2024年5月18日土曜日

2024年5月19日 主日ペンテコステ礼拝

前奏
招詞  サムエル記下23章2節
賛美  新生讃美歌27番 たたえよあがないぬしイエス
主の祈り
賛美  新生讃美歌1番 聖なる 聖なる 聖なるかな
ペンテコステの出来事
献金
聖句 使徒言行録4章23~31節
祈祷
宣教 「皆、聖霊に満たされて」
祈祷
賛美  新生讃美歌 86番 輝く日を仰ぐとき
頌栄  新生讃美歌 672番
祝祷
後奏

 今日は、ペンテコステ(聖霊降臨祭)の礼拝を私たちは捧げています。ペンテコステとは、イエス・キリストの死後(イエス様の復活、そして昇天後)、イエス様が弟子たちに予言しておられたように、聖霊が弟子たちの上に降った出来事のことを言います。
 キリスト教は、(現在のイスラエルに位置する)ユダヤという国から始まりました。今から約2000年前に、ユダヤ人としてお生まれになったイエスというお方が、神の国の到来を人々に宣べ伝えたことから、それは始まりました。
  皆さんご存じの通り、イエス・キリストは最後は、ユダヤ教の権力、そしてローマ帝国(当時、ユダヤを支配していた)の権力によって捕まり、十字架刑によって殺されました。

 普通に考えれば、イエス様のなさった活動(神の国を人々に伝え、人々を悔い改めさせ(神に立ち返らせ)、神に従う生き方へと人々を招くこと)は、そこで終わるはずでした。
  しかし、イエス様は墓の中から甦り、すなわち復活して、そのお身体を伴なって弟子たちはじめ、多くの人たちの前に現れました。
 イエス様は復活によって、主なる神を信じる者は永遠の命を得る、ということを私たちに見せてくださったと私は信じます。
 私たちのこの地上での命と体はやがて朽ちてなくなるけれども、私たちは永遠の命、永遠なる神の御手の内に生かされている、ということがイエス様の復活によって証明されたのです。
  死は、普通に考えれば、全ての終わりです。しかし、死で私たちの本当の命は終わらない。そして、私たちの目には終わり(そして絶望)に見えるものが、実は神の御計画の中では決して終わりでも絶望でもないのだ、ということがイエス様の復活によって示されたのです。
  しかし、復活のイエス様はそのままずっと弟子たちや人々と、この地上に留まることはなさいませんでした。

 復活のイエス様は約40日間、そのお姿を人々に現わされたあと、天に上げられて行きました。
 その時イエス様は弟子たちに次のお言葉を残して、天に昇っていかれました。(今日の、多言語聖句朗読で、皆さんにお読みいただいた聖句です)

使徒言行録1章8節 Acts 1:8
 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

イエス様は弟子たちに“あなたがたの上に聖霊が降る”と言われたのです。聖霊は“降って”くるものですから、それは上から与えられるものです。
 聖霊とは上、すなわち天から人に与えられる神の力です。そして信仰的に私たちは、聖霊が、父なる神、子なる神イエス・キリストと同等の神であると信じています。
  本当なら(人間の常識で言えば)、イエス様が捕まり十字架にかけられて死んだ時点で、すべてが終わっていたはずだったのです。
 イエス様が最後に捕まった時に、イエス様を捨てて弟子たちは全員その場から逃げて行ってしまいました。

 しかし復活のイエス様は、その(臆病だった)弟子たちの前に現れて、彼らを励まし、強めて、罪の赦しを宣言してくださいました。そして神の国を人々に伝える働きをするようにと、彼らをはげましました。
 “あなたがたに聖霊が降るから、その時、あなたたちは地の果てに至るまで、私の証人となりなさい”とイエス様は弟子たちに命じられたのです。神の国を伝えるという大切な役目を、イエス様は彼ら弟子たちに託したのです。
 そして約束通り、聖霊が弟子たちの上に降り、そこから力強くイエス・キリストの教え、神の国についての知らせが伝道されていきました。その様子が詳しく描かれるのが、『使徒言行録Acts』です。
  彼ら(弟子たち)が、彼らの伝道を挫(くじ)こうとする脅しや迫害にも屈することなく、大胆にイエス様の教えを伝道することができたのは、それは彼ら自身の強さや能力によるものでは決してありませんでした。

