2024年4月27日土曜日

2024年4月28日 主日礼拝

前奏
招詞 ローマの信徒への手紙13章8節
讃美 新生讃美歌 10番 主のみ名により
主の祈り
主の晩餐
讃美 新生讃美歌 81番 父なるわが神
献金
聖句  出エジプト記 20章1~17節
祈祷
宣教  「十戒」
祈祷
讃美 新生讃美歌 523番 主われを愛す
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏


 今日の聖書の箇所は、旧約聖書の『出エジプト記』20章の“十戒”の部分です。神がモーセに、聖書の律法の中でも最も重要であり中心的な十の戒めを与える場面です。
 “戒め”とは、ルール(規則)と言い換えることもできます。一般的に言って、社会には法律というルールがあります。またスポーツやゲームなどにもルールがあります。
 ルールがあるので、私たちは秩序を保って社会生活を送ることができます。お互いに約束毎を定めて、それを守って生きることで、お互いに生活がしやすくなります。

 スポーツやゲームをする時に、ルールを守って行うので、お互いに公平にそのスポーツやゲームを楽しむことができます。
 しかし、規則を破ってでも成功したい、ルールを破ってでも相手に勝ちたい、と思う人が時々出てきます。
 法律を守らずにお金を儲けたりしても、もし法律違反が発覚すれば、時に厳しく社会的に罰せられます(原則的には)。
ゲームでもルール違反が発覚すれば、なんらかのペナルティを受けるかもしれませんし、そもそもルールを守らずゲームをしていても面白くないでしょう。

 では神の律法は何のためにあるのでしょうか。
十戒の最初の部分を見ることで、その事を私たちは考えたいと思います。

1神はこれらすべての言葉を告げられた。
2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

十戒の初めに、神は御自分がどのようなお方であるのかを明らかにしておられます。先ず神は、「わたしは主、あなたの神」と言います。
 神は、この天地の造り主、という意味で“主Lord”です。神は、私たちの世界の全てを、私たちの命をも支配しておられるお方、という意味で“主Lord”です。 

 神こそが全ての主権、すべてにおいての主導権をお持ちである、という意味で、神は“主Lord”です。
 そしてそのようなお方が、“わたしは主、あなたの神”であると言われるのです。
天地の造り主である主が、“あなたの神”すなわち、私たちそれぞれにとっての”わたしの神my God”であると言うのです。

主なる神は私たちひとり一人を限りなく愛し、“私はあなたの神だ”と、モーセに向けて、イスラエルの民に向けて、そして今も私たちひとり一人に向けて、宣言して下さるのです。
もちろん神は“わたしたちの神”でもあります。私たちは誰も神の愛と恵みを独占することはできないからです。
しかし、神は、私たちひとり一人とも、特別な個人的な関係を持とう望んでくださっています。
「わたしは、あなたの神だ」という神の宣言により、その事が明らかになっていると、私は信じます。

今聖書を通して神の声を聞く私たちも、「神は、このわたしの神なのだ」と確信し、神との親密な関係の中に招き入れられているのです。
新約聖書の『ヨハネによる福音書』の中で、復活したイエス様に出会った弟子のトマスが次のように言っています。
復活のイエス様が最初に弟子たちの前に現れた時、トマスはその場にはいませんでした。
トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言っていました(ヨハネ20:25)
復活のイエス様は、そのトマスの前にも現れてくださいました。イエス様はトマスに、“ご自分の手を見て、脇腹に手を入れてみなさい、信じない者ではなく、信じる者になりなさい”と言われました。
するとトマスは「わたしの主、わたしの神よMy Lord and my God!」と言って、復活したイエス様を信じました(ヨハネ20:28)。
トマスは、復活のイエス様の、ご自分(トマス)に向けられた限りない愛と優しさに打たれ、“このお方は、たしかにわたしの主、わたしの神なのだ”と告白することができたのです。
 
 出エジプト記の今日の箇所では、神の側から最初に、「わたしは主、あなたの神だ」と宣言してくださっています。
 それは、たとえ私たちが信じなくても、「わたしは主、あなたの神だ」というこの神の言葉は有効であり、真実であるということです。
 神はわたしの主であり、わたしの神であることは、神ご自身が既にそのようにお決めになったことだからです。
 後は、私たちがその神の呼びかけを信じ、神に従っていきるかどうか、ということだけが問題なのです。

 「わたしはあなたの神だ」と言って下さっている神の御声を、私たちは信じ、その御声に従って生きていきたいと願います。
 そして「わたしは主、あなたの神」に続き、神は「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導きだした神である」と言います。
 神は主であり、“このわたしの神”であり、そしてその神は、実際の行いを通して、イスラエルを(その一人一人を)エジプトの国、奴隷の家から導き出した、というのです。
 聖書の神は、ご自分の民の救いのために自ら行動を起こしてくださるお方である、ということです。
 私たちが聖書を読み神の言葉に触れる時、そして聖書の言葉を通して日常の生活を送る時、その時確かに自ら行動を起こしてくださっている神の存在を、私たちは知ることができます。

 私たち信仰者がそれぞれの信仰生活の中で、色々と難しい困難な経験をしながらも、その度に、神によって助けられ救い出されるという経験をしています。
 新型コロナ感染症の拡大が始まってから、また感染拡大のさなかに、実際に感染を経験して苦しんだり、またそれ以外にもコロナに関わる様々な影響を受けて、私たち誰もが、色々と大変な経験をしたと思います。
 特に、こうして皆で一緒に集まることを大切にしていた教会にとって、集まることへの制限が大きく課せられたことで、とても難しい判断を、その時々で迫られました。(今も、まだそれは終わってはいませんが)

 しかし、そのような時にも、神の守りは確かにあった、神は共にいてくださったと、わたしは信じます。不確かなことが多い中、私たち人間は色々と判断を誤ったり、間違いをしたりしたかもしれません。いや、きっとそうでしょう。
しかし、エジプトの地からイスラエルの民たちを導きだした主なる神は、今も変わらず私たちと共におられ、私たちをいかなる困難の中からも救い出してくださる、と私たちは確信してよいのです。

 新約聖書の中で、パウロという伝道者が、色々な困難の中から神が彼を救い出してくださった経験を次のように言っています。
わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。

9わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。
10神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。(コリントの信徒への手紙二 1:8~10)

 イスラエルの民たちをエジプトから救い出し、そしてパウロを様々な死の危険からも救い出してくださった神が、今の私たちをも救い出してくださると、私たちは信仰によって信じ、生きていきたいと願います。
 そして困難な経験の中で、“自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにする”ことを、私たちも学んでいこうではありませんか。
 今日の4節に「あなたはいかなる像も造ってはならない」と書かれ、私たち人間が神でないものを神として、自分で作った像をも神としてしまう“偶像礼拝”の罪について、言われています。

 イスラエルの民をエジプトから救い出し、そしてイエス・キリストを通して、私たち全ての者を罪より救い出してくださった唯一真の神をこそ、私たちは信じ礼拝するのです。
 私たちは常に、私たちが礼拝すべきお方、主イエス・キリストの神から目を離すことがないように、私たちの心、思い、精神、力を尽くして、主イエス・キリストのみを礼拝するように、心低くして信仰の日々を送っていきましょう。
 今日のメッセージで、十戒のすべてを網羅することはとてもできません。しかし、最後に8節から11節までの“安息日”について戒めについて、私たちは共に思いを巡らせたいと思います。

8節から10節前半までに次のように書かれています。

8安息日を心に留め、これを聖別せよ。
9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。

 この安息日の戒めについても、その主体と中心は神です。私たちが一週間のうち六日は働いて、七日目にはいかなる仕事もしてはならない、というのは、神の創造の業がその基になっています。

 11節に「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」と書かれています。

 神がそのように世界を創造されたので、私たちも神の創造の業に倣(なら)って、六日の間は働き、そして七日目は主の安息日として、完全に主のために取り分け、それぞれがしていること(仕事)をやめる、ということです。
 十戒の中でも、特に現代の私たちにとって守ることが最も難しい戒めは、この安息日に関する戒めではないかと、私は思います。
 「何か(価値あると思われること)を、いつもしていること」が重んじられる世の中にあって、週の一日は完全に何もしない、自分のしていることを中止し、ただ主にのみ献げることを本当に実践するのは、非常に難しい事であると私は思います。

 しかし、わたしたちはそのように世の中が益々忙しくなり、「あなたは何ができるのか?」、「あなたはどれほど有能なのか?」が問われる時代の中でこそ、ますますこの安息日の戒めの重要さ、そしてこの戒めを通した神の愛を教えられます。
 それは、私たちの価値は、わたしたちが“何を(どんな価値あることを、利益につながることを)できるのか”とは関係がない、ということです。
 私たちの価値は、この世界を創造され、今も世界の主権者である神によって私たちは造られた、ということにあります。
 私たち価値は、神の御子イエス・キリストが十字架の上で命を私たちのために捨ててくださった、ということにあります。
 私たちの生きる喜びは、創造主である神が「わたしの神」であることを知り、そしてその神にこの私が知られている、という恵みの中に生きる事です。
 私たちの信仰の喜びは、イスラエルの民たちをエジプトから救い出し導きだした神の救いの御手が、今の私たちにも差し伸べられている、という点にあります。
神の、そのような限りない救いの御業、恵みの御業を覚えつつ、十戒の戒め一つ一つについて、私たちは、それらが“わたしたちを生かす命の戒め、そしてわたしたちに神の愛を伝える戒め”であることを続けて学んでいきたいと願います。

2024年4月20日土曜日

2024年4月21日 主日礼拝

前奏
招詞  コリントの信徒への手紙一 5章7節
讃美  新生讃美歌 10番 主のみ名により
主の祈り
讃美  新生讃美歌 4番 来たりて歌え
献金
聖句  出エジプト記12章1~13節
祈祷
宣教 「主の過越し」
祈祷
讃美  新生讃美歌 102番 罪にみてる世界
頌栄  新生讃美歌 671番
祝祷
後奏

今日私たちに、この礼拝の中で与えられた聖書の箇所は、旧約聖書の『出エジプト記』12章の初めの部分です。
過越(すぎこし)、と言われるユダヤ教の祝祭日の起源について、ここでは書かれています。キリスト教は、歴史的にはユダヤ教を母体にして生まれました。
現在でもユダヤ教にとっては、過越はとても重要な祝祭の一つです。しかし、キリスト者は、この過越を祝うということは致しません。しかし、この過越について知ることは、キリスト者にとってもとても重要です。
なぜなら、後にイエス・キリストが私たちの罪の贖いのために十字架にかかって死んでくださったことと、この過越には大切な関係があるからです。

過越についての定めが、主なる神によってイスラエルの民たちに伝えられた今日の聖書の箇所から、神のメッセージを私たち共に聞いてまいりましょう。
今日の箇所にモーセとアロンという人が登場します。モーセは、神に選ばれて、エジプトで約400年間奴隷生活を送っていたイスラエルの民たち(ユダヤ人たち)をエジプトから導きだす(救い出す)役目を与えられました。
私たちが今までの礼拝メッセージの中でも、何度か聞いてきましたように、神に選ばれてもモーセは最初何度も何度も「わたしには出来ません。誰か他の人を選んでください」と言って躊躇しました。
それでも神は忍耐強くモーセに語り続けられました。神はモーセに幾つかの奇跡(しるし)もお見せになり、確かに神がモーセと共におられる、神がモーセを遣わすということをモーセに知らせようとされました。
そして神は、「わたしは口下手ですから、誰もわたしの言うことなど聞きません」と言うモーセに、雄弁な兄のアロンを遣わし、「兄のアロンが、あなたに代わって、神の言葉を語る」と言われました。

モーセとアロンはエジプト王ファラオのもとへ行きました。出エジプト記5章から、モーセとアロンがエジプト王ファラオに話をする状況が描かれ始めます。
「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と」モーセとアロンはファラオにこう言いました(5章1節)
しかし、ファラオは彼らの言うことを聞きませんでした。“ファラオが心を頑なにして、モーセとアロンのいうことを中々聞き入れようとはしない”ということは神によってあらかじめモーセたちに伝えられていました。
それからモーセとアロンは、神に命じられた通り、いくつかの災いをエジプトに引き起こしました。最初の災いは、7章で描かれている通り、ナイル川の水が血に変わる、という災いでした。

その後も、(ファラオが、なかなかイスラエルの民たちを去らせようとしないので)エジプト中に蛙(かえる)が群がる災い、ぶよとあぶがエジプト全土を襲う災いが起きました。
疫病の災いや雹(ひょう)の災い、いなごの災いや暗闇の災いなどの災いもエジプトに起こりました。
そのような中、ファラオは一つの災いが起こると、一旦はモーセとアロンの言うことを聞きいれようとします。しかし災いが去るとまた心を頑なにし、イスラエルの民をエジプトから去らせようとはしませんでした。
ファラオのそのような態度は、私たちの姿ではないでしょうか。私たちは、神の赦し、神の恵みを何度も経験しながら、神に救われながら、しばらくすると神の恵みを忘れてしまっていないでしょうか。
そして今ある恵みを認めることができず、神からの様々な恵みの賜物を、当たり前のもの、自分にとっての当然の権利だとさえ思ってしまい、神への感謝の気持ちを私たちは失っていないでしょうか。
神の恵みによって罪赦され、日々を神の恵みの中で生きることができることを、私たちは常に思い起こし、喜び、主なる神に感謝を捧げて生きていきたいと願います。

そして主なる神は、とうとう最後の災いを、エジプトに下そうとされました。過越、はその最後の災いに関することでした。
その最後の災いは、エジプト中で全ての初子(最初に生まれたこども。人も家畜も)が死ぬ、というものでした。そして主はイスラエルの民たちの家には、その災いが降りかからないようにしてくださったのです。
その災いが、イスラエルの民たちには降りかからない、すなわちその災いが彼らを“過越し”ていく、という意味で、この出来事が“過越”と言われるようになりました。
主は「過越」に関するその定めを、今日の箇所の中で事細かにモーセとアロンに伝えました。 
過越に関してまず、神からモーセとアロンに伝えられたことは、「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」でした(2節)。

それまで、ユダヤの新年は秋頃(9月)から始まっていました。しかし、神がイスラエルの民たちをエジプトから救い出すというその出来事を、彼らにとっての信仰上の新しい年の初めとするように命じたのです。
神の救いの業を記念し、イスラエルの民たちが新しい命を頂いたことを覚えているために、神はその月(それは3月と言われます)を新しい年の最初の月とするように彼らに命じたのです。
現在の私たちにとっても、イエス・キリストによって救われる、新たに生まれるということは、まさに新しい命の始まりです。キリストの救いが私たちの新しい命の出発点となります。
イエス様による救いの業を私たちは信仰の出発点(新年)としていつも心に覚え、信仰の暦(日々)を歩んでいきたいと願います。
そして過越について次に神によって人々に命じられたことは、“家族ごとに小羊を一匹用意する”ということです(3節)
過越という主からの恵みは、個人ではなく、”家族単位”で享受するということが、ここで表されています。
ここでの家族は血縁の家族よりも、むしろ同じ主を信じる信仰の家族を表わすと私たちは理解したほうがよいでしょう。

聖書の伝える信仰は、個人個人がばらばらに受け取り信じるものではなく、神の恵みを信仰の家族で分かち合って頂くという信仰なのです。
しかも、その小羊一匹が一家族では食べきれない場合には、隣の家族と分け合うということも定められています(4節)。
私たちも、頂いた信仰の恵みを、信仰の家族同士で共に頂き、喜び、そして私たちがいただいた、余るほど溢れる信仰の喜びを、私たち以外の他の方々とも分かち合いたいと願います。

そして私たちの信仰の家族へ、一人でも多くの方々を招きいれたい、迎え入れたいと私たちは願うのです。それが主なる神が定められた、私たちの信仰のありかたなのです。
そのようにして用意された小羊が屠られ、そしてその血を取って、家の入口の二本の柱と鴨居(戸の上の横柱)に塗るようにと定められます(7節)。
そして13節に書かれているように、最後の災いが降りかかる時、家の入口に小羊の血が塗ってある家は、その災いが降りかかることなく過越していく、と神が約束をしてくださったのです。
これが過越祭の由来となりました。神はイスラエルの民たちに、代々この過越を、主が彼らを滅ぼさずエジプトから救い出して下さったことを記念するために、行い続けることを命じられました。
この過越は、イスラエルの民たちによって、出エジプトの後からずっと守られ(祝われ)、イエス様の時代でも大切な祝祭として祝われていました(現代でも、ユダヤ教にとっては大切な祝祭の一つとして守られ続けています)。

今、イエス・キリストを信じるキリスト者は、過越を祝うことは致しません。それは過越の意味が、イエス様によって完全に変えられたからです。
それは、“イエス様ご自身が、私たち全ての人間の罪を赦すための、過越の小羊となってくださった”ということです。
新約聖書の『ヨハネによる福音書』1章で、バプテスマのヨハネという人が、イエス様が自分のほうへ来られるのを見て、次のように言いました。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ福音書1章29節)。

そしてイエス様が捕まり、十字架にかけられる前に、イエス様が弟子たちと最後の食事をしたのも、それは過越の食事でした。
マタイ福音書では26章に、イエス様と弟子たちの最後の食事、過越の食事の場面が描かれています。そしてイエス様はその時に、後に弟子たちがご自分を記念して行うようにと“主の晩餐”を制定されました(マタイ26章26~30節)。
そして今でも私たちは、“主の晩餐”を、私たちの教会では一ヶ月に一回、イエス様が命じられた通りに行っています。
イエス様の体と血が、私たちの罪が赦されるためにささげられた出来事を、私たちは主の晩餐を通して、パンと杯(ぶどう酒)をイエス様の体と血の代わりとして用いることで、いつも思い起こすのです。
ここで、出エジプトの過越の起源となった出来事(それは紀元前1400年頃の事と言われます)と、イエス様が定められた主の晩餐(今から2000年前)が、信仰的に非常に関係の深いものであることが分かります。

そしてキリスト者は、イエス様が死んで復活して天に昇って行かれてから、主の晩餐を大切な礼典(ordinance, rituals)として守って来ました。

今もわたしたちは主の晩餐を通して、イエス様という尊い犠牲の献げものによって、私たちの罪が赦されたことを、その度に思い起こし、感謝の念を新たにします。
イエス様という、罪を取り除く小羊によって、私たちの上を、主の災い(罰)が過越していったと、私たちは理解してよいのです。
主が、イスラエルの民たちに過越を代々守ることを命じたのも、そしてイエス様が主の晩餐をキリスト者が代々守ることを命じたのも、それは神の救いの恵みを私たちが決して忘れることがないため、でした。
そして、主の晩餐ではパンとぶどう酒(ぶどうジュース)という食べ物と飲み物を用います。
そうすることで、私たちは生きている身体の感覚も用いて(心だけでなく)、主の命じられた晩餐を頂きます。

身体的にも主の晩餐に与ることを通して、私たちは確かに、身体をもってこの世界に生きている、生きることを赦されている、ということを再確認するのです。
主の晩餐の中で、パンとぶどう酒は、言わば象徴的な役割を果たします。しかし、その基となった過越の出来事と、そしてイエス・キリストの十字架の上での死は、確かに起きた出来事です。それは歴史的事実、私たちの信仰にとっての真実です。
私たちは、聖書を通して伝えられる神の救いの出来事、主の過越によってイスラエルの民たちの家には災いが降りかからずに彼らが救われた出来事を、私たち自身の救いの物語として、これからも聞き続けていきましょう。
そして私たちの罪をイエス・キリストが代わりに負ってくださった出来事を、主の晩餐を繰り返す行うことで私たちはいつも思い起こし、感謝をもって信仰の日々を生きていくという決意を、新たにしていきたいと願います。

2024年4月13日土曜日

2024年4月14日主日礼拝

前奏
招詞 ヘブライ人への手紙11章8節
讃美 新生讃美歌 10番 主のみ名により
主の祈り
讃美 新生讃美歌 124番 この世はみな
献金
聖句 創世記12章1~7節
祈祷
宣教 「主の言葉に従って旅立つ」
祈祷
讃美 新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏

2024年度の新しい年度の歩みを私たちはスタートしています。今年度、私たちの教会は、礼拝メッセージの中で、聖書の初めから終りまで1年間かけて改めて学んでいこうとしています。
先週は、旧約聖書『創世記』の1章の初め、まさに聖書全体の冒頭の御言葉から、神による創造の御業の言葉を私たちは聞きました。
「初めに、神は天地を創造された」。神のこの言葉が世界のすべてを造り、そして今もわたしたちの世界を動かす力となっています。
神の言葉こそがすべての力、そして希望の源であると、私たちは信仰によって信じることができます。

本日は『創世記』12章から、イスラエルの民たちから“信仰の父”と言われ称えられたアブラハムが、神の言葉に従って生まれ故郷を旅立つという場面から、神のメッセージを私たちは共に聴いていきたいと思います。

今日の箇所の1~3節をもう一度お読みします。
1主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。2わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。3:あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」

 ここでの主からアブラハムへ向けて語られた言葉の中で繰り返されている言葉は、「祝福blessing」です。
主はアブラハムに(12章では彼の名前はまだ“アブラムAbram”です。彼は後に神から新しい名前“アブラハム”をいただきます。今日は“アブラハム”という呼び方で統一します)、“生まれ育った故郷を離れ、神が示す地へ行きなさい”と命令します。
実際にどこへ行くのか、具体的な目的地は示されないまま、とにかく主はアブラハムに“私が示す地へ行きなさい”と命じたのです。

それは大変厳しい命令だったと思います。その命令に従うことはアブラハムにとっても、決して簡単に決断できることではなかったのではないか、と私は想像します。
なぜなら慣れ親しんだ場所(故郷)に留まっているほうが、快適であり、安心であったであろうからです。しかし、主はアブラハムに“行きなさい”と命じました。
そしてアブラハムも、主のその言葉に従い、彼は彼の生まれ故郷を離れ旅立ちました。
アブラハムが、具体的な目的地が示されないまま、それでも主の言葉に従い旅立つことができたのは、彼が主の命令の中に、彼に向けた主なる神からの“祝福”を確信できたからだと、私は信じます。
彼にとって安定して慣れ親しんだ、心地よい生活よりも、たとえ厳しい旅路、道程であっても、主の祝福を確信し、主の祝福をいただきながら生きるのが、信仰者が生きる道です。
 主はアブラハムに祝福を与えると約束してくださっています。主ご自身がアブラハムを祝福する、そしてやがてアブラハムが祝福の源となる、というこれ以上ないほどの希望の言葉がアブラハムに主から与えられたのです。

 祝福とは、神が私たちと共に歩んでくださるということ、そして私たちの命、わたしたちの存在を、神ご自身がとても大切に思ってくださっている、ということです。
 主の御言葉(聖書の言葉)を通して、私たちは神からの祝福をいただくことができます。それは“この私の存在を、天地の造り主なる神がとても大切に思ってくださっている”という確信であり、喜びなのです。
私たちの礼拝の最後に“祝祷”があります。“祝祷”は、神の祝福があるということを、宣教者が皆さんを代表して宣言することです。
礼拝の最後に、私たちひとり一人が神の祝福をいただき、神に祝福され、“今週も神が私と共に歩んでくださる。神はこの私をとても大切におもってくださっている”と確信しつつ、喜び溢れて、私たちは教会を後にすることができるのです。

主なる神は、なぜそれほどまでにアブラハムを、そしてまた今の私たちを祝福してくださるのでしょうか。神はなぜそれほどまでに、私たちの事を大切にしてくださっているのでしょうか。
後に、聖書の民であるイスラエルの民たちは、自分たちだけが神に選ばれた特別な存在だと思うようになりました。

旧約聖書の物語を読むと、神は確かにイスラエル民族を選び、彼らにご自身のお姿と名を表わし、彼らを導いておられます。
しかし、イスラエル民族が神に選ばれたのは、イスラエル民族が特別優れていたからではないのです。
そして今の私たちキリスト者も、キリストに選ばれ、イエス・キリストを信じる信仰者とされたのは、それは何も私たちが優秀であったとか、人格的に優れていたから、ということではないのです。
少し長くなりますが、旧約聖書『申命記』の7章6~8節を以下に引用いたします。
 
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

主がイスラエルの民を選ばれたのは、彼らが他の民よりも数が多かった、すなわち彼らが他の民より強かった、優秀だった、優れた資質を持っていたから、ということではない、と神ははっきりと言っているのです。

それは”ただ、あなたに対する主の愛のゆえit was because the Lord loved you”です。天地を造り、そして私たちをお造りになった神が、私たちを神の側からただ愛してくださったからです。
その希望と約束は、イエス・キリストというお方を通して、より一層私たちに確かなものとされました。
イエス・キリストが十字架にかかり、私たちの罪を赦し、私たちに救いと永遠の命を与えてくださったのは、私たちが優れていたからではありません。
それは主なる神の私たちに対する無条件で限りない愛に拠ります。私たちが自分では拭う事のできない罪を、神はイエス・キリストを通して赦して下さいました。
罪とは、“私は人よりも優れている”思い優越感に浸ったりすることも含まれます。また逆に、人との比較によって、神が愛して下さった自分の尊さを認めることができず、劣等感に凝り固まることも、それは含むでしょう。

しかし、あなたの価値は、神の御子イエス・キリストが十字架の上で死んでくださり、御自分がお持ちの栄光も全てを、あなたのために捨ててくださった、という一点にあるのです。
“罪人の私たちもイエス様によって罪赦されて、神の祝福に入ることができる”という希望の内に、私たちは生きることができるのです。これほど大きな祝福と喜びがあるでしょうか。
 私たちは神様の祝福、イエス・キリストを通して与えられる限りない祝福を、共に喜ぼうではありませんか。
先程私は、アブラハムにとって、住み慣れた生まれ故郷を離れることは、それも具体的な行先を知らずに旅立つことは、簡単にできる決意ではなかったのでは、と申し上げました。

私たちは時に、神の言葉に従って、私たちにとって心地よく安心な場所、そのような場所を後にして、神が示す場所へ行くことを要求されることがあり、
その時にはやはり私たちは神の言葉と祝福に信頼して先に進んでいかねばならないのだ、私たちは教えられます。
 私たちは、ある人は死ぬまで生まれ育った地域で生活してそこで生涯を終える、またある人は生まれ育った場所を離れて生活し、そこで生涯を終えるという人もおります。
しかし主の言葉に従うことは、誰にとっても、私たちが今いるところを離れて、別のところへ行くという決断と行動を伴うものなのです。

それは何も物理的に本当に遠いところへ行くことだけを指すのではありません。私たちが、神の御声を聴いて私たちが新たな行動をする時、それは今の自分から離れ、今の自分以上に成長し、主が示すことに従う生き方をする、ということです。
私たちは聖書の御言葉に立ち、その御言葉に聴き従って生きるという決断を新たにするとき、いつでも文字通りの旅立ちではなくても、霊的な旅立ちをそのたびに私たちは実行することになるのです。
 私たちがそのように一歩を踏み出し旅立つその先には、主が用意してくださった祝福が私たちを待っている、そのような希望を私たちは持って日々を歩み、旅立つことができるのです。

そして私たちが覚えたいもう一つことは、御言葉に従って旅立つその歩みは、決して一人の孤独な歩みではない、ということです。
主が先に直接語りかけてくださって、それに応えて旅立つという決心をしたのはアブラハムですが、アブラハムと共に旅立った人達がいました。
アブラハムの妻サライ、甥のロト、また5節にある「ハランで加わった人々」です。
 アブラハムの甥のロトについては、12章の前で、アブラハムの父テラには3人の息子がいたことが記されています。

11章26節「テラが七十歳になったとき、アブラハム、ナホル、ハランが生まれた」。27節~28節「。。。ハランにはロトが生まれた。ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ。」
27節で書かれた順番通りであったら、アブラハムが長男、ナホルが次男、ハランが三男であり、このハランの息子がロトですから、アブラハムにとってロトは、末の弟の息子、つまり甥です。
アブラハムにとっては、自分の息子同然の存在であって、長兄であるアブラハムにはロトを育てる義務があったのでしょう。
 アブラハムは甥のロト、妻サライ、そしてハランで加わった人々と共に旅立ちました。
そのように、アブラハムが家族や一族と一緒に旅立ったということは、旅の中で、アブラハムには彼の家族や一族による支えと協力もあったということです。
アブラハム一族、この家族のグループは、きっと共に祈り合ってハランから出発をし、支え合って旅路を続けたのでしょう。

 イエス・キリストを主と信じ、共に聖書の言葉に聴いてそれに従い、イエス様の教えを実現していこうとする私たち教会の歩みも、私たち一人一人がばらばらで歩むものではなく、私たちは“共に”信仰の旅路を歩むべく主に召された神の家族です。
私たちは、主の御言葉に立ち、主の御言葉によって旅立ちます。その歩みは一人の孤独な歩みではなく、共にイエス・キリストを救い主と仰ぐ信仰の仲間との共なる歩みです。
普段別々の場所で生活している私たちが毎週主の日に教会に集まって、共に礼拝を捧げること、共に神を礼拝することを決してやめずに、主を讃美しつづけていきましょう。
主なる神が、御言葉により、大きな祝福を私たちに与えると約束してくださっています。その約束を信じ、希望の新年度を私たちは共に歩んでいきたいと願います。

2024年4月6日土曜日

2024年4月7日 主日礼拝

前奏
招詞 ヘブライ人への手紙11章3節
讃美 新生讃美歌 10番 主のみ名により
祈りの時
主の祈り
讃美 新生讃美歌 125番 造られしものよ
献金
聖句 創世記1章1~5節
祈祷
宣教 「初めに、神は天地を創造された」
祈祷
讃美 新生讃美歌 121番 み神の力をほめたたえよ
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏

 今日私たちは、2024年度最初の主日礼拝を献げています。日本では一般に、この4月から、新しい年度が始まります。
 学生の方は、新しい学校へ進学、または進級された方もいらっしゃると、私は想像します。皆さんの新しい学年が、実り多い、神様に祝された学年になりますようにと私は祈ります。
 私たちの教会も、4月から新しい年度に入り、今年度私たちは「主の御言葉に立つStanding on the Word of the Lord」という年間標語を掲げ、教会生活を共に歩んでいきます。
  キリスト者とは、イエス・キリストが神(人となった神、人であると同時に神でもあるお方)と信じ、キリストを自分の主(Lord)として従いながら、生涯を生きる決意をした人です。
 先週の3月31日の日曜日には、十字架にかけられて死んだ、私たちの主イエス・キリストが、三日目に復活をした出来事を記念し、お祝いするイースター(復活祭)礼拝を私たちは献げました。
  主イエス・キリストが復活し、そのお姿を弟子たち始め、多くの人々に現わされたことで、イエス様が確かに神の子であったこと、そしてイエス様のお言葉と行いは、まさに神ご自身のお言葉と行いであったことが確証されました。
 復活したイエス様は天へ戻って行かれました。今、神のお姿、イエス様のお姿は私たちの目には見えません。しかし、神は聖書の言葉を神のお言葉として私たちに残して下さいました。
ですから私たちは今も、聖書の言葉を通して、神の御声を聞くことができ、神の御心を知ることができます。
ただ聖書は一人だけで読んでいると、自分に都合のよい読み方、自分の好みに合わせた読み方をしてしまう危険性があります。なにより、やはり一人だけで読んでいては分からないという箇所も聖書には沢山あると思います。

もともと聖書の御言葉は、その言葉が読まれて、そして読み上げられた言葉を人々が共に聞いて、分かち合うために、纏められた言葉です。
ですから私たちは、一人で聖書を読むことも大切ですが、他の信仰者と一緒に聖書の言葉を読み、分ち合う、そして教会の礼拝の中で御言葉を共に聴くことも大切にしていきましょう。
そうすることで、自分一人だけで読んでいては決して分からなかったような、多様で豊かな御言葉の解釈に触れることもできます。
そのようにして今年度、私たちは御言葉中心に、御言葉を拠り所として歩むという信仰を建て上げていきたいと私たちは願います。

 今年度は一年間をかけて、聖書全体を旧約聖書から新約聖書まで通して、礼拝のメッセージの中で私たちは取り上げていきます。
  新年度最初の主日礼拝の今日は、旧約聖書の最初の書物である『創世記』の冒頭、1章1節から5節の言葉を中心にして、主の御言葉を私たちは聞いていきます。
 1節の「初めに、神は天地を創造された」という文から創世記、そして聖書全体が始まります。神が天地の造り主である、と聖書は冒頭からはっきりと宣言するのです。
「初めに、神は天地を創造された」。この一文は非常に簡潔であり明瞭な文です。そしてこの文ほど、力強く、美しく、圧倒的な力を持って人間に迫って来る言葉はないのでは、と私には思われます。

すでにイエス・キリストを主と信じ、信仰を告白しておられるお方にとっては、ご自分が信じておられる神とは、天地を(万物を)お造りになった、まさに創造主なのだ、とうことを改めて思い起こさせるのが、この一文です。
聖書にまだそれほど馴染みのないお方にとっても、創世記冒頭のこの一文は、“世界のすべてを、宇宙を含む天地万物を造られた唯一のお方が確かにおられる”という真実を告げる言葉です。
この一文を繰り返し読み(聞き)、心の中で黙想(思いめぐらすこと)するならば、この一文が、人間の考えや感情から生み出された言葉ではない、ということが明らかになります。
創世記の最初のこの一文から、私たちは「聖書を通して、私たちは神の創造の物語(真実)を聞き、それを体験することになる」ということをも教えられます。
 神が天地を創造されたということを、いきなり聞くと、どのように受け止めてよいか分からず、戸惑うというお方もおられるかもしれません。
「天地を創造したという、その神ってどんな存在?」という疑問が浮かぶかもしれません。その疑問に対する答えは、聖書全体が、特に新約聖書の福音書と言われる書物を中心にして、答えを提供してくれています。

ですから私たちが聖書を読む(聖書の言葉を聞く)ということは、「神とはどのようなお方か」ということを、私たちが繰り返し聞き、学ぶという過程でもあります。
わたしたちが聖書の言葉、すなわち主なる神の言葉に立って生きていこうとするとき、私たちに求められるのは、私たちが心を開く、ということです。
私たちは人生経験を重ねるほどに、自分なりの経験や考え、また自分の実力や能力といったものも段々と身につけていきます。
時には、聖書が言うことが、その自分の考えや経験、自分の感覚とは相いれない、ということがあるかもしれません。
そのような時に、心を閉じてしまうのではなく、一旦心の扉は開けた状態にしておいて、「この言葉はどんな意味があり、私とどんな関係があるのですか」と言って、素直に神に尋ねる、また他の信仰者に聞いてみる、という姿勢を持つとよいと私は思います。
最終的に、神を信じ、神の創造の御業を信じることは、信仰によって与えられるものです。そして信仰は、私たちが自分自身の思いや考えに固執せず、ある意味自分を捨て、心開き、神を心の中に受け入れることによって、私たちに与えられます。

新約聖書のヘブライ人への手紙という書物の11章3節に次のように書かれています。

ヘブライ人への手紙11章3節
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

 信仰によって、神の創造の業を私たちは信じ、そして神が創造したこの世界の中に私たちは生かされているということの驚きと、その喜びを分かちあっていきましょう。
 創世記の冒頭である今日の箇所には、神が最初に言われた言葉が記されています。記念すべき神の第一声(私たち人間に伝えられている、という意味での第一声)は、「光あれ」let there be lightでした。

 3節「光あれ」

神の言葉によって光が現れました。神の光がない状態が2節に書かれています。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 神の光が無い状態は混沌(形なく、虚しい、秩序の無い状態)であり、闇です。しかし神はこの世界に神の光が輝くようにしてくださいました。
  混沌とした闇の中で私たちは生きていくことができません。秩序のない暗闇のなかで、私たちはどこへ進んでいけばよいのかが分かりません。
 しかし神は光をお造りになり、私たちに神の光に従って、その光の中を歩んで生きるようにしてくださいました。

  新約聖書では、この光について、次のように言われている箇所があります。
コリントの信徒への手紙二 4章6節です。

「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

 光とはすなわちイエス・キリストの光だ、イエス・キリストの栄光(神の栄光)の光だと、言うのです。
神は混沌と闇ではなく、光がある世界を創造されました。そして神は私たちひとり一人も、その光、すなわちイエス・キリストという光を心の中に頂いて生きる者となるように創造されました。
 イエス・キリストという光が、私たちに先立って進み、私たちがどこへ行けばよいのか、どう生きればよいのかを指し示してくださいます。
 キリストによって示される道を私たちが見ることができるため、私たちは聖書の御言葉を読んで、祈るのです。
祈りとみ言葉を通して、神すなわちキリストの光によって照らされる道を私たちが選び、その道を私たち共に歩んでまいりましょう。

 今日の箇所は創世記1章1~5節までですが、1章全体を通して神が世界のあらゆるもの、人を含む生きる物をも、神の定めた順序に従って創造されたことが描かれています。
  1章31節の前半に次のように書かれています。

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。

 聖書はこのように、神がこの世界のあらゆるものをお造りになり、そして神から見て、それらは全て“極めて良かった”と言うのです。
 神が造られたこの世界と、そしてその世界にあるもの、そこに住むものはすべて神が造られたのであり、それらはすべて神の目から見て“極めて良い”ということです。
 私たちの目には、私たちの住む社会や世界が、またそこで起きていることが良いものだとは思えないことも沢山あります。
 特に、人と人とが集団同士で、あるいは国同士や組織同士で争う悲惨な戦争が世界で絶え間なく続いている現実を見ると、そんな世界が極めて良い、とは信じられないこともあるとわたしは思います。
 ここで、今年度の私たちの教会の標語、そして関連聖句の詩編19篇8~9 (7~8 NIV)の言葉を聞いてみましょう。

「主の御言葉に立つ」
詩編19篇8~9
主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。

 詩編19編の該当箇所で、主の律法、定め、命令、戒めと書かれているのは、すなわち主の御言葉です。
 神の光はどこにあるのでしょうか。悲惨で残酷な現実で溢れているように私たちの目には映る世界の一体どこに、神の光と希望があるのでしょうか。
 それは、私たちが、私たち自身の考えや自分の目に見えることだけを通して世界を見るのではなく、主の御言葉(聖書の御言葉)を通して世界を見る時に、そこに神の光と希望があることを私たちは認めることができるようになります。
 私たちが主の御言葉に依り頼み、御言葉を頂く時、神の光が確かに世に輝いており、神の創造の業が“極めて良い”ものであることを認めることができるようになるのです。
 私たちが信仰によって、神の創造の良き業の一つ一つを認めることができるとき、その度に私たちの身の回りから、混沌ではない神の平和が造りだされていくのです。
 「初めに、神は天地を創造された」。この言葉は真実であり、希望です。
神が創造された天地、世界は“極めて良い”ものです。神が創造された世界に生きる喜びを、御言葉の光を通して私たちはいつも豊かに頂いてまいりましょう。

2024年3月30日土曜日

2024年3月31日 主日イースター礼拝

前奏
招詞 創世記2章7節
讃美 新生讃美歌 232番 カルバリ山の十字架につきて
主の祈り
讃美 新生讃美歌 240番 救いの主はハレルヤ
献金
聖句  ヨハネによる福音書2019~23
祈祷
宣教 「聖霊を受けなさい」
祈祷
讃美 新生讃美歌 241番 この日主イエスは復活された
頌栄 新生讃美歌 674番 
祝祷
後奏

 イエス・キリストの復活を記念し、お祝いするイースター(復活祭)の礼拝を今日私たちは献げています。
 イエス様は、人間の罪を背負い、その罪を赦すために、十字架に架かって死んでくださいました。
 それは神の子イエス・キリストにとっても、大変厳しく、苦しいことでした。
 「イエス様は神の子だったのだから、そして死んで復活することを知っていたのだから、十字架にかけられても怖くはなかったはずだ」という意見があります。

 しかし、わたしにはとてもそうは思えません。確かにイエス様はご自分が捕まり、十字架にかけられて死ぬこと、そしてその後に復活することを弟子たちにも前もって予告しておられました。
 しかし、それでもイエス様は、人々に捕らえられる前、ゲッセマネという所で必死に祈られました。マルコ福音書14章32節から42節までで描かれるその場面でイエス様は次のように祈っています。
 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)

