2024年3月30日土曜日

2024年3月31日 主日イースター礼拝

前奏
招詞 創世記2章7節
讃美 新生讃美歌 232番 カルバリ山の十字架につきて
主の祈り
讃美 新生讃美歌 240番 救いの主はハレルヤ
献金
聖句  ヨハネによる福音書2019~23
祈祷
宣教 「聖霊を受けなさい」
祈祷
讃美 新生讃美歌 241番 この日主イエスは復活された
頌栄 新生讃美歌 674番 
祝祷
後奏

 イエス・キリストの復活を記念し、お祝いするイースター(復活祭)の礼拝を今日私たちは献げています。
 イエス様は、人間の罪を背負い、その罪を赦すために、十字架に架かって死んでくださいました。
 それは神の子イエス・キリストにとっても、大変厳しく、苦しいことでした。
 「イエス様は神の子だったのだから、そして死んで復活することを知っていたのだから、十字架にかけられても怖くはなかったはずだ」という意見があります。

 しかし、わたしにはとてもそうは思えません。確かにイエス様はご自分が捕まり、十字架にかけられて死ぬこと、そしてその後に復活することを弟子たちにも前もって予告しておられました。
 しかし、それでもイエス様は、人々に捕らえられる前、ゲッセマネという所で必死に祈られました。マルコ福音書14章32節から42節までで描かれるその場面でイエス様は次のように祈っています。
 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)

イエス様は人となられた神です。イエス様は神でしたが、同時に完全に人間にもなられたのです。それはどう考えても、私たち人間では完全に理解することはできない不思議な出来事ですが、真実なのです。
 そのように、イエス様は神であると同時に完全に人でもありましたから、全ての人の罪を背負う(全く罪のない清いお方が、罪を背負うという経験をされる)という、その使命は、私たちが想像できないほどに辛く、苦しく、悲しい、重いものであったはずです。
 ご自分に課せられたその使命をイエス様は全うして、十字架の上では「成し遂げられた It is finished (NIV)」と言って、息を引き取られました。(ヨハネ福音書19章30節)

 聖書は、イエス様が十字架の上で、無残に殺されたその出来事をはっきりと伝えています。キリスト教会は、今現在にいたるまで、ずっと十字架を私たちの信仰を表わすものとして掲げ続けています。
 それは、「十字架の上で成し遂げられた、主イエス・キリストによる私たちの罪の贖いと赦しの業によって、私たちは罪赦され、生きるものとされた」という信仰を私たちがいつも思い起こすためです。
 イエス様が十字架にかけられたのは金曜日でした。それから三日目の日曜日の朝、主イエスは復活されました。

 今日私たちはイエス様の復活を心に思い起こして、復活の力と希望によって、新たに生かされる経験を、頂いていきたいと願います。
 今日の箇所は、イエス様が十字架にかけられて死んでから三日目の夕方でした。弟子たちがユダヤ人を恐れて、彼らは家の中にこもって戸には鍵をかけていた、と書かれています。

彼らがユダヤ人たちを恐れた、というのは、自分たちが先生として従っていたイエス様が十字架刑で処刑されたので、「自分たちも捕まってしまうのでは?」という恐れの中にいたのでしょう。
それは一体、どれほどの恐怖であったでしょうか。彼らは正に自分の命が奪われるかもしれない、という恐怖の中にいたのです。
そしてまた、彼らは自分たちがそれまで信じてきたことが、完全に打ち砕かれるという衝撃の中にもいました。肉体的な死も恐ろしいですが、大切にしていた精神や理想が死ぬ、ということも大変恐ろしいことだと私は思います。
彼らはイエス様の教えを信じ、そしてイエス様がいずれ彼らにもたらしてくださるもの(と彼らが信じていたもの)に全てを(命を)懸けていました。

それはイエス様が、やがてその圧倒的な力で、ユダヤを支配しているローマ帝国を打ち倒し、神の国を打ち立て、その時には、イエス様に従ってきた自分たちも高い地位に引き上げていただける、ということでした。
しかし、そのように信じてきたことは全て打ち砕かれ、もはや何の望みも彼らには残っていなかったのです。
「一体、私たちは今まで何を信じて生きて来たのだろう。これから、どうすればよいのだろう」と途方に暮れながら彼らは集まり、戸には鍵をかけて家の中で怯えていることしかできなかったのでしょう。
彼らが戸に鍵をかけていた、というのは、彼らの心が閉ざされてしまっていた状態をも表すと私は思います。
「もう何も信じられない」、あるいは「何も信じたくない」という思いで彼らの心の戸は閉じられ、自分の中に完全に閉じこもってしまっていたのです。
 今、私たちはどうでしょうか。こうして教会に集う私たちの心は開かれているでしょうか。私たちの心は主に対して、そして共に集う私たちお互い同士の間で心は開かれているでしょうか。
私たちはそうでありたいと願います。私たちは、どうしたら心を神に開き、また人に対しても開くことができるのでしょうか。
それは復活の主イエス・キリストを信じ、復活の主を私たちの只中にお迎えすることによって可能になります。わたしたちは、どのようにイエス様をお迎えしますか?

