2024年11月10日 主日礼拝宣教
前奏
招詞 詩編32篇7節
賛美 新生讃美歌 618番 主のためにわれは生く
主の祈り
賛美 新生讃美歌 236番 主の流された尊い血しおで
献金
聖句 ルカによる福音書9章18~27節
祈祷
宣教 「死と復活の予告」
祈祷
賛美 新生讃美歌230番 丘の上に立てる十字架
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏
「イエス・キリスト」は、歴史上の偉大な人物、あるいは歴史に大きな影響を与えた人物の一人である、というのがキリスト教を信じていない人たちの間では、一般的な考え方であると思います。
そのように一般的には、イエス・キリストはあくまで偉大な人間の一人と考えられています。イエス様は、隣人愛を人々に教え(自ら実践し)、多くの人たちの病を癒したりした、偉大な人間の一人、というのです。
今日の聖書箇所でイエス様は一緒にいた弟子たちに次のようにお尋ねになりました。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とイエス様は弟子たちに聞いたのです。
弟子たちは答えました。「『洗礼者ヨハネだ』と人々は言っています。ほかに『エリヤだ』、または『誰か昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
洗礼者ヨハネは、イエス様にもバプテスマ(洗礼)を授けた人でした。彼は、人々に神様へ立ち返ること(悔い改めること)を強く勧め続けた、当時の偉大な宗教指導者でした。
エリヤは旧約聖書の時代の偉大な預言者の一人です。預言者とは、神の言葉を預かって人々に伝える役割を果たした人たちでした。
『誰か昔の預言者が生き返ったのだ』とは、“このイエスという人は、とても素晴らしい業を行っているから、昔の偉大な預言者が生き返ったに違いない”という人たちがいた、ということです。
“生き返った”というのは、正確には、それほど偉大な預言者の再来のようなお方だ、という意味でしょう。
イエス様の何百年も前に死んだ預言者たちが、実際に生き返ったとは、それを言った人たちも信じてはいなかったと思います。
しかし、洗礼者ヨハネも、またエリヤやその他の偉大な預言者たちも、彼らはあくまで人間でした。彼らは神ではありませんでした。
現在の一般的な考えと同じく、イエス様の時代にも多くの人々はまだ、「イエスという人は偉大だが、あくまで一人の人間だ」と考えていたということです。
そこでイエス様は弟子たちに、次のように尋ねました。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(20節)。
“人々が私について色々言っているのは分かった。つまり人々は私のことを偉大ではあるが、人間の一人だと言っているのだろう。では、あなたたちは私を何者だと言うのか?”とイエス様は聞いたのです。
その問いに対して、ペトロが答えました。「神からのメシアです。」メシアとは、もともとヘブライ語で“油を注がれた者”という意味です。
それは、イスラエルで王や祭司が就任する時に特別な香油が注がれたことに由来し、やがて“神の救い主”を意味するようになった言葉だと言われます。
新約聖書の時代、イエス様が生きられたその時代には、やがて来られるメシア(神の救い主)が、イスラエルの民たちを、彼らを支配しているローマ帝国から救い出すと信じられるようになっていました。
そのように、イエス様の時代、人々は政治的解放者(軍事的な指導者)としての救い主の到来を待ち望んでいたのです。
ペトロが「あなたは、神からのメシアです」と答えると、イエス様は弟子たちを戒めて、そのことをだれにも言ってはいけない、と命じました(21節)。
なぜイエス様は、弟子たちがそのように告白すること、“イエスはメシアだ”と告白することを止められたのでしょうか。
メシアはやがてギリシア語でキリストと訳され、イエス・キリスト、つまり“イエスはキリスト(救い主)”という信仰告白の言葉が生まれました。
「あなたは神からのメシアです」という、この言葉の内容は間違っていません。それは真実でした。イエス様は、間違いなく神から遣わされた真のメシア(救い主)でした。
しかし、イエス様はペトロのその告白に対して、弟子たちに“そのことをだれにも話してはいけない”と命じられました。なぜでしょうか?