イエス様は人となられた神です。イエス様は神でしたが、同時に完全に人間にもなられたのです。それはどう考えても、私たち人間では完全に理解することはできない不思議な出来事ですが、真実なのです。
 そのように、イエス様は神であると同時に完全に人でもありましたから、全ての人の罪を背負う(全く罪のない清いお方が、罪を背負うという経験をされる)という、その使命は、私たちが想像できないほどに辛く、苦しく、悲しい、重いものであったはずです。
 ご自分に課せられたその使命をイエス様は全うして、十字架の上では「成し遂げられた It is finished (NIV)」と言って、息を引き取られました。(ヨハネ福音書19章30節)

 聖書は、イエス様が十字架の上で、無残に殺されたその出来事をはっきりと伝えています。キリスト教会は、今現在にいたるまで、ずっと十字架を私たちの信仰を表わすものとして掲げ続けています。
 それは、「十字架の上で成し遂げられた、主イエス・キリストによる私たちの罪の贖いと赦しの業によって、私たちは罪赦され、生きるものとされた」という信仰を私たちがいつも思い起こすためです。
 イエス様が十字架にかけられたのは金曜日でした。それから三日目の日曜日の朝、主イエスは復活されました。

 今日私たちはイエス様の復活を心に思い起こして、復活の力と希望によって、新たに生かされる経験を、頂いていきたいと願います。
 今日の箇所は、イエス様が十字架にかけられて死んでから三日目の夕方でした。弟子たちがユダヤ人を恐れて、彼らは家の中にこもって戸には鍵をかけていた、と書かれています。

彼らがユダヤ人たちを恐れた、というのは、自分たちが先生として従っていたイエス様が十字架刑で処刑されたので、「自分たちも捕まってしまうのでは?」という恐れの中にいたのでしょう。
それは一体、どれほどの恐怖であったでしょうか。彼らは正に自分の命が奪われるかもしれない、という恐怖の中にいたのです。
そしてまた、彼らは自分たちがそれまで信じてきたことが、完全に打ち砕かれるという衝撃の中にもいました。肉体的な死も恐ろしいですが、大切にしていた精神や理想が死ぬ、ということも大変恐ろしいことだと私は思います。
彼らはイエス様の教えを信じ、そしてイエス様がいずれ彼らにもたらしてくださるもの(と彼らが信じていたもの)に全てを(命を)懸けていました。

それはイエス様が、やがてその圧倒的な力で、ユダヤを支配しているローマ帝国を打ち倒し、神の国を打ち立て、その時には、イエス様に従ってきた自分たちも高い地位に引き上げていただける、ということでした。
しかし、そのように信じてきたことは全て打ち砕かれ、もはや何の望みも彼らには残っていなかったのです。
「一体、私たちは今まで何を信じて生きて来たのだろう。これから、どうすればよいのだろう」と途方に暮れながら彼らは集まり、戸には鍵をかけて家の中で怯えていることしかできなかったのでしょう。
彼らが戸に鍵をかけていた、というのは、彼らの心が閉ざされてしまっていた状態をも表すと私は思います。
「もう何も信じられない」、あるいは「何も信じたくない」という思いで彼らの心の戸は閉じられ、自分の中に完全に閉じこもってしまっていたのです。
 今、私たちはどうでしょうか。こうして教会に集う私たちの心は開かれているでしょうか。私たちの心は主に対して、そして共に集う私たちお互い同士の間で心は開かれているでしょうか。
私たちはそうでありたいと願います。私たちは、どうしたら心を神に開き、また人に対しても開くことができるのでしょうか。
それは復活の主イエス・キリストを信じ、復活の主を私たちの只中にお迎えすることによって可能になります。わたしたちは、どのようにイエス様をお迎えしますか?

今日の聖書箇所では、戸を閉じていた彼ら弟子たちの真ん中にイエス様が来て、立たれました。
戸は閉まっていましたが、復活のイエス様は、全く新しい体に復活していたので、この世の物理的な障害には制限されずに行動することができたのでしょう。
 イエス様は彼らの真ん中に立たれました。本来、神は、私たち人に対して信じて信仰を持つようにと促すため、私たちの心の中に無理やり入ってくることは、なさいません。
 ヨハネの黙示録3章20節に、戸口に立って戸を叩くイエス様のことが次のように書かれています。
 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
 イエス様は私たちの心の戸の前に立たれ、戸を叩いて、私たちが内側からその戸を開くのを待っておられるのです。イエス様は無理やり私たちの心の中に入って来ることはなさいません。
 キリストが私のために死んでくださった、ということを信じて生きていくか、その真実を拒絶して生きていくか、を選択するのは私たち自身です。神はその選択を私たちに強制はされません。

 しかし復活日の夕方、イエス様は、言わば無理やり、弟子たちが鍵をかけていた戸をも通り越えて、弟子たちの前に復活したそのお姿を現されました。
 それは、主の復活が、弟子たちや人々の想像を全く越えた、神の御計画によることをはっきりと表わすためでした。
“主の復活から全く新しいことが始まる”、“神の主導権によってそれが始まる”ということが示されるため、イエス様は閉じられた戸を通って、弟子たちの前に姿を現されたのです。

 弟子たちの真ん中に立たれたイエス様が次のように言われました。
 「あなたがたに平和があるように」。イエス様が復活したのは、弟子たちに、そして私たちに平和を与えるためでした。
 平和とは、壊れた関係が回復(修復)されることです。心と心が結ばれた強い絆、豊かな関係性の中に再び迎え入れられるということです。
聖書は、最初の人であるアダムとエバが犯した罪のため、人は神から離れてしまったことを伝えています。原罪と言われるその罪を、私たちは皆背負っています。
しかし、その原罪を抱えたまま、神から離れたままで人が生きることを神は望まれませんでした。

神は、ご自分の独り子であるイエス・キリストを世に送り、御子の命に代えてでも、私たちを救いたい、と望まれたのです。
そのことは、何度でも、おそらく私が牧師でありキリスト者として生きる一生の間、繰り返し皆さんにお伝えし続けなくてはならないことです。
そして、弱く欠けのあるこの私でも、神のそれほどまでのご愛に少しでも応えて生きることができるように、そのように努力をしたいと私は願っています。その思いは、キリスト者である皆さんも同じはずです。

そして、まだイエス様を主と信じてはおられないお方も、やがて主を信じる告白へと導かれ、イエス様が十字架の上で死んでくださったので今の私の日々の命がある、という信仰へと導かれてほしいと、私たちは願っています。
復活したイエス様は私たちに、平和を与えてくださいました。もういちど、私たちから離れた(壊してしまった)神との関係に入るという平和です。
そしてもう一つ復活のイエス様が私たちに与えてくださったのは、喜びです。
イエス様は弟子たちにご自分の手と脇腹をお見せになりました。そこには釘と槍(やり)による傷跡が痛々しく残っていたはずです。その傷跡によって、弟子たちはそのお方が確かに彼らの主であることが分かったのです。
十字架にかけられて無残に死んだ(殺された)主が、確かに肉体をもって甦ったということが、その手と脇腹の生々しいその傷によって、弟子たちに確信されたのです。

弟子たちに、“人々は(自分たちも含む)イエス様を殺したけれども、この方の命を本当に奪うことは誰にもできない”ということが知らされたのです。
そこから大きな真の喜びが弟子たちに与えられました。主のお命を取ることは誰にもできなかった、そしてその主を信じる自分たちの命を取ることも、誰にもできないという喜びが沸き上がりました。

その喜びに、今の私たちも信仰によって与ることができるのです。

 イエス様は弟子たちに息を吹きかけて次のように言われました。
「聖霊を受けなさい。。。」

イエス様が彼らに息を吹きかけられたのは、新たな命が吹き込まれたことを表わします。
創世記で人が最初に神によって造られた時、人は神から神の息を吹き入れられて生きるものとなりました。(創世記2章7節)
復活のイエス様も、弟子たちに聖霊という命の息吹を与えてくださり、新たに生きる命を与えてくださったのです。
私たちも主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストに真ん中にいて頂く信仰によって、神の息、命の息である聖霊をいつも頂くことができます。

 主は復活されました。そして主の復活を信じて生きる者も、やがて主と共に復活します。

それはただの夢物語でなく、その希望を元にして私たちが今この地上での生の現実、厳しい現実を精一杯生きることができる力なのです。
 主イエス・キリストは復活されました。人間のいかなる邪悪な思いや悪の力も、主を完全に無き者にすることはできませんでした。
 私たちは毎週の日曜日、主が復活した日曜日に礼拝を捧げます。今日は特別なイースター礼拝ですが、毎週毎週の日曜日が、主の復活に私たちが共に預かる特別な一時です。
私たちは、共に礼拝することを通して、主に心を開き、また信仰の家族や隣人に対しても心を開いていきたいと願います。
私たちは、復活の主を信じ、復活の主イエス・キリストをいつも私たちの心の中に、この礼拝の只中にお迎えいたしましょう。
 そして「平和があなたがたにあるように」と弟子たちに言われたイエス様のお言葉を、今の私たちにも向けられた言葉だと信じ、主の平和が私たちの間で、そして社会と世界でも実現していくことを祈り求めていきましょう。
一度はご自分を完全に裏切った、本当に弱々しい卑怯な弟子たちを、イエス様は見捨てることなく、再び彼らの前に現れて、聖霊を与えて再び生かし、主の赦しを告げる使者としてくださったのです。
私たちも、主の赦しの御業、復活のイエス・キリストを世に宣べ伝える現代の使者として召され、遣わされています。その召し(calling)に、私たちは喜びをもって応えて参りましょう。

 イースター、おめでとうございます!イエス様、感謝いたします!

2024年3月23日土曜日

2024年3月24日 主日礼拝

前奏
招詞  イザヤ書53章5節
讃美  新生讃美歌 232番 カルバリ山の十字架につきて
主の祈り
主の晩餐
讃美  新生讃美歌 主の流された尊い血しお
献金
聖句  ヨハネによる福音書11章17~27節
祈祷
宣教 「わたしは復活であり、命である」
祈祷
讃美  新生讃美歌 321番 あだに世をば過ごし
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏

今週一週間は、キリスト教では“受難週Passion Week”言われる週です。イエス・キリストが十字架に架かって死なれた出来事を、キリスト者が特に思い起こす一週間です。
イエス様が十字架にかかるため、ゴルゴダの丘(処刑場のあった場所)へと向かって歩まれたその道のりも、私たちは覚えます。
キリスト教は、イエス・キリストが死から甦った、主の復活から始まりました。復活により、死は私たちにとって全ての終わりではなく、むしろ始まりであることが示されました。
「死ねば全てが終わり」という考えは、イエス・キリストの復活によって覆され、キリストの復活を信じる者は、死が新しい始まりであるという希望の中に生きることができるようになりました。

 そのイエス・キリストの復活を記念し、お祝いするイースター(復活祭)が今年は来週の日曜日の3月31日です。
 復活の前には、イエス様が十字架を背負って、ゴルゴダの丘と言われた場所で十字架刑に処せられた出来事がありました。
受難週が始まる今日、イエス・キリストのご受難とその復活について、改めて私たちは思いを巡らせ、聖書の御言葉から教えられていきましょう。
イエス様は、神の国を人々に伝え、多くの病人を癒したり、人々から悪霊を追いだしたりという業をしながら、やがてご自分が十字架に架かって死ぬ、ということをご存じでした。
福音書の中には、イエス様が生きておられた時に、主にご自分の弟子たちに、ご自分が十字架にかけられて死に、その後に復活すると予告をしておられたことが描かれています。

福音書では、イエス様は弟子たちに、ご自分が十字架にかけられて死に、そして復活することを三回予告された、と書かれています。
マルコ福音書の10章32節から34節に、イエス様がご自身の死と復活を三度目に予告した場面が、次のように書かれています。

32一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
33「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
34異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

イエス様ははっきりとそのように予告しておられました。イエス様が、祭司長や律法学者たちという、ユダヤ教の権力者たちに引き渡され、(最後はローマ帝国の権力によって)侮辱され、鞭打たれて、殺される、そして復活することは、イエス様に課せられた、天の父なる神からの使命であったからです。
しかし、弟子たちにはその意味がよく分からなかった、あるいは、そのことを受け入れるのを恐れた、あるいはペトロのように「主よ、そんなことがあってはなりません」と言って、イエス様に反対した、とも聖書には書かれています。
 神であり、救い主であるお方が、人間の手によって殺されるということは、普通に考えればおかしいことです。なぜ、神が人の手によって殺されなければならないのか?
 しかし、それが神がお定めになった、私たち人の罪が赦され、私たちが滅びの道から救われるための、神の御計画だったのです。

 イエス様はご自分の弟子たち以外にも、ご自分が復活することを予告したことがありました。それが今日の聖書箇所、ヨハネ福音書11章の、ラザロという男の人が死んだ場面です。
 ここでイエス様は、ご自分こそが復活であり、命であると明言をしておられます。
ここで亡くなったのは、ラザロという男の人でした。ラザロには、マルタとマリアという姉妹がいました。
イエス様は、ラザロたちと特に親しかったようです。11章5節には、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と書かれています。
11章の初めに、このラザロが病気になっていたことが描かれています。ラザロの病状はかなり悪かったようです。そしてその知らせが、人を通して別の町にいたイエス様にも伝えられました。
しかし、イエス様は、ラザロが病気だという話を聞いても、すぐにはラザロがいたベタニヤへ行こうとはされませんでした。
今日の箇所に書かれている通り、イエス様が、ラザロのところへやってきたのは、ラザロが死んでもう4日経ったときでした。

当時は、三日間の間は、死んだ(と思われた人)が生き返る(蘇生)可能性があると考えられていました。
しかし死後四日経っていたということは、ラザロは死んだということが人々によって確定させられていた、ということです。
19節には、ラザロの姉妹だったマルタとマリアのもとには大勢の人たちが来て、彼女たちを慰めていた、と書かれています。
最愛の兄弟を亡くしたマルタとマリアの悲しみに寄り添い、彼女たちの苦しみを和らげようと、多くの人たちが来ていたようです。

悲しい時、辛い時に、私たちはお互いに慰め合い、寄り添い合うことができるのは幸いだと思います。
家族を亡くした悲しみがそんなに簡単に癒されるものではありませんが、友人や知人からの心からの慰めの言葉は、私たちの心を確かに癒してくれます。
私たち教会の群れも、互いの悲しみと苦しみに寄り添うことができる、そんな信仰の家族でありたいと私は願います。
姉のマルタがイエス様が来られたと聞いて、迎えに行き、次のように言いました。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」
マルタは、先に人をイエス様のところへ行かせて、兄弟のラザロが病気であることを伝えさせていました。マルタは(妹のマリアも)イエス様がすぐに来てくれることを期待していたでしょう。

しかし、イエス様はすぐにはおいでになりませんでした。なぜイエス様がすぐにラザロの病を癒しにお出でにならなかったのか、という疑問をマルタは拭うことができなかったのでしょう。
ですから、「もしここに(あなたが)いてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言って、主イエスを非難する思いをマルタは隠すことができませんでした。
わたしたちも、神様に、“今すぐ助けてほしい”、“今すぐ、この問題や悩みを解決してほしい”と願っても、神の助けがすぐには与えられないことが、多くあると思います。
そんな時、マルタのように、神様を少しは非難したくなるように思う時が私たちにもあるかもしれません。
しかし、神には神の時と方法があります。私たちが聖書から教えられることは、神には私たちの思いを越えた最善のご計画がある、ということです。

私たちにとっては“神が来られるのが遅い。神の助けが差し伸べられるのが遅い”と思えても、神が備えてくださる最善の時と方法を私たちは信じたいと願います。
イエス様はマルタにお答えになりました。
「あなたの兄弟は復活する」(23節)
マルタは答えました。
「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)
  ユダヤ人の間では(全ての人ではありませんでしたが)、復活が信じられていました。イエス様も、これより以前のヨハネ5章28節~29節で次のように言っておられました。

28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、
29善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

マルタは、そのような復活があるということは聞いて知っていました。彼女がそれを“信じて”いたかどうかは分かりません。
マルタは、ただ“わたしはそれを知っています(存じています)”と言っているからです。マルタは復活を知識として知っていましたが、それが彼女にとっての本当の信仰にはなっておらず、復活の恵みについては分かっていなかったのだと思われます。
聖書に書かれていることを知識としていくら沢山知っていても、聖霊を通してその意味が明らかにされ、御言葉の力が本当に自分を生かすものになっていないのならば、それは信仰とは言えません。
私たちは聖書の言葉を聞き、御言葉を心に蓄えることで、御言葉が自分を支え、慰め、励ます本当の力となることを、経験していきたいと願います。そのようにして、御言葉によって信仰が成長させられ続けるのです。

イエス様がどのようにマルタにお答えになったか、聞いて見ましょう。(25~26節)

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
イエス様はここでは、「わたしは復活する」あるいは「わたしは生きる」とはおっしゃっていません。
イエス様は、「わたしは(が)復活であり、命である」とおっしゃっています。復活とは何なのか、命とは何なのか?その答えはご自身である、と言うのです。
イエス様ご自身が復活そのものであり、命そのものなのです。イエス・キリストにこそ、一度死んだもの、もう終わったと思われた状態に、新しい命を吹き込む力がある、ということです。
ですから、生きていてキリストを信じる者は、だれでも決して死ぬことがないのです。ここで言われる“信じる”とは、“キリストの中で生きる”という意味です。

聖書の言葉が、ただの知識としてではなく、聖書の言葉が本当に魂の糧となる時、私たちは生きます。
自分中心の生き方でなく、キリスト中心の生き方へ変えられることで、私たちはキリストの中に生きるものとなります。キリストの中に生きるとは、キリストの復活に与るということでもあるのです。
そのことを信じるか?とイエス様はマルタに向かって、そして私たちひとり一人に向けて、今も語りかけておられます。
 その問いかけに、「はい、信じます」と私たちは日々、新たな信仰をもって答えていこうではありませんか。
 受難週の今週、イエス様が私たちの罪の贖いのため、私たちが死んで滅びず永遠の命に生きることができるため、十字架にかかってくださったその犠牲の出来事に思いを馳せつつ、一日一日を過ごしてまいりましょう。

2024年3月16日土曜日

2024年3月17日主日礼拝

前奏
招詞  ホセア書6章6節
讃美  新生讃美歌232番 カルバリ山の十字架につきて
主の祈り
讃美  新生讃美歌227番  カルバリの丘へと
献金
聖句 ルカによる福音書6章1~11節
祈祷
宣教 「安息日にしてはならないこと」
祈祷
讃美  新生讃美歌 230番 丘の上に立てる十字架
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏

 今日の聖書箇所では、安息日(ユダヤ教の安息日:土曜日)に、イエス様と弟子たちが麦畑を通って行きます。 そこで、弟子たちは空腹だったのでしょう、麦の穂を摘んで、手で揉んで食べたのです。(おそらくイエス様も食べたのでしょう)
  その麦畑は誰かの所有物であったはずです。しかし、イエス様の弟子たちはその麦の穂を摘んで、揉んで食べました。
  それは、聖書の律法で許されていることでした。旧約聖書『申命記』23章25節~26節(24~25 NIV)に以下のように記されています。
 
隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。
隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。
これは、人が本当に空腹である時、他者(隣人)の畑の作物を取って食べてもよい、という戒めです。その畑の所有者も、空腹である隣人を助けることをよしとせねばならない、という神の戒めです。
 ただし、申命記のその戒めは「籠にいれてはならない」、「鎌を使ってはならない」と言って、本当に空腹を満たす以上に麦を取ることを禁じています。
 その戒めは、私たち誰もが、必要以上に欲しがるという貪欲の罪を抱えた者であること、必要以上に“貪る”という罪を犯し得る者であることを思い起こさせます。

 そのうえで、人は誰もが、本当に必要な食料、生きる上で必要な食料に不足してはいけない、そうならないように努めるのが共同体の務めであると、神がお定めになったのです。
 しかし、麦畑の中を通り、麦を取って食べていたイエス様の弟子たちの行動を咎めて(非難して)質問してきた人たちがいました。
ファリサイ派と言われた、聖書の律法を厳粛に解釈していた人たちが、麦を取って食べているイエス様の弟子たちに「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と聞いたのです。
 その日は安息日でした。安息日は、神によって定められ、イスラエルの民たちが代々守るようにと神によって厳格に定められた戒めでした。
  旧約聖書の『出エジプト記』の中で、神がモーセに十戒の言葉を告げます。十戒の中に安息日についての戒めが次のように記されています。

