2024年10月12日土曜日

2024年10月13日 主日礼拝


前奏
招詞  ゼカリヤ書 1章3節
賛美  新生讃美歌 651番 イエスの愛にこたえ行く
主の祈り
賛美  新生讃美歌 213番 われらに伝えよ
献金
聖句  ルカによる福音書15章11~24節
祈祷 
宣教 「放蕩息子のたとえから」
祈祷
賛美  新生讃美歌 550番  ひとたびは死にし身も
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏

*本日、メッセージの掲載はありません。

2024年10月5日土曜日

2024年10月6日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編103篇8~9節
賛美  新生讃美歌 626番 主はいのちを与えませり
祈りの時
主の祈り
賛美  新生讃美歌 213番 われらに伝えよ
献金
聖句  ルカによる福音書13章6~9節
祈祷 
宣教 「実のならないいちじくの木」
祈祷
賛美  新生讃美歌 81番 父なるわが神
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏


 今日の聖書箇所で、イエス様はあるたとえ話をされました。それはたとえなので、実際に起きた出来事ではありません。この話を通してイエス様がご自分の弟子たちに伝えようとしたメッセージがあるということです。
 聖書の御言葉は時を超えて、神のメッセージを今の私たちにも伝えます。ですから、今日このイエス様のたとえ話を通して、神が私たちに伝えようとされているメッセージがあるのです。
 これはたとえですから、ある程度私たちの想像力も働かせながら、イエス様の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。

初めの6節をもう一度お読みします。
 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。

 ある人がぶとう園にいちじくの木を植えました。その様子を少し考えると、「なぜ、いちじくをぶどう園に植えるのだろうか?」という疑問が皆さんには浮かばなかったでしょうか?
 なぜ、いちじくをぶどう園に植えたのでしょうか?実はこれは、当時のユダヤでは普通に行われていた果物栽培の方法だったようです。
 現代の果樹園ならば、ぶどうならぶどう、いちじくならいちじく、みかんならみかんと、同じ種類の果物を同じ場所に沢山植えて、効率よくその果物を育て、収穫すると思います。
しかし新約聖書の書かれたこの当時、約2000年前のイスラエルでは、ぶどう園(vineyard)にいちじく、またその他のいろいろな果物の木を植えることが普通のことであったようです。
ぶどうは、他の木に絡みつくことで、上に向かって伸びていくことができます。そのためにも、ぶどう園の中にいちじくの木が植えられる理由がありました。
いちじくは、実をならす以外にもぶどう園のなかでの役割があったということです。いちじくの木の存在が、ぶどうの成長を助けていたからです。

イスラエルのぶどう園の中に色々な果物の木が植えられていたという光景を想像すると、色彩豊かで、(多少雑然としていたとは思いますが)、色々な果物がそれぞれの個性と役割を発揮しながら互いに支え合って成長している様子が想像されます。
場所はぶどう園であっても、その中には色々な果物の木が植えられており、それぞれの役割を果たしているのです。そしてお互いがお互いを支え合っているのです。
その様子は、私たちの教会を思わせないでしょうか。教会がそのような場所であったらよいな、と私たちに希望を抱かせないでしょうか。
私たち信仰者も、特に神に呼び集められた教会の中で、お互いの個性を尊び、違いを認め合い、支え合い、一人ひとりが特別に神から愛された存在であることを喜びあうことができます。
ぶどう園の中に、主人(すなわち神様)は特別な思いで一本のいちじくの木を植えられました。

私たち一人ひとりが一本のいちじく、またはざくろ、りんごなど多様な木でありながら、神様のご計画によって、同じ場所に植えられた果物のように、互いに神に愛された等しい価値ある者として、私たちはお互いを大切にしたいと願います。

 そのぶどう園にいちじくを植えた主人は、当然のことながら、いちじくがやがて実を結ぶことを期待し、実が豊かになることをずっと待っていました。
ところが、三年間もの間、“まだ実はならないか”と期待しながら、ずっといちじくの木を、この主人は見に来続けたにも関わらず、そのいちじくの木は全く実をならせませんでした。
 いちじくが最初に植えられてから実をつけるまでには、だいたい3年ぐらいかかるそうです。
ですから、この主人が三年もの間、そのいちじくの木に実を探しに通い続けた、ということは、最初にそのいちじくが植えられてからは、実に6年の時がたった、ということだと私は想像します。

それは神がいかに忍耐強いお方であるか、神が私たちが信仰の実をならせることを、どれほど切実に願っておられるか、ということを表します。
 私たちの信仰の実とは、どのようなものでしょうか。新約聖書の別の箇所の『ガラテヤの信徒への手紙Galatians』5章22節~23節に、次のように書かれています。

ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節
霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制~これらが霊の結ぶ実、つまりイエス・キリストへの信仰によって信仰者が結ぶと言われる実です。
喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、これらはいずれもイエス・キリストご自身が豊かに持っておられた神の御性質です。
私たちがイエス・キリストによる喜びと平和を頂いているのならば、私たちは他者への寛容や親切、善意、誠実、柔和(優しさ)、節制(自分の欲を制すること)をも身につけることができるということです。
 私たちは、信仰によるそのような果実を結んでいるでしょうか。神が私たちをご覧になって、そのような信仰の実を私たちの中に見つけることがおできになるでしょうか?
 “実”というものは、自身以外の他者に栄養(生きる糧)を提供します。ですから、私たちが結ぶべき信仰の実は、それが自分以外の他者をも潤し、生かすものであるはずです。
 私たちは、私たちの存在が、また私たちの教会が、キリストへの信仰による豊かな実を結ぶことによって、私たちの周りの人や、教会の周りの地域をも潤すことができるような存在となりたいと願います。
 私たちにはキリストによる喜びがあります。キリストによる平和が私たちには与えられています。それらを豊かな信仰の果実として、私たちは身につけ、それらを他者へも伝えていこうではありませんか。

 三年間、“実はなっていないか”と期待しながら、何度も何度も、見に来続けたぶどう園の主人でしたが、しかし、結局何の実も見つけることができませんでした。
 この主人は次のように言いました(7節)
 『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』

“このいちじくの木は、まったく実をならせない。土地を無駄にふさいでいるだけだ。切り倒せ”~ここで、私たち信仰者のことが例えられていると思うと、神様は大変残酷な方であるようにも思えます。
しかし、神が“切り倒せ”の一言を発するまでに、それまでに、いったいどれほどの忍耐をもって、私たちが、悔い改めの実を結ぶのを待ち続けてくださったのか、を私たちは知らねばなりません。

旧約聖書のイザヤ書に次のような神の言葉が記されています。神がいかに深い愛をもって、ご自分の民(イスラエルの民)を愛されたのかが、ぶどうをたとえにして語られています。

イザヤ書5章4節 (Isaiah 5:4)
わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。

 神は愛なるお方です。神は無限の愛をもって私たちを愛して、憐れんでくださるお方です。そして、本当の愛は、必要な時には厳しさをも伴うものです。
 神は真の愛なるお方ですから、私たちのために必要な厳しさをも併せ持ったお方なのです。神の大きな愛を頂く私たちは、神には私たちを厳しく裁かれる権威もお持ちのお方であることを、知らねばなりません。
 神が“このいちじくの木を切り倒せ”と言ったとき、そこで園丁が答えました。(8~9節)
『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。

「今年もこのままにしておいてください。私が木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もう一年待ってください」と必死になって主人に願うこの園丁とは、イエス・キリストを表しています。
このようにイエス様は、私たちのために、私たちに代わって天の父なる神に、私たちの赦しのために、執り成しの祈りと願いを捧げてくださっているのです。
 この園丁の言っていることはこういうことです。「私にできることは全ていたします。ただ水をやるだけでなく、木の周りを掘って、肥やしをやります。そのように徹底的に私がこのいちじくの木が成長できるように、必要なものは全て与え、世話をします」

そのように、私たちのために(私たちがそれぞれの使命と役割を果たし、信仰を成長させるために)必要なものを、惜しみなく全て与えてくださる方がおられることを、私たちは信じているでしょうか。
 牧師として今の私自身のことを顧みますと、本当に必要なものは全て与えられ、今も与えられ続けていることを、私は痛感せずにはいられませんでした。
 私は牧師として献身すると決意した時に、「全てをなげうって、神様が行けと言われるところならば、どこへでも行きます。イエス・キリストの福音を人々に伝えます」という決意を、神からの召命に基づいて自分でしました。
 しかし、私が何かをなげうつ前に、実は神が私のために必要なものはすべて整えて、与えてくださっていたのです。
神は、私が牧師として仕えることの許される教会をすでに備えてくださっており、私を牧師として迎え、立ててくださる皆さんを神は私に与えてくださいました。
 素晴らしい教会堂が素晴らしい場所に、(わたしの来るずっと前に)すでに与えられていました。私が自分でしたことなど、何一つありません。
 世界には自由にキリスト信仰を持つことができない、伝道ができない国や地域も多くあります。それらの場所で、キリスト宣教の使命に命をかけて仕えている宣教師、伝道師たちもたくさんおられます。
 今の私には、宣教活動、牧会活動に関わるそのような深刻な制限や迫害はありません。これら一つ一つがどれほど恵まれたことであるか、多くの場合私は忘れてしまっていたことに気づきました。

 これほどの神の恵みの中で、必要なものは全て与えられている中で、私が一キリスト者として、そして牧師、伝道者として主が望まれる実を結ばないのならば、私は切り倒されても仕方がない、神様には当然そのようになさる権利がある、と思わされました。
 神は、限りない愛と忍耐をもって、また大きなご計画をもって私たちをそれぞれの場に置かれました。
私たちそれぞれが置かれた場において、私たちは主イエス・キリストから頂く愛と憐れみ、キリストの恵みによって、きっと豊かな信仰の実を結ぶことができます。
 そして私たちが結ぶ信仰の実・霊の実は、私たちが共に生きる他者をも霊的に潤し、生かし、その人たちへキリストを伝えるものともなるでしょう。
 すべての恵みを与えてくださる神に感謝をし、神に繋がり続け、信仰の豊かな実を私たちは結んでいこうではありませんか。