2024年4月27日土曜日

2024年4月28日 主日礼拝

前奏
招詞 ローマの信徒への手紙13章8節
讃美 新生讃美歌 10番 主のみ名により
主の祈り
主の晩餐
讃美 新生讃美歌 81番 父なるわが神
献金
聖句  出エジプト記 20章1~17節
祈祷
宣教  「十戒」
祈祷
讃美 新生讃美歌 523番 主われを愛す
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏


 今日の聖書の箇所は、旧約聖書の『出エジプト記』20章の“十戒”の部分です。神がモーセに、聖書の律法の中でも最も重要であり中心的な十の戒めを与える場面です。
 “戒め”とは、ルール(規則)と言い換えることもできます。一般的に言って、社会には法律というルールがあります。またスポーツやゲームなどにもルールがあります。
 ルールがあるので、私たちは秩序を保って社会生活を送ることができます。お互いに約束毎を定めて、それを守って生きることで、お互いに生活がしやすくなります。

 スポーツやゲームをする時に、ルールを守って行うので、お互いに公平にそのスポーツやゲームを楽しむことができます。
 しかし、規則を破ってでも成功したい、ルールを破ってでも相手に勝ちたい、と思う人が時々出てきます。
 法律を守らずにお金を儲けたりしても、もし法律違反が発覚すれば、時に厳しく社会的に罰せられます(原則的には)。
ゲームでもルール違反が発覚すれば、なんらかのペナルティを受けるかもしれませんし、そもそもルールを守らずゲームをしていても面白くないでしょう。

 では神の律法は何のためにあるのでしょうか。
十戒の最初の部分を見ることで、その事を私たちは考えたいと思います。

1神はこれらすべての言葉を告げられた。
2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

十戒の初めに、神は御自分がどのようなお方であるのかを明らかにしておられます。先ず神は、「わたしは主、あなたの神」と言います。
 神は、この天地の造り主、という意味で“主Lord”です。神は、私たちの世界の全てを、私たちの命をも支配しておられるお方、という意味で“主Lord”です。 

 神こそが全ての主権、すべてにおいての主導権をお持ちである、という意味で、神は“主Lord”です。
 そしてそのようなお方が、“わたしは主、あなたの神”であると言われるのです。
天地の造り主である主が、“あなたの神”すなわち、私たちそれぞれにとっての”わたしの神my God”であると言うのです。

主なる神は私たちひとり一人を限りなく愛し、“私はあなたの神だ”と、モーセに向けて、イスラエルの民に向けて、そして今も私たちひとり一人に向けて、宣言して下さるのです。
もちろん神は“わたしたちの神”でもあります。私たちは誰も神の愛と恵みを独占することはできないからです。
しかし、神は、私たちひとり一人とも、特別な個人的な関係を持とう望んでくださっています。
「わたしは、あなたの神だ」という神の宣言により、その事が明らかになっていると、私は信じます。

今聖書を通して神の声を聞く私たちも、「神は、このわたしの神なのだ」と確信し、神との親密な関係の中に招き入れられているのです。
新約聖書の『ヨハネによる福音書』の中で、復活したイエス様に出会った弟子のトマスが次のように言っています。
復活のイエス様が最初に弟子たちの前に現れた時、トマスはその場にはいませんでした。
トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言っていました(ヨハネ20:25)
復活のイエス様は、そのトマスの前にも現れてくださいました。イエス様はトマスに、“ご自分の手を見て、脇腹に手を入れてみなさい、信じない者ではなく、信じる者になりなさい”と言われました。
するとトマスは「わたしの主、わたしの神よMy Lord and my God!」と言って、復活したイエス様を信じました(ヨハネ20:28)。
トマスは、復活のイエス様の、ご自分(トマス)に向けられた限りない愛と優しさに打たれ、“このお方は、たしかにわたしの主、わたしの神なのだ”と告白することができたのです。
 
 出エジプト記の今日の箇所では、神の側から最初に、「わたしは主、あなたの神だ」と宣言してくださっています。
 それは、たとえ私たちが信じなくても、「わたしは主、あなたの神だ」というこの神の言葉は有効であり、真実であるということです。
 神はわたしの主であり、わたしの神であることは、神ご自身が既にそのようにお決めになったことだからです。
 後は、私たちがその神の呼びかけを信じ、神に従っていきるかどうか、ということだけが問題なのです。

 「わたしはあなたの神だ」と言って下さっている神の御声を、私たちは信じ、その御声に従って生きていきたいと願います。
 そして「わたしは主、あなたの神」に続き、神は「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導きだした神である」と言います。
 神は主であり、“このわたしの神”であり、そしてその神は、実際の行いを通して、イスラエルを(その一人一人を)エジプトの国、奴隷の家から導き出した、というのです。
 聖書の神は、ご自分の民の救いのために自ら行動を起こしてくださるお方である、ということです。
 私たちが聖書を読み神の言葉に触れる時、そして聖書の言葉を通して日常の生活を送る時、その時確かに自ら行動を起こしてくださっている神の存在を、私たちは知ることができます。