今日の聖書箇所では、戸を閉じていた彼ら弟子たちの真ん中にイエス様が来て、立たれました。
戸は閉まっていましたが、復活のイエス様は、全く新しい体に復活していたので、この世の物理的な障害には制限されずに行動することができたのでしょう。
 イエス様は彼らの真ん中に立たれました。本来、神は、私たち人に対して信じて信仰を持つようにと促すため、私たちの心の中に無理やり入ってくることは、なさいません。
 ヨハネの黙示録3章20節に、戸口に立って戸を叩くイエス様のことが次のように書かれています。
 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
 イエス様は私たちの心の戸の前に立たれ、戸を叩いて、私たちが内側からその戸を開くのを待っておられるのです。イエス様は無理やり私たちの心の中に入って来ることはなさいません。
 キリストが私のために死んでくださった、ということを信じて生きていくか、その真実を拒絶して生きていくか、を選択するのは私たち自身です。神はその選択を私たちに強制はされません。

 しかし復活日の夕方、イエス様は、言わば無理やり、弟子たちが鍵をかけていた戸をも通り越えて、弟子たちの前に復活したそのお姿を現されました。
 それは、主の復活が、弟子たちや人々の想像を全く越えた、神の御計画によることをはっきりと表わすためでした。
“主の復活から全く新しいことが始まる”、“神の主導権によってそれが始まる”ということが示されるため、イエス様は閉じられた戸を通って、弟子たちの前に姿を現されたのです。

 弟子たちの真ん中に立たれたイエス様が次のように言われました。
 「あなたがたに平和があるように」。イエス様が復活したのは、弟子たちに、そして私たちに平和を与えるためでした。
 平和とは、壊れた関係が回復(修復)されることです。心と心が結ばれた強い絆、豊かな関係性の中に再び迎え入れられるということです。
聖書は、最初の人であるアダムとエバが犯した罪のため、人は神から離れてしまったことを伝えています。原罪と言われるその罪を、私たちは皆背負っています。
しかし、その原罪を抱えたまま、神から離れたままで人が生きることを神は望まれませんでした。

神は、ご自分の独り子であるイエス・キリストを世に送り、御子の命に代えてでも、私たちを救いたい、と望まれたのです。
そのことは、何度でも、おそらく私が牧師でありキリスト者として生きる一生の間、繰り返し皆さんにお伝えし続けなくてはならないことです。
そして、弱く欠けのあるこの私でも、神のそれほどまでのご愛に少しでも応えて生きることができるように、そのように努力をしたいと私は願っています。その思いは、キリスト者である皆さんも同じはずです。

そして、まだイエス様を主と信じてはおられないお方も、やがて主を信じる告白へと導かれ、イエス様が十字架の上で死んでくださったので今の私の日々の命がある、という信仰へと導かれてほしいと、私たちは願っています。
復活したイエス様は私たちに、平和を与えてくださいました。もういちど、私たちから離れた(壊してしまった)神との関係に入るという平和です。
そしてもう一つ復活のイエス様が私たちに与えてくださったのは、喜びです。
イエス様は弟子たちにご自分の手と脇腹をお見せになりました。そこには釘と槍(やり)による傷跡が痛々しく残っていたはずです。その傷跡によって、弟子たちはそのお方が確かに彼らの主であることが分かったのです。
十字架にかけられて無残に死んだ(殺された)主が、確かに肉体をもって甦ったということが、その手と脇腹の生々しいその傷によって、弟子たちに確信されたのです。

弟子たちに、“人々は(自分たちも含む)イエス様を殺したけれども、この方の命を本当に奪うことは誰にもできない”ということが知らされたのです。
そこから大きな真の喜びが弟子たちに与えられました。主のお命を取ることは誰にもできなかった、そしてその主を信じる自分たちの命を取ることも、誰にもできないという喜びが沸き上がりました。

その喜びに、今の私たちも信仰によって与ることができるのです。

 イエス様は弟子たちに息を吹きかけて次のように言われました。
「聖霊を受けなさい。。。」

イエス様が彼らに息を吹きかけられたのは、新たな命が吹き込まれたことを表わします。
創世記で人が最初に神によって造られた時、人は神から神の息を吹き入れられて生きるものとなりました。(創世記2章7節)
復活のイエス様も、弟子たちに聖霊という命の息吹を与えてくださり、新たに生きる命を与えてくださったのです。
私たちも主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストに真ん中にいて頂く信仰によって、神の息、命の息である聖霊をいつも頂くことができます。