 出エジプト記20章8~11節 (Exodus 20:8~11)
8安息日を心に留め、これを聖別せよ。
9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

 十戒の中でも、安息日に関する戒めは、以上のように比較的多くの分量で、細かく定められています。
  ファリサイ派や律法学者と言われた人たちは、その戒めを厳格に守るために、何が(どのような行為が)“仕事”に該当するのか、ということを定めました。
  その定めには、“一日の間に歩くことが許される距離”というのもあったそうです。それは大体一キロメートルぐらいであって、それ以上の移動は“仕事”と見なされたと言われます。
 そして麦の穂を摘み、揉んで実を取り出すという行為も、それは“収穫作業”という労働だと見なされていたのです。
 ファリサイ派たちは、“なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか”と聞きました。
  彼らは「あなたたちは安息日を守らずに律法違反を犯している!」と言って、イエス様と弟子たちを非難したのです。

 ここでは何が起きているのでしょうか。ここで起きているのは、相手のことを思いやる共感力の欠如だと、私は思わされました。
  安息日の戒めについてはイエス様の弟子たちもよく知っていたはずなのです。イエス様は既に神の言葉を大勢の人に教えておられ、教師としての(そして病を癒す治癒者としての)評判が広く知れ渡っていました。
 イエス様と弟子たちが、重要な安息日の戒めと、その適用の解釈を知らないはずがありません。通常の“収穫”は安息日が禁じる労働に該当する、ということもイエス様も弟子たちも知っていたはずです。
  そうであれば、それでもなおイエス様の弟子たちがそこで麦を取って食べたというのは、彼らがそれほど深刻に空腹であったということです。
 ファリサイ派の人たちは、“なぜ安息日にしてはならないことをするのか”と非難して聞く前に、イエス様の弟子たちの様子、その空腹の様子を見て、彼らに同情(共感)することこそが必要だったのです。
 私はよく、人をその人の見た目、うわべだけで判断してしまい、心の中でその人を裁いてしまうことがよくあります。
 その人の事情を理解しようとせず、うわべだけで「自分とは違う」と断罪してしまうのです。

 ヘブライ人への手紙の13章3節に、次のように書かれています。
自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。

 “牢に捕らわれている人”、“虐待されている人”の本当の気持ちは、本当にそのような経験をしなければ分からないでしょう。
  それでも、そのような環境に置かれたら人はどうなるのだろう、と想像力を働かせることが私たちには出来るはずです。
  思いやりを共なった想像力を働かせることにより、人を簡単に裁く罪を犯すことがないようにしたいと私は願います。
  その人をうわべだけで判断せず、またできるだけその人の立場に立とうと心がけて、神が私たちに与えてくださった、人を思いやる心を失うことなく、人と接することができるようにと、私は祈り願います。
  イエス様はファリサイ人たちへの質問に対して、旧約聖書サムエル記上21章の中で描かれている、ダビデに関する出来事に言及して答えます。
  ダビデは預言者サムエルによって選ばれ、サウルに次ぐ王様として選ばれていました。しかしダビデはサウルに妬まれて、その命を狙われるようにまでなったので、ダビデは逃亡します。

 そしてアヒメレクという祭司のところへ、ダビデは行き、食べ物をくれるようにとアヒメレクに頼みます。
そこには聖別された(特別に取り分けられた)パンだけがありました。聖別されたパンは祭司でしか食べることを許されていないものでした。
しかしダビデはそこで、自分は王から遣わされてきたなどと嘘までついて、本来祭司でしか食べることを許されないパンを手に入れました。
 聖書は嘘をつくことを奨励しているのではありません。しかし、その時のダビデは、まさに生きるか死ぬかの状況であり、聖別のパンは祭司しか食べることを許されない、という規則も、ダビデという一人の人の命の前にはその効力を失うのです。
  今日の6節からの話も、安息日にして許されることと許されないことに関わる話です。イエス様は会堂に入って教えておられました。そこに一人の右手の萎えた人、右手が何らかの原因で麻痺していた人がいました。

 その人の右手が萎えているという状態は、いますぐ直さなくてはその人の命に関わる、という問題ではありませんでした。ですから、安息日にその人を癒すことは、緊急ではない医療行為という一つの“労働”だと見なされていました。
 そこで律法学者とファリサイ人たちが、イエス様がその右手の萎えた人を癒されるかどうかをじっと伺っていました。
  もしイエス様がその人を癒したら、“安息日に、緊急でない癒しの行為という労働をしている、律法違反だ!”と言って訴えようと彼らはしていたのです。
  確かに、見た目にはその人の症状は、今すぐ直さなくては命に関わる、というものではなかったかもしれません。
 しかし、右手の萎えたその人自身は、どのような思いで、その時いたのでしょうか。その人はそれまでに、どれほどの苦しみを、それまで生きて来なければならなかったのでしょうか。

  そのようなことを私たちが想像し、その人に共感することを、イエス様は今でも聖書を通して促しておられます。
 イエス様はその人の苦しみをご覧になり、その時すぐにその人は癒されなくてはならない、と思って、神の御子イエス様はその人をそこで癒されたのです。
  5節と、9節のイエス様の言葉をわたしたちは改めて確認しましょう。

「人の子は安息日の主である。」

「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」

 「安息日に何をしていいのか、してはならないのか」~そのように、宗教的規則を守るかどうかということだけが重要になると、そこからは安息日本来の恵みと喜びは失われます。
今日の箇所は、“戒め”、あるいは”宗教的な規則”、そしてそれらを守るとはどういうことか、ということがテーマになっている箇所です。

宗教に対して一般的に持たれているイメージは「色々な規則に縛られる生活」であるかもしれません。
 「礼拝に毎週行かなくてならない」、「献金しなくてはならない」、「聖書を読まなくてはならない」などなど。
 しかし、イエス・キリストに繋がる信仰者は、数々の“~しなくてはならない”という生き方ではなく、キリストによって神の子とされたという喜びに基づいた、自由な生き方が出来るようになります。

 キリストにある信仰者は何事にも自由に生きることができる者だと言えます。キリストにある自由、真の自由を頂いて生きることができる信仰者としての幸いを、私たちは改めて覚えましょう。
 安息日も、その他の神の様々な恵みも、私たちがそれらを通して神の愛と憐れみ、命の救いを得るためにあります。
 神から頂く安息の恵み、神から頂くその真の安息の恵みの中に生きる信仰を私たちは生きていきたいと願います。

2024年3月9日土曜日

2024年3月10日 主日礼拝

前奏
招詞 テサロニケの信徒への手紙一 5章9節
讃美 新生讃美歌 232番 カルバリ山の十字架につきて
主の祈り
讃美 新生讃美歌 105番 くしき主の光
献金
聖句 出エジプト記4章18~31節
祈祷
宣教 「エジプトへ戻るモーセ」
祈祷
讃美 新生讃美歌 255番 わが罪のために
頌栄 新生讃美歌 674番
祝祷
後奏

神がモーセに現れて、エジプトで奴隷生活を送りながら苦しんでいる同胞のイスラエルの民たちを、エジプトから導き出しなさいと、命令されました。
 そのころモーセは、ミディアンという地方で羊飼いとしての生活をしていました。約40年間モーセはミディアン地方で羊飼いとしての生活をし、年は80歳になっていました。
モーセは神の命令に従うことを何度も躊躇しましたが、神はモーセに数々の徴(しるし:奇跡)を見せて、イスラエルの民たちや、エジプト人たちもモーセの言うことを信じるようにと全てを備えてくださいました。
 そしてモーセは、ようやく神の言うことを受け入れ、エジプトへ行き、イスラエルの民たちを救い出すという神の御計画に仕えることを決意しました。

 モーセがそのような決心をして、最初にしたことが今日の聖書の箇所(出エジプト記4章18~31節)に書かれています。
モーセは、まず自分のしゅうと(モーセの妻の父)のエトロに「エジプトへ行かせてください」と言ったのです。
モーセは、ミディアン地方を離れてエジプトへ行く前に、そのことを初めに彼の義理の父親に打ち明け、彼の理解と許可を求めたということです。
モーセとエトロの出会いは、次のようなことでした。モーセは最初エジプトを離れてミディアン地方に来た時、井戸の傍に彼は座っていました。そこへ羊の群れに水を飲ませるために、ある祭司の7人の娘たちがやってきました。(出エジプト2章)

そこで羊飼いの男たちが、娘たちを追い払おうとしたので、モーセがその女性たちを救いました。
その娘たちの父がミディアン地方の祭司であるエトロでした。(最初彼の名前は、なぜかレウエルReuelと2章18節には書かれています。彼はレウレルとも呼ばれていたのかもしれません)。
モーセは、エトロのもとに留まる決心をしたので、エトロが娘のツィポラをモーセと結婚させました。
モーセが、神から「エジプトへ戻って、イスラエルの民たちを救い出しなさい」と言われた時、モーセはまず、同胞のイスラエルの人たちが自分の言うことを信じないだろう、と言って心配しました。

そしてまた、エジプト人たちも自分の言うことを信じないだろうとモーセは思い、躊躇していました。
しかし、今日の箇所の前までで、モーセが自分がエジプトへ戻ることに関して、義理の父親のエトロは何と言うだろうか、と心配していたことについては何も書かれていません。
しかしモーセは、今日の箇所の中で、「エジプトへ戻る」という決意を、最初に義理の父親エトロに伝え、彼の許可と理解を求めたのです。
モーセにとっては、義理の父親エトロは、とても大切な存在、もしかしたら肉親の父親同然の存在になっていたかもしれません。
エジプトから言わば、流れて逃げ出してきた自分を引き受け、世話をしてくれた、という恩義もモーセはエトロに対して感じていたのでしょう。

 モーセは、神に命令され、そして神によって不思議なしるし(奇跡)を見せられ、自分がエジプトへ遣わされていくことは確かに主なる神の意志だという確信がありました。
それでもなお、モーセは義理の父エトロにまずそのことを伝え、彼の理解を得て、エトロによって送り出して欲しい、と願っていたのでしょう。
モーセは「神に言われて、わたしが決めたのだから、義理の父親の言うことなど関係ない」とは思わなかったのです。
血のつながりはなくとも、それほどの絆がモーセとエトロの間には築かれていた、と言ってよいと私は思います。

 教会では、教会員同士、クリスチャン同士のことを“兄弟姉妹”と呼び合います。それは同じイエス・キリストの神を信じる者同士は皆が神の子供であるという信仰、そして私たちは同じ信仰によって結ばれた神の家族である、ということを表わします。
 私たちが今、同じ教会で出会わされている、信仰の家族とされているのも、モーセと義理の父エトロが出会わされたように、それほどに不思議な神の導きによる出来事です。
 そのようにして出会わされ、神の家族とされた私たちが、お互いに信仰の交わりと分かち合い、そして励まし合うことができる関係を少しでも深めていくことができればと私は願います。
 「エジプトに行かせてください」とモーセに言われたエトロは、モーセにたった一言「無事で行きなさい“Go, and I wish you well.」と応えました。たった一言ですが、義理の息子の平安を心から願う、エトロの気持ちがよく表れている一言であると思わされます。
 「無事で行きなさい」の一言の背後に、エトロが、モーセがこれから行こうとしている道を覚え、祈っている姿が想像されます。
 私たちも信仰者同士の繋がりの中で、お互いを覚えて祈り合うことができる、平安と心強さの中で日々を送ることができます。

 モーセは、エトロに送り出され、そして19節に書かれているように、主から「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった」との言葉を頂きました。
 そしてモーセは妻と子供をろばに乗せ、エジプトへ向かいました。
 今日の24節から26節には、大変奇妙な出来事が記されています。妻とこどもを連れてエジプトへ向かって旅立ったモーセを、途中で神が殺そうとした、というのです。
 神の言葉に従いエジプトへと向かったモーセをなぜ、いきなり神が殺そうとされたのか?その意味合いは、私たちには分かりません。
 ある解釈としては、モーセが息子に神の民であるイスラエル人としての徴(しるし)である割礼を施していなかったのが理由であると、言われます。
 『創世記』で、主なる神がアブラハムを召して、アブラハムは生まれ故郷を離れて神の示す約束の地へと旅立ちました。
 創世記17章で、神はアブラハムに「あなたは多くの国民の父となる」と告げ、アブラハムと彼の子孫も主の契約(戒め)を守るようにと命じました。
 その一つがイスラエルの民の男子が受ける割礼でした。それを一つの徴(しるし)として、神の民イスラエルと他の民たちとが区別をされたのです。
 モーセは長くミディアン地方に住み(また幼少期から成人するまでは、エジプトの王宮で育てられたので)、イスラエルの民にとって大切なこと、主なる神との契約について、その大切さについての理解が浅かったのかもしれません。

 神は(それにしても、モーセを殺そうとは、私たちの理解を越えた厳しさですが)、モーセ自身もイスラエルの民であり神の子であること、そして彼の子も神との契約とその恵みの中に生かされている者であることを思い起こさせようとしたのではないでしょうか。
 そこでモーセの命を救ったのは、何と妻のツィポラでした。ツィポラが息子の包皮を切り取り、割礼を施したことで、主はモーセを放されました。
 モーセの妻が、そこでモーセの命を救う役割を果たしたということです。もしツィポラがいなければ、そこでモーセが死んでいたかもしれない(おそらくそうなのでしょう)、と思うと、女性であるツィポラが果たした役割の重大さが、改めて私たちに知らされます。
 モーセの妻であり、女性であったツィポラは、当時の文化、風習では女性であるがために、非常にその立場は弱かったと思われます。
 しかし聖書は、ツィポラの咄嗟(とっさ)の判断と行動力が、後にイエスラエルの民たちをエジプトから導き出すという偉大な働きをしたモーセの命を救った、という大変重要な出来事を伝えているのです。
 モーセに比べ、妻のツィポラはその役割が小さく、重要でない、脇役のような存在では決してなかったのです。
 イエス様が話された有名な譬え話の一つに、一匹の迷い出た羊の話があります。
 ある人が100匹の羊を持っていて、もし一匹が迷い出ていなくなったら、その人は99匹を山に残しておいて、いなくなった一匹を見つかるまで探す、という話です。
 その人とは神様のことです。神は“100匹のうち1匹ぐらい、大切ではない”とは決して思われないお方です。

そのようなお方が私たちの神です。私たちひとり一人の存在も、そして私たちが果たすことができる役割も、神の前には等しく尊く大切なものだと、私たちは信仰によって信じることができます。
 私たち誰もが、神の前にかけがえのない存在です。今の私たちの教会の群れの中でも、誰もが等しく重要な役割を(たとえ、人の目にはそうは見えなかったとしても)神から託されている、ということを私たちは覚えたいと願います。
 ツィポラによって命を救われたモーセは、その次に荒れ野で、(神の山で)兄であるアロンに神の導きによって出会わされます。
 「話すのが苦手なあなたに代わって、兄弟アロンをあなたに私が遣わす。彼(アロン)に話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい」と神は既にモーセに言っておられました(4章15節)
そしてその通り、モーセはアロンに会うことができました。そして神の言葉の持つ力強さ、神の言葉は真実であり信頼できるのだ、ということをモーセは彼の実際の経験を通して、また家族など他者からの助けを通しても、段々と学んでいくことができたのでしょう。

 モーセはアロンと共に出かけて、イスラエルの人々の長老たちを全員集めます。そこで神の言われた通り、アロンが、主がモーセに語られた言葉をすべて語り、しるし(奇跡)も見せました。
 そこで「民は信じた they believed」と31節に記されています。神の言葉がイスラエルの人々に伝えられ、そして彼らはその言葉を信じたのです。
 私たちは、ここまで出エジプト記の物語を読み進めてきて、モーセに伝えられた神の言葉がアロンの口によってイスラエルの人々に伝えられるまでに、どれほどの出来事があったのかを知っています。
 モーセは、最初とにかく恐れて、躊躇して、神の言葉を人々に伝える役割を自分が担えるとは信じませんでした。
しかし、忍耐強く、憐み深い神が、最後はモーセが神の言葉を信じ、また神が彼に与えて下さる他者の助けをも信じ、困難な使命を果たすために一歩を踏み出す勇気を、モーセに与えてくださったのです。
神の言葉はそのように力があり、神の言葉は確かに真実です。神の言葉が私たちに力と勇気と希望を与え、日々を歩ませてくださいます。
そのような神の言葉が私たちには豊かに与えられています。信仰の助け手、神の家族も私たちには与えられています。
ですから私たちは、自分自身の弱さや疑い深さに囚われてしまうことなく、神の言葉の強さと豊かさに信頼し、信仰の日々を歩んでいきたいと願います。

2024年3月3日日曜日

2024年3月3日 主日礼拝

前奏
招詞  エゼキエル書11章9節
讃美  新生讃美歌232番 カルバリ山の十字架につきて
祈りの時
主の祈り
讃美  新生讃美歌134番 生命のみことば たえにくすし
献金
聖句  ルカによる福音書5章33~39節
祈祷
宣教 「新しいぶどう酒は新しい革袋に」
祈祷
讃美  新生讃美歌 656番 きみの賜物と
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏


今日の聖書の箇所で、人々がイエス様にある質問をします。
「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」
ヨハネとは“バプテスマのヨハネ”です。バプテスマのヨハネと言われた人は、イエス様に洗礼(バプテスマ)を授けた人でした。そのヨハネの弟子たちや、ファリサイ派の弟子たちは、度々断食をし、お祈りをしていました。

しかしイエス様の弟子たちは、同じ神を信じていながら、それほど断食をしているようには見えなくて、むしろいつも飲んだり食べたりしているという印象を、そのように質問した人たちは持っていたようです。
今日の箇所の前の箇所には、レビという徴税人が、収税所に座っていたところ、イエス様に「わたしに従いなさい」と呼びかけられて、イエス様の弟子になった話が書かれていました。
レビはイエス様にすぐに従い、そして彼は自分の家でイエス様のために盛大な宴会を催しました。イエス様に呼んでいただき、弟子となったことがレビはとても嬉しかったからです。
そしてその宴会には、他の徴税人たちや他の人々も大勢招かれていました。
当時、徴税人は、ユダヤを支配していたローマ帝国に協力する者として、仲間のユダヤ人たちからは裏切り者として疎まれ、憎まれる存在でした。徴税人は“罪人”と同様にさえ見なされていました。

 ファリサイ派や律法学者と言われた、聖書の戒律を厳密に(自分たちなりの)解釈をして、その通りの生き方をしようとしていた人たちが、罪人と言われた人たちと一緒に食事をしているイエス様を見て、次のように疑問を述べました。
 「なぜあなたたちは(イエス様と弟子たち)、徴税人や罪人などと一緒に食べたり飲んだりするのか」(ルカ5章30節)
 ファリサイ派や律法学者と言われた人たちは、徴税人や罪人とは一緒に食事しない、一切交際しない、と決めていました。罪人と一緒に食事することなど、彼らには考えられなかったのです。
 ですから、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に食べたり飲んだりするのか?(そうしないことが、正しいのに)」と疑問を述べました。
 イエス様は彼らに、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と答えました。
 そう言ってイエス様は、“自分たちは正しい”と思い込んでいるファリサイ派や律法学者たちに「あなたたちも含めて、全ての人が神の癒しと赦しを必要としている罪人だ」ということを教えようとされたのです。

 今日の箇所では、イエス様と弟子たちが徴税人や罪人とも一緒に食事をするし、断食もあまりしているようには見えないので、人々が心の中でイエス様たちのことを「この人たちは信仰的に劣った人たちだ」と思っていたのかもしれません。
 実際は、イエス様と弟子たちも断食をしていました。旧約の時代から、神を信じる人たちは、悲しみや苦しみ、また悔い改めの気持ちを表わすために、断食をしていました。
 イエス様自身も断食をされたことが記されている箇所が福音書の中にあります。それは、イエス様が公の伝道活動を始められる前に、荒れ野で悪魔から誘惑を受けた時のことです。

 ルカ福音書4章1~2節(マタイ4章にも、それが書かれています)に次のように書かれています。
1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