 私たち信仰者がそれぞれの信仰生活の中で、色々と難しい困難な経験をしながらも、その度に、神によって助けられ救い出されるという経験をしています。
 新型コロナ感染症の拡大が始まってから、また感染拡大のさなかに、実際に感染を経験して苦しんだり、またそれ以外にもコロナに関わる様々な影響を受けて、私たち誰もが、色々と大変な経験をしたと思います。
 特に、こうして皆で一緒に集まることを大切にしていた教会にとって、集まることへの制限が大きく課せられたことで、とても難しい判断を、その時々で迫られました。(今も、まだそれは終わってはいませんが)

 しかし、そのような時にも、神の守りは確かにあった、神は共にいてくださったと、わたしは信じます。不確かなことが多い中、私たち人間は色々と判断を誤ったり、間違いをしたりしたかもしれません。いや、きっとそうでしょう。
しかし、エジプトの地からイスラエルの民たちを導きだした主なる神は、今も変わらず私たちと共におられ、私たちをいかなる困難の中からも救い出してくださる、と私たちは確信してよいのです。

 新約聖書の中で、パウロという伝道者が、色々な困難の中から神が彼を救い出してくださった経験を次のように言っています。
わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。

9わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。
10神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。(コリントの信徒への手紙二 1:8~10)

 イスラエルの民たちをエジプトから救い出し、そしてパウロを様々な死の危険からも救い出してくださった神が、今の私たちをも救い出してくださると、私たちは信仰によって信じ、生きていきたいと願います。
 そして困難な経験の中で、“自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにする”ことを、私たちも学んでいこうではありませんか。
 今日の4節に「あなたはいかなる像も造ってはならない」と書かれ、私たち人間が神でないものを神として、自分で作った像をも神としてしまう“偶像礼拝”の罪について、言われています。

 イスラエルの民をエジプトから救い出し、そしてイエス・キリストを通して、私たち全ての者を罪より救い出してくださった唯一真の神をこそ、私たちは信じ礼拝するのです。
 私たちは常に、私たちが礼拝すべきお方、主イエス・キリストの神から目を離すことがないように、私たちの心、思い、精神、力を尽くして、主イエス・キリストのみを礼拝するように、心低くして信仰の日々を送っていきましょう。
 今日のメッセージで、十戒のすべてを網羅することはとてもできません。しかし、最後に8節から11節までの“安息日”について戒めについて、私たちは共に思いを巡らせたいと思います。

8節から10節前半までに次のように書かれています。

8安息日を心に留め、これを聖別せよ。
9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。

 この安息日の戒めについても、その主体と中心は神です。私たちが一週間のうち六日は働いて、七日目にはいかなる仕事もしてはならない、というのは、神の創造の業がその基になっています。

 11節に「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」と書かれています。

 神がそのように世界を創造されたので、私たちも神の創造の業に倣(なら)って、六日の間は働き、そして七日目は主の安息日として、完全に主のために取り分け、それぞれがしていること(仕事)をやめる、ということです。
 十戒の中でも、特に現代の私たちにとって守ることが最も難しい戒めは、この安息日に関する戒めではないかと、私は思います。
 「何か(価値あると思われること)を、いつもしていること」が重んじられる世の中にあって、週の一日は完全に何もしない、自分のしていることを中止し、ただ主にのみ献げることを本当に実践するのは、非常に難しい事であると私は思います。

 しかし、わたしたちはそのように世の中が益々忙しくなり、「あなたは何ができるのか?」、「あなたはどれほど有能なのか?」が問われる時代の中でこそ、ますますこの安息日の戒めの重要さ、そしてこの戒めを通した神の愛を教えられます。
 それは、私たちの価値は、わたしたちが“何を(どんな価値あることを、利益につながることを)できるのか”とは関係がない、ということです。
 私たちの価値は、この世界を創造され、今も世界の主権者である神によって私たちは造られた、ということにあります。
 私たち価値は、神の御子イエス・キリストが十字架の上で命を私たちのために捨ててくださった、ということにあります。
 私たちの生きる喜びは、創造主である神が「わたしの神」であることを知り、そしてその神にこの私が知られている、という恵みの中に生きる事です。
 私たちの信仰の喜びは、イスラエルの民たちをエジプトから救い出し導きだした神の救いの御手が、今の私たちにも差し伸べられている、という点にあります。
神の、そのような限りない救いの御業、恵みの御業を覚えつつ、十戒の戒め一つ一つについて、私たちは、それらが“わたしたちを生かす命の戒め、そしてわたしたちに神の愛を伝える戒め”であることを続けて学んでいきたいと願います。

2024年4月20日土曜日

2024年4月21日 主日礼拝

前奏
招詞  コリントの信徒への手紙一 5章7節
讃美  新生讃美歌 10番 主のみ名により
主の祈り
讃美  新生讃美歌 4番 来たりて歌え
献金
聖句  出エジプト記12章1~13節
祈祷
宣教 「主の過越し」
祈祷
讃美  新生讃美歌 102番 罪にみてる世界
頌栄  新生讃美歌 671番
祝祷
後奏

