2024年11月17日 主日礼拝
前奏
招詞 イザヤ書46章10節
賛美 新生讃美歌105番 くしき主の光
主の祈り
賛美 新生讃美歌236番 主の流された尊い血しお
証し
献金
聖句 ヨハネによる福音書19章28~30節
祈祷
宣教 「成し遂げられた」
祈祷
賛美 新生讃美歌379番 行きて告げよあまねく
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏
私たちは誰もがいずれ最後の時、すなわち死の時を迎えます。わたしたちはやがて必ず訪れる死に、どう向き合えばよいのでしょうか。
自分の死に向きあうことは、“今をどう生きるのか”、“与えられたこの命をどう活かして、人生をどう生きるのか”ということを真剣に考えることにつながると私は思います。
以前、私たちの教会の、年配のご夫婦と、人生の終わりに向けての学びをご一緒にしたことがあります。
お葬儀や、死後のお墓や遺骨のことについて、ただ自分の希望としてこうしたい、ああしたい、ではなくて“聖書はどう言っているのか”、“信仰に基づいて、自分のお葬儀や遺骨のことをどのように考えるべきなのか”を学んで準備を始めたいと、ご本人たちが希望なさったからです。
その学びは回数にしては2,3回ほどだったと思いますが、私がご夫妻を訪問した時に、一緒に聖書を読みながら、死に備えること、お葬儀や遺骨のことなどについて私たちは共に考えました。
それは、信仰的にどのように死に備えるかを改めて考える時として、私にとっても大変良い時となりました。
死について考えることは、すなわち生について考えることです。そして、わたしたちが自分の生、人生について考えるとき、わたしたちは「わたしは何のために生まれてきたのか」、「人生の目的とは何だろうか」と考えることがあると思います。
わたしたちは自分の人生の中で“何かを成し遂げたい”と、どこかで願っているのではないでしょうか。“成し遂げる”とまでは思わないとしても、人生の最後の時に「私の人生には少なくとも何かの意味があった」と、そう思いたいのではないでしょうか。
今日私たちは、イエス様の十字架の上でのそのお姿と、その時イエス様が言われた最後のお言葉から、私たちが“人生で本当にすべきこと”について、考えたいと思います。
28節をお読みします。
この後(のち)、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして聖書の言葉が実現した
イエス様は十字架の上で「渇く I am thirsty」と言われました。そして「渇く」とイエス様が言われることにより、“聖書の言葉が実現した”と書かれています。
この“聖書の言葉”とは、詩編22篇15~16節(14~15 NIV)の言葉です。
詩編22篇15~16節
「わたしは水となって注ぎ出され 骨はことごくはずれ 心は胸の中で蠟のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」
主が「渇く」苦しみを味わわれたのは、聖書に記された通りの苦しみに、イエス様を通して、主なる神自身が直面しているのだと、ヨハネ福音書の著者ヨハネは解釈したのです。
マルコ福音書によれば、イエス様は十字架の上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか)と大声で叫ばれました。
その言葉も詩編22篇の冒頭の言葉でした。ですからイエス様自身も、死にゆく十字架の上で、この詩編の言葉を思い浮かべていたのです。
イエス様は、ご自分に課せられた使命、苦難の意味を聖書の言葉、詩編の言葉の中に見いだし、聖書の言葉から力を得ていたのです。
私たちも、自分の人生の意味、意義を聖書の言葉の中にこそ見いだすことができます。そうして生きる力を聖書の言葉から頂くことができます。
私たちの人生には詩編で歌われているような苦しみの局面もあるでしょう。しかし同時に、詩編23篇のように、「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」という、本当に希望と力となる神の御言葉も同時に私たちは頂くのです。
ですから、苦しい時にも私たちを支え、力を与えて導く、聖書の言葉に、私たちはいつも親しんでいたいと願います。
そしてイエス様が「渇く」と言われたことの意味はなんでしょうか。それは、私たち全ての人間を救おうとするための神の「渇き」です。それは“主は私たちに、全てを与えてくださった”ということです。
主なる神は、私たち人間に、もう他に与えるものは何もないほどに、何も出し惜しみすることなく、私たちの救いに必要なものを全てイエス様を通して与えてくださったのです。
イエス様はヨハネ7章37節(John 7:37)で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われました。
イエス様を信じれば、私たちの内から生きた水が川のように流れ出る、朽ちることのない生きた水を頂けるというのです。
しかしそのためには、主ご自身が十字架の上で完全な“渇き”という苦しみを経験しなくてはなりませんでした。