 主は復活されました。そして主の復活を信じて生きる者も、やがて主と共に復活します。

それはただの夢物語でなく、その希望を元にして私たちが今この地上での生の現実、厳しい現実を精一杯生きることができる力なのです。
 主イエス・キリストは復活されました。人間のいかなる邪悪な思いや悪の力も、主を完全に無き者にすることはできませんでした。
 私たちは毎週の日曜日、主が復活した日曜日に礼拝を捧げます。今日は特別なイースター礼拝ですが、毎週毎週の日曜日が、主の復活に私たちが共に預かる特別な一時です。
私たちは、共に礼拝することを通して、主に心を開き、また信仰の家族や隣人に対しても心を開いていきたいと願います。
私たちは、復活の主を信じ、復活の主イエス・キリストをいつも私たちの心の中に、この礼拝の只中にお迎えいたしましょう。
 そして「平和があなたがたにあるように」と弟子たちに言われたイエス様のお言葉を、今の私たちにも向けられた言葉だと信じ、主の平和が私たちの間で、そして社会と世界でも実現していくことを祈り求めていきましょう。
一度はご自分を完全に裏切った、本当に弱々しい卑怯な弟子たちを、イエス様は見捨てることなく、再び彼らの前に現れて、聖霊を与えて再び生かし、主の赦しを告げる使者としてくださったのです。
私たちも、主の赦しの御業、復活のイエス・キリストを世に宣べ伝える現代の使者として召され、遣わされています。その召し(calling)に、私たちは喜びをもって応えて参りましょう。

 イースター、おめでとうございます!イエス様、感謝いたします!

2024年3月23日土曜日

2024年3月24日 主日礼拝

前奏
招詞  イザヤ書53章5節
讃美  新生讃美歌 232番 カルバリ山の十字架につきて
主の祈り
主の晩餐
讃美  新生讃美歌 主の流された尊い血しお
献金
聖句  ヨハネによる福音書11章17~27節
祈祷
宣教 「わたしは復活であり、命である」
祈祷
讃美  新生讃美歌 321番 あだに世をば過ごし
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏

今週一週間は、キリスト教では“受難週Passion Week”言われる週です。イエス・キリストが十字架に架かって死なれた出来事を、キリスト者が特に思い起こす一週間です。
イエス様が十字架にかかるため、ゴルゴダの丘(処刑場のあった場所)へと向かって歩まれたその道のりも、私たちは覚えます。
キリスト教は、イエス・キリストが死から甦った、主の復活から始まりました。復活により、死は私たちにとって全ての終わりではなく、むしろ始まりであることが示されました。
「死ねば全てが終わり」という考えは、イエス・キリストの復活によって覆され、キリストの復活を信じる者は、死が新しい始まりであるという希望の中に生きることができるようになりました。

 そのイエス・キリストの復活を記念し、お祝いするイースター(復活祭)が今年は来週の日曜日の3月31日です。
 復活の前には、イエス様が十字架を背負って、ゴルゴダの丘と言われた場所で十字架刑に処せられた出来事がありました。
受難週が始まる今日、イエス・キリストのご受難とその復活について、改めて私たちは思いを巡らせ、聖書の御言葉から教えられていきましょう。
イエス様は、神の国を人々に伝え、多くの病人を癒したり、人々から悪霊を追いだしたりという業をしながら、やがてご自分が十字架に架かって死ぬ、ということをご存じでした。
福音書の中には、イエス様が生きておられた時に、主にご自分の弟子たちに、ご自分が十字架にかけられて死に、その後に復活すると予告をしておられたことが描かれています。

福音書では、イエス様は弟子たちに、ご自分が十字架にかけられて死に、そして復活することを三回予告された、と書かれています。
マルコ福音書の10章32節から34節に、イエス様がご自身の死と復活を三度目に予告した場面が、次のように書かれています。

32一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
33「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
34異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

イエス様ははっきりとそのように予告しておられました。イエス様が、祭司長や律法学者たちという、ユダヤ教の権力者たちに引き渡され、(最後はローマ帝国の権力によって)侮辱され、鞭打たれて、殺される、そして復活することは、イエス様に課せられた、天の父なる神からの使命であったからです。
しかし、弟子たちにはその意味がよく分からなかった、あるいは、そのことを受け入れるのを恐れた、あるいはペトロのように「主よ、そんなことがあってはなりません」と言って、イエス様に反対した、とも聖書には書かれています。
 神であり、救い主であるお方が、人間の手によって殺されるということは、普通に考えればおかしいことです。なぜ、神が人の手によって殺されなければならないのか?
 しかし、それが神がお定めになった、私たち人の罪が赦され、私たちが滅びの道から救われるための、神の御計画だったのです。

 イエス様はご自分の弟子たち以外にも、ご自分が復活することを予告したことがありました。それが今日の聖書箇所、ヨハネ福音書11章の、ラザロという男の人が死んだ場面です。
 ここでイエス様は、ご自分こそが復活であり、命であると明言をしておられます。
ここで亡くなったのは、ラザロという男の人でした。ラザロには、マルタとマリアという姉妹がいました。
イエス様は、ラザロたちと特に親しかったようです。11章5節には、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と書かれています。
11章の初めに、このラザロが病気になっていたことが描かれています。ラザロの病状はかなり悪かったようです。そしてその知らせが、人を通して別の町にいたイエス様にも伝えられました。
しかし、イエス様は、ラザロが病気だという話を聞いても、すぐにはラザロがいたベタニヤへ行こうとはされませんでした。
今日の箇所に書かれている通り、イエス様が、ラザロのところへやってきたのは、ラザロが死んでもう4日経ったときでした。