イエス様は40日間の断食をして、敢えてご自分をとても苦しい状態に追い込んで、悪魔の誘惑に、神の言葉(神の力)によって対抗しようとされたのです。
 イエス様は、ご自分の弟子たちにも、断食することを禁じたりなどはしておられませんでした。
 ただ、イエス様は断食をすることに関して、次のような注意を弟子たちに与えました。

マタイ福音書6章16~18節
16「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
17あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
18それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

断食には本来、食べ物を絶ち空腹の状態になることで、苦しみや悲しみ、また悔い改めを表わし、また空腹を通して、霊的に神の力を一層頂く、神への信頼を高める、という目的があったはずです。
 ところが、イエス様が指摘しているように、そのような霊的な目的から外れて、断食をすることが、“自分は敬虔で、信仰深いということを人に印象付けるためのパフォーマンス”になっていたのです。
 イエス様が“偽善者hypocrites”と言ったのは、イエス様が生きた当時のごく一部の特殊な人たちだけでなく、実は私たち誰もがそのような偽善者になり得ることを、私たちは心に留めなくてはなりません。
 自分自身を誇りたい、人から認められたい、という欲のために、私たちは自分の信仰さえも利用してしまう者であることを、今日の箇所から私たちは学びたいと願います。
 断食も、祈りも(イエス様は、別の箇所では、祈りについても偽善者のように言葉を多くして人前で祈らないように、とおっしゃっています)、神との関係を深めるための行為であり、決して人に自分の信仰深さを見せるための手段ではありません。
 イエス様は、断食や祈りの本来あるべき姿を弟子たちに教えました。ですからイエス様は断食自体を禁じたりは決してしていませんでした。

 しかしイエス様の弟子たちは、ヨハネの弟子やファリサイ派の弟子たちほどには、頻繁に断食をしていないように見えたので、人々は「なぜあなたの弟子たちは断食しないで、飲んだり食べたりしているのですか」と聞いたのです。
イエス様は次のようにお答えになりました。34~35節です。

34そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。
35しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」

 イエス様は譬えで答えておられます。花婿というのはイエス様ご自身のことです。
救い主イエス・キリスト、神であるそのお方が自分たちと共にいてくださるという喜びを、人々が本当に知っているかどうか、とイエス様はそこで人々に問いかけたのです。
私たちの罪を赦し、私たちと共に生きて下さる神がおられる(共に食事をしてくださる)、という喜びを前にしたら人はその時には、人は決して断食などはできず、むしろ盛大な宴会を開くものだ、ということです。
つまり、ここで問われていることは、「あなたがたは断食をしない、なぜか」と言いながら他者の信仰姿勢に疑問を投げかけるような人自身に、「あなたには本当に信仰の喜びがありますか」とイエス様は問いかけたのです。

その問いかけは、まさに今の私たちひとり一人に向けられています。時には断食もして、神からの霊的な養いを頂くことも意味があることです。
しかし、信仰の基盤として“神が共にいてくださる”、“イエス・キリストがこの私のために死んでくださったほどに、わたしは神に愛された”という喜びが本当にありますか、という問いかけを、私たちひとり一人が今一度真剣に受けとめなくてはなりません。
神のその呼びかけに、キリストにある最高の喜びを、私たちは今一度覚え、心からの感謝と喜びを神に献げようではありませんか。
 しかし、“やがて花婿が奪い取られる時”、すなわち主イエスが私たちの罪を背負って、私たちの代わりとなって十字架にかけられて死ぬ時がきます。
その時は、キリストの弟子たちは、心からの悔い改めである断食をも献げるでしょう、とイエス様はおっしゃいました。

 今私たちは、受難節(レント)の期間を過ごしています。主イエス・キリストが十字架への道を歩まれたその苦難を覚えて(実際に断食をするかどうかは別にして)、私たちは感謝と悔い改め(心を神に向ける)の時を過ごしていきましょう。
 36節以降で、イエス様はぶどう酒と革袋のたとえ話をしています。「誰も新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない」
 新しい布は、洗った時に、生地が縮みます。ですから、新しい服から切り取った布で古い服に継ぎを当てると、新しい服も無駄になりますし、洗った時にその布が古い服を引き裂いて、その古い服も駄目にしてしまうのです。
また新しいぶどう酒は発酵する時の勢いで古い革袋を引き裂いてしまう、という例もイエス様は挙げます。(革袋にぶどう酒を入れるという習慣がない私たちには、感覚的には分かりにくい譬えですね)

 この例えの意味は、イエス様は、全く新しい生き方と命を人にもたらすお方であり、イエス・キリストを信じる者は、イエス様に出会う前の古い自分のままではいられないと言う意味です。
古い生活スタイルを維持したまま、キリストの命を頂くことはできない、ということです。
 イエス・キリストを自分の中に受け入れると、自分の中心が自分ではなくなります。
自分の中心が自分であるならば、私たちは常に自分の正しさや自分の有能さを人に誇ることで、自分の価値を見いだそうとするでしょう。
 ですから、祈りや断食という信仰の行為さえも、自分を誇り自分を人に見せびらかす手段にしようとしまうのです。

 しかし、イエス・キリストを自分の心の中に受け入れ、キリストを本当に自分の中心とするならば、私たちはもう自分自身を誇ろうとする根拠を失うのです。そんなことをする必要がなくなるからです。
 キリストこそが崇められればよいのですから、キリストを信じる信仰者は、自分の行いや自分の能力を誇示することで、自分の存在価値を見いだそうとは決してしません。
 そうなれば、祈りも断食も、また私たちがこうして捧げている礼拝も、心からの喜びと、感謝の行いとなるはずです。その喜びは信仰の光となり、きっと私たちの周りをも照らすものとなるでしょう。
 私たちがキリストにある新しい命を喜んでいただいているのならば、私たちの献げる礼拝も感謝と喜びが溢れた礼拝となるはずです。そしてそのような礼拝には、自然と人々が引き寄せられて来るはずなのです。
 私たちは、イエス・キリストに出会い、キリストを信じ、キリストに心の中に住んでいただくことで、もはや古い自分のままでいることはできません。
 むしろ、主イエス・キリストによって私たちの古い“自分”という“古い革袋”は、打ち破られたのです。
キリストを中心とした生き方、キリストに導いて頂く新しい命の道を、私たちは歩んでいこうではありませんか。

2024年2月24日土曜日

2024年2月25日主日礼拝

前奏
招詞 ゼファニア書3章17節
讃美 新生讃美歌 26番 ほめたたえよ造り主を
主の祈り
主の晩餐
献金
聖句  コリントの信徒への手紙二1章23~2章11節
祈祷
宣教  「わたしの喜びはあなたがたすべての喜び」
祈祷
讃美 新生讃美歌 437番 歌いつつ歩まん
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏


 新約聖書の中の『コリントの信徒への手紙二』の一箇所から、今日私たちは神のメッセージを共に聞いていきましょう。
伝道者のパウロがギリシアのコリントという都市にあった教会の信徒たちへ向けて書いた手紙が、クリスチャンにとっての信仰の書である聖書の一部として、今も私たちに伝えられています。
パウロ、また他の人が書いた多くの手紙が、新約聖書の中には収められています。なぜ、一見すると大変個人的な事柄をも含む手紙が、聖書として残されたのでしょうか?
実際にはパウロたちが書いた手紙が、神から多くの人へ向けた、言わば“神の手紙”としての聖書として残されたのはなぜでしょうか?
聖書はこの箇所以外にも、実際には多くの人たち(神を信じる信仰者たち)の手によって書かれました。

彼らのうちの何人かは(あるいは彼らのうちのほとんどは)、自分が後に『聖書』として、キリスト者の信仰の書として、彼らが書いた文書が残るとは想像できていなかったかもしれません。
しかし、神は、信仰者たちの手を通して、神の言葉が聖書として記録されることを意図されました。
時には、その記録やあるいは手紙が、今日の箇所に書かれているような大変個人的と言いますか、人間的な内容である場合もありました。
それは、神が、当時の信仰者たちの実際の生活、彼らが直面した問題や悩み、苦しみのそのただ中で働いていてくださった(介入してくださった)、ということを表わします。
人間たちが生きる現場の只中で、神がどのように彼ら彼女らに関わってくださったのか、神がひとり一人の命にどのように関わってくださったのか、が実際には人によって書かれた文書から成る「聖書」となって、今の私たちにまで伝えられているのです。
コリント教会には色々な問題がありました。神は「そんな問題は私には関係ない。人間同士の間でそれらは勝手に解決しなさい」とはおっしゃらなかったのです。
聖書によって伝えられる私たちの神様は、私たちの生活のただ中に、私たちと共にいてくださいます。神は私たちが直面する色々な問題や悩み、苦しみに寄り添ってくださっています。

ですから私たちは、どんなことであっても、「神様は大変崇高で偉大なお方だから、こんな小さな私の問題などには関心をお持ちではない」とは思わず、何でも神の前に正直に申し上げてよいのです。
「私の生活のすべてにおいて、主なる神が導いてくださり、願わくは神の御栄光が私の生き方、私が生きるその現場で表されますように」と、キリスト者は願い、祈ることができます。

今日の箇所を読むと、パウロとコリント教会の信徒たちとの間に、何らかの問題と緊張関係があったことが分かります。
 今日の箇所の背景として、パウロは出来ればコリント教会へ行きたいと願いつつ、ある理由があってその訪問を延期していました。
 詳しいことは分かりませんが、今日の箇所ではパウロのコリント教会訪問延期の理由がある程度明かされています。
  今日の箇所の最初1章23節に次のように書かれています。

23神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。

 パウロは、彼がコリントへ戻ることを延期しているのは、彼自身のためではなく、コリント教会の人たちのためなのだ、「神を証人に立てて、命をかけて」主張しています。
 「あなたたちのことを思って、あなたたちのことを愛しているから」わたしは、今はコリントへ行くことを断念しているのだ、と言うのです。
 「わたしは神を証人に立てる」とは、ずいぶん大胆なことをパウロは言っているように見えます。
  しかし、これは「わたしが正しい事は、必ず神が証明してくださる」というよりも、むしろ「もし、私が間違っているのなら、神がその間違いを正して下さるように」という神の前での謙遜な姿勢だと私には思われます。

 次の24節には
24わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。

 コリント教会はパウロの伝道によって作られた教会です。いわばコリント教会の創始者と言ってもよいパウロですが、そんな彼であっても、教会の信徒ひとり一人の信仰を支配することは決してない、というのです。
  教会の創始者であり、指導的立場にあったパウロも、教会の信徒たちひとり一人と、神の前での立場は全く変わらず、平等であるということです。
 だから彼は、「(わたしたちは)あなたがたの喜びのために協力する者ですと言っているのです。
 そして「あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っている」と言って、キリストにある信仰に立っているコリント教会の信徒ひとり一人の信仰をパウロは認めています。
 現在の教会の私たちも、お互いの信仰を支配し合うような関係でなく(自分の信仰や信念を他者に押し付けるのではなく)、互いの喜びのために協力し、仕え合う関係でありたいと願います。
 そして「キリストの信仰に基づいてしっかり立っている」他者の信仰を、私たちは認め、互いに尊重し合いたいと願います。
  イエス様は、人々の病をお癒しになった時、よく「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。

  例えばマルコ福音書5章の中で書かれている、十二年間出血が止まらない病で苦しんでいた女の人をイエス様は癒されました。
 群衆の中、その女の人はイエス様の背後にそっと近づいて、イエス様の服に触れました。「この方の服にでも触れれば癒していただける」とその女の人はかたく信じていたからでした。
 その女の人は、ただちに病が癒されました。イエス様はその人に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいました。
 癒したのはイエス様です。イエス様は、「わたしがあなたを癒した。私があなたを救った」と言ってもよかったのです。しかしイエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言って、人間の側の信仰、神を求める気持ちを、認めてくださったのです。
  イエス様は、(そして今日の箇所のパウロの言葉も)、私たちがお互いの信仰を認め合い、信仰によって立っている兄弟姉妹同士が互いを尊重し合うことを、教えてくださったのです。

 少し長いのですが、2章1~4節までをお読みします。
1そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。2もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。
3あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。 4わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。

 詳しいことは推測するしかないのですが、パウロは聖書に残されているのとはまた別の手紙をコリント教会に向けて書いて送っていたようです。
 4節に、パウロはその手紙を「涙ながらに書いた」と書かれています。それはパウロがコリントの人たちに抱いている深い愛を知ってほしい、と彼が願っていたからでした。
  パウロはきっと、できるなら今すぐにでもコリントへ行って、教会の人たちと直接話し合って、誤解やその他いろいろな問題を解決したい、と願っていたかもしれません。
  しかし彼には“今は、まだ行くべき時ではない”という思いが神によって与えられていました。
 私たちも、願うことが中々思うように進まないことがあるかもしれません。ひょっとしたらそれは神が“今はまだその時ではない”と、私たちの忍耐を促しておられるからかもしれません。
 自分自身の思いや願いよりも、祈りと御言葉によって、また同じ教会の兄弟姉妹同士の祈りと対話によって、私たちは何をするにも、最善の時と方法を求めていきたいと願います。

 2章5節から11節までには、コリント教会の中で何らかの違反を犯した人に関することが描かれています。
 6節によれば、その人は既に何らかの罰を受けていたようです。パウロは7節~8節で「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください」と言っています。
 ある人が誰かに傷つけられた時、誰かから被害を受けた時、たとえキリスト者であっても、また教会であっても、安易に”人の罪を赦しましょう”と言うことはできないと私は思います。
 傷つけられた人の気持ちが癒され、その人自身が赦しへと歩み出すことを、他の人が強制することはできないからです。
  では私たちは今日の箇所、また聖書の他の箇所でも多く語られる“赦し”、また“赦しなさい”と私たちに命じられていることをどのように考えればよいのでしょうか。

 今日の箇所、7節で「その人を赦して、力づけなさい」は、「あなたたち」(複数形)と言って、教会に向けて語られています。”その人を赦して、力づけなさい”は、教会全体へ向けられた勧めということです。
  私たちは、キリストによって罪赦された者の集まりである教会として、また教会の一員として、共にこの”赦し”という行為をも、神から委ねられているのです。
  こうすれば人を赦せます、という簡単な答えは聖書を捜してもないと私は思います。
しかし私たちはまず、イエス・キリストの十字架によって、私たちの罪が赦された、という神からの大きな赦しを頂いていることを改めて思い起こしましょう。
すると、キリストから私たちが頂いた赦しを、他者に伝えるということが、私たちにはできるのではないでしょうか。

 今日の10節の言葉に、私たちの赦しについての大きな示唆(ヒント)があるように思われます。10節をお読みします。
10あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。

「(わたしは)キリストの前であなたがたのために赦し」と、ここでパウロは言います。
 これは“キリストが赦した”、そして“キリストが、私を通して、赦した”ということであると思います。
  愛と赦し、それらは神の御子イエス・キリストを通して私たちに豊かに与えられました。キリストの愛と赦しを与えられた私たちは、キリストの教会として、その愛と赦しをも他者へと分け与えていくことを、神から委ねられているのです。
 愛も赦しも、その源はイエス・キリストです。キリストに愛され、赦された喜びが教会全体で分かち合われます。
 私たちが共にキリストの愛と赦しに与る時、そんな私たちを通して、キリストの愛と赦しが私たち以外への他者へも広がることを願いつつ、信仰の生活を、一歩一歩私たちは歩んでいきたいと願います。

2024年2月17日土曜日

2024年2月18日 主日礼拝

前奏
招詞 レビ記19章2節
讃美 新生讃美歌 120番 主をたたえよ 力みつる主を
主の祈り
献金
証し
聖句  ルカによる福音書5章27~32節
祈祷
宣教 「罪人を招いて悔い改めさせる」
祈祷
讃美 新生讃美歌 321番 あだに世をば過ごし
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏


「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所にすわっているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた」という一文で、今日の聖書箇所は始まります。
 ルカ福音書5章の初めには、漁をしていた(魚を取る仕事をしていた)シモン(ペトロ)、シモンの仲間であったヤコブとヨハネがイエス様に呼びかけられて、彼らは「すべてを捨ててイエスに従った」と書かれています(ルカ5章11節)
 今日の箇所でも、ある一人の人(レビという名前の徴税人=税金を集める仕事をしていた人)が、イエス様に「わたしに従いなさい」と言われて、このレビもシモンたちと同様に「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」と書かれています(5章27節)
今日の箇所から、主イエス・キリストの神のメッセージを私たちは共に聞いてまいりましょう。

イエス様は、レビという名前の徴税人が収税所に座っているのを見ました。この時、イエス様は、このレビという人をどのようにご覧になった(見た)のでしょうか。
今日の箇所と同じ話がマタイ福音書9章にも記されています。マタイ福音書では、この徴税人の名前は“マタイMatthew”となっていて、マタイ福音書を書いたマタイと同じ名前であったことになっています。
彼の名前が、レビであったのか、マタイであったのか、あるいは二つの名前が記録されていますが、その人は一人の同一人物であったのか、正確なことは私たちには分かりません。
それらのことを知るために十分な情報と記録を、聖書は残していないからです。

しかし、当時“徴税人”と言われた人たちが、どのような人であったかについては、次のようなことが知られています。私たちの教会の聖書訳である新共同訳聖書の巻末の「用語解説」の「徴税人」の箇所に次のように書かれています。
「徴税人(ちょうぜいにん):ローマ政府あるいは領主(ガリラヤではヘロデ・アンティパス)から税金の取り立てを委託された役職。
異邦人である外国の支配者のために働くばかりでなく、割り当てられた税額以上の金を取り立てて私腹をこやすという理由で、ユダヤ人から憎まれ、「罪人」と同様に見なされた」

このような情報を元に、私たちも、「レビ、あるいはマタイもそのような人だったのだな」と想像します。徴税人は、ユダヤ人から見れば外国人であるローマの支配者のために働く裏切り者です。
レビも、正当な割り当て以上に、人々から(同胞のユダヤ人たちから)税金を取り立てて、私腹をこやしていた人、と私たちも想像するでしょう。
しかし、本当にレビはそのような徴税人だったのでしょうか。“当時の徴税人はこういう人たちだった”という記録があるのだから、レビもそのような人だった、と考えるのは自然でしょう。
しかし、レビが本当にそのような人であったのかどうか正確な事実は分かりません。ひょっとしたら、他の多くの徴税人は不当な利益を得ている中、このレビは、正当な割り当て分しか人々から徴収していない“真面目な”徴税人であったかもしれません。
私がお伝えしたいことは、私たちはその人がどのような人であるのかを考え、評価する時に、非常に表面的(一面的)な部分でしか、判断できないことが多いのではないか、ということです。
“一般にはこう考えられている”とか、“なんとなく、そういう噂が立っている”という理由や、一つや二つの出来事や印象で、私たちは簡単に人を判断してしまうことが(裁いてしまうことさえ)あるのではないでしょうか。

しかし、人間は複雑です。一人の人は色々な側面を持っています。“この人はこういう人だ”と一概に決めつけてしまうことが、いかに私たちの間を分断してしまうことに繋がりかねないか、ということを私たちは知っていると思います。
 私たち人間は、その限られた能力(偏見などがあわさって)人を正しく、そのままに見ること、そしてその人を受け入れることができないことがあります。
 しかし神はそうではありません。今日の箇所で、神の子イエス・キリストが、一人で収税所に座っていたレビを“見た”というのは、「神なるイエス・キリストは、レビという人をしっかりとご覧になり、神はレビがどのような人であったのかを全て知っておられた」ということです。
 神は私たちの事を全て知っていてくださっています。神は私たち人とは違い、人の内面、心の中まですべてを御存じです。

 旧約聖書の『サムエル記上』16章で、サウルという王様が神に従うことが出来ず、王位から退けられたので、サムエルと言う預言者が次の王を捜そうとする場面があります。
 主なる神はサムエルに、エッサイという人を招き、彼の息子たちの中から次の王を見いだすようにと導かれました。
 サムエルは最初、エッサイの息子たちの中で容姿のよい者を見て、“彼こそ王になる者だ”と思いました。
 しかし、主はそこでサムエルにこのように告げました。
 「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16章7節)