今日私たちに、この礼拝の中で与えられた聖書の箇所は、旧約聖書の『出エジプト記』12章の初めの部分です。
過越(すぎこし)、と言われるユダヤ教の祝祭日の起源について、ここでは書かれています。キリスト教は、歴史的にはユダヤ教を母体にして生まれました。
現在でもユダヤ教にとっては、過越はとても重要な祝祭の一つです。しかし、キリスト者は、この過越を祝うということは致しません。しかし、この過越について知ることは、キリスト者にとってもとても重要です。
なぜなら、後にイエス・キリストが私たちの罪の贖いのために十字架にかかって死んでくださったことと、この過越には大切な関係があるからです。

過越についての定めが、主なる神によってイスラエルの民たちに伝えられた今日の聖書の箇所から、神のメッセージを私たち共に聞いてまいりましょう。
今日の箇所にモーセとアロンという人が登場します。モーセは、神に選ばれて、エジプトで約400年間奴隷生活を送っていたイスラエルの民たち(ユダヤ人たち)をエジプトから導きだす(救い出す)役目を与えられました。
私たちが今までの礼拝メッセージの中でも、何度か聞いてきましたように、神に選ばれてもモーセは最初何度も何度も「わたしには出来ません。誰か他の人を選んでください」と言って躊躇しました。
それでも神は忍耐強くモーセに語り続けられました。神はモーセに幾つかの奇跡(しるし)もお見せになり、確かに神がモーセと共におられる、神がモーセを遣わすということをモーセに知らせようとされました。
そして神は、「わたしは口下手ですから、誰もわたしの言うことなど聞きません」と言うモーセに、雄弁な兄のアロンを遣わし、「兄のアロンが、あなたに代わって、神の言葉を語る」と言われました。

モーセとアロンはエジプト王ファラオのもとへ行きました。出エジプト記5章から、モーセとアロンがエジプト王ファラオに話をする状況が描かれ始めます。
「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と」モーセとアロンはファラオにこう言いました(5章1節)
しかし、ファラオは彼らの言うことを聞きませんでした。“ファラオが心を頑なにして、モーセとアロンのいうことを中々聞き入れようとはしない”ということは神によってあらかじめモーセたちに伝えられていました。
それからモーセとアロンは、神に命じられた通り、いくつかの災いをエジプトに引き起こしました。最初の災いは、7章で描かれている通り、ナイル川の水が血に変わる、という災いでした。

その後も、(ファラオが、なかなかイスラエルの民たちを去らせようとしないので)エジプト中に蛙(かえる)が群がる災い、ぶよとあぶがエジプト全土を襲う災いが起きました。
疫病の災いや雹(ひょう)の災い、いなごの災いや暗闇の災いなどの災いもエジプトに起こりました。
そのような中、ファラオは一つの災いが起こると、一旦はモーセとアロンの言うことを聞きいれようとします。しかし災いが去るとまた心を頑なにし、イスラエルの民をエジプトから去らせようとはしませんでした。
ファラオのそのような態度は、私たちの姿ではないでしょうか。私たちは、神の赦し、神の恵みを何度も経験しながら、神に救われながら、しばらくすると神の恵みを忘れてしまっていないでしょうか。
そして今ある恵みを認めることができず、神からの様々な恵みの賜物を、当たり前のもの、自分にとっての当然の権利だとさえ思ってしまい、神への感謝の気持ちを私たちは失っていないでしょうか。
神の恵みによって罪赦され、日々を神の恵みの中で生きることができることを、私たちは常に思い起こし、喜び、主なる神に感謝を捧げて生きていきたいと願います。

そして主なる神は、とうとう最後の災いを、エジプトに下そうとされました。過越、はその最後の災いに関することでした。
その最後の災いは、エジプト中で全ての初子(最初に生まれたこども。人も家畜も)が死ぬ、というものでした。そして主はイスラエルの民たちの家には、その災いが降りかからないようにしてくださったのです。
その災いが、イスラエルの民たちには降りかからない、すなわちその災いが彼らを“過越し”ていく、という意味で、この出来事が“過越”と言われるようになりました。
主は「過越」に関するその定めを、今日の箇所の中で事細かにモーセとアロンに伝えました。 
過越に関してまず、神からモーセとアロンに伝えられたことは、「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」でした(2節)。

それまで、ユダヤの新年は秋頃(9月)から始まっていました。しかし、神がイスラエルの民たちをエジプトから救い出すというその出来事を、彼らにとっての信仰上の新しい年の初めとするように命じたのです。
神の救いの業を記念し、イスラエルの民たちが新しい命を頂いたことを覚えているために、神はその月(それは3月と言われます)を新しい年の最初の月とするように彼らに命じたのです。
現在の私たちにとっても、イエス・キリストによって救われる、新たに生まれるということは、まさに新しい命の始まりです。キリストの救いが私たちの新しい命の出発点となります。
イエス様による救いの業を私たちは信仰の出発点(新年)としていつも心に覚え、信仰の暦(日々)を歩んでいきたいと願います。
そして過越について次に神によって人々に命じられたことは、“家族ごとに小羊を一匹用意する”ということです(3節)
過越という主からの恵みは、個人ではなく、”家族単位”で享受するということが、ここで表されています。
ここでの家族は血縁の家族よりも、むしろ同じ主を信じる信仰の家族を表わすと私たちは理解したほうがよいでしょう。