当時は、三日間の間は、死んだ(と思われた人)が生き返る(蘇生)可能性があると考えられていました。
しかし死後四日経っていたということは、ラザロは死んだということが人々によって確定させられていた、ということです。
19節には、ラザロの姉妹だったマルタとマリアのもとには大勢の人たちが来て、彼女たちを慰めていた、と書かれています。
最愛の兄弟を亡くしたマルタとマリアの悲しみに寄り添い、彼女たちの苦しみを和らげようと、多くの人たちが来ていたようです。

悲しい時、辛い時に、私たちはお互いに慰め合い、寄り添い合うことができるのは幸いだと思います。
家族を亡くした悲しみがそんなに簡単に癒されるものではありませんが、友人や知人からの心からの慰めの言葉は、私たちの心を確かに癒してくれます。
私たち教会の群れも、互いの悲しみと苦しみに寄り添うことができる、そんな信仰の家族でありたいと私は願います。
姉のマルタがイエス様が来られたと聞いて、迎えに行き、次のように言いました。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」
マルタは、先に人をイエス様のところへ行かせて、兄弟のラザロが病気であることを伝えさせていました。マルタは(妹のマリアも)イエス様がすぐに来てくれることを期待していたでしょう。

しかし、イエス様はすぐにはおいでになりませんでした。なぜイエス様がすぐにラザロの病を癒しにお出でにならなかったのか、という疑問をマルタは拭うことができなかったのでしょう。
ですから、「もしここに(あなたが)いてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言って、主イエスを非難する思いをマルタは隠すことができませんでした。
わたしたちも、神様に、“今すぐ助けてほしい”、“今すぐ、この問題や悩みを解決してほしい”と願っても、神の助けがすぐには与えられないことが、多くあると思います。
そんな時、マルタのように、神様を少しは非難したくなるように思う時が私たちにもあるかもしれません。
しかし、神には神の時と方法があります。私たちが聖書から教えられることは、神には私たちの思いを越えた最善のご計画がある、ということです。

私たちにとっては“神が来られるのが遅い。神の助けが差し伸べられるのが遅い”と思えても、神が備えてくださる最善の時と方法を私たちは信じたいと願います。
イエス様はマルタにお答えになりました。
「あなたの兄弟は復活する」(23節)
マルタは答えました。
「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)
  ユダヤ人の間では(全ての人ではありませんでしたが)、復活が信じられていました。イエス様も、これより以前のヨハネ5章28節~29節で次のように言っておられました。

28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、
29善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

マルタは、そのような復活があるということは聞いて知っていました。彼女がそれを“信じて”いたかどうかは分かりません。
マルタは、ただ“わたしはそれを知っています(存じています)”と言っているからです。マルタは復活を知識として知っていましたが、それが彼女にとっての本当の信仰にはなっておらず、復活の恵みについては分かっていなかったのだと思われます。
聖書に書かれていることを知識としていくら沢山知っていても、聖霊を通してその意味が明らかにされ、御言葉の力が本当に自分を生かすものになっていないのならば、それは信仰とは言えません。
私たちは聖書の言葉を聞き、御言葉を心に蓄えることで、御言葉が自分を支え、慰め、励ます本当の力となることを、経験していきたいと願います。そのようにして、御言葉によって信仰が成長させられ続けるのです。

イエス様がどのようにマルタにお答えになったか、聞いて見ましょう。(25~26節)

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
イエス様はここでは、「わたしは復活する」あるいは「わたしは生きる」とはおっしゃっていません。
イエス様は、「わたしは(が)復活であり、命である」とおっしゃっています。復活とは何なのか、命とは何なのか?その答えはご自身である、と言うのです。
イエス様ご自身が復活そのものであり、命そのものなのです。イエス・キリストにこそ、一度死んだもの、もう終わったと思われた状態に、新しい命を吹き込む力がある、ということです。
ですから、生きていてキリストを信じる者は、だれでも決して死ぬことがないのです。ここで言われる“信じる”とは、“キリストの中で生きる”という意味です。

聖書の言葉が、ただの知識としてではなく、聖書の言葉が本当に魂の糧となる時、私たちは生きます。
自分中心の生き方でなく、キリスト中心の生き方へ変えられることで、私たちはキリストの中に生きるものとなります。キリストの中に生きるとは、キリストの復活に与るということでもあるのです。
そのことを信じるか?とイエス様はマルタに向かって、そして私たちひとり一人に向けて、今も語りかけておられます。
 その問いかけに、「はい、信じます」と私たちは日々、新たな信仰をもって答えていこうではありませんか。
 受難週の今週、イエス様が私たちの罪の贖いのため、私たちが死んで滅びず永遠の命に生きることができるため、十字架にかかってくださったその犠牲の出来事に思いを馳せつつ、一日一日を過ごしてまいりましょう。

2024年3月16日土曜日

2024年3月17日主日礼拝

前奏
招詞  ホセア書6章6節
讃美  新生讃美歌232番 カルバリ山の十字架につきて
主の祈り
讃美  新生讃美歌227番  カルバリの丘へと
献金
聖句 ルカによる福音書6章1~11節
祈祷
宣教 「安息日にしてはならないこと」
祈祷
讃美  新生讃美歌 230番 丘の上に立てる十字架
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏

 今日の聖書箇所では、安息日(ユダヤ教の安息日:土曜日)に、イエス様と弟子たちが麦畑を通って行きます。 そこで、弟子たちは空腹だったのでしょう、麦の穂を摘んで、手で揉んで食べたのです。(おそらくイエス様も食べたのでしょう)
  その麦畑は誰かの所有物であったはずです。しかし、イエス様の弟子たちはその麦の穂を摘んで、揉んで食べました。
  それは、聖書の律法で許されていることでした。旧約聖書『申命記』23章25節~26節(24~25 NIV)に以下のように記されています。
 
隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。
隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。
これは、人が本当に空腹である時、他者(隣人)の畑の作物を取って食べてもよい、という戒めです。その畑の所有者も、空腹である隣人を助けることをよしとせねばならない、という神の戒めです。
 ただし、申命記のその戒めは「籠にいれてはならない」、「鎌を使ってはならない」と言って、本当に空腹を満たす以上に麦を取ることを禁じています。
 その戒めは、私たち誰もが、必要以上に欲しがるという貪欲の罪を抱えた者であること、必要以上に“貪る”という罪を犯し得る者であることを思い起こさせます。

 そのうえで、人は誰もが、本当に必要な食料、生きる上で必要な食料に不足してはいけない、そうならないように努めるのが共同体の務めであると、神がお定めになったのです。
 しかし、麦畑の中を通り、麦を取って食べていたイエス様の弟子たちの行動を咎めて(非難して)質問してきた人たちがいました。
ファリサイ派と言われた、聖書の律法を厳粛に解釈していた人たちが、麦を取って食べているイエス様の弟子たちに「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と聞いたのです。
 その日は安息日でした。安息日は、神によって定められ、イスラエルの民たちが代々守るようにと神によって厳格に定められた戒めでした。
  旧約聖書の『出エジプト記』の中で、神がモーセに十戒の言葉を告げます。十戒の中に安息日についての戒めが次のように記されています。

 出エジプト記20章8~11節 (Exodus 20:8~11)
8安息日を心に留め、これを聖別せよ。
9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

 十戒の中でも、安息日に関する戒めは、以上のように比較的多くの分量で、細かく定められています。
  ファリサイ派や律法学者と言われた人たちは、その戒めを厳格に守るために、何が(どのような行為が)“仕事”に該当するのか、ということを定めました。
  その定めには、“一日の間に歩くことが許される距離”というのもあったそうです。それは大体一キロメートルぐらいであって、それ以上の移動は“仕事”と見なされたと言われます。
 そして麦の穂を摘み、揉んで実を取り出すという行為も、それは“収穫作業”という労働だと見なされていたのです。
 ファリサイ派たちは、“なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか”と聞きました。
  彼らは「あなたたちは安息日を守らずに律法違反を犯している!」と言って、イエス様と弟子たちを非難したのです。

 ここでは何が起きているのでしょうか。ここで起きているのは、相手のことを思いやる共感力の欠如だと、私は思わされました。
  安息日の戒めについてはイエス様の弟子たちもよく知っていたはずなのです。イエス様は既に神の言葉を大勢の人に教えておられ、教師としての(そして病を癒す治癒者としての)評判が広く知れ渡っていました。
 イエス様と弟子たちが、重要な安息日の戒めと、その適用の解釈を知らないはずがありません。通常の“収穫”は安息日が禁じる労働に該当する、ということもイエス様も弟子たちも知っていたはずです。
  そうであれば、それでもなおイエス様の弟子たちがそこで麦を取って食べたというのは、彼らがそれほど深刻に空腹であったということです。
 ファリサイ派の人たちは、“なぜ安息日にしてはならないことをするのか”と非難して聞く前に、イエス様の弟子たちの様子、その空腹の様子を見て、彼らに同情(共感)することこそが必要だったのです。
 私はよく、人をその人の見た目、うわべだけで判断してしまい、心の中でその人を裁いてしまうことがよくあります。
 その人の事情を理解しようとせず、うわべだけで「自分とは違う」と断罪してしまうのです。

 ヘブライ人への手紙の13章3節に、次のように書かれています。
自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。

 “牢に捕らわれている人”、“虐待されている人”の本当の気持ちは、本当にそのような経験をしなければ分からないでしょう。
  それでも、そのような環境に置かれたら人はどうなるのだろう、と想像力を働かせることが私たちには出来るはずです。
  思いやりを共なった想像力を働かせることにより、人を簡単に裁く罪を犯すことがないようにしたいと私は願います。
  その人をうわべだけで判断せず、またできるだけその人の立場に立とうと心がけて、神が私たちに与えてくださった、人を思いやる心を失うことなく、人と接することができるようにと、私は祈り願います。
  イエス様はファリサイ人たちへの質問に対して、旧約聖書サムエル記上21章の中で描かれている、ダビデに関する出来事に言及して答えます。
  ダビデは預言者サムエルによって選ばれ、サウルに次ぐ王様として選ばれていました。しかしダビデはサウルに妬まれて、その命を狙われるようにまでなったので、ダビデは逃亡します。