 そのような神の視点で、イエス様は徴税人レビをご覧になりました。イエス様は今も、私たちのことも、人が見るようにではなく、神の視点で見てくださっています。
 ですから私たちは安心していてよいのです。私たちがどのような状態であろうと、人からどのように思われていようと(誤解されていようと、あるいは過剰評価されていても)、神は私たちのことを正確に全てご存じであるからです。
 イエス様から見て、レビはどのような人だったのでしょうか。レビが実際にどのような徴税人であったのか、それは最初にも申し上げましたように、はっきりとは分かりません。
 “この人は、他の多くの徴税人とは違い、真面目で公正な徴税人であったかもしれない”と私は申し上げました。

 しかし、事実は逆で、このレビと言う人、他の徴税人たちとは比べ物にならないくらいの悪徳徴税人だった可能性もあるのです!
 イエス様は、レビに何と言ったでしょうか。イエス様はレビに呼びかけられました。
「わたしに従いなさい」。
 「わたしに従いなさい」、「わたしに従ってわたしの弟子となりなさい」とイエス様はレビに呼びかけたのです。
 それは、レビが良い人だったから(真面目な徴税人だったから)ではありません。それはまた、レビが悪い人(悪徳徴税人だったから)ではありません。

 レビがどのような人であったのかは関係なく、イエス様は彼に“わたしに従いなさい”と呼びかけたのです。レビがどのような人であったかには関係なく、レビはイエス様にとって、“わたしに従いなさい”と呼びかける、神の愛の対象であったのです。
それはつまり、私たち人は誰でも、イエス・キリストに従って生きるように召されている(呼ばれている)ということです。神の愛を受けて、神に従い生きるように私たち誰もが呼ばれているのです。
 そういう意味で、私たちは誰もが、レビであり、マタイです。イエス様は、私たちひとり一人に、“わたしに従いなさい”といつも呼びかけてくださっているのです。
 イエス様の呼びかけを私たちが聞いたのならば、私たちはそのお方の呼びかけに、従っていこうではありませんか。

 イエス様から「わたしに従いなさい」と言われたレビは、何もかも捨てて立ち上がり、イエス様に従いました。
 彼はとても喜んでいました。彼が喜んでいたということは、レビが自分の家でイエス様のために盛大な宴会を催したこと、そこへ徴税人やほかの人々が沢山招かれていたことからも分かります。
 幸せや嬉しいことは、そのように分かち合われるものなのです。”幸せは分かち合いたい”と私たちは思います。そのような心の思いも、神から私たちに与えられた賜物です。
 ところがその状況を喜んでいない人たち、徴税人たちと一緒にイエス様とイエス様の弟子たちも一緒に宴会の席についていることに疑問と不平を言う人たちがいました。
 彼らはファリサイ派や律法学者という、聖書の教えを厳格に解釈し、律法通りに“正しく”生きようとしていた人たちでした。(ここでも、最初に申し上げましたように、過剰な一般化を避けなくてはならないと思いますが)

 ここでファリサイ派や律法学者と言われた人たちは、“正しい生き方”をしようと努力していました。そのためには、徴税人のような罪人とは交わらない、ことに彼らは決めていました。
 彼らはイエス様の弟子たちにこう言いました。
 「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
 それに対しイエス様が次のようにお応えになりました。(5章31~32節)
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
 このイエス様のお言葉は、それを聞いたファリサイ派と律法学者たちには、どのように聞こえたのでしょうか。
 彼らにはその意味が分からなかったかもしれません。私たち(クリスチャン)も、このイエス様のお言葉の重みを、本当には分かっていないかもしれません。
 神から離れて、自己中心に生きていた私の罪を赦してくださり、この私と共に食事をしてくださる(共に食事をする、とは本当の意味で仲間になる、生活を共にする、という意味です)イエス・キリストが、私たちと共におられるのです。
 神の前に正しく生きている人には、イエス・キリストの救いは必要ありません。しかし、そのような人が果たしているのでしょうか。
 神の前に自分だけで正しく生きている人は一人もいない、というのが、聖書信仰、キリスト信仰の根幹です。
私たち誰もがイエス様の「わたしに従いなさい」という呼びかけを聞き、キリストを信じて従っていかなくてはならないのです。

キリストのその呼びかけに従って生きる時、神と共に生きるという真の喜びと平安が与えられるのです。
 イエス・キリストが十字架につけられて死に、そして復活した後、復活のイエス・キリストに出会い、キリストの福音の伝道者へと変えられたパウロは次のように言いました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。(テモテへの手紙一 1章15節)

「わたしはその罪人の中でも最たる者です」~この告白は、キリスト者としての信仰の一つの大きな到達点であると言ってよいと私は信じます。
 「わたしはその罪人の中でも最たる者です」~これは自分と他者を比較して生まれた言葉ではなく、キリストを一心に見つめ、キリストの愛と赦しが本当に分かった時に、信仰者はそのようにしか告白することができない言葉であると思います。
 「わたしに従いなさい」と言うイエス様の呼びかけに、私たちは日々従ってまいりましょう。そして私たちと共に食事をし、共に生きて下さるイエス様の恵みを、私たちは心から喜ぼうではありませんか。

2024年2月10日土曜日

2024年2月11日 主日礼拝

前奏
招詞  コリントの信徒への手紙二 12章9節
讃美  新生讃美歌 215番 暗いゲッセマネ
主の祈り
献金
転入の証し
聖句  出エジプト記4章1~17節
祈祷
宣教  [神が用意なさるしるし]
祈祷
讃美  新生讃美歌 297番 主によりてあがなわる
頌栄  新生讃美歌 673番
祝祷
後奏

旧約聖書の『出エジプト記』の中から、今日私たちは神のメッセージを共に聞いてまいります。
 主なる神は、モーセという人を選び、モーセを指導者として、イスラエルの民たちを彼らが奴隷生活を送っていたエジプトから導きだそうとされました。
 今日の聖書箇所でモーセは、神に向かって「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言っています。
“彼ら”とは、エジプト王ファラオをはじめとするエジプト人たちのことです。この前に神はモーセに「あなたがエジプト王のところへ行き、イスラエルの民たちを率いてエジプトを出ることを、彼に申し出なさい」とおっしゃったのです。

神が直接モーセに現れ、モーセに語り、「わたしがあなたと共にいる」と約束して、はげましてくださっているのにも関わらず、それでもなおモーセは躊躇いたしました。
 モーセは何をそこまで恐れているのでしょうか。確かに、エジプトの王様とは大きな(絶対的な)権力者です。
 それほど力を持った人の前に出ること、まして「イスラエルの民たちをエジプトから脱出させてください」と言って、その王にお願いすることは、大変な勇気を要することだったでしょう。
 しかし、神がモーセと共におられたのです。モーセが神の偉大さと強さに目を留めることができたのならば、彼はここまで恐れ躊躇して神の命令を拒むことはなかったはずです。

にも関わらず、モーセは何をそこまで恐れていたのでしょうか。
 モーセが恐れていたことの一つに、“変化”というものがあったと思われます。考えて見ますと、モーセはそれまで40年間羊飼いとして生活していました。

 モーセが望んでそのような生活をしたわけではありません。不思議な運命によって、ヘブライ人の家に生まれたモーセは、エジプトの王女に引き取られてエジプトの王宮で育つことになりました。
 しかしモーセが40歳の時、彼は同胞である一人のイスラエル人を助けるつもりで、その人を虐げていたエジプト人を打ち殺してしまいました。
 そのため、エジプト王に命を狙われ、モーセはエジプトを逃れてミディアン地方で結婚し、子供ももうけて、彼はそこで羊飼いとしての生活を送るようになったのです。
 ミディアン地方でのモーセの40年間の生活がどのようなものであったか、詳しいことは聖書には書かれていません。

 モーセのミディアン地方での羊飼いとして(また、夫、父親として)送っていた40年間を想像すると、苦しいこともあったでしょうか、きっと幸せなことも沢山あったでしょう。
 モーセにとっては、ミディアン地方での羊飼いとしての生活こそが、彼にとっての安定であり幸福となっていた、と私たちは想像してもよいと思います。
 そんなモーセに対する神の命令は、彼(モーセ)の慣れ親しんだ生活をすべて捨てることを要求するものでした。それはモーセの生き方自体に、大きな“変化”を求めるものでした。
 やはり私たちは安定した、慣れ親しんだ状態に留まるほうが安心です。色々な意味で、“変ること”にはエネルギーを要します。

 しかし私たちは、もし神がそう望まれるのならば、そして神が導いてくださるのならば、慣れ親しんだ安定したものよりも、変化を恐れずに受け入れることができるものでありたいと願います。

 そしてモーセがそれほど変化を恐れたのは、慣れ親しんだ生活から離れるということ以外に、もう一つの要因もあったと思われます。
 それはモーセの年齢です。モーセはエジプトの王宮で育てられ、40歳の時に、エジプトを逃れてミディアン地方へ行き、そこで40年間羊飼いとしての生活を送りました。
ということは、今日の聖書箇所で、神がモーセに現れて、「エジプト王のところへ行き、イスラエルの民たちを率いてエジプトを離れる、と彼に言いなさい」と命令された時、モーセは80歳だったことになります。

「この年齢になって、これほど多くのイスラエルの民の指導者となるなど私には無理です。エジプト王のところへ行って、王を説得することなど私には無理です」とモーセが思っても無理はないと思います。
しかし、高齢であっても、神が用いて下さるのであれば、それは弱点というよりも、むしろ強みになるのです。
今日の箇所で、躊躇するモーセに神が「あなたが手に持っているものは何か」と尋ねます。モーセが手に持っていたものは杖でした。
モーセが杖を持っていたというのは、モーセが高齢であることを表わす、一つの象徴でもあると思います。
神は、モーセにその杖を地面に投げるようにと命じました。すると杖は蛇に変わり、モーセは驚いて飛びのきます。
神がモーセに、手を伸ばして蛇(杖から変わった)の尾をつかめと命じて、モーセがその通りにすると、蛇は元通りの杖にかわりました。

神は、「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる」と言われました(5節)。
神の力によって杖が蛇に変わる、それが一つのしるしとなって、“神がモーセを遣わされた”ことが明らかになる、と言うのです。
ここで、神がモーセに見せた最初の“しるし”が、モーセが持っていた杖を用いてなされたことは、意味深いことだと思います。
老いの象徴である杖さえも、つまりモーセの高年齢も、神に用いられるのならば、それは大きく用いられるということです。
モーセにとっては高齢であることが、神の命令に従うことに躊躇する理由の一つであったと思いますが、私たちは、私たちが弱点だと思うことさえも、神にそのまま差し出してよいのです。

私たちが自分の弱ささえも、神の御前に差し出すのならば、私たちの思いを遥かに超えて、神は私たちの弱さをも大きく用いて下さることを信じて、信仰生活を歩みたいと願います。
 神はその次に、モーセの手を彼の懐にいれさせ、その手を重い皮膚病にかからせ、モーセがもう一度手をふところに入れて戻すと、手は元通りになるというしるしもお見せになりました。
 神はまた、9節で、それら二つのしるしをもエジプト人たちが信じない場合には、さらにナイル川の水が血に変わるというしるしも用意してくださっていました。
 神は、私たちに必要なものを全て、用意してくださっているのです。必要なものを必要な時に備え、与えてくださる神に信頼して私たちは信仰生活を歩んでいきたいと願います。

 しかしモーセは、それでも、それほど多くのしるしを主なる神が用意してくださっていたにも関わらず、まだ神に従うことができずに、神の召しを拒みます。
10節のモーセの言葉をお読みします。

10それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」

 モーセは、「わたしはもともと話をするのが得意ではありません。話すのが苦手なんです。あなたはエジプト王のもとへ行って話をしろ、と私に命じますが、それでも依然として私は口下手です」と言ったのです。
 ここには、自分自身の能力の限界を自分で定めてしまい、“これは私には出来ません”と言って、神が用いようとしてくださっている自分自身を過小評価してしまう、私たちの姿が表されていると私は思います。

 そこで主はモーセに次のように言われました。
11主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。
12さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」

私たちには、私たちが思う以上のことが、主の助けと主の導きによって出来るのです。
何をするべきか、何を話せばよいのか、主ご自身が語るべきことを私たちに教えて下さると、ここで約束してくださっているのです。
 モーセが神の命令に従うことを、これほどまでに躊躇する本当の理由は、それはモーセが自分自身を信じられなかったからだと私は思います。

 自分はもう若なくない、自分にはそんな能力はない、等と思って、モーセは自分自身が信じられなかったのです。
 ここで大切なことは、“自分自身が信じられない”状態で留まるのではなく、私たちは自分よりも神を信じるということです。自分自身よりも、この私たちを用いて下さる神を私たちは信じることが大切なのです。
 私たちが自分自身や自分の能力しか見ないで、自分だけを信じようとする限り、そこには結局限界と失望しかありません。
 しかし、私たちが自分を見るのではなく、この私を用いてくださる神の偉大さを認め、神に依り頼む時、私たちには私たちの想像を超えた、大きな事が(神の力によって)可能になるのです。

 イエス様が次のように言っておられます。ヨハネによる福音書14章12節です。
 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。

 主なる神、主イエス・キリストを信じる時、私たちはイエス様のなさったような偉大なお働きをすることができるようになるのです。
 それほどの力を私たちに与えてくださる神を信じ、神に頼りつつ、私たちは信仰生活を歩んでいくことができるのです。

 実は今日の箇所では、それでもまだモーセは神に逆らい「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」と言いました(13節)
 これにはさずがの神も怒りを発したと、14節に書かれています。しかし、神は限りない愛のお方です。
モーセにそのように怒りながらも、神のおっしゃったことは、「話すことが不得意なあなたのために、雄弁なあなたの兄弟アロンをわたしはあなたに遣わす」でした。
神は、モーセの兄弟アロンを、彼に代わって話すパートナーとして、お遣わしになることを約束してくださいました。
モーセは神の代わりとなり、神の言葉をアロンに託し、そしてその言葉を託されたアロンが人々にその言葉を話す、というように、彼らは互いに助け合う信仰の兄弟(仲間)として、神によってそこで引き合わされたのです。
わたしたちも、信仰の道を一人で歩むのではありません。伝道活動も、私たちは決してひとりで行うのではありません。
それぞれが神から与えられた賜物を最大限に活かしあい、お互いに尊重し合いながら、互いに支え補い合って、私たちは信仰生活を歩み、神の国を広める伝道活動も行うのです。

教会は、そのような信仰の兄弟、信仰の家族の集まりです。私たちは、まさに神がアロンをモーセに引き合わせてくださったように、助け合うべき信仰の家族として、同じ教会の兄弟姉妹が与えられています。
神によって備えられたこの信仰の家族の一員として、お互いを私たちは尊びつつ、私たちは信仰生活をこれからも共に歩みたいと願います。

2024年2月3日土曜日

2024年2月4日 主日礼拝

前奏
招詞 詩編32篇5節
讃美 新生讃美歌 94番 われらは主の民
祈りの時
主の祈り
献金
聖句  ルカ福音書5章17~26節
祈祷
宣教 「イエスはその人たちの信仰を見た」
祈祷
讃美 新生讃美歌 296番 十字架の主イエスを仰ぎ見れば
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏


 聖書の中のお話には、色々な人間が登場します。人間は本当に様々で、人それぞれ皆違います。
 そのように違った人々が、色々な出来事を通して、神様の恵みと教えを受けて、変わっていく様子が聖書には描かれています。
 ある人達は神様の前に、自分の罪を自覚して悔い改めます。ある人達は、真の神様に出会ったことに感動し、新たな信仰を頂きます。
 しかしある人達は、神を信じることをせず、かたくなな自分自身という殻の中に留まった人たちも登場します。

 今日の聖書箇所(ルカ5章17~26節)の話の中にも、色々な人たちが登場します。まず、イエス様です。イエス様は、人々に神の国について聖書を通して教えておられました。
 そしてファリサイ派と言われた人々と律法の教師たちがそこに(イエス様がおられたところに)座っていた、と書かれています。
 ファリサイ派、そして律法の教師と言われた人たちは、当時の聖書(旧約聖書)の内容をよく学び、研究し、聖書に書かれたその戒めに厳格に従って生活をしていた人たちでした。
 イエス様はそこで、神の国について教えながら、人々の病気も癒しておられました。ですから、どれぐらいの病人がそこにいたのかは、この箇所には書かれていませんが、病気を抱えた多くの人たちもそこにいたと考えられます。
 そして一人の中風を患って床の上に寝たきりだった人がいました。そしてその人をイエス様のところへ連れて来た人たちがいました。(この箇所と同じ話が書かれたマルコ福音書の2章では、“4人の人”がその中風の人をイエス様のところへ連れて来たと書かれています)

 中風とは、脳卒中のような病気の後遺症で、体が麻痺して動かなくなる病気であったと言われます。
 中風を患ったこの人の、おそらく友人か家族だった人たちが、その人をイエス様のところへ連れて行こうとして、必死だったことが分かります。
その人たちは何と、家の中にあまりに人々が沢山いて、イエス様のいる家の中にその人を運び入れることができなかったので、屋根に上って瓦をはがしたというのです。
そして人々の真ん中にいたイエス様の前に、その病人を上から床ごと吊り降ろしました。聖書の話に馴染みがある方は、この箇所を何度も読まれたことがあると私は思います。
中風の人を連れて来たこの人たちの行動は、あまりに衝撃的です。いくら必死に、その人をイエス様のところへ連れて行きたかったと言っても、屋根に上って瓦をはがすとは、無茶苦茶です。

もし今私たちの教会に、人が一杯で入口から普通に入ることが出来なかったので、屋根に上って天井を壊す人たちがいたら、私たちはどうするでしょうか。
おそらくそうなる前に、その人たちを私たちは必死に止めるでしょう。
 イエス様は、そんな彼らを見て、どう思われた(どのように言った)のでしょうか。
「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」と20節に書かれています。
私たちの常識では考えられない行動をその人たちはしています。しかし、イエス様の視点で見ると、その人たちのその行為は“信仰的”であったと言うのです。
それは、その人の病が根本から癒されるには、イエス様のお力がどうしても必要であり、しかも“今、この時”その中風を患った人はイエス様にお会いしなくてはならない、という確信がその人たちに与えられていたということです。

そうでなければ、「こんなに人が多いのだら、今日は諦めて、また次の機会に出直そう」と思うことも、その人たちはできたはずです。
しかし、なぜだか分からないけれども、“今、この時を逃したならば、この人が救われる時はもうこないのではないか”という思いが、神様からその人たちに与えられていたのではないでしょうか。
 この人たちも、屋根に上って瓦をはがすということには当然躊躇したと私は思うのです。しかし、はがした瓦は元に戻すことができる。壊れてしまったところは、あとで直せばよい。
 人たちから怒られたら、必死に謝ればよい(?)。しかし、イエス様に出会い、その教えを聞き、癒しと救いを頂くタイミングは今しかない、そんな直観がこの人たちに与えられていたのではないでしょうか。

 神の霊(聖霊)の導きによって、私たちにも‟今がその時だ”という促しが与えられる時があるかもしれません。
 「今が神を信じる時だ」、「今が、この決心をする時だ」、「今が、あの人に神様のことを伝える時だ」、あるいは「今が、あの人を教会にお誘いする時だ」等々。
 もしそのような促しを受けたのならば、私たちは神を信頼し、神の力によって、その促しに従い、その事を実行していこうではありませんか。
 イエス様は、その人たちの信仰を見て「人よ、あなたの罪は赦された」とおっしゃいました。
 イエス様の言われたそのお言葉は驚くべき一言でした。イエス様以外にも、病気を癒す賜物を持ち、人々の病気を治していた人たち(あるいは医者)は、いたでしょう。

 イエス様が、人々の病気を治している間は、何も問題はないのです。それは普通の人間でもできる行動と能力の範囲内であるからです。
 しかし、罪を赦すことは、神にしかできないことです。律法学者やファリサイ派の人たちが、ここで心の中で考えたという“ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができようか”と21節に書かれているのは正しいのです。
 “あなたの罪は赦された”というこの文章は、文法的には“受動態”です。人の罪は、誰か他のお方によって赦されなくてはならないのです。
そしてそれは、律法学者やファリサイ派の人たちがここで言っているように、神のみが、人の罪をお赦しになることができるお方です。
 はじめに、”聖書には色々な人々が登場する”と私はもうしあげました。中風の人を、イエス様に会わせたくて、すなわちそのお方が特別な力をお持ちであると信じ、イエス様のところへ来た人たちがいました。
 そしてイエス様が“あなたの罪は赦された”と言ったのを聞いて、「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と言った(そしておそらく怒った)、律法学者やファリサイ派の人たちがいました。