聖書の伝える信仰は、個人個人がばらばらに受け取り信じるものではなく、神の恵みを信仰の家族で分かち合って頂くという信仰なのです。
しかも、その小羊一匹が一家族では食べきれない場合には、隣の家族と分け合うということも定められています(4節)。
私たちも、頂いた信仰の恵みを、信仰の家族同士で共に頂き、喜び、そして私たちがいただいた、余るほど溢れる信仰の喜びを、私たち以外の他の方々とも分かち合いたいと願います。

そして私たちの信仰の家族へ、一人でも多くの方々を招きいれたい、迎え入れたいと私たちは願うのです。それが主なる神が定められた、私たちの信仰のありかたなのです。
そのようにして用意された小羊が屠られ、そしてその血を取って、家の入口の二本の柱と鴨居(戸の上の横柱)に塗るようにと定められます(7節)。
そして13節に書かれているように、最後の災いが降りかかる時、家の入口に小羊の血が塗ってある家は、その災いが降りかかることなく過越していく、と神が約束をしてくださったのです。
これが過越祭の由来となりました。神はイスラエルの民たちに、代々この過越を、主が彼らを滅ぼさずエジプトから救い出して下さったことを記念するために、行い続けることを命じられました。
この過越は、イスラエルの民たちによって、出エジプトの後からずっと守られ(祝われ)、イエス様の時代でも大切な祝祭として祝われていました(現代でも、ユダヤ教にとっては大切な祝祭の一つとして守られ続けています)。

今、イエス・キリストを信じるキリスト者は、過越を祝うことは致しません。それは過越の意味が、イエス様によって完全に変えられたからです。
それは、“イエス様ご自身が、私たち全ての人間の罪を赦すための、過越の小羊となってくださった”ということです。
新約聖書の『ヨハネによる福音書』1章で、バプテスマのヨハネという人が、イエス様が自分のほうへ来られるのを見て、次のように言いました。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ福音書1章29節)。

そしてイエス様が捕まり、十字架にかけられる前に、イエス様が弟子たちと最後の食事をしたのも、それは過越の食事でした。
マタイ福音書では26章に、イエス様と弟子たちの最後の食事、過越の食事の場面が描かれています。そしてイエス様はその時に、後に弟子たちがご自分を記念して行うようにと“主の晩餐”を制定されました(マタイ26章26~30節)。
そして今でも私たちは、“主の晩餐”を、私たちの教会では一ヶ月に一回、イエス様が命じられた通りに行っています。
イエス様の体と血が、私たちの罪が赦されるためにささげられた出来事を、私たちは主の晩餐を通して、パンと杯(ぶどう酒)をイエス様の体と血の代わりとして用いることで、いつも思い起こすのです。
ここで、出エジプトの過越の起源となった出来事(それは紀元前1400年頃の事と言われます)と、イエス様が定められた主の晩餐(今から2000年前)が、信仰的に非常に関係の深いものであることが分かります。

そしてキリスト者は、イエス様が死んで復活して天に昇って行かれてから、主の晩餐を大切な礼典(ordinance, rituals)として守って来ました。

今もわたしたちは主の晩餐を通して、イエス様という尊い犠牲の献げものによって、私たちの罪が赦されたことを、その度に思い起こし、感謝の念を新たにします。
イエス様という、罪を取り除く小羊によって、私たちの上を、主の災い(罰)が過越していったと、私たちは理解してよいのです。
主が、イスラエルの民たちに過越を代々守ることを命じたのも、そしてイエス様が主の晩餐をキリスト者が代々守ることを命じたのも、それは神の救いの恵みを私たちが決して忘れることがないため、でした。
そして、主の晩餐ではパンとぶどう酒(ぶどうジュース)という食べ物と飲み物を用います。
そうすることで、私たちは生きている身体の感覚も用いて(心だけでなく)、主の命じられた晩餐を頂きます。

身体的にも主の晩餐に与ることを通して、私たちは確かに、身体をもってこの世界に生きている、生きることを赦されている、ということを再確認するのです。
主の晩餐の中で、パンとぶどう酒は、言わば象徴的な役割を果たします。しかし、その基となった過越の出来事と、そしてイエス・キリストの十字架の上での死は、確かに起きた出来事です。それは歴史的事実、私たちの信仰にとっての真実です。
私たちは、聖書を通して伝えられる神の救いの出来事、主の過越によってイスラエルの民たちの家には災いが降りかからずに彼らが救われた出来事を、私たち自身の救いの物語として、これからも聞き続けていきましょう。
そして私たちの罪をイエス・キリストが代わりに負ってくださった出来事を、主の晩餐を繰り返す行うことで私たちはいつも思い起こし、感謝をもって信仰の日々を生きていくという決意を、新たにしていきたいと願います。