 そしてアヒメレクという祭司のところへ、ダビデは行き、食べ物をくれるようにとアヒメレクに頼みます。
そこには聖別された(特別に取り分けられた)パンだけがありました。聖別されたパンは祭司でしか食べることを許されていないものでした。
しかしダビデはそこで、自分は王から遣わされてきたなどと嘘までついて、本来祭司でしか食べることを許されないパンを手に入れました。
 聖書は嘘をつくことを奨励しているのではありません。しかし、その時のダビデは、まさに生きるか死ぬかの状況であり、聖別のパンは祭司しか食べることを許されない、という規則も、ダビデという一人の人の命の前にはその効力を失うのです。
  今日の6節からの話も、安息日にして許されることと許されないことに関わる話です。イエス様は会堂に入って教えておられました。そこに一人の右手の萎えた人、右手が何らかの原因で麻痺していた人がいました。

 その人の右手が萎えているという状態は、いますぐ直さなくてはその人の命に関わる、という問題ではありませんでした。ですから、安息日にその人を癒すことは、緊急ではない医療行為という一つの“労働”だと見なされていました。
 そこで律法学者とファリサイ人たちが、イエス様がその右手の萎えた人を癒されるかどうかをじっと伺っていました。
  もしイエス様がその人を癒したら、“安息日に、緊急でない癒しの行為という労働をしている、律法違反だ!”と言って訴えようと彼らはしていたのです。
  確かに、見た目にはその人の症状は、今すぐ直さなくては命に関わる、というものではなかったかもしれません。
 しかし、右手の萎えたその人自身は、どのような思いで、その時いたのでしょうか。その人はそれまでに、どれほどの苦しみを、それまで生きて来なければならなかったのでしょうか。

  そのようなことを私たちが想像し、その人に共感することを、イエス様は今でも聖書を通して促しておられます。
 イエス様はその人の苦しみをご覧になり、その時すぐにその人は癒されなくてはならない、と思って、神の御子イエス様はその人をそこで癒されたのです。
  5節と、9節のイエス様の言葉をわたしたちは改めて確認しましょう。

「人の子は安息日の主である。」

「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」

 「安息日に何をしていいのか、してはならないのか」~そのように、宗教的規則を守るかどうかということだけが重要になると、そこからは安息日本来の恵みと喜びは失われます。
今日の箇所は、“戒め”、あるいは”宗教的な規則”、そしてそれらを守るとはどういうことか、ということがテーマになっている箇所です。

宗教に対して一般的に持たれているイメージは「色々な規則に縛られる生活」であるかもしれません。
 「礼拝に毎週行かなくてならない」、「献金しなくてはならない」、「聖書を読まなくてはならない」などなど。
 しかし、イエス・キリストに繋がる信仰者は、数々の“~しなくてはならない”という生き方ではなく、キリストによって神の子とされたという喜びに基づいた、自由な生き方が出来るようになります。

 キリストにある信仰者は何事にも自由に生きることができる者だと言えます。キリストにある自由、真の自由を頂いて生きることができる信仰者としての幸いを、私たちは改めて覚えましょう。
 安息日も、その他の神の様々な恵みも、私たちがそれらを通して神の愛と憐れみ、命の救いを得るためにあります。
 神から頂く安息の恵み、神から頂くその真の安息の恵みの中に生きる信仰を私たちは生きていきたいと願います。

2024年3月9日土曜日

2024年3月10日 主日礼拝

前奏
招詞 テサロニケの信徒への手紙一 5章9節
讃美 新生讃美歌 232番 カルバリ山の十字架につきて
主の祈り
讃美 新生讃美歌 105番 くしき主の光
献金
聖句 出エジプト記4章18~31節
祈祷
宣教 「エジプトへ戻るモーセ」
祈祷
讃美 新生讃美歌 255番 わが罪のために
頌栄 新生讃美歌 674番
祝祷
後奏

神がモーセに現れて、エジプトで奴隷生活を送りながら苦しんでいる同胞のイスラエルの民たちを、エジプトから導き出しなさいと、命令されました。
 そのころモーセは、ミディアンという地方で羊飼いとしての生活をしていました。約40年間モーセはミディアン地方で羊飼いとしての生活をし、年は80歳になっていました。
モーセは神の命令に従うことを何度も躊躇しましたが、神はモーセに数々の徴(しるし:奇跡)を見せて、イスラエルの民たちや、エジプト人たちもモーセの言うことを信じるようにと全てを備えてくださいました。
 そしてモーセは、ようやく神の言うことを受け入れ、エジプトへ行き、イスラエルの民たちを救い出すという神の御計画に仕えることを決意しました。

 モーセがそのような決心をして、最初にしたことが今日の聖書の箇所(出エジプト記4章18~31節)に書かれています。
モーセは、まず自分のしゅうと(モーセの妻の父)のエトロに「エジプトへ行かせてください」と言ったのです。
モーセは、ミディアン地方を離れてエジプトへ行く前に、そのことを初めに彼の義理の父親に打ち明け、彼の理解と許可を求めたということです。
モーセとエトロの出会いは、次のようなことでした。モーセは最初エジプトを離れてミディアン地方に来た時、井戸の傍に彼は座っていました。そこへ羊の群れに水を飲ませるために、ある祭司の7人の娘たちがやってきました。(出エジプト2章)