 彼ら自身が優れていた、強かったのではなく、臆病だった彼らに強さと大胆を与えるお方がおられました。
 それが”聖霊”でした。目には見えない神の力であり、神そのものである存在、それが聖霊です。
 今日の朗読箇所は使徒言行録4章23節から始まる箇所です。“二人は釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した”と23節に書かれています。
 二人とは、ペトロとヨハネの二人でした。ペトロとヨハネはイエス様が生きておられたときにイエス様によって直接選ばれた弟子(12弟子)たちの中の二人でした。

  ペトロとヨハネは、復活のイエス様に出会い、それから大胆に御言葉を人々に宣べ伝えるようになりました。しかし、そのために彼らはユダヤ教の権力者たちに捕まって牢に入れられてしまったことが、4章の初めに書かれています。
 ユダヤ教の権力者たちが彼らを捕まえたのは、彼らがイエス・キリストについて、そしてイエス・キリストの復活について宣べ伝えていたからでした(4章2~3節)。
  ペトロとヨハネは、「あなたがたが十字架につけて殺したイエス・キリストを、神が復活させられた」と言いました。「イエス・キリストの名によってのみ、人は救われる」とも彼らは堂々と主張しました。

 「そんなでたらめを言うな!そのイエスとか言う奴は、ローマ皇帝への反逆、そして我らユダヤの神を冒涜した罪で、十字架刑になって死んだ奴だ!」と言って、ユダヤ教の権力者たちは、ペトロのヨハネの言うことに苛立ち、怒ったのです。
 彼らはペトロとヨハネに“二度と、あの名(イエス・キリストの名)によって話をするな”と言って脅して命令しました。(4章17~18節)。
  しかし、一度はイエス様を見捨てて逃げて行ってしまったペトロやヨハネが、今やそのようなひどい脅しにも屈することなく、次のように言いました。
「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(4章20節)
 これは何と大胆な言葉でしょうか。
「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」。

これは、私たちは神を信じると言いながら、本当に日々神様に従っているかどうか、ということを今の私たちにも真剣に考えさせられる言葉です。
そしてペトロとヨハネは「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」とも言っています。
 彼らがイエス・キリストについて宣べ伝えているのは、ただそうしないではいられないからだと言うのです。
 それはつまり、彼らの思いと願いとは別に、(彼らの思いや願いをそのようにさせる)何か別の力が彼らの中で働いていた、彼らを突き動かしていた、ということです。
 それが聖霊です。聖霊の力が彼ら(ペトロとヨハネ)に働きかけ、普通なら屈してしまう恐ろしい脅しにも負けずに、大胆にイエス・キリストの名を彼らに伝え続けさせたのです。
 そのように大胆にイエス・キリストの名を宣べ伝えさせる力である聖霊が、(彼ら自身の能力によるのではなく)、その聖霊が彼らを強め、イエス様の名を語らせ続けさせたのです。

聖霊は、今の私たちにも与えられます。私たちが聖霊を望めば、寛大な神はきっと私たちが切に望む聖霊を与えてくださいます。
そして聖霊なる神が私たち信仰者ひとり一人の心の中に、そして私たちが集まりキリストの身体として建て上げているこの教会の中心に聖霊なる神が共にいてくださるのならば、わたしたちはきっと大胆に(かつ愛をもって)キリストの名を伝え続ける教会となることができるでしょう。
 聖霊なる神が“イエス・キリストの名を伝えたい”という思いを私たちに与え続けてくださる限り、世の何ものをもその思いと希望とを私たちから奪うことはできません。