2024年4月13日土曜日

2024年4月14日主日礼拝

前奏
招詞 ヘブライ人への手紙11章8節
讃美 新生讃美歌 10番 主のみ名により
主の祈り
讃美 新生讃美歌 124番 この世はみな
献金
聖句 創世記12章1~7節
祈祷
宣教 「主の言葉に従って旅立つ」
祈祷
讃美 新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏

2024年度の新しい年度の歩みを私たちはスタートしています。今年度、私たちの教会は、礼拝メッセージの中で、聖書の初めから終りまで1年間かけて改めて学んでいこうとしています。
先週は、旧約聖書『創世記』の1章の初め、まさに聖書全体の冒頭の御言葉から、神による創造の御業の言葉を私たちは聞きました。
「初めに、神は天地を創造された」。神のこの言葉が世界のすべてを造り、そして今もわたしたちの世界を動かす力となっています。
神の言葉こそがすべての力、そして希望の源であると、私たちは信仰によって信じることができます。

本日は『創世記』12章から、イスラエルの民たちから“信仰の父”と言われ称えられたアブラハムが、神の言葉に従って生まれ故郷を旅立つという場面から、神のメッセージを私たちは共に聴いていきたいと思います。

今日の箇所の1~3節をもう一度お読みします。
1主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。2わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。3:あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」

 ここでの主からアブラハムへ向けて語られた言葉の中で繰り返されている言葉は、「祝福blessing」です。
主はアブラハムに(12章では彼の名前はまだ“アブラムAbram”です。彼は後に神から新しい名前“アブラハム”をいただきます。今日は“アブラハム”という呼び方で統一します)、“生まれ育った故郷を離れ、神が示す地へ行きなさい”と命令します。
実際にどこへ行くのか、具体的な目的地は示されないまま、とにかく主はアブラハムに“私が示す地へ行きなさい”と命じたのです。

それは大変厳しい命令だったと思います。その命令に従うことはアブラハムにとっても、決して簡単に決断できることではなかったのではないか、と私は想像します。
なぜなら慣れ親しんだ場所(故郷)に留まっているほうが、快適であり、安心であったであろうからです。しかし、主はアブラハムに“行きなさい”と命じました。
そしてアブラハムも、主のその言葉に従い、彼は彼の生まれ故郷を離れ旅立ちました。
アブラハムが、具体的な目的地が示されないまま、それでも主の言葉に従い旅立つことができたのは、彼が主の命令の中に、彼に向けた主なる神からの“祝福”を確信できたからだと、私は信じます。
彼にとって安定して慣れ親しんだ、心地よい生活よりも、たとえ厳しい旅路、道程であっても、主の祝福を確信し、主の祝福をいただきながら生きるのが、信仰者が生きる道です。
 主はアブラハムに祝福を与えると約束してくださっています。主ご自身がアブラハムを祝福する、そしてやがてアブラハムが祝福の源となる、というこれ以上ないほどの希望の言葉がアブラハムに主から与えられたのです。

 祝福とは、神が私たちと共に歩んでくださるということ、そして私たちの命、わたしたちの存在を、神ご自身がとても大切に思ってくださっている、ということです。
 主の御言葉(聖書の言葉)を通して、私たちは神からの祝福をいただくことができます。それは“この私の存在を、天地の造り主なる神がとても大切に思ってくださっている”という確信であり、喜びなのです。
私たちの礼拝の最後に“祝祷”があります。“祝祷”は、神の祝福があるということを、宣教者が皆さんを代表して宣言することです。
礼拝の最後に、私たちひとり一人が神の祝福をいただき、神に祝福され、“今週も神が私と共に歩んでくださる。神はこの私をとても大切におもってくださっている”と確信しつつ、喜び溢れて、私たちは教会を後にすることができるのです。

主なる神は、なぜそれほどまでにアブラハムを、そしてまた今の私たちを祝福してくださるのでしょうか。神はなぜそれほどまでに、私たちの事を大切にしてくださっているのでしょうか。
後に、聖書の民であるイスラエルの民たちは、自分たちだけが神に選ばれた特別な存在だと思うようになりました。

旧約聖書の物語を読むと、神は確かにイスラエル民族を選び、彼らにご自身のお姿と名を表わし、彼らを導いておられます。
しかし、イスラエル民族が神に選ばれたのは、イスラエル民族が特別優れていたからではないのです。
そして今の私たちキリスト者も、キリストに選ばれ、イエス・キリストを信じる信仰者とされたのは、それは何も私たちが優秀であったとか、人格的に優れていたから、ということではないのです。
少し長くなりますが、旧約聖書『申命記』の7章6~8節を以下に引用いたします。
 
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

主がイスラエルの民を選ばれたのは、彼らが他の民よりも数が多かった、すなわち彼らが他の民より強かった、優秀だった、優れた資質を持っていたから、ということではない、と神ははっきりと言っているのです。

