2024年11月23日土曜日

2024年11月24日 主日礼拝

前奏
招詞  出エジプト記19章5節
賛美  新生讃美歌1番 聖なる 聖なる 聖なるかな
主の祈り
主の晩餐
賛美  新生讃美歌236番 主の流された尊い血しお
世界バプテスト祈祷週間を覚えて
献金
聖句  マタイによる福音書28章16~20節
祈祷
宣教 「すべての民をわたしの弟子にしなさい」
祈祷
賛美  新生讃美歌 213番  われらに伝えよ
頌栄  新生讃美歌 676番
祝祷
後奏

 今日も、新しい一週間の初めの日を、こうして私たち共に礼拝をすることによって始めることができることを、私は大変うれしく思います。
 こうして礼拝をすることができる自由が私たちに与えられていることは、決して当たり前のことではありません。
 今週は、私たちの教会も加盟しています日本バプテスト連盟の「世界バプテスト祈祷週間」World Baptist Prayer Weekです。日本バプテスト連盟によって支援されている、国内外での宣教の働き、その働きに仕えている宣教師の方々などを覚えて、特に今日私たちは祈りを合わせます。
 国外では、信教の自由が保証されておらず、キリスト教信仰を持つことが困難な地域や国も沢山あります。(国内であっても、キリスト教宣教が非常に困難な地域もあるでしょう)

そのような場所で働いておられる宣教師や伝道師の方たちの働き、安全と生活とが守られますように祈りたいと思います。
 またそれらの地域、場所で、イエス・キリストの福音によって救われる人々が起こされますようにと、私たちは祈りを合わせたいと願います。
 私たちが信じ、礼拝する神は、イエス・キリストを通してご自身を現わされた神です。そしてイエス・キリストは十字架の上での死から、新しい命へとよみがえったお方です。
 今日の聖書の箇所は、マタイによる福音書の最後の部分です。
イエス様の弟子たちが、復活の主イエス・キリストとお会いする今日の箇所から、神のメッセージを私たち共に聞いてまいりましょう。

最初の16節をお読みします。
16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。

十一人の弟子とは、イエス様の直弟子であった弟子たちで「使徒」とも言われた弟子たちでした。使徒は、それまでは十二人いました。
しかしそのうちの一人であってイスカリオテのユダは、イエス様をユダヤの当局者たちに売り渡したことへの罪の意識から自ら命を絶ってしまい、弟子たちは11人になっていました。
弟子たちは、自分たちの先生であるイエス様が十字架にかけられて死んだ衝撃と悲しみ、また仲間であったユダを失ったことの悲しみの中にもあったのだと私は想像します。
イエス様は、イスラエルのエルサレムで十字架にかけられ(死刑になり)殺されました。
 そしてイエス様は、週の始めの日(日曜日)の明け方に、その墓を見に来た二人の女性(マグダラのマリアともう一人のマリア)に姿を現わされました。マタイ28章の初めに、そのように書かれています。
 その女性たちにイエス様は、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言いました(28章10節)。
 二人のマリアはイエス様に言われた通り弟子たちに、イエスさまの言ったその言葉を伝えたのでしょう。弟子たちはその言葉に従って、エルサレムからガリラヤへと行きました。

 そこで、ある山の上で、弟子たちはイエス様に出会いました。十字架にかけられて死んだお方が復活されたのです。弟子たちはイエス様にひれ伏しました。
ひれ伏す、とは“礼拝する”という意味であり、英語訳聖書(NIV)ではそのように訳されています。
弟子たちがその時礼拝したように、今私たちも礼拝で、復活のイエス様にお会いし、復活のイエス・キリストを礼拝します。
復活のイエス・キリストがここに私たちと共におられ、私たちに語りかけ、私たちを力づけてくださるのです。
  イエス様は“ガリラヤへ行きなさい。そこで復活した私に会える”と弟子たちに約束され、その通り弟子たちにそのお姿を現わされました。
今のわたしたちにとってのガリラヤは教会です。私たちは教会で、死んでよみがえったお方、復活の主イエス・キリストにお会いできるのです。
死の力、闇の力を復活によって滅ぼされたイエス様に私たちは教会でお会いします。復活したイエス・キリストの力がみなぎる教会でありたいと、私たちは願います。
 しかし17節には“そこには疑う者もいたbut some doubted.”と書かれています。弟子たちの中には、復活のイエス様を目で見ても、まだ疑う者もいたのです。