そこで羊飼いの男たちが、娘たちを追い払おうとしたので、モーセがその女性たちを救いました。
その娘たちの父がミディアン地方の祭司であるエトロでした。(最初彼の名前は、なぜかレウエルReuelと2章18節には書かれています。彼はレウレルとも呼ばれていたのかもしれません)。
モーセは、エトロのもとに留まる決心をしたので、エトロが娘のツィポラをモーセと結婚させました。
モーセが、神から「エジプトへ戻って、イスラエルの民たちを救い出しなさい」と言われた時、モーセはまず、同胞のイスラエルの人たちが自分の言うことを信じないだろう、と言って心配しました。

そしてまた、エジプト人たちも自分の言うことを信じないだろうとモーセは思い、躊躇していました。
しかし、今日の箇所の前までで、モーセが自分がエジプトへ戻ることに関して、義理の父親のエトロは何と言うだろうか、と心配していたことについては何も書かれていません。
しかしモーセは、今日の箇所の中で、「エジプトへ戻る」という決意を、最初に義理の父親エトロに伝え、彼の許可と理解を求めたのです。
モーセにとっては、義理の父親エトロは、とても大切な存在、もしかしたら肉親の父親同然の存在になっていたかもしれません。
エジプトから言わば、流れて逃げ出してきた自分を引き受け、世話をしてくれた、という恩義もモーセはエトロに対して感じていたのでしょう。

 モーセは、神に命令され、そして神によって不思議なしるし(奇跡)を見せられ、自分がエジプトへ遣わされていくことは確かに主なる神の意志だという確信がありました。
それでもなお、モーセは義理の父エトロにまずそのことを伝え、彼の理解を得て、エトロによって送り出して欲しい、と願っていたのでしょう。
モーセは「神に言われて、わたしが決めたのだから、義理の父親の言うことなど関係ない」とは思わなかったのです。
血のつながりはなくとも、それほどの絆がモーセとエトロの間には築かれていた、と言ってよいと私は思います。

 教会では、教会員同士、クリスチャン同士のことを“兄弟姉妹”と呼び合います。それは同じイエス・キリストの神を信じる者同士は皆が神の子供であるという信仰、そして私たちは同じ信仰によって結ばれた神の家族である、ということを表わします。
 私たちが今、同じ教会で出会わされている、信仰の家族とされているのも、モーセと義理の父エトロが出会わされたように、それほどに不思議な神の導きによる出来事です。
 そのようにして出会わされ、神の家族とされた私たちが、お互いに信仰の交わりと分かち合い、そして励まし合うことができる関係を少しでも深めていくことができればと私は願います。
 「エジプトに行かせてください」とモーセに言われたエトロは、モーセにたった一言「無事で行きなさい“Go, and I wish you well.」と応えました。たった一言ですが、義理の息子の平安を心から願う、エトロの気持ちがよく表れている一言であると思わされます。
 「無事で行きなさい」の一言の背後に、エトロが、モーセがこれから行こうとしている道を覚え、祈っている姿が想像されます。
 私たちも信仰者同士の繋がりの中で、お互いを覚えて祈り合うことができる、平安と心強さの中で日々を送ることができます。

 モーセは、エトロに送り出され、そして19節に書かれているように、主から「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった」との言葉を頂きました。
 そしてモーセは妻と子供をろばに乗せ、エジプトへ向かいました。
 今日の24節から26節には、大変奇妙な出来事が記されています。妻とこどもを連れてエジプトへ向かって旅立ったモーセを、途中で神が殺そうとした、というのです。
 神の言葉に従いエジプトへと向かったモーセをなぜ、いきなり神が殺そうとされたのか?その意味合いは、私たちには分かりません。
 ある解釈としては、モーセが息子に神の民であるイスラエル人としての徴(しるし)である割礼を施していなかったのが理由であると、言われます。
 『創世記』で、主なる神がアブラハムを召して、アブラハムは生まれ故郷を離れて神の示す約束の地へと旅立ちました。
 創世記17章で、神はアブラハムに「あなたは多くの国民の父となる」と告げ、アブラハムと彼の子孫も主の契約(戒め)を守るようにと命じました。
 その一つがイスラエルの民の男子が受ける割礼でした。それを一つの徴(しるし)として、神の民イスラエルと他の民たちとが区別をされたのです。
 モーセは長くミディアン地方に住み(また幼少期から成人するまでは、エジプトの王宮で育てられたので)、イスラエルの民にとって大切なこと、主なる神との契約について、その大切さについての理解が浅かったのかもしれません。