それは”ただ、あなたに対する主の愛のゆえit was because the Lord loved you”です。天地を造り、そして私たちをお造りになった神が、私たちを神の側からただ愛してくださったからです。
その希望と約束は、イエス・キリストというお方を通して、より一層私たちに確かなものとされました。
イエス・キリストが十字架にかかり、私たちの罪を赦し、私たちに救いと永遠の命を与えてくださったのは、私たちが優れていたからではありません。
それは主なる神の私たちに対する無条件で限りない愛に拠ります。私たちが自分では拭う事のできない罪を、神はイエス・キリストを通して赦して下さいました。
罪とは、“私は人よりも優れている”思い優越感に浸ったりすることも含まれます。また逆に、人との比較によって、神が愛して下さった自分の尊さを認めることができず、劣等感に凝り固まることも、それは含むでしょう。

しかし、あなたの価値は、神の御子イエス・キリストが十字架の上で死んでくださり、御自分がお持ちの栄光も全てを、あなたのために捨ててくださった、という一点にあるのです。
“罪人の私たちもイエス様によって罪赦されて、神の祝福に入ることができる”という希望の内に、私たちは生きることができるのです。これほど大きな祝福と喜びがあるでしょうか。
 私たちは神様の祝福、イエス・キリストを通して与えられる限りない祝福を、共に喜ぼうではありませんか。
先程私は、アブラハムにとって、住み慣れた生まれ故郷を離れることは、それも具体的な行先を知らずに旅立つことは、簡単にできる決意ではなかったのでは、と申し上げました。

私たちは時に、神の言葉に従って、私たちにとって心地よく安心な場所、そのような場所を後にして、神が示す場所へ行くことを要求されることがあり、
その時にはやはり私たちは神の言葉と祝福に信頼して先に進んでいかねばならないのだ、私たちは教えられます。
 私たちは、ある人は死ぬまで生まれ育った地域で生活してそこで生涯を終える、またある人は生まれ育った場所を離れて生活し、そこで生涯を終えるという人もおります。
しかし主の言葉に従うことは、誰にとっても、私たちが今いるところを離れて、別のところへ行くという決断と行動を伴うものなのです。

それは何も物理的に本当に遠いところへ行くことだけを指すのではありません。私たちが、神の御声を聴いて私たちが新たな行動をする時、それは今の自分から離れ、今の自分以上に成長し、主が示すことに従う生き方をする、ということです。
私たちは聖書の御言葉に立ち、その御言葉に聴き従って生きるという決断を新たにするとき、いつでも文字通りの旅立ちではなくても、霊的な旅立ちをそのたびに私たちは実行することになるのです。
 私たちがそのように一歩を踏み出し旅立つその先には、主が用意してくださった祝福が私たちを待っている、そのような希望を私たちは持って日々を歩み、旅立つことができるのです。

そして私たちが覚えたいもう一つことは、御言葉に従って旅立つその歩みは、決して一人の孤独な歩みではない、ということです。
主が先に直接語りかけてくださって、それに応えて旅立つという決心をしたのはアブラハムですが、アブラハムと共に旅立った人達がいました。
アブラハムの妻サライ、甥のロト、また5節にある「ハランで加わった人々」です。
 アブラハムの甥のロトについては、12章の前で、アブラハムの父テラには3人の息子がいたことが記されています。

11章26節「テラが七十歳になったとき、アブラハム、ナホル、ハランが生まれた」。27節~28節「。。。ハランにはロトが生まれた。ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ。」
27節で書かれた順番通りであったら、アブラハムが長男、ナホルが次男、ハランが三男であり、このハランの息子がロトですから、アブラハムにとってロトは、末の弟の息子、つまり甥です。
アブラハムにとっては、自分の息子同然の存在であって、長兄であるアブラハムにはロトを育てる義務があったのでしょう。
 アブラハムは甥のロト、妻サライ、そしてハランで加わった人々と共に旅立ちました。
そのように、アブラハムが家族や一族と一緒に旅立ったということは、旅の中で、アブラハムには彼の家族や一族による支えと協力もあったということです。
アブラハム一族、この家族のグループは、きっと共に祈り合ってハランから出発をし、支え合って旅路を続けたのでしょう。

 イエス・キリストを主と信じ、共に聖書の言葉に聴いてそれに従い、イエス様の教えを実現していこうとする私たち教会の歩みも、私たち一人一人がばらばらで歩むものではなく、私たちは“共に”信仰の旅路を歩むべく主に召された神の家族です。
私たちは、主の御言葉に立ち、主の御言葉によって旅立ちます。その歩みは一人の孤独な歩みではなく、共にイエス・キリストを救い主と仰ぐ信仰の仲間との共なる歩みです。
普段別々の場所で生活している私たちが毎週主の日に教会に集まって、共に礼拝を捧げること、共に神を礼拝することを決してやめずに、主を讃美しつづけていきましょう。
主なる神が、御言葉により、大きな祝福を私たちに与えると約束してくださっています。その約束を信じ、希望の新年度を私たちは共に歩んでいきたいと願います。