 正確には、彼らは心の中でそのように考えた、と今日の箇所には書かれています。イエス様は神の子でしたから、彼らがそのように心の中で考えていたこともお分かりになりました。
 そしてイエス様はこう言われました。

 「何を心の中で考えているのか。
23『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
24人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」

 もしイエス様が「起きて歩け」とだけ言って、その中風の人が癒されて立ち上がって歩いたのならば、それで話が終わっていたら、どうなるでしょうか。
 おそらく、その中風の人は歩けるようになり幸せ、周りの人もイエス様を“この人は素晴らしい癒しの賜物をお持ちだ”と称賛して幸せ、誰も嫌な思いをせずに幸せであったでしょう。
 しかし「あなたの罪は赦された」と、神でしか言えないことを言うならば、特にファリサイ派の人たちや律法学者たちから激しく非難されることは避けられないことでした。
 しかしそれでもイエス様は、最初から「あなたの罪は赦された」とその中風の人に言ったのです。
なぜなら、“罪の赦し”こそが一番大切であり、その人が、また実は私たち誰もが必要とするものであったからです。

 罪の赦しとは、神から離れて自分中心に生きていた生き方、神に背いて生きていた生き方を赦され、神との関係の中に再び迎え入れられるということです。
 神との間にそのような平安を頂いていないのならば、たとえ病気が治って体は健康になっても、根本的な魂の問題として、人の罪は残ったままなのです。
そのままでは、あなたたちはいつまでも、どこかいつも不安で、魂に安らぎがないままに生きることになる~それがイエス様が伝えようとしたメッセージでした。
 しかし、人の罪を赦す権威をお持ちのお方を認め、そのお方、すなわちイエス・キリストを信じて生きるのならば、罪赦されたという真の平安が与えられるのです。
 イエス様が、人から激しく非難され、結局最後はそのためにご自身の命さえ失うことになっても、必死になって伝えてくださったそのメッセージを、今日私たちは改めて頂き、信じようではありませんか。

 イエス様は、そう言った後に、その中風の人に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。
 罪を赦す権威をお持ちのお方が、その権威をお持ちであることが、そこにいた人たち(特にファリサイ派や律法学者たち)にも分かるように、「立って歩きなさい」と命じられたのです。
 するとその人はすぐに皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げて、神様を賛美しながら家に帰っていきました。
 自分が歩けるようになったことも、その人はもちろん嬉しかったでしょう。しかし、この人は“神様を賛美しながら”家に帰っていきました。
 人が神の御業を見て、神の恵みに喜ぶとき、その人はこのように神を賛美するようになるのです。神に感謝し、神をほめたたえるようになるのです。

 私が牧師としていつも切に願っていることは、教会に集う皆さんが、礼拝を終えて教会を後にする時、皆さんの家へ戻って行かれるときに、神様を賛美するようになることです。
 御言葉の恵みを礼拝を通して豊かに頂いて、新しい週の歩みを神様を賛美しながら歩んでいってくださればと、私は心から願っています。
 今日の箇所の最後の26節を読みますと、そこにいた人々は皆大変驚き、その人たちも神を賛美し始めました。
 神への信仰が多くの人々の間で起こされたのです。神の恵みの御業を見て、中風の人が、罪の赦しの宣言を受けて、そして実際に立ち上がり、神を賛美しながら帰って行った様子を見て、他の人々も皆、神を信じ神を賛美するようになったのです。
 ここでファリサイ派、律法学者と言われた人たち、“神を冒涜するこの男は何者だ”と言った彼らも、ここでイエス様による神の業を見て、主を信じ、神を賛美する者になったと、私は思います。
 そのことは、はっきり書かれていませんが、“皆驚き、神を賛美し始めた”のですから、ファリサイ派や律法学者たちも(少なくとも、彼らのうち何人かは)、神を賛美する者へと変えられたはずです。

神の御言葉を聞き、神の御業を見ることによる喜びが、私たちの間でも分かち合われているでしょうか。神の御業により、私たちも変えられているでしょうか。そうであればと、私たちは願います。
「あなたの罪は赦された」と宣言してくださるイエス様のお言葉を信じ、そのお言葉に従うその時に、最高の喜びが神の恵みを通して、私たちに与えられるのです。

2024年1月27日土曜日

2024年1月28日 主日礼拝

前奏
招詞 イザヤ書25章1節
讃美 新生讃美歌 80番 父の神 われらたたえる
主の祈り
主の晩餐
献金
聖句  コリントの信徒への手紙二 1章12~22節
祈祷
宣教  「神は真実な方です」
祈祷
讃美 新生讃美歌495番 主よ み手もて
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏

 今日の聖書の箇所は、新約聖書の『コリントの信徒への手紙二』の1章の中の一部分です。パウロというキリスト教の伝道者が、ギリシアのコリントという都市にあった教会の信徒たちに宛てて書いた手紙です。
 コリント教会は、パウロの伝道によって立てられた教会でした。『使徒言行録』Actsという書に、パウロが初めてコリントへ行った時の様子が記されています(使徒言行録Acts 18章)。
 使徒言行録の17章では、パウロがコリントへ行く前に、ギリシアのアテネへ行ったときのことが記されています。そこでパウロはアテネの哲学者たちを相手に、イエス・キリストこそが主である、ということを熱心に伝えようとしました。

 最初はパウロの話を興味深く聞いていたアテネの哲学者たちも、パウロの話がイエス・キリストの復活に及ぶと、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言って、パウロを嘲笑い去って行った、と書かれています(使徒17:32)
アテネの哲学者たちは、パウロの言うことの大切な部分(キリストの復活)を真剣に聞こうとはしませんでした。
 しかしそのアテネでも、パウロの言うことを信じた人たちもいた、と記されています。同じ福音を聞いても、信じる人と信じない人がいます。同じ話を聞いても信じる人と信じない人とに分かれるのは、不思議です。
 聞いたその時は信じなくても、時間が経ってから、ずっと後になってから信じるというケースもあります。人が主イエス・キリストを信じ、受け入れるのには、そのために(神によって)備えられた時とタイミングがある、ということなのでしょう。

 ですから私たちも、伝道の結果がなかなかすぐには現れなくても、家族や友人、知人へ伝道しても、なかなか信じてくれない、教会に誘っても来てくれない、そのようなことがあっても、神が備えられた時があると私たちは信じ、伝道活動の結果については、神に委ねていきましょう。
 私たちが福音を信じ、福音をイエス・キリストの愛を持って伝えるならば、その働きが神の前に無駄になることは決してないのです。
 福音に生き、福音を伝える働きに仕えることができる幸いに、私たちは感謝したいと願います。
パウロは、アテネの後にコリントへ行きました。パウロはコリントでも、そこにいたユダヤ人たちから激しく反抗されたりと、大変な困難にあいました。

しかし、コリントではパウロの言葉を聞いて、多くの人々がキリストを信じ、洗礼(バプテスマ)を受けた、とも使徒言行録18章に書かれています。
多くの人が信じ信者になったと言っても、この時はまだコリントには、(おそらく、パウロが訪れた他の都市でも)一つの大きな集会所(教会の建物)はありませんでした。
人々は、各自の家や講堂など、人が集まることができる場所を見つけて、礼拝をしていたそうです。
 イエス・キリストの福音は人と人とを結び付け、共に集まって神を礼拝する集会が、そのようにしてあちらこちらで生まれました。

  今のように教会の建物がない状況では、今の私たちには分からない色々な苦労が、人々が集まって礼拝する時にあっただろうと想像されます。
 今私たちには、立派な教会の建物が与えられています。礼拝や集会をするための、この素晴らしい教会が、神からの賜物として私たちに与えられていることを、改めて私たちは感謝したいと願います。
 またこれからもこの教会堂を大切に維持、管理していく(それも福音宣教の働きのため)責任も、私たちは自覚をしたいと願います。
今日の箇所の最初に書かれているのは、伝道者としてのパウロの行動は「人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきた」ということでした。

 「人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきた」―そのことをパウロの良心も証しし、それが彼の誇りでもある、というのです。
 この言葉から分かることは、キリストを信じる信仰を通して私たちは、“誇り”を得られるということです。
 その誇りは自分に根拠を置いた誇りではありません。キリスト者が得られる誇りは、人間の思いや知恵、人の努力や行動を越えた、神の真実と神の恵みに基づく誇りです。

ここでパウロは、自分たち(パウロと、彼を助けて伝道の働きをしたパウロの仲間たち)の行動を誇っているように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。
彼の誇りの源泉は、あくまでキリストを通して彼を救い、新しい命に生まれ変わらせてくださった主なる神です。
私たちも、キリストを信じるならば、そしてキリストによって生まれ変わり、新しい命を頂いたのならば、私たちは常に自分自身ではなく、主なる神を誇るようになるのです。
そして主が私たちに与えて下さる恵みの下にいつも行動できるようになります。主の恵みによって私たちは生かされ、何ものをも恐れなくてもすむ強さも、主の恵みによって頂けるのです。

コリントの教会は色々な問題を抱えていました。信徒同士の間でグループに分かれての論争や、キリスト者としていかに生きるかという信仰の実践面でも色々と意見の対立がありました。
それら一つ一つにパウロは対処しながら、信者がキリストにあって一つになることの大切さをパウロは語り続けました。
人が集まれば必ず問題がおきます。それは教会でも同じです。しかし、問題が起きることが問題ではありません。問題が起きたときに、その問題にどう向き合うのかが、問題です。
 教会で仮に問題が起きたとして、私たちが人間的な思いや人間の知恵ではなく、聖書を通して示される神の純真と誠実、神の恵みに感謝をして、問題の解決に向けて努力できるかどうかが、大切です。

 ある問題がすぐには解決できなくても、たとえ時間はかかっても、イエス・キリストの恵みと福音は常に変わらず私たちと共にあるのですから、キリストの恵みをいつも頂きながら、私たちも、困難なことがあっても、共に信仰生活を共に送ってまいりましょう。
パウロは、今日の箇所で、コリントの教会の人たちから、あることを理由にして非難されていたようです。
 15~17節に書かれていることから推測すると、パウロはコリント教会を一度離れてから、すぐにまた彼らのところへ戻って来る予定にしていたのに、その二回目の訪問ができなかった(延期した)ということがあったようです。

パウロはそのことについて何と述べているでしょうか。18節~20節をお読みします。

18神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。
19わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。
20神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。

 少し分かりにくい表現もされているとは思いますが、パウロは自分たちが語った言葉、すなわち彼らが宣べ伝えたイエス・キリストは常に“然り”(その通り)だと言うのです。
 パウロはある事情のために、コリントをもう一度訪問するという予定を変更する必要が生じました。そのことでパウロを非難する声がコリント教会の人々から上がりました。
そのような非難に対しても、パウロは変わることのないイエス・キリストを堂々と指し示し続けることによって応答したのです。
細かな理由や言い訳でなく、全てを主に委ねて、イエス・キリストを指し示しつつ、パウロは応答したのです。

 パウロも含め、人間は弱く、罪深い存在ですから、必ず間違いを犯すことがあります。
しかし、そのような私たちに、決して変わることのない(そのお方において神の約束がすべて実現した)イエス・キリストが、私たちには与えられています。
 繰り返しますが、私たち人はいつでも間違いを犯し得ます。間違いを犯した時には、それを認め、反省することが大切です(それがなかなか難しいことですが)。
 しかし、神の子イエス・キリストにおいては、既にすべてが“然り”となったのです。キリストにおいて示された神の約束は永遠の真実であり変わることがない~この事には、わたしたちは常に確信を置くことができるのです。

 20節に「わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。」と書かれています。
 「アーメン」とは、“その通りです。真実です”という意味で、私たちはイエス様を通して、イエス様のお名前によって、“神の御心がすべて成就しますように。必ずそうなります”と唱える(祈る)ことができるのです。

そのようにして、いつも私たちは真の主なる神を、讃えることができるのです。
 今日の箇所の最後の21~22節に次のように書かれています。

「21わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。
22神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。」

 私たちは、いつもイエス様と固く結び付けられています。神が私たちをイエス様に固く結び付けてくださっているのです。ですから何ものも私たちをイエス様から引き離すものはありません。
神は私たちの心にも“霊”を与えて下さり、私たちがキリストのものとされ、キリストの福音に与ることの保証としてくださっています。
 私たちの神は真実お方であり、神は決して変わることがありません。イエス・キリストにおいて成し遂げられた救いの出来事は永遠に有効、真実なのです。
その神から与えられた、イエス・キリストによる確かな希望の内に、今週の日々も信仰の道を歩んでまいりましょう。

2024年1月19日金曜日

2024年1月21日 主日礼拝

前奏
招詞 ミカ書6章8節
讃美 新生讃美歌 81番  父なるわが神
主の祈り
献金
聖句 ルカによる福音書5章12~16節
祈祷
宣教 「主よ、御心ならば」
祈祷
讃美 新生讃美歌494番  わがたましいを愛するイエスよ
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏


 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書の中の、全身に重い皮膚病を患った人が、イエス様にある願い事をする、という場面です。「重い皮膚病」は以前までの訳では「らい病」と訳されていました。
英語訳では”leprosy”(らい病)と訳されていますが、その欄外に説明されているように「“らい病”と伝統的に訳されてきたギリシア語の単語は、皮膚に影響する様々な病気に対して使われていた」というのが事実です。
この人がイエス様を見ると、イエス様にひれ伏して、こう願いました。

「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」
 
「主よ、御心ならば、(あなたは)わたしを清くすることがおできになります」とは、この人が、イエス様をどういうお方であるかを告白している、一つの信仰告白であるとも言えます。
イエス様は多くの病人たちを癒したり、人々から悪霊を追いだしたりしていましたから、この人もイエス様の噂を人から聞いていたのでしょう。
 この重い皮膚病にかかった人は、そのイエス様を見て、ひれ伏し“主よ”と呼びかけて、“わたしを清くしてください”と願ったのです。それはその人が信じる信仰を表わしていました。

 信仰とは何でしょうか?神を信じるとは、どういうことでしょうか。
神を信じる信仰とは、聖書に証された主イエス・キリストを自分の主、救い主として信じ、主に自分の全てを委ねる、ということです。
 そして信仰とは「神は何でもおできになる」と、神の全能を信じることでもあります。
 この重い皮膚病を患っていた人は、「あなたがそうお望みならば、わたしを清くすることがおできになります。あなたはそういうお方です」と言って、主であるお方を前にして、そのお方を信じるという信仰を告白したのです。

そしてこの人は「御心ならばif you are willing」と言って、あくまで主権は主であるイエス様にあることを認めています。そしてその上で「わたしは清くなりたいのです」という彼自身の希望もはっきりと述べたのです。
祈りとは、このようなものです。“御心ならば”と言って、神は私たちにとっての最善をご存じである、と信じつつ、“私はこう望みます”とはっきりと望むことを私たちは神に申し述べてよいのです。それが祈りです。
 この人が言った“清くなる”とは、まず彼の病気が治る、ということです。

 旧約聖書の『レビ記』13章に、当時の皮膚病の診断の方法、祭司がその皮膚病の人の患部を観察する方法が記されています。
患部を観察した結果、その人が「清い」のか「汚れている」かを、その症状によって判断する方法が、そこで細かく記されています。
 それには当時の医学的な知識が反映されているのかもしれません。おそらく感染の可能性を考慮して、症状によってはその人が隔離されねばならないことなども定められています。
 症状が治れば“清い”、治っていなければ“汚れている”と祭司によって宣言されることも定められています。
しかし、そこで“清い”、“汚れている”とは、あくまでその皮膚病の症状に基づいた判断であって、その人が神の前に罪を犯したかどうかという意味での清い、汚れている、ということではなかったはずです。
 しかし、だんだんと人々は、重い病気、あるいは障害は、その人、あるいはその人の家族の誰かが神に対して罪を犯した結果の罰だと、考えるようになっていきました。

 今、水曜日の祈祷会ではヨブ記を読んでいます。ヨブは神を畏れる正しい人で、悪を避けて生きていました。
しかし、ある時サタンが神と対話をします。サタンは、「ヨブが信仰深く生きているのは、神がヨブに豊かな富や家族を与えているからだ」と言いました。
すると神は、サタンがヨブに試みを与えることを許しました。その結果、ヨブの子供たちは災害で皆死んでしまい、そしてヨブ自身も全身ひどい皮膚病に侵されました。
神の前に正しく生きていたヨブが、サタンの試みのため、子供を失い、ひどい病に侵されたのです。
 ヨブ記は、人間の苦難について私たちに様々に考えさせる信仰の書です。いずれにしても、ヨブの重い皮膚病が、彼自身の罪とは関係がなかったことは明白です。

 しかし、ヨブの友人たちは、ヨブに「あなたがそのような災難に遭うのは、あなたか、あなたの子供たちが罪を犯したからだ」と言ってヨブを責めるのです。
 病気や障害が、誰かの罪の結果であるとは、それは人間には断言できないこと、分からないことなのです。
ある災害や病気、その他不幸な出来事が、私たちが犯す間違いや罪の結果だとは、私たち人には誰にも断言できないし、他者のことをそのように断罪すべきでない、ということです。

 重い皮膚病を患ったこの人は“主よ、御心ならば、わたしを清くすることができます”とイエス様に願いました。
 この人は、病気も苦しかったでしょう。しかし病気以上に、その病気のために“汚れている”と言われ続け、人が共に住む共同体から疎外されていた、という状況が一番つらかったのだと思います。
 “自分は重い病気を患っているけれども、それでも(いや、むしろそのような苦しみを抱えているからこそ)主であるあなたから見てわたしは清い、尊いのだと、教えてください”、とこの人は心から願ったのです。
 イエス様は手を伸ばしてその人に触れました。重い皮膚病の人に触れるとは、当時誰もしなかったことです。人は誰も触れようとしなかったその人に、イエス様は手を差しのべてその人に優しく触れたのです。
 もし今、誰からも理解されない、自分は疎外されている、とお感じの方がおられたら、この人に触れた優しいイエス様の御手が、私たちにも差し伸べられていることを、信じていただきたいと私は願います。

そしてイエス様は“よろしい、清くなれ”とその人におっしゃいました。するとその人の重い皮膚病はすぐに癒されました。
 この人が、他の人は何と言おうとも、彼のことを“汚れている”と言おうとも、「このお方の御心ならば、わたしは清くなれる」と信じ、そう願ったからこそ、この人は癒されたのです。
 私たち人が祈らないと、神は私たちの願いや必要なことを叶えてくださらないのでしょうか。あえて言うならば、その答えはイエスです。
 私たちが祈らなくても、私たちにとっての最善、私たちが本当に望むものを、神は全てご存じです。
しかし、私たちが、自分は何を望むのかということを真剣に考え、望み、それを神に向かって願い、祈ること、そして祈りが神に聞かれるという経験をするならば、私たちは神への信仰と感謝を増すことができます。

祈りが聞かれる経験を通して私たちの信仰の喜びと感謝が増し、そして神との関係を、私たちは更に喜ぶことができるようになります。
そして私たちは、祈りが聞かれる経験を重ねることで、私たちの祈りを聞いてくださる神のことを、他の人にも知らせたい願いと意欲がさらに湧いてきます。
 私たちが祈りの課題を他の信仰者に祈ってもらうことも、私たちの信仰の絆を強めることに繋がります。他の人に祈ってもらうことで祈りが聞かれた、という経験を通して、お互いに祈り合うことの喜びと感謝が増すからです。
 そのように、真剣な祈りを通して、神への感謝と信仰、私たちお互いの間の信仰の絆を私たちは強めていきたいと願います。
 イエス様は、その人の皮膚病が癒された後、「誰にも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」と言われました。

レビ記13章には、皮膚病の症状によって“清い”、“汚れている”と判断する基準が記されている、と最初に申し上げました。
レビ記14章には、症状が治って“清い”とされた人が、清めの儀式で献げ物をすることが定められています。
イエス様は、その人に、当時の律法通りに祭司に自分を見せて、清くなったことを証明してもらい、清めのための献げ物をしなさい、と命じました。
 つまりイエス様はその人に、“信仰の共同体、他の人と共に生きる共同体の中に戻って行きなさい”と命じたのです。
 この人が願ったことは”清くなること“でした。それは病気の癒しだけでなく、そのために外の人たちから隔離されていた状態から、人の群れの中に戻るということでもありました。