 神は(それにしても、モーセを殺そうとは、私たちの理解を越えた厳しさですが)、モーセ自身もイスラエルの民であり神の子であること、そして彼の子も神との契約とその恵みの中に生かされている者であることを思い起こさせようとしたのではないでしょうか。
 そこでモーセの命を救ったのは、何と妻のツィポラでした。ツィポラが息子の包皮を切り取り、割礼を施したことで、主はモーセを放されました。
 モーセの妻が、そこでモーセの命を救う役割を果たしたということです。もしツィポラがいなければ、そこでモーセが死んでいたかもしれない(おそらくそうなのでしょう)、と思うと、女性であるツィポラが果たした役割の重大さが、改めて私たちに知らされます。
 モーセの妻であり、女性であったツィポラは、当時の文化、風習では女性であるがために、非常にその立場は弱かったと思われます。
 しかし聖書は、ツィポラの咄嗟(とっさ)の判断と行動力が、後にイエスラエルの民たちをエジプトから導き出すという偉大な働きをしたモーセの命を救った、という大変重要な出来事を伝えているのです。
 モーセに比べ、妻のツィポラはその役割が小さく、重要でない、脇役のような存在では決してなかったのです。
 イエス様が話された有名な譬え話の一つに、一匹の迷い出た羊の話があります。
 ある人が100匹の羊を持っていて、もし一匹が迷い出ていなくなったら、その人は99匹を山に残しておいて、いなくなった一匹を見つかるまで探す、という話です。
 その人とは神様のことです。神は“100匹のうち1匹ぐらい、大切ではない”とは決して思われないお方です。

そのようなお方が私たちの神です。私たちひとり一人の存在も、そして私たちが果たすことができる役割も、神の前には等しく尊く大切なものだと、私たちは信仰によって信じることができます。
 私たち誰もが、神の前にかけがえのない存在です。今の私たちの教会の群れの中でも、誰もが等しく重要な役割を(たとえ、人の目にはそうは見えなかったとしても)神から託されている、ということを私たちは覚えたいと願います。
 ツィポラによって命を救われたモーセは、その次に荒れ野で、(神の山で)兄であるアロンに神の導きによって出会わされます。
 「話すのが苦手なあなたに代わって、兄弟アロンをあなたに私が遣わす。彼(アロン)に話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい」と神は既にモーセに言っておられました(4章15節)
そしてその通り、モーセはアロンに会うことができました。そして神の言葉の持つ力強さ、神の言葉は真実であり信頼できるのだ、ということをモーセは彼の実際の経験を通して、また家族など他者からの助けを通しても、段々と学んでいくことができたのでしょう。

 モーセはアロンと共に出かけて、イスラエルの人々の長老たちを全員集めます。そこで神の言われた通り、アロンが、主がモーセに語られた言葉をすべて語り、しるし(奇跡)も見せました。
 そこで「民は信じた they believed」と31節に記されています。神の言葉がイスラエルの人々に伝えられ、そして彼らはその言葉を信じたのです。
 私たちは、ここまで出エジプト記の物語を読み進めてきて、モーセに伝えられた神の言葉がアロンの口によってイスラエルの人々に伝えられるまでに、どれほどの出来事があったのかを知っています。
 モーセは、最初とにかく恐れて、躊躇して、神の言葉を人々に伝える役割を自分が担えるとは信じませんでした。
しかし、忍耐強く、憐み深い神が、最後はモーセが神の言葉を信じ、また神が彼に与えて下さる他者の助けをも信じ、困難な使命を果たすために一歩を踏み出す勇気を、モーセに与えてくださったのです。
神の言葉はそのように力があり、神の言葉は確かに真実です。神の言葉が私たちに力と勇気と希望を与え、日々を歩ませてくださいます。
そのような神の言葉が私たちには豊かに与えられています。信仰の助け手、神の家族も私たちには与えられています。
ですから私たちは、自分自身の弱さや疑い深さに囚われてしまうことなく、神の言葉の強さと豊かさに信頼し、信仰の日々を歩んでいきたいと願います。

2024年3月3日日曜日

2024年3月3日 主日礼拝

前奏
招詞  エゼキエル書11章9節
讃美  新生讃美歌232番 カルバリ山の十字架につきて
祈りの時
主の祈り
讃美  新生讃美歌134番 生命のみことば たえにくすし
献金
聖句  ルカによる福音書5章33~39節
祈祷
宣教 「新しいぶどう酒は新しい革袋に」
祈祷
讃美  新生讃美歌 656番 きみの賜物と
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏


今日の聖書の箇所で、人々がイエス様にある質問をします。
「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」
ヨハネとは“バプテスマのヨハネ”です。バプテスマのヨハネと言われた人は、イエス様に洗礼(バプテスマ)を授けた人でした。そのヨハネの弟子たちや、ファリサイ派の弟子たちは、度々断食をし、お祈りをしていました。

しかしイエス様の弟子たちは、同じ神を信じていながら、それほど断食をしているようには見えなくて、むしろいつも飲んだり食べたりしているという印象を、そのように質問した人たちは持っていたようです。
今日の箇所の前の箇所には、レビという徴税人が、収税所に座っていたところ、イエス様に「わたしに従いなさい」と呼びかけられて、イエス様の弟子になった話が書かれていました。
レビはイエス様にすぐに従い、そして彼は自分の家でイエス様のために盛大な宴会を催しました。イエス様に呼んでいただき、弟子となったことがレビはとても嬉しかったからです。
そしてその宴会には、他の徴税人たちや他の人々も大勢招かれていました。
当時、