2024年4月6日土曜日

2024年4月7日 主日礼拝

前奏
招詞 ヘブライ人への手紙11章3節
讃美 新生讃美歌 10番 主のみ名により
祈りの時
主の祈り
讃美 新生讃美歌 125番 造られしものよ
献金
聖句 創世記1章1~5節
祈祷
宣教 「初めに、神は天地を創造された」
祈祷
讃美 新生讃美歌 121番 み神の力をほめたたえよ
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏

 今日私たちは、2024年度最初の主日礼拝を献げています。日本では一般に、この4月から、新しい年度が始まります。
 学生の方は、新しい学校へ進学、または進級された方もいらっしゃると、私は想像します。皆さんの新しい学年が、実り多い、神様に祝された学年になりますようにと私は祈ります。
 私たちの教会も、4月から新しい年度に入り、今年度私たちは「主の御言葉に立つStanding on the Word of the Lord」という年間標語を掲げ、教会生活を共に歩んでいきます。
  キリスト者とは、イエス・キリストが神(人となった神、人であると同時に神でもあるお方)と信じ、キリストを自分の主(Lord)として従いながら、生涯を生きる決意をした人です。
 先週の3月31日の日曜日には、十字架にかけられて死んだ、私たちの主イエス・キリストが、三日目に復活をした出来事を記念し、お祝いするイースター(復活祭)礼拝を私たちは献げました。
  主イエス・キリストが復活し、そのお姿を弟子たち始め、多くの人々に現わされたことで、イエス様が確かに神の子であったこと、そしてイエス様のお言葉と行いは、まさに神ご自身のお言葉と行いであったことが確証されました。
 復活したイエス様は天へ戻って行かれました。今、神のお姿、イエス様のお姿は私たちの目には見えません。しかし、神は聖書の言葉を神のお言葉として私たちに残して下さいました。
ですから私たちは今も、聖書の言葉を通して、神の御声を聞くことができ、神の御心を知ることができます。
ただ聖書は一人だけで読んでいると、自分に都合のよい読み方、自分の好みに合わせた読み方をしてしまう危険性があります。なにより、やはり一人だけで読んでいては分からないという箇所も聖書には沢山あると思います。

もともと聖書の御言葉は、その言葉が読まれて、そして読み上げられた言葉を人々が共に聞いて、分かち合うために、纏められた言葉です。
ですから私たちは、一人で聖書を読むことも大切ですが、他の信仰者と一緒に聖書の言葉を読み、分ち合う、そして教会の礼拝の中で御言葉を共に聴くことも大切にしていきましょう。
そうすることで、自分一人だけで読んでいては決して分からなかったような、多様で豊かな御言葉の解釈に触れることもできます。
そのようにして今年度、私たちは御言葉中心に、御言葉を拠り所として歩むという信仰を建て上げていきたいと私たちは願います。

 今年度は一年間をかけて、聖書全体を旧約聖書から新約聖書まで通して、礼拝のメッセージの中で私たちは取り上げていきます。
  新年度最初の主日礼拝の今日は、旧約聖書の最初の書物である『創世記』の冒頭、1章1節から5節の言葉を中心にして、主の御言葉を私たちは聞いていきます。
 1節の「初めに、神は天地を創造された」という文から創世記、そして聖書全体が始まります。神が天地の造り主である、と聖書は冒頭からはっきりと宣言するのです。
「初めに、神は天地を創造された」。この一文は非常に簡潔であり明瞭な文です。そしてこの文ほど、力強く、美しく、圧倒的な力を持って人間に迫って来る言葉はないのでは、と私には思われます。

すでにイエス・キリストを主と信じ、信仰を告白しておられるお方にとっては、ご自分が信じておられる神とは、天地を(万物を)お造りになった、まさに創造主なのだ、とうことを改めて思い起こさせるのが、この一文です。
聖書にまだそれほど馴染みのないお方にとっても、創世記冒頭のこの一文は、“世界のすべてを、宇宙を含む天地万物を造られた唯一のお方が確かにおられる”という真実を告げる言葉です。
この一文を繰り返し読み(聞き)、心の中で黙想(思いめぐらすこと)するならば、この一文が、人間の考えや感情から生み出された言葉ではない、ということが明らかになります。
創世記の最初のこの一文から、私たちは「聖書を通して、私たちは神の創造の物語(真実)を聞き、それを体験することになる」ということをも教えられます。
 神が天地を創造されたということを、いきなり聞くと、どのように受け止めてよいか分からず、戸惑うというお方もおられるかもしれません。
「天地を創造したという、その神ってどんな存在?」という疑問が浮かぶかもしれません。その疑問に対する答えは、聖書全体が、特に新約聖書の福音書と言われる書物を中心にして、答えを提供してくれています。