この人が願った通りのこと、そして私たち誰にとっても必要な‟他者と共に生きる”生活の中へ、この人は帰っていくことができたのです。
イエス様がその人に“誰にも話してはいけない”と命じられたのは、病気が治るという奇跡的な側面(見かけ上のこと)だけが強調されて人に伝わることをイエス様は恐れたのでしょう。
しかし、イエス様のうわさはますます広まり、大勢の群衆が集まってきました。
しかし、イエス様は人里離れた所に退いて祈っておられた、と今日の箇所の最後の節に書かれています。

 イエス様は、一人静まって天の父なる神に祈るときをいつも大切にしておられました。大勢の人たちが押し寄せてきて、一人静まれる場所を確保することはイエス様には難しいことだったと思います。
 しかし、イエス様は、父なる神への祈りの時間を大切にされ、神の御心をイエス様自身が知ることも大切にされました。
 そして天の父なる神との親密な時間、祈りの時を通して、イエス様自身が神の御愛を豊かに受けておられたのでしょう。だからこそ、イエス様は無限の愛を多くの人たちに、わたしたちに与えることができたのです。
神の御子イエス様にとっても、愛と力の源泉であった神への祈りの時、神との時間を私たちも大切にしてきましょう。
そして私たちの願いを、御心に沿って、必ず聞いてくださる父なる神がおられることを共に信じ、共に神を礼拝する時を、私たちは大切にしていきましょう。
 そのようにして育まれる神への信仰と感謝、お互いに祈り合い、共に礼拝することの喜びを私たちが本当に経験するのならば、そのような私たち教会の姿を通して、イエス・キリストの神はますますあがめられ、キリストの福音は私たちの周りへと拡がっていくのです。

2024年1月13日土曜日

2024年1月14日 主日礼拝

前奏
招詞 ヨハネによる福音書8章29節
讃美 新生讃美歌 260番 み言葉もて霊の火を
主の祈り
献金
聖句  出エジプト3章13~22節
祈祷
宣教  これこそ、とこしえにわたしの名
祈祷
讃美 新生讃美歌 86番 輝く日を仰ぐとき
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏

 今日の聖書箇所は、旧約聖書の『出エジプト記』3章の後半部分です。エジプトの王宮で育ったヘブライ人モーセは成人した後、同胞(仲間)のヘブライ人をかばおうとして、エジプト人を打ち殺してしまいました。
 その事が王のファラオにも知らされ、ファラオがモーセを殺そうとしたので、モーセはエジプトから逃げて行かなくてはなりませんでした。
  モーセは彼自身の正義感から、仲間のヘブライ人を助けようとしたつもりであったでしょう。
しかし、相手のエジプト人を打ち殺すというその行動は、モーセ自身の傲慢さ、まるで自分が神であるかのように振舞う、罪の行為でした。
それでも神は、モーセに逃れの道を用意してくださっていました。モーセが新しい生き方を始める道を神が用意してくださっていたのです。

モーセはミディアンという地方へ逃れていき、そこで結婚し子供も与えられました。
 そして出エジプト記3章の初めで、神がモーセに現れ、モーセに「エジプトで奴隷として苦しい生活を送っている、わたしの民(イスラエルの人々)をエジプトから導きだしなさい。わたしがあなたをファラオのもとに遣わす」と言われました。
 神にそのように命じられたモーセは次のように答えます。聖書箇所としては今日の箇所のすぐ前の3章11節です。
 「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
モーセは躊躇したのです。彼はエジプト王のファラオという絶対的な権力を持つ者の前へ行き、イスラエルの人々を導き出すということに、恐れおののいたのでしょう。
「わたしは何者でしょう。なぜわたしがファラオのもとへ行き、イスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と言って恐れ、躊躇するモーセの姿は、実は私たち全ての人間の姿を現しています。

 モーセの最初の疑問は「わたしは何者でしょうWho am I?」でした。この疑問に対して、私たちは何と答えるでしょうか。私たちは自分が何者(何)であるかを、知っているでしょうか。
私たちが聖書を通して知らされることの一つは、“自分は何者であるか”ということです。わたしたちは、自分は何者であるか、を聖書を通して、そして神との関係の中で見いだしていきます。
モーセは、自分がイスラエルの人々を率いて、エジプトから脱出させるような大変な役割を果たせるとは、到底思えませんでした。
モーセは仲間のヘブライ人をかばうためとは言え、あるエジプト人を殺してしまい、エジプトから逃げなくてはならなかった彼の過去に、ずっととらわれてしまっていたのかもしれません。

モーセはそのために、“私はずっと、私にとってはこの異国の地で、隠れるようにして一生を過ごして一生を終えるのだ”と諦めたような気持ちで日々を過ごしていたのかもしれません。
しかし、神はモーセに新たな別の計画を持っておられました。神はモーセを選び、モーセによって(それはあくまで神の力ですが)イスラエルの民たちを、エジプトから救い出そうとされたのです。
モーセは、とても自分にそのようなことができるとは思えませんでした。しかし神は、「私は必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」と言われました。(12節)
“神が共におられる”、“イスラエルの人々は、あなた(モーセ)の背後に主なる神が共にいることを認める”、それが確かに神がモーセを遣わしたしるし(sign)、証拠だと神はおっしゃったのです。
 私たちの教会は、新しい年(2024年)の歩みを始めています。今年神はどのようなご計画を私たちの教会にお持ちでしょうか。

 また神は私たちひとり一人にどのようなご計画をお持ちでしょうか。神の道が私たちに示された時、私たちも今日の箇所の中のモーセのように躊躇してしまうかもしれません。
 私たちも自分で自分の能力の限界を設定してしまって、神が私たちに与えてくださっている豊かな賜物を見いだすことができず“私には(私たちには)できません”という思いにとらわれてしまうかもしれません。
 しかし、神がわたしたちと共におられます。それは今も決して変わることのない約束です。神の御心、神の御計画を祈り求めて、そして示された道を私たちは神に信頼して、共に歩んでいこうではありませんか。
 モーセは今日の聖書箇所で、次のように言っています。13節のモーセの言葉をお読みします。
 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

 モーセは、”もし私がイスラエルの人々のところへ行って、”神が私を遣わして、あなたがたをエジプトの地から導きだすように命じられた”と言っても、彼らは”その神の名は何か?”と聞くでしょう”と思ったのです。
 神はモーセに答えられました。「わたしはある」~それがご自身の名前だと神はおっしゃいました。
 「わたしはある」とは、とても不思議な名前です。そのヘブライ語の本文は、「わたしは、わたしがなろうとする者になるだろう」と訳することも可能です。
  神ご自身がモーセに明かされたその名前はとても不思議で、解釈しようと思えば色々な解釈が可能だと私は思います。

 しかし私たちにとって確かなことは、まず神は確かにご自身の名前をモーセに明かされたということです。そして“わたしはある”というお名前は、神はご自身の存在を、他の何にも依存していない、ということです。
 神はご自身で完全であり、他の何かによって造られたのでもありません。神が、私たちの世界の全てをお造りになった創造主です。それが聖書が一貫して私たちに伝えることです。
  モーセは“わたしは何者でしょう?”と神に尋ねました。モーセだけでなく、私たちは誰も自分で自分が誰であるか(何であるか)を知ることはできません。
 先程も申し上げたように、私たちは、私たちをお造りになった創造主なる神との関係の中で、神の目を通して私たち自身のことを知ることができます。
  私たちが自分だけを見ているならば、私たちは結局とても不安定な自分しか見つけることができないでしょう。根や土台といったものを持たない、不安定な自分です。
 しかし聖書は、私たちをお造りになった神がおられ、そのお方の名前が私たちに知らされ、そのお方の名は永遠に変わることがないと伝えています。
  神の名が永遠に変わらないとは、神ご自身が決して変わることなく、いつまでも私たちと共におられるということです。神がその約束をいつまでも守ってくださるということです。
 イザヤ書46章3~4節に次のように書かれています。神が私たちをお造りになり、その神が私たちを背負い続けてくださる、という約束の言葉です。

わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。
“同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

 私たちをお造りになった神は、私たちを背負い、救い出してくださると約束してくださっています。私たちが倒れても、神が助け起こしてくださいます。
しかし、それは私たちの人生の中で辛い出来事や困難がなくなる、ということではありません。
 今日の箇所の中でも、神はモーセに、「わたしがあなたと共にいる」と約束をしつつ、「しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が(あなたたちを)行かせないことを知っている」と言っています。
 つまり、神はモーセに、いつも“神が共にいてくださるから安心するように”という力強い励ましの言葉をかけつつ、“彼(モーセ)がこれから向き合おうとしているエジプト王は、そう簡単には言うことを聞かない”ということもはっきりと言っているのです。
 神が私たちと共におられますが、私たちが生きる道は時に長く、険しいものでもあるのです。
 しかしその長く険しい道を歩む過程で、危機的な状況を乗り越える経験を通して、私たちは私たちの能力や思いを越えた、神の確かな力と神の御愛を一層知ることができます。
  神が私たちと共におられます。ですから私たちは安心して、日々を、困難と悩みの中にも、神に信頼して日々を歩もうではありませんか。
 神が私たちと共におられる。それはイザヤ書の中で預言されていたイエス・キリストのこの世界への到来を表わす言葉でもありました。

 イザヤ書7章14節
 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

「インマヌエル」とは、ヘブライ語で「神が私たちと共におられる」という意味です。神はモーセに既に約束されていたその出来事を、イエス・キリストのお誕生を通して、私たち全ての人にとっての約束として、成就してくださいました。
 神はモーセに、ご自身の名(『わたしはある』)を明らかにしてくださり、モーセが他の人々にその名を伝えることによって、神が確かにモーセに現れたことのしるしとしてくださいました。
 私たちにも、確かな神の名、それはイエス・キリストの名、そしてそれはイエス・キリストの恵み、それらがすべて与えられています。
  「神はどこにおられるのか?」、「神の名は何と言うのか?」と私たちがもし誰かに聞かれるのなら、私たちはいつも聖書を根拠にして、次のように答えることができます。
 「私たちの世界のすべてをお造りになった神がおられる」、「神は人となり、イエス・キリストとして私たちに全てを与えてくださった」、「神はいつも私たちと共におられる」と確信をもって答えることができるのです。

それは私たち自身に基づく確信ではなく、神の確かな名、そしてイエス・キリストが世にこられた確実な出来事に基づく、確信だからです。
信仰を通して与えられる確信と安心、平安のうちに、日々を生きることができる幸いを私たちは感謝したいと願います。

2024年1月6日土曜日

2024年1月7日 主日礼拝

前奏
招詞 イザヤ書55章11節
讃美 新生讃美歌3番 あがめまつれ うるわしき主
祈りの時
主の祈り
献金
聖句 ルカによる福音書5章1~11節
祈祷
宣教 「しかし、お言葉ですから」
祈祷
讃美 新生讃美歌 506番 主と主のことばに
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏

 新しい年(2024年)の最初の主日礼拝を私たちはお捧げしています。新しい年もまた、私たちは礼拝を大切にし、礼拝を通して神様の言葉を共に聞き、神の言葉を分かち合っていきましょう。
 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書5章の最初の部分です。今日の箇所は、イエス様がシモン(ペトロ)、そしてヤコブとヨハネをご自分の弟子にするという場面です。 
 彼ら最初の弟子たちがイエス様に呼びかけられて弟子となるこの場面は、マタイ福音書4章18~22節、マルコ1章16~20節にも記されています。
 それら二つの箇所(マタイ、マルコの該当箇所)では、イエス様が漁をしていたシモンたちに「わたしについて来なさい」と呼びかけ、彼らがすぐにイエス様に従ったと、比較的簡潔に書かれています。

 しかしルカ5章の今日の箇所には、マタイ、マルコには書かれていない出来事が記されています。
 一晩中漁をして何もとれなかった漁師たちが、イエス様に言われてもう一度(昼に)漁をすると大変な量の魚が獲れた、という話です。この箇所を通して、神のメッセージを共に聞いてまいりましょう。
 イエス様がゲネサレト湖のほとりに立っておられます。ゲネサレト湖とは、ティベリアス湖、あるいはガリラヤ湖とも呼ばれる湖です。
  湖のほとりにイエス様が立っておられると、群衆が神の声を聞くために、イエス様を囲みました。
それまでに、イエス様は悪霊に取りつかれた人から悪霊を追いだしたり、色々な病に苦しむ人たちの病を癒されたりしました。病気を癒してほしい、悪い霊を追い出してほしいと願う多くの人たちがイエス様のところへやってきました。

 しかし今日の箇所で、大勢の人たちがイエス様を取り囲んでいたのは、“神の言葉を聞く”ためでした。群衆の中のある人たちは、イエス様が病気を治すことや、悪霊を追い出すということを期待していたかもしれません。
  しかし、イエス様が人々に伝えようとした最も大切なものは、神の言葉でした。病気や悪霊による苦しみを取り除くことも、イエス様がなさった大切なお働きでした。
 しかしやはり、イエス様の全てのお働きは神の言葉、神の国の福音(良き知らせ)を人々に知らせることを中心としていたのです。
ルカ4章でイエス様が荒れ野の中で悪魔から誘惑をお受けになった時、大変な空腹の中でもイエス様は「人はパンだけで生きるものではない(人は主の口から出るすべての言葉によって生きる)」という聖書の言葉をもって対抗しました。

イエス様はあちらこちらを巡り、人々の病気を治し、また悪霊を追いだしたりして、人々の苦しみを癒されつつ、イエス様はあくまで神の言葉を人々に伝えると言うお働きを続けられたのです。
そしてイエス様に接した人たちは、段々とイエス様のなさっていることを理解し始めたのでしょう。
“このお方が私たちに与えてくださる最も大切なものは神の言葉なのだ”と段々人々は悟るようになったのです。
ですから、今日の箇所で群衆はイエス様から“神の言葉を聞こうとして”、イエス様の周りに集まってきたのです。

 私たちも神の言葉を聞きたいという願いをもって教会に来ます。最初私たちは、色々な理由や思いをもって教会に来るようになったでしょう。
  教会には暖かい雰囲気がある、普通とは違う何か神聖な気持ちになれる、素晴らしい音楽がある、などの思いや理由で教会に通うようになった方もいらっしゃると思います。
 しかし、やはり教会の中心は常にイエス・キリストであり、イエス・キリストの言葉(神の言葉)です。神の言葉は、私たち教会が頂いている宝物です。
そして、神の言葉(御言葉、福音と言っても同じ意味です)が聞きたいと言う願いを第一として、やはり人は今でも教会に集まるのです。
私たちの礼拝全体、信仰による交わりを通して(言葉以外の方法でも)神の言葉が語られることはありますが、教会で神の言葉が語られる一番分かりやすい形は、まずは牧師の宣教(メッセージ)です。
 考えてみますと、神の言葉を語る、という本来人では出来ないはずの務めを牧師は担わされているのだと改めて私は思い、大変厳粛な気持ちにさせられます。
 ですから、牧師が神の言葉でない、自分の思いだけの勝手な話などをしたりしないように、皆さんにはぜひ祈って頂きたいとお願い致します。
私たちが教会に集うのは、今日、今この時、神が私たちに語ってくださると信じるからです。私たちが信仰によるそのような期待と希望をもって、こうして集う時、きっと神は今日私たちに必要な言葉を語ってくださいます。
神の言葉によって養われ、神の言葉によって日々を生きる力を私たちは頂いていこうではありませんか。

 今日の箇所で、群衆はイエス様を囲んで神の言葉を聞いていましたが、その時に近くで漁をしていた人たち(正確には、漁を終わって、網を洗っていた)がいました。
  彼らは、シモン(ペトロと言う名前をイエス様からのちにもらう)、ヤコブやヨハネという、イエス様の最初の弟子になった人たちでした。
  イエス様が人々に神の言葉を語っているその間に、彼らは漁の網を洗うという、いってみれば彼らの仕事をしていたのです。
  ここでのシモン達は、イエス様を囲んで神の言葉を聞いていた群衆に比べると、イエス様への関心がまだ低い人たち、と言う印象を受けます。
  彼らも、イエス様の話を聞きたい、という思いはあったかもしれませんが、彼らにはその時やらなくてはならない仕事があったのです。

 シモン達は、この時はまだ、イエス様が語っている神の言葉が、彼らの仕事を中断してまで聞かなくてはならないものだとは思わなかったのでしょう。
  そんなシモンにイエス様のほうから声を掛けられました。信仰は常に神からの呼びかけによって始まるのです。
イエス様はシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言いました。
 イエス様の言ったことは漁の常識に反することでした。漁は夜にするものだったからです。そしてその日(夜)は、シモン達は魚を全く獲ることができずに、彼らは網を洗っていたのです。
  シモンはそこで「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。

前の箇所のルカ4章38節からの箇所で、シモンの義理の母がイエス様によって病気を癒されています。ですからシモンはイエス様による癒しを、一度見ていたのです。
​​ ですから、シモンはイエス様には特別な力があることは知っていたでしょう。しかし、彼は漁については自分のほうが専門家だというプライドもあったかもしれません。
 ですから、“わたしたちは、既に夜通し漁をしました。(漁は夜にするものなのですよ)。しかし何もとれませんでした”と彼は言いました。
シモンは心の中ではイエス様に対して“先生、あなたは聖書のことや、神のことは良く知っているかもしれませんが、漁のことはご存じないないですね”と思ったでしょう。

 そのようなシモンの姿は、今の私たちにも当てはまるのではないかと、私は思います。
 イエス様を信じ、神の言葉を大切にしつつも、信仰というものがどこか自分の日々の実生活とはあまり結びついていない、ということです。
 神の言葉を聞くという私たちの信仰が、教会の中だけに留まっていることがわたしたちにはないでしょうか。
 そうではなく、神の言葉が私たちの生活のすべての領域(仕事(職場)や、勉強(学校)、家庭)を支配しているでしょうか。
シモンのここでの言葉は、そのような問いを私たちに投げかけると思います。
 しかしシモンはその時さらにこう言って、彼はイエス様の言うことに従いました。
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう
 魚が獲れるとは、あまり期待していなかったでしょうが、シモン(ペトロ)は、イエス様のお言葉に、やはり特別な強い力を感じもしたのでしょう。彼はイエス様の言うことに従いました。
  するとおびただしい数の魚がかかり、網が破れそうになりました。別の船にも来てもらい、二そうの舟が魚で一杯になりました。
  本来魚が獲れるはずのない昼に、イエス様の言葉に従うことによって、考えられないほどの魚が獲れたのです。
  シモンはそれからこう言いました。

「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」
 シモンは、最初イエス様のことを“先生Master”と呼んでいました。そう呼ぶことで、ある程度の尊敬をイエス様に置いていましたが、イエス様はまだ、シモンの全生活と彼の命を支配する“主Lord”ではありませんでした。
 しかし、イエス様のお言葉の力、そのお言葉に従うことで与えられる奇跡を目の前にして、シモンはイエス様を“主よ”と呼ぶしかなくなりました。
 それまでのシモンは、イエス様を尊敬し、その特別な力を認めつつも、まだ自分の中心には中心がいました。“漁については私のほうが専門だ。いくらイエス様でも、漁のことは知らない”と彼は思っていました。
 しかしシモンは、ここで理解しました(信じました)。「このお方が私の主だ。仕事も含めて私の生活に関する全てを支配しておられるお方であり、このお方を私自身の中心にお迎えしなくてはならないのだ」とシモンは悟ったのです。
  私たちも今日、シモン(ペトロ)と共に、イエス様のお言葉、神の言葉を聞くことを第一とし、神の言葉に従うという決意を、新たにしようではありませんか。

 イエス様は、別の箇所で、こうも言われました。
 マタイによる福音書6章33節
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
 神の言葉を聞き、神の御心を知り、そして神の国と神の正しさを、私たちは日々求めて参りましょう。
神の言葉を聞き、神の言葉を実践すると言う生き方による恵みと幸いにより、私たちに必要なものは(わたしたちが望むもの)すべて与えられるのです。それが聖書の約束です。