 ですから、“イエス・キリストの名を伝えたい”という希望が、私たちひとり一人の中に起こされているかどうかを、私たちは今一度吟味してみましょう。
  聖霊が与えられているかどうか、それは“イエス・キリストの名を伝えたい”と言う希望や思いが私たちの中にあるかどうか、によっても判断されるからです。
 聖霊による希望、“イエス・キリストの名を伝えたい”という希望が、豊かに私たちにも与えられるように、私たちは共に祈りを合わせようではありませんか。
  ペトロとヨハネは釈放されると仲間のところへ行き、そこで祭司長や長老たちの言ったことを残らず話した、と今日の箇所に書かれています。
 祭司長や長老たちの言ったこと、とは“二度とイエスの名によって誰にも話すな”という脅しでした。普通なら、聞いて恐れを抱いてしまう知らせです。
 ところが、その厳しい知らせをペトロとヨハネから聞いた人たちに驚くべきことが起きました。彼らは“心を一つにして、神に向かって”祈ったのです。
  危機的な状況が、彼らを圧倒してしまうのではなく、恐ろしい状況が彼らを神への祈りへと促したのです。
  彼らの祈りは「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを作られた方です
という告白から始まっています(4章24節)。

 私たちの信じる神は“天と地と海と、そこにあるすべてのものを作られた方”=創造主Creatorです。
天地の造り主が私たちに味方していてくださるのですから、今の状況がどれほど恐ろしく、危機的に見えても、私たちはあなたによって守られています!とまず彼らは信じ、告白したのです。
そして彼らは「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と祈りました。(29節)
 御言葉を語りたい、イエス・キリストの名を伝えたい、という彼らの願いは決して揺れることがありませんでした。
 ですから大胆に、脅しに屈することなく、彼ら自身にとっての幸いである御言葉を伝える働きをどうか続けさせてください、そのために大胆になることができますように、と彼らは心を一つにして祈ったのです。

 そして彼らは「御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、徴と不思議な業が行われるようにしてください」とも願い、祈りました(30節)。
 “病気が癒され、しるしと不思議な業が行われる”とは、信じる者の生き方が目に見えて変えられて、神を信じる者による力と効果が目に見えて表されますように、ということです。
祈りが、ただの言葉や感情の高ぶりに留まるのではなくて、神に祈り、神を信じ生きる信者ひとり一人の生き方(生活)を通してイエス・キリストの名が崇められ、キリストの名が広まりますように、という願いです。
それは、私たちの信仰が実際に他者を励ますものとなり、弱った隣人を強め、愛に飢えた人に神の愛を届けるものとなりますように、という願いです。
教会の皆さんそれぞれが、普段生活をしておられる場があります。ご家庭や職場、友人との交わりの中などで、キリスト者として霊に燃やされた皆さん(わたしたち)一人一人が、イエス・キリストの名を、それぞれの方法で大胆に語ることができますように、と私は祈ります。
 天地の造り主、復活の主イエス・キリスト、聖霊なる神の守りと導きは私たちと常にあります。
ですから私たち皆、聖霊に満たされて(満たされることを願い)、大胆に神の言葉を語り、信仰の生活を私たち共に生きてまいりましょう。

2024年5月11日土曜日

2024年5月12日 主日礼拝

前奏
招詞  ヨハネによる福音書16章33節b
讃美  新生讃美歌27番 たたえよあがないぬしイエス
主の祈り
讃美  新生讃美歌80番 父の神 われらたたえる
献金
聖句  民数記13章25~32節
祈祷
宣教 「必ず勝てます」
祈祷
讃美  新生讃美歌544番 ああ嬉しわが身も
頌栄  新生讃美歌672番
祝祷
後奏

