2024年11月1日金曜日

 2024年11月3日 主日礼拝


前奏
招詞  エレミヤ書17章7節
賛美  新生讃美歌 339番 教会の基
主の祈り
賛美  新生讃美歌523番 主われを愛す
献金
聖書人形劇
特別賛美
聖句  ヨハネによる福音書14章1~14節
祈祷
宣教 「「わたしは道であり、真理であり、命である」
祈祷
賛美 新生讃美歌 338番 よきおとずれを語り伝え
頌栄 新生讃美歌 676番
祝祷
後奏

 人は、何かを信じて生きていくものだと、私は思います。何かを信じて生きていく、という時の「何かを信じる」とは、もっと詳しく言えば、どういうことでしょうか?
 人が何かを信じて生きるとは、その信じる対象が、その人にとって大変重要なものであり、その人が生きていくための指針や価値観の中心となっている、ということだと思います。
 別の言い方をすれば、それに従って生きていく、という対象です。皆さんにとって、それに従って生きていくという対象は何でしょうか?

  何らかの思想や信条、あるいは尊敬できる他の人、ひょっとしたら「正直に言えば、それはお金だ」と思う方もいらっしゃるでしょうか。確かに金銭は、誰にとっても、必要なものです。
  あるいは“信じるものは、自分自身だけ”という方もいらっしゃるでしょうか。あるいは、「何を信じて生きていくのか。そのような対象は特にない。人は、ただ生きているだけだ」という考えもあるかもしれません。
私にとって、それに従って生きていく、というその対象は神です。クリスチャンである私にとっての神とは、イエス・キリストというお方を通してご自身のことを人に現わされた神です。
 しかし私が、いつもキリストの神のお考えを理解し、いつも神に従って生きることができている、ということではありません。
クリスチャンであり、また今は牧師として教会のリーダーの役割を担わせていただいている私であっても、弱く欠点を持った人間である私は、神にいつも従うことができているわけではないのです。
 そもそも何が本当に神のお考えであるのか、神が私に何をお望みであるのかが、はっきりと分からない場合も多いのです。

 それでも私にとっての神とは、イエス・キリストを通してご自身のことを人に現わしてくださったお方であり、そのお方に従って生きていきたいと、私は少なくとも願っています。
イエス・キリストは約2,000年前に十字架にかかり(死刑になって)死にました。今、キリストの姿は目には見えません。キリストの声をはっきりと耳で聞くことも、通常は私たちにはできません。
しかし今も私たちは、イエス・キリストの行ったことと、イエス・キリストが言ったその言葉を、聖書を通して知ることができます。
 世の中には、様々な“神”と言われるものがありますが、キリスト教では、イエス・キリストを通してご自身を現わされたお方こそが、唯一真の神であると信じています。
  “イエス・キリストを通してご自身を現わされた”とは、神ご自身がイエスという人、一人の人間となってこの世に生まれ、他の人々と全く同じように人としての命を生きた、ということです。

 イエス様(教会で、クリスチャンは日本語でイエス・キリストのことを“イエス様”と呼ぶことが多いので、ご了承ください)自身が、ご自分が神と等しい存在であることを、はっきりとおっしゃいました。
  聖書にはそのことが書かれています。先ほどお読みいただいた聖書の箇所(ヨハネによる福音書)にも、イエス様がご自分は神と等しい存在であることを前提にして語った言葉が記されています。
先ほどお読みいただいた聖書箇所の初めで、イエス様は次のように言っています。
 神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
 “神を信じなさい”と言ったのに続いて“わたしをも信じなさい”とイエス様は言ったのです。これは、“神を信じるのと同じように、わたしをも信じなさい”つまりイエス様はご自身を神と等しいお方であると、表明したことになります。
  また、今日の箇所では、イエス様の弟子の一人であったフィリポという人が次のように言っています。

「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(8節)
“父をわたしたちに示してください”、とは“父なる神を私たちに見せてください”ということです。
フィリポの言ったことは、私たちもよく理解できるのではないでしょうか。人はよく、“目で見たら、何かの証拠を見せてくれたら、神を信じる”と言うことがあると思います。
私たちは自分の目で見ることができ、また誰が聞いても納得できるような証拠が示されれば、それを信じることができる、と通常は考えると思います。
フィリポに対してイエス様は次のようにお答えになりました。

わたしを見た者は、父を見たのだ。(9節)