それはペトロはじめ弟子たちが“メシア”が本当に意味すること、イエス様が成し遂げようとされていることをまだ理解していなかったからです。
弟子たちは、イスラエルの国を再興してくれる、自分たちの国をローマ帝国から解放してくれる偉大なメシアを期待していました。
しかしイエス様が来られたのは、そのようなメシアになるためではありませんでした。22節でイエス様は次のようにおっしゃいました。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
イエス様は、これからご自分に降りかかろうとしていること、人々から拒絶され、十字架の上で殺されて、そしてその後三日目に復活することについて、話されました。
キリストは、まず人々に拒絶されて殺される、そしてその後よみがえる、と言って、イエス様はご自分の死と復活について予告されたのです。
イエス様は、神と同等であるご自分が命を差し出すことによって人々を救う、そのような意味で人を真の意味で解放する(人を罪から解放する)メシアである、とおっしゃったのです。
イエス様は、人々の憎悪、悪意、嘲りを一身に受けて、そして人による不当な裁判で殺されていく、そのような死を通して、人を真の解放へと導くお方として、メシアであったのです。
人を真に解放するためにまずご自分が死ななければならない、とイエス様はおっしゃいました。
実際にその出来事が起きた時、弟子たちがその現実に向き合うことができるように、イエス様はご自分の死と、そして復活について事前に予告しておられたのです。
私たちは、今イエス・キリストをどのようなお方だと告白しているでしょうか。「あなたがたはわたしを何者だと言うか」とイエス様に今問われたら、私たちは何と答えるでしょうか。
私たちは、自分で勝手に想像し作りあげた救い主のイメージでキリストを信じ、告白していないでしょうか。
私たちは常に聖書に聞いて、聖霊に導かれて、聖書が伝えるイエス・キリストをその正しい姿で、理解をしたいと願います。
そして私たちも、“あなたは神のメシア(キリスト、救い主)です”と信仰の告白をしたいと願います。
私たちは心からそう信じて、「このお方が私たちを深い罪から救ってくださった」と信じ、喜んで、そのように告白をし続けようではありませんか。
イエス様は続けて次のようにもおっしゃいました。23~25節をお読みします。
23それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
25人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
イエス様は弟子たちに、そして時代を超えて今の私たち信仰者にも、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。
“自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って”とはどういうことでしょうか。十字架とは、普通に考えれば、私たちそれぞれが負っている“重荷”を意味すると考えられます。
しかし、皆さんの中には、もうすでに十分な“重荷”を背負っておられ、辛い状況の中を生きておられる、という方もおられると思います。
私たち誰もが生きている上での重荷を背負っています。そんな私たちにイエス様は、ご自分に従うために、さらに重たい重荷、そのような意味での十字架を背負え、と言うのでしょうか?
私には、とてもそうは思えません。イエス様が、“日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい”という意味は、まずイエス様が私たちのために一番重い十字架を背負ってくださったことを知りなさい、という意味だと思います。
そのイエス様が、私たちと共に今も歩んでくださっています。ですから、私たち一人ひとりに与えられた人生の重荷をイエス様にお委ねして、共に担ってもらって、歩んでいこう、生きていこうとイエス様は呼びかけておられるのだと、私は思います。
日々(毎日)、私たちと共におられるイエス様に信頼して、イエス様と共に歩むことが信仰によって可能になるのです。イエス様の愛と憐れみの中に、この身を置いて生きる幸いを、今日また私たちは確信しようではありませんか。
24節でイエス様がおっしゃったことをもう一度聞いてみましょう。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」
このイエス様の言葉も、文字通りにではなく、その意味するところを理解せねばなりません。私たちが、イエス様のために自分の命を差し出す、ということではありません。
イエス様は、私たちから命を差し出してもらう必要はありません。そうではなく、イエス様が私たちの罪の贖いのために、ご自身の命を捨ててくださったのです。
イエス様が“私のために命を失う”とおっしゃったのは、私たちが生きる目的の中心をイエス様に置くということです。
私たち自身の願いや思いを先に置くのではなく、イエス様を通して示された神の御心を生きる目的にして日々生きる、ということです。
私たちは自分が願った通り、思い描いた通りに物事が進まないと満足できず不満を感じます。自分が願った通りにならないと、「私の人生は失敗した」とさえ思ってしまうかもしれません。
しかし、私たちが生きる目的をイエス様に置いて、生きる方向性をイエス・キリストに向けるのならば、その時私たちは本当の命を生きることになります。
キリストを心の真ん中に置いて、キリストに向かって生きる生き方へ方向転換をすることで、神中心でなく自分中心であった罪が正され、私たちの命は本当の意味で救われるのです。
自分中心という罪と、その罪によって引き起こされる悲惨な状態から解放され(救われて)、神中心の確固たる平安に満ちた生き方へと方向転換することで、私たちは真の命を頂くことができます。
そのような真の命を頂くため、私たちはイエス・キリストを救い主であると、言葉と生き方両方によって告白をしながら、キリストに従って日々生きていきましょう。
最も重い、私たちの罪の赦しのための十字架をイエス様が担い、その十字架の上で死んでくださいました。そのことを日々思い起こして、感謝と悔い改めの心を神に捧げてまいりましょう。
私たちの人生の重荷を共に担ってくださるイエス様が共におられます。信仰の目で、共におられるイエス様を認め、信仰による希望と感謝の日々を私たちは歩んでいこうではありませんか。