“渇いているものはだれでも私のところに来て飲みなさい”と言われたイエス様ご自身が、十字架の上で徹底的に渇かれたのです。
渇いている者の苦しみを誰よりも主ご自身が経験されたのです。それによって私たちが癒され、満たされるためにです。
このイエス様の姿を見て、私たちはどうするように促されるでしょうか。イエス様がなさったように全てを与えるということ、私たちにはできません。
しかし、『渇く』と言って、最後まで持てる全てを与え続けられた、主イエス・キリストの生き方に少しでも倣って生きようと努力することは、私たちにもできます。
私たちも、イエス様のように“与える”生き方をしたいと思います。「渇く」と言って私たちに命を与えてくださった主のお姿を見あげましょう。
そして私たちも、自分以外の他者の必要に気づいて、自分にできることがあるのならば、自分が持っている何かを、できる限りにおいて“与える”生き方をしていきたいと思います。
29節~30節をお読みします。
「そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」
最後に「頭を垂れて息を引き取られた」と書かれています。“息を引き取る”とはギリシア語では「霊を委ねる、明け渡す」という言い方がされています。
主イエスは、ご自身の霊を天の父なる神にお委ねになったのです。それは、“父なる神への完全な従順”であり“父なる神への完全な信頼”の姿です。
十字架の上のイエス様に、「海綿(スポンジ)にふくまれたぶどう酒」を人々が差し出しました。このぶどう酒は、イエス様の渇きをほんの一瞬でも癒したでしょう。
そのぶどう酒には、肉体の痛みを和らげる“麻酔”のような効果もあったのではないかと言われています。
イエス様は、差し出されたぶどう酒をお受けになりました。神であるイエス・キリストは、本来人の助けなど必要ない方です。
そのお方が、ご自分の持てるものを全て人のために与えつくして「渇く」と言われた後に、今度は苦しむ自分に人が差し出したぶどう酒を、まるで神が人からの憐みをお受けになるようにお受けになったのです。
そうして、そこで、成し遂げられねばならないことがすべて「成し遂げられた」とイエス様はおっしゃいました。
マタイ福音書の中のイエス様の言葉ですが、イエス様は弟子たちを派遣するときに、「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と言われました。
十字架の上でイエス様ご自身が、まさに“この小さな者の一人”になられて、人々が差し出すぶどう酒をお受けになられました。
私たち人にはプライド(自尊心)があります。プライドが自分を支えている、ということがよくあります。
私たちは“自分は自分の力で生きている”と思いたいですし、できるだけ人の世話にはなりたくない、と思っていないでしょうか。(私はそういう傾向が強いと思います)。
このプライドを捨てる、または乗り越えることができれば、私たちの間の人間関係の問題の多くは解決し、私たちは、聖書の言うように、自分以外の他者を自分よりも優れた者として尊敬することができるようになると思います。
そして私たちは他者から差し出される助けを感謝して受け取ることができるようになると思います。
主なる神イエス・キリストが、徹底的な苦しみの中、人から差し出されたぶどう酒を受けられました。ですからわたしたちも、お互いのために、ほんの少しの助けであっても互いに差し伸べましょう。
そして自分が一方的に与えるだけではなく、自分が苦しむ時、助けが必要な時には、他者から差し出される助けを感謝して受け取りましょう。
他者の助けによって私たちは生きていいのだと、そうやって生きるべきなのだと、イエス様の姿から私たちは教えられます。そのようにして私たちは共に生かされていくのです。
私たちは時に過去を振り返り、そして現在の自分を見て、「わたしの人生とは一体何だったのだろうか、何なのだろうか」と疑問に思うことがあるかもしれません。
しかし、私たちは十字架のイエス・キリストを見上げるならば、何かが不足しているように感じることも、また、“私はもっと何かをしなくてはいけないのでないか”と思って、焦る必要もありません。
なぜなら、主はわたしたちのために十字架の上で、“すべてを成し遂げてくださった”と聖書は伝えているからです。
私たちがすべきことは、ただこの十字架の主イエス・キリストを見あげて、そして、イエス・キリストが私たちにすべてを与えてくださった恵みを知り、感謝をすることだけです。
そして、この与えられた恵みを自分以外の他者と分かち合い、信仰を自らの生き方と言葉で告白し、生き方において信仰を実践していくことです。
そして人を支え、同時に自分も人に支えられながら、ただ自分だけが与える一方的な関係ではなくて、誰もがお互いに支え合う関係の中で私たちは生きていくのです。
与え、そして受け取る(支えられる)、イエス・キリストが十字架の上で最後に見せてくださったそのお姿に倣い、私たちにとって必要なことは全て主によって「成し遂げられた」のだと感謝をして希望を持って、新しい週の日々も私たち共に生かされてまいりましょう。