 「四十日の後、彼らは土地の偵察から帰って来た」という一文で今日の聖書箇所は始まります。
 “彼ら”とは、エジプトを出たイスラエルの民たちが神に約束されて、そこへ行こうとしていたカナンの土地の偵察に、モーセによって遣わされていた人たちでした。
 奴隷生活を送っていたエジプトを出て、約束の地(カナンの地)へ向かって旅をしていたイスラエルの民たちの中から、12人の人が選ばれ、その土地を偵察しに行くことになったのです。
 彼らが偵察から帰ってきた後にモーセに報告するその内容からも分かりますが、カナンの地には既に先に住んでいる別の民族たちがいました。

その土地へ偵察に行くとは、命がけの行為であったでしょう。しかし、彼らを先に遣わして、カナンの地を偵察させることは、主なる神がモーセに命じられたことでした。

13章1~2節に次のように書かれています。

1主はモーセに言われた。
2「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい。父祖以来の部族ごとに一人ずつ、それぞれ、指導者を遣わさねばならない。」

 イスラエルの民たちを率いるリーダーはモーセでした。しかし、リーダーであるモーセが一人で何でもできるわけではありません。
彼は、カナンの地を偵察する、という重要な務めを、誰か他の人々に託す必要がありました。
荒野を旅してカナンの地を目指す旅路は、モーセが指導者として、「自分が何でも一人でできるわけではない。私には周りの人々のサポートが必要だ」ということを学ぶ過程でもあったと、私は考えます。

神に選ばれた最初の時から、モーセは「わたしは話すのが苦手ですから、誰も私の言うことなど聞きません」と言って、神の命令に従おうとしませんでした。
 すると神は、モーセの兄のアロンをモーセの助け手として遣わしてくださいました。アロンは雄弁だったので、モーセに代わって神の言葉を語るというサポート役を担うことになったのです。
 今日は『民数記』の13章ですが、今日の箇所よりも前の『民数記』11章には、次のような出来事が記されています。
荒野の旅の途中で、イスラエルの民たちが、食べ物のことで大きな不満を言い始めました。11章1節によれば、それは「主の耳に達するほどの激しい不満」でした。
モーセは、民たちの不満と嘆きが激しいので、神に訴えます。モーセは、「わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。どうか、わたしをこのような苦しみに遭わせないでください」と願いました。
すると神はモーセに、民の中から、長老あるいは役人として認めることができる70人を集めて、モーセを側で支える者とするように、と命じました。(民数記11章16節)
そのようにして、神はモーセが一人だけで重荷を負うことのないように、してくださったのです。
 私たちも、信仰の共同体である教会として、何かの重荷や責任を誰かが一人だけで担う、特定の人たちだけが過度に担う、ということは神の御心ではありません。
 私たちはそれぞれの賜物を捧げて、主の教会を立て上げています。しかし、誰かが過度な責任や重荷を負って苦しむのならば、それは神が望まれる教会の在り方ではありません。
 ですから、もし私たちの中で、ある重荷や責任をご自分だけで担っているように感じ、苦しんでおられる方がおられましたら、ぜひ周りの方に(もちろん、牧師である私にも、ぜひおっしゃってください)訴えて助けを求めていただきたいと私は願います。
 「助けてほしい」という声をあげることのできる教会、そのような信仰の共同体でありたいと、私たちは願います。
 またそのように苦しんでいる人に気づき、声をかけることのできる教会でありたいと、私たちは願います。

 そして今日の箇所で、カナンの地の偵察のために、“イスラエル各部族(12部族)から、それぞれ一人が選ばれるように”と、主は命じました。
 12部族の中から、それぞれの指導者を遣わすようにと、主はモーセに命じられたのです。カナンの地の偵察に、このようにイスラエルの全ての部族から代表者が送られたことも、大切なことを表わしています。
 それは、彼らの旅路は、イスラエルの民、彼ら信仰の共同体全員が祈りと力と知恵を合わせて進まなければならない、ということです。
 一人、あるいは少数の優秀な指導者が他の大勢の民を指導し、民は指導者の言うことにただ従っていくだけ、ということではない、ということです。
 約束の地へ入るという目標は、イスラエル各部族が協力して全員で達成しなければならない使命であったのです。
 各部族からそれぞれ代表の指導者が選ばれた、ということは、多様な背景を持つ人たちが選ばれた、ということでもあります。それぞれが異なる賜物をも持っていたでしょう。