ですから私たちが聖書を読む(聖書の言葉を聞く)ということは、「神とはどのようなお方か」ということを、私たちが繰り返し聞き、学ぶという過程でもあります。
わたしたちが聖書の言葉、すなわち主なる神の言葉に立って生きていこうとするとき、私たちに求められるのは、私たちが心を開く、ということです。
私たちは人生経験を重ねるほどに、自分なりの経験や考え、また自分の実力や能力といったものも段々と身につけていきます。
時には、聖書が言うことが、その自分の考えや経験、自分の感覚とは相いれない、ということがあるかもしれません。
そのような時に、心を閉じてしまうのではなく、一旦心の扉は開けた状態にしておいて、「この言葉はどんな意味があり、私とどんな関係があるのですか」と言って、素直に神に尋ねる、また他の信仰者に聞いてみる、という姿勢を持つとよいと私は思います。
最終的に、神を信じ、神の創造の御業を信じることは、信仰によって与えられるものです。そして信仰は、私たちが自分自身の思いや考えに固執せず、ある意味自分を捨て、心開き、神を心の中に受け入れることによって、私たちに与えられます。

新約聖書のヘブライ人への手紙という書物の11章3節に次のように書かれています。

ヘブライ人への手紙11章3節
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

 信仰によって、神の創造の業を私たちは信じ、そして神が創造したこの世界の中に私たちは生かされているということの驚きと、その喜びを分かちあっていきましょう。
 創世記の冒頭である今日の箇所には、神が最初に言われた言葉が記されています。記念すべき神の第一声(私たち人間に伝えられている、という意味での第一声)は、「光あれ」let there be lightでした。

 3節「光あれ」

神の言葉によって光が現れました。神の光がない状態が2節に書かれています。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 神の光が無い状態は混沌(形なく、虚しい、秩序の無い状態)であり、闇です。しかし神はこの世界に神の光が輝くようにしてくださいました。
  混沌とした闇の中で私たちは生きていくことができません。秩序のない暗闇のなかで、私たちはどこへ進んでいけばよいのかが分かりません。
 しかし神は光をお造りになり、私たちに神の光に従って、その光の中を歩んで生きるようにしてくださいました。

  新約聖書では、この光について、次のように言われている箇所があります。
コリントの信徒への手紙二 4章6節です。

「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

 光とはすなわちイエス・キリストの光だ、イエス・キリストの栄光(神の栄光)の光だと、言うのです。
神は混沌と闇ではなく、光がある世界を創造されました。そして神は私たちひとり一人も、その光、すなわちイエス・キリストという光を心の中に頂いて生きる者となるように創造されました。
 イエス・キリストという光が、私たちに先立って進み、私たちがどこへ行けばよいのか、どう生きればよいのかを指し示してくださいます。
 キリストによって示される道を私たちが見ることができるため、私たちは聖書の御言葉を読んで、祈るのです。
祈りとみ言葉を通して、神すなわちキリストの光によって照らされる道を私たちが選び、その道を私たち共に歩んでまいりましょう。

 今日の箇所は創世記1章1~5節までですが、1章全体を通して神が世界のあらゆるもの、人を含む生きる物をも、神の定めた順序に従って創造されたことが描かれています。
  1章31節の前半に次のように書かれています。

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。

 聖書はこのように、神がこの世界のあらゆるものをお造りになり、そして神から見て、それらは全て“極めて良かった”と言うのです。
 神が造られたこの世界と、そしてその世界にあるもの、そこに住むものはすべて神が造られたのであり、それらはすべて神の目から見て“極めて良い”ということです。
 私たちの目には、私たちの住む社会や世界が、またそこで起きていることが良いものだとは思えないことも沢山あります。
 特に、人と人とが集団同士で、あるいは国同士や組織同士で争う悲惨な戦争が世界で絶え間なく続いている現実を見ると、そんな世界が極めて良い、とは信じられないこともあるとわたしは思います。
 ここで、今年度の私たちの教会の標語、そして関連聖句の詩編19篇8~9 (7~8 NIV)の言葉を聞いてみましょう。

「主の御言葉に立つ」
詩編19篇8~9
主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。

 詩編19編の該当箇所で、主の律法、定め、命令、戒めと書かれているのは、すなわち主の御言葉です。
 神の光はどこにあるのでしょうか。悲惨で残酷な現実で溢れているように私たちの目には映る世界の一体どこに、神の光と希望があるのでしょうか。
 それは、私たちが、私たち自身の考えや自分の目に見えることだけを通して世界を見るのではなく、主の御言葉(聖書の御言葉)を通して世界を見る時に、そこに神の光と希望があることを私たちは認めることができるようになります。
 私たちが主の御言葉に依り頼み、御言葉を頂く時、神の光が確かに世に輝いており、神の創造の業が“極めて良い”ものであることを認めることができるようになるのです。
 私たちが信仰によって、神の創造の良き業の一つ一つを認めることができるとき、その度に私たちの身の回りから、混沌ではない神の平和が造りだされていくのです。
 「初めに、神は天地を創造された」。この言葉は真実であり、希望です。
神が創造された天地、世界は“極めて良い”ものです。神が創造された世界に生きる喜びを、御言葉の光を通して私たちはいつも豊かに頂いてまいりましょう。