次のようにもイエス様はおっしゃっています。10節をお読みします。

10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
 イエス様は、ご自分が父なる神の中にいて、そして父なる神もご自身(イエス様)のうちにおられる、と言っているのです。
 初めてお聞きになると、分かりにくい、あるいはとても信じられないことかもしれません。
 しかし、イエス様がおっしゃったことは、“父なる神とイエス様は等しいお方であること、つまりイエス様は神である”ということを伝えているのです。
そして聖書は、イエス・キリストを通してご自身を現わされた神が、唯一真の神である、と伝えています。
それがキリスト教が人気がない理由の一つであることを私は知っています。「神は唯一だ、などと言うから“キリスト教は視野が狭い”と思われるのだ」という意見が、クリスチャンの中にもあるかもしれません。

しかし、私は神の言葉を託された牧師として、その点(神は唯一、イエス・キリストのみ)を薄めたり、妥協してお伝えすることはできません。
今日の聖書箇所の中で、イエス様が次のように言っています。今日のメッセージのタイトルにもしました、6節に書かれている言葉です。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
イエス様は“わたしは一つの道(a way)であり、一つの真理(a truth)であり、一つの命(a life)である(わたし以外にも、神に至る道、真理、命はある)”とは、決して言っていません。

方向さえ正しければ、どの道を通っても、どの交通機関を利用しても、行先と方向が正しければ目的地に到着することができます。
もし道を間違っていれば、行きたい目的地へ到着することはできません。しかしイエス様は、ご自分こそが父なる神へと至る道そのものだ(他に道は無い)、と断言したのです。
もしただの人間がこんな主張をしたのであれば、それほど独善的で異常な主張はないでしょう。
ですから、イエス様の言うことを聞いた私たちには、“ご自分こそが父なる神に至る唯一の道、そしてご自分は神と等しいお方”と主張したイエス様の言うことを、完全に拒否するか、あるいは信じるのか、二つに一つの選択肢が示されます。

そこまでして、“独善的に”ご自身の唯一性を主張し、“わたしに従いなさい”と促す神とは一体、どのようなお方なのでしょうか?
一言で言えば“神は愛”です。聖書にそのものの言葉が記されています。ヨハネの手紙一4章16節に「神は愛です」と書かれています。時間があれば、ぜひその前後もお読みしたいのですが、皆さん聖書を手にとって、ぜひご自分でお読みください。
「神は愛です」とは、「あなたは神様にとって大切な存在です。神はあなたを愛しておられる(大切だと思っておられる)」ということです。
最初に私は、「私にとって、それに従って生きていくという対象は神(イエス・キリストの神)です」と申し上げました。
それだけ聞くと、神とは、人間にただ命令するだけの主人、マネージャーのようなお方だと思えるかもしれません。
そうではないのです。神はイエス・キリストを通して、イエス様の行いとお言葉を通して、今も私たちに向かって“あなたがたは大切な存在であり、愛された尊い存在だ”ということを伝えてくださるお方です。

そして、自分が神に愛されている、尊い存在であることが分かると、私たちはそのお方(神に)従いたいと願うようになります。
そして神に自分が愛されていることを知ると、人は自分自身と、また自分以外の他者をも愛せるように(大切にすることができる)ようになるのです。すくなくとも、他者を愛したいと願うようになります。(それができずに、悩みもします)。
ぜひ皆様には、そのような神、私たちを愛し、そして私たちに自分と他者をも愛するようにと促すイエス・キリストがおられると言う可能性に、心を開いていただきたいと願います。

最期に、今から6年前に、天に召された(亡くなった)教会のメンバーのお一人(女性)が、ご自分が亡くなることを悟られ、死の直前に教会の皆さんに残してくださったメッセージを、お読みします。
時々今でも私はこの小さなノートを見返すのですが、これは、一人の信仰者が、“愛なる神を信じて、神の平安のうちに確かに生きて、そしてこの地上での生を終えられた”という確かな証しです。

「信仰の友との出会いは 私に よろこびと平安をもたらし心から感謝します。大変しあわせな人生でした。聖霊(*神の霊)に抱かれて主イエスさまのもとへ参ります。祈って下さいね。皆様のおしあわせをお祈りしています。主イエスさまの御名に依り アーメン」

同じ方のメッセージがもう一つあります。そちらもお読みします。

「牧師さまへ 生前中は、大変お世話さまになりました。イエスさまの御手を(*わたしが)離さぬようにお祈り下さい」。

皆様がイエス・キリストの神と出会われますように。真実の神様の愛と平安が、皆様お一人お一人を満たしてくださいますように。