たちから奪うものは何もありません。
キリストに繋がり、神の子となり復活するという希望を分かち合うために、私たちはこうして教会にもつながっています。
この希望を世に伝え続けるために、私たちはキリストの教会を建て上げています。
 この希望は今はっきりと目に見える(完全に理解できる)ものではありません。
しかしこの希望は、2000年前、人として確かにこの世界にお生まれになった、神の子イエス・キリストの誕生によって保証されている確かな希望です。

私たちは何かを期待して待つということが、どれほど嬉しいことであるかを、体験的にも知っていると思います。
 何か楽しい計画や予定が先にあることが分かっていると、それに向けて今を頑張ろうと私たちは思います。
  勉強や仕事にしても、その先にある夢や目標があるので、今の苦しみに何とか耐えよう、と私たちは頑張ることができます。
  もしそのような夢や目標がないと、今の苦しみに向き合うことは、とても難しくなるでしょう。
繰り返しますが、私たちの人生には苦しみがあります。今のこの苦しみには意味があるのか、こんなに苦しいのだったらこんな人生、生きていたくない、とさえ思うこともあるかもしれません。

 しかし神は、イエス・キリストを私たちに究極の希望として与えてくださり、キリストと共に神の子とされ、やがてキリストの復活にも結ばれる、と言う希望の約束を与えてくださいました。
 キリストと共にある永遠の命が私たちに約束されているので、私たちはこの世にあっても希望をもって生きることができます。
  この希望によって私たちは救われているのです。この目には見えない、しかし確かな希望によって救われているのです。
 イエス・キリストが人としてお生まれになったことによって、私たちの生きるこの人生には尊い意味があるのだと、苦しみは決して無駄、無意味ではないのだと、私たちは信じてよいのです。
 人として生まれ、そして私たちの罪のために十字架にかかって死なれたお方、そして三日後に復活したお方を信じ、そのお方と繋がることによって、私たちは希望を得ることができるのです。
 クリスマスは、その確かな希望の始まりを告げる出来事です。私たちはクリスマス、イエス・キリストのお誕生を覚えて、キリストにある希望を共にいただいていきましょう。
 アドベントは主イエス・キリストの御降誕(お誕生)を待ちわびる季節です。
主を待ち望む、その希望に生かされる幸いを覚えて、このアドベントの時を私たち共に過ごしてまいりましょう。