 色々な背景と賜物を持つ12人が協力をして、彼らにとって言わば未知の土地である、カナンの地偵察という、重要かつ危険な任務を遂行するようにと、神が定めてくださったのです。
 私たちの教会も、それぞれが賜物を献げつつ、皆で協力をして、祈り合って、助け合って、信仰生活を共に送っていこうではありませんか。
 そして今日の聖書箇所である25節では、彼ら偵察隊が帰ってきます。モーセたちは、彼らの帰りを心待ちにしていたでしょう。
また「カナンはどんな土地だったのだろう」と彼らは不安と期待が入り混じったような気持ちでもいたのではないでしょうか。
彼らはまず次のように報告しました。

13章27節
彼らはモーセに説明して言った。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行って来ました。そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。

そこは神様がおっしゃった通り、“乳と蜜の流れる所=食べ物が豊富な土地”でした。それを証明するように、彼らは果物(ぶどう)も取って来ていました。
神は確かに約束された通り、食べ物の豊富な土地へと、イスラエルの民たちを導こうとしてくださっていたのです。
しかし、そこで彼らをあるものが妨げました。それは何でしょうか。
それは“恐れ”でした。そしてその時の彼らの恐れは、神への信頼と信仰が欠けていたために生じたのでした。

彼らは“カナンの住民たちはとても強く、大きな城壁がある。彼らは私たちより強い。あの民に向かって上っていくのは不可能だ”と言いました。
しかし、偵察に行った人の中で、カレブという人だけは(そしておそらくヨシュアという人も)次のように言いました。

「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」

人には誰にも恐れがあります。恐れと言う感情は、時に私たちを危険から守ってくれるものでもあります。
恐れの感情があるので、私たちは危険を察知したり、危険を回避したりすることもできます。
しかし、もし私たちの恐れが、神への信仰が無いために生じているのならば、その時は逆にその恐れが私たちを信仰的な危機に陥らせます。
カナンの地の住民たちは、実際、イスラエルの民たちよりも大きく、また強かったのでしょう。カレブも、「彼ら(カナンの地の住民たちは)は弱いから、私たちは勝てます」とは言っていません。
カレブも、他の人たちも、同じカナンの住民たちを見たのです。
ではなぜ、「彼らは強いから、自分たちは絶対勝てない」という考えと、「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」という考えに分かれたのでしょうか。

それは、彼らが“自分自身に依り頼もうとしているか”、あるいは“自分ではなく、神に依り頼もうとしているか。神の約束に信頼しようとしているか”という違いでした。
「あの民に向かって行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」と思った人たちは、カナンの住人たちと、彼ら自身を比較していました。
ですから、“弱い自分たちでは、とても勝てない”、と彼らは思ったのです(荒野の旅を続ける彼らは、確かに弱っていたでしょう)。
 しかし、カレブは、カナンの住人たち(きっとカレブの目にも、彼らは強く、大きく見えたはずです)を、カレブ自身とは比べなかったのです。
 カレブは、カナンの住人たちを、主なる神と比べたのです。比べるまでもなく、カナンの住人よりも、神のほうがはるかに偉大で強いのです。カレブには、信仰によって、そのことが分かっていました。
 私たちは、危機や困難に直面する時、その困難と私たち自身を比較して、“わたしにはとても出来ない、無理だ”と思って恐れてしまうことがあるかもしれません。
 しかし、その困難状況と自分を比較するのではなく、何より強く偉大な神を見上げ、神に依り頼むのならば、そしてそれが神の御心ならば、私たちは、(神によって)いかなる困難にも打ち勝つことができます。

 それが聖書の神が私たちに与えて下さっている約束だからです。

 民数記の時代から時代が下り、ダビデという人が、イスラエル王国の王様(二代目)となるべく、登場してきます。
 その時イスラエルはペリシテ人との戦いの最中にありました(サムエル記上17章)。
ペリシテ人のゴリアテという巨人が現れ、“誰か一人がイスラエルを代表して自分と戦え”と言いました。
それを聞いて、イスラエルの王サウルと、イスラエルの全軍は恐れおののきました(サムエル記上17:11)。
しかし、ダビデという羊飼いの兄弟の末っ子が、イスラエルの兵士たちもみんな恐れる中、一人そのゴリアテと戦いました。
ダビデは、王様のサウルが最初自分に与えようとした兜や鎧や剣ではなく、彼自身の武器であった石と石投げ紐で、巨人ダビデに打ち勝ちました。
その時、ゴリアテに向かって行ったダビデが言った言葉に私たちは耳を傾けてみましょう。

サムエル記上17章47節 (1 Samuel 17:47)
主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」

私たちの生きる道には、さまざまな危機、困難があります。とてもそれらを乗り越え、打ち勝つことなどできない、と私たちは思うことがあるでしょう。
 しかし、そのような時こそ、私たちは自分自身でなく、主なる神を見上げ、神の御力により頼みましょう。主がどれほど偉大なお方で強いお方かを思い出そうではありませんか。
 私たちが自らを徹底的に低くして、主に依り頼み、御心を求めて祈る時、そこで示される道を行くならば、その先にあるいかなる困難をも、必ず主が私たちに打ち勝たせてくださるのです。
 主は強いからです。私たちは弱くとも、主の強さと偉大さによって、何をも信仰的に恐れる必要はないのです。

最後に、次の詩編の一節をお読みして、宣教を終わりにいたします。

詩編118篇6節 Psalm 118:6
主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。

2024年5月4日土曜日

2024年5月5日 主日礼拝

前奏
招詞  ローマの信徒への手紙14章8節
讃美  新生讃美歌 27番 たたえよあがないぬしイエス
祈りの時
主の祈り
讃美  新生讃美歌 3番 あがめまつれ うるわしき主
献金
聖句  レビ記19章1~8節
祈祷
宣教  「あなたたちは聖なる者となりなさい」
祈祷
讃美  新生讃美歌21番 栄光と賛美を
頌栄  新生讃美歌 672番
祝祷
後奏

 今日も、聖書の御言葉を通して、神のメッセージを私たちは共に聞いていきます。今日は、旧約聖書の中の『レビ記』の中の一箇所です(19章1~8節)。
『出エジプト記』に続く『レビ記』の中には、イスラエルの民たちが神に献げる様々な“献げもの(穀物や動物のいけにえ)”の献げ方や、その他多くの律法が、事細かに記されています。
『レビ記』は聖書の中でも、キリスト者が熱心に読むことは少ない書ではないか、と私は思います。献げ物(いけにえ)の献げ方に関する細かな律法から始まる『レビ記』を、最初に(私が教会に行きはじめた頃)目にした時、わたしは大変驚きました。

“クリスチャンは、生贄を捧げるようなことを、している人たちなのか?”とわたしは疑問に思ったのです。
結論から言えば、クリスチャンは、レビ記に書かれているような生贄(いけにえ)を献げることは致しません。
それは、新約聖書の時代、神の子であるイエス・キリストが一回限りの完全な献げ物となってくださり、私たちの罪を贖ってくださったからです。
動物の生贄(いけにえ)は繰り返し捧げられる必要がありましたが、キリストは一回限りの完全な罪の贖いとして、私たちのために、ご自身の命を捧げてくださいました。

新約聖書の『ヘブライ人への手紙』7章27節に次のように、そのことが書かれています。

この方(*イエス・キリスト)は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。

イエス・キリストが、ご自身を完全な生贄として、ただ一度捧げてくださったので、私たちの罪の贖いは既に完成しているのです。
それにしても、動物をいけにえとして献げる箇所は、現代の私たちの感覚とは差が大きく、このような書物(レビ記)が、今の私たちの信仰とどのような関係があるのだろう、と私たちは思うかもしれません。

出エジプトの時代、モーセに率いられたイスラエルの民たちが、約束の地へと向かう荒野の旅の中で、これらの律法がモーセを通してイスラエルの民たちに与えられました。
献げものに関する細かな規定は、イスラエルの民たちに、常に“自分たちは罪人である”ということを思い起こさせたと、私は想像します。
その罪人である彼らを、主なる神は神の愛と憐れみのゆえに、救ってくださったのです。献げ物に関する規定は、イスラエルの民たちにそのことを常に思い起こさせたのではないでしょうか。
そして“犯した罪は贖われなければならない”ということを、数々の律法はイスラエルの民たちに教えたとも思います。

当時、献げ物は、繰り返し献げることが定められていました。なぜなら、人は常に罪を犯すからです。
献げものを常に献げることで、イスラエルの民たちは自分たちが常に罪を犯すものであることを思い起こしたのでしょう。
そして、レビ記の中には“人は誰でも罪を犯す”ということも書かれています。いけにえを捧げたり、その他の礼拝の儀式をも司ったのは、“祭司priests”として任命された人たちでした。
しかし、祭司であっても人間であり、罪を犯すという点では他の民と全く同じだったのです。
レビ記4章3節には「油注がれた祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合には、自分の犯した罪のために、贖罪の献げ物として無傷の若い雄牛を主にささげる」と書かれています。
祭司であろうと、その他どんなに立派な人であっても、人間はかならず罪を犯す存在、罪人である、ということは聖書全体を貫いて書かれている真実です。
ですから、人は誰でも罪人ですから、人はすべて神の赦しを必要としている、というのが聖書の伝えるメッセージです。

今日の箇所は、いけにえの献げ方など、その他の律法の数々も書かれているレビ記の19章の初めです。
ここでモーセを通してイスラエルの民たちに伝えらえたことの一つが、今日のメッセージ題にもしました「あなたたちは聖なる者となりなさい」です。
「あなたたちは聖なる者となりなさい」というこの戒めは、ここ以外の箇所にも何箇所か書かれています。
神はイスラエルの民たちに、「聖なる者になってほしい」と望まれ、そして神は今の私たちキリスト者にも「聖なる者になってほしい」とお望みです。
神が律法の数々をイスラエルの民たちに与えたのも、律法を通して罪の自覚を起こさせ、そして罪の贖いを受けて、わたしたちに聖なる者になってほしい、という神の切なる願いの表れだったのです。

人の親は、自分のこどもに「こんな風に育ってほしい」と願うことがあります。神は私たち信じる者の親です。
親なる神は、ご自分の子であるわたしたちに、(人の親が我が子にそう望むように)「あなたたちに聖なる者になってほしい」と、強く望まれたのです。
 神のその願いは、神がどれほど私たちのことを愛してくださっているか、ということの証拠でもあります。

 では聖なる者とは、どういう人のことを言うのでしょうか。
「あなたたちは聖なる者となりなさい」に続いて、「あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」と書かれています。
神は私たちに、「神であるわたしが聖なる者であるから、あなたがた人も聖なる者になりなさい」と言っているのです。
そうすると私たちが聖なる者になるとは、私たちが神になる、ということなのでしょうか。そうではありません。神は神であり、唯一のお方です。人間が神になることはあり得ません。
神でないものを神とすることは偶像です。今日の4節に「偶像を仰いではならない。神々の偶像を鋳造してはならない。わたしはあなたたちの神、主である」と書かれています。
自らが神になろうとすることも、自らを偶像とすることです。

「聖なる者になりなさい」とは、人が神になる、ということではなく、まず、罪赦され、神の子とされたことを喜び、神の愛と憐れみの中で生かされるということだと思います。
そして神の愛に生かされていることを喜び、感謝し、そして神が望まれるような生き方をしようと努力をすること、が“聖なる者になる”ということではないでしょうか。

新約聖書のペトロの手紙一1章13~16節に、今日のレビ記の箇所が引用されながら、次のように書かれています。

1ペトロ1章13~16節
13だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
14無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、
15召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。
16「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。

人が神にはなり得ませんが、神が望むような者になろう、と努力をすることはできます。神によって罪赦され、神の子として生きることを赦された私たちは、そのように努力をする者になるのです。
今日の3節には「父と母とを敬いなさい」と書かれています。出エジプト記の十戒(Ten Commandments)にも同じ戒めが書かれています。
「父と母とを敬いなさい」と聞くと、私たちは反発したくなるかもしれません。父と母を敬えない、尊敬できないことだってあるでしょう。

尊敬に値しない、とんでもない親だって世の中には存在するのではないか、と私たちは思わないでしょうか。(私自身がそのとんでもない親の一人かもしれない、と私は恐れます)。
新約聖書では、父と母だけでなく、自分以外の他者を自分よりも優れた者と思いなさい、と書かれている次のような箇所があります。

フィリピの信徒への手紙2章3節~4節
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

 他人を自分よりも優れた者と考えることは、簡単にできることではありません。その他人が明らかに自分より優れている人ならよいのですが、そうでなければ、私たちはどうすればよいのでしょうか。
  ここでもイエス様の模範に倣う(倣おうとする)ことが私たちにとって大切です。イエス様は、私たちが善人であったから、私たちに代わって十字架に架かり死んでくださったのではありませんでした。
  私たちが罪人であったのに、イエス様は、そんな私たちのために死んでくださったのです。それが神の愛だと、聖書は伝えます(ローマの信徒への手紙5章6~8節)。
 神に愛され、神に罪赦され、この私のためにイエス様が死んでくださったという恵みを信じる私たちは、まずできるだけの尊敬と思いやりを、自分以外の他者に持とうと、努力をしたいと、思わされます。
そしてそのように、まず私たち自身が自分から変わろうとするのならば、そんな私たちの姿を見て、他者も変えられるかもしれません。
私たちが自分から努力することで、他者との関係もきっと今より良い状態へと変えられると、私たちは信じてよいと私は思います。

今日の5節以降では、献げ物の肉は捧げた当日と翌日に食べねばならず、三日目まで残ったものは焼き捨てねばならない、と書かれています。
これは、”神の恵みはその日、その時に必要なだけ必ず与えられる”という信仰、神への信頼を信仰者が持つために、そのように定められたのでしょう。
本来、それは神へ捧げられた肉です。しかし、それを彼らは食べることが許されました。
本来神への献げ物であったことが人に忘れられ、“何日か後にも食べられるように、取っておいておこう”という欲が人の心に起こることを神は防ごうとされたのでしょう。
 先々週の礼拝メッセージで私たちが分かち合いました出エジプト記の“過越し”の場面では、もし犠牲の小羊を一家族で食べきれない場合には、隣の家族と共に分かち合って食べるように、と定められていました。
 ”もっと欲しい”、”将来も心配がないように、沢山蓄えておきたい”という欲も行き過ぎると、それは貪欲の罪となり、何よりも神への信仰と信頼を私たちから失わせます。
  必要なものは神が必ず与えてくださいます。わたし自身の今までの信仰生活を通しても、神の守りと恵みは、その時の必要に応じて、必ず与えられてきた、と私は言うことができます。
  神の恵みはその日、その時々に、十分与えられるのです。神は私たちの必要を最も良いもので満たして下さると、私たちは聖書の教えに聞き従うことを通して、日々学んでいきたいと願います。