イエス様の弟子たちの信仰は完璧ではなかったのです。人間は本来疑り深く、誰も完全な信仰を持った人などおりません。弟子たちもその例外ではありませんでした。
 それでも、そんな不完全な私たちにも、イエス様はご自身を現わされ、お言葉を通して教えてくださるお方です。私たちも、いつも何の疑いもなく、強い信仰を持っていられるわけではないでしょう。
時に信仰が揺らぎ、疑いさえ持つことが私たちにもあるのではないでしょうか。しかしそれでも、そんな私たちの疑いや弱さにも関わらず、復活の主イエス・キリストは出会ってくださり、み言葉を通して教えてくださるのです。
18節で“イエスは近寄って来て言われた”と書かれています。イエス様の方から弟子たちの方へ来てくださったのです。
 神なるお方がご自分から私たちのところへ来てくださいました。私たちの側から神様へ到達したのではないのです。そんなことは不可能です。
 私たちが神のところへ行ってお言葉を頂くのではなく、わたしたちが神の声を聴くことができるために、神のほうから私たちのほうへ来てくださったのです。その恵みを私たちは感謝したいと思います。

18節~20節前半をお読みします。
18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。

イエス様は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」とおっしゃっています。すべての権能をお持ちのお方が、私たちを「すべての民をイエス様の弟子にするために」派遣するのです。
私たちはまず、キリスト者を宣教の働きのために派遣されるお方(イエス様)は、天と地のすべての権能(権威)をお持ちのお方であることを確信しましょう。
すべての権能をお持ちのお方が私たちを、福音宣教の働きのためにお遣わしになるのです。ですから、そのお方の許しがなければ、何も私たちを妨げたり、くじけさせるものはないのです。
そしてイエス様は「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とご命令しました。今のキリスト者もこの命令に従って生きる者です。
それにしても“すべての民をわたしの弟子にしなさい”というイエス様の御命令を達成するのに、一体どれほどの時間がかかるのでしょうか。
 すべての民をイエス・キリストの弟子に、という、このいわゆる“大宣教命令”は、今だに達成されていない壮大なご命令です。
これは、キリスト教会が場所と世代を超えてずっと課せられているものなのでしょう。
 すべての民をわたしの弟子(イエス様の弟子)にしなさい、というこの大命令(神様の壮大なビジョン)の実現のため、(それがいつ実現するかは確かでないままに)、キリスト教会はずっと存在してきているのです。

 一人ひとりは小さな私たちが、また私たちの教会も小さくても、神様のそんな壮大なご計画と使命のために私たちは生かされていると思うと、心が奮い立つような気がしないでしょうか。
私たち自身ではなく、全ての権威をお持ちのイエス・キリストの神に信頼しつつ、全ての民をイエス様の弟子にしなさい、というイエス様のご命令にしたがってまいりましょう。
そしてもちろん私たちキリスト者も、主の弟子として常に成長しつづける、終わりのない信仰の旅路を私たち共に歩んでまいりましょう。

イエス様の弟子になるとは、どういうことでしょうか。それはまず、父と子と聖霊の名によってバプテスマ(洗礼)を受けることです。
聖書は、父なる神と、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神が三つにして一つのお方であるという、三位一体の神を伝えています。
 父なる神と、御子イエス・キリスト、そして聖霊が、三つの区別されるお方でありながら、しかし同じ一つの神である、という人間の理屈では説明できない、大変不思議な、しかし真実を聖書は伝えます。
天の父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神の三位一体の神を信じる信仰を告白して、その信仰の証として、教会は新しい信仰者(決心者)にバプテスマを授けなさい、とイエス様ご自身によって、私たちははっきりと命じられているのです。
私たちの教会では再来週、一人の姉妹が信仰を告白し、バプテスマをお受けになります。私たちはそのことを大変うれしく思います。そして神に感謝をいたします。
キリストの命令によって、私たちは新たな信仰者にバプテスマを授ける権限が与えられていることを今一度覚え、その責任をも自覚したいと思います。
 そしてイエス様は「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われます。
イエス様は私たちに大切なことを沢山教えてくださいました。
その一つ一つを私たちが常に学び、理解と信仰を深めると同時に、イエス様の教えを残らず世に伝える、というのも私たちキリスト者に課せられた使命です。
 そう思うと、何だかとても私たちには担いきれない物凄く重い責任のように思えます。確かに、それは私たちだけで担える責任と使命ではありません。
 しかし、私たちは安心してよいのです。なぜなら、イエス様が次のように約束してくださっているからです。20節後半、今日の箇所の最後の言葉をお読みします。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
“わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる”~イエス様は大変な責任と使命を私たちにお与えになる共に、こんなに素晴らしい恵みをも、ここで約束してくださっているのです。

神の子イエス・キリストが世の終わりまで、いつもわたしたちと共にいてくださる、というのです。
 イエス・キリストの福音宣教の働きも、私たちだけで行うのではありません。イエス様が今も、また世の終わりまでいつも私たちと共にいて、私たちの働き導き、助けてくださるのです。
復活のイエス・キリストが、私たちの信仰生活を、そして私たちの福音宣教の働きを先頭に立って導いてくださいます。
今、国内外で様々な宣教の働きに仕えておられる方を覚えて祈ると同時に、私たち一人ひとり、私たちの教会も、福音宣教の働きにつかえる喜びとまた福音宣教に仕える決意を新たにしたいと願います。
 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる~イエス様のこのお約束は、いつまでも真実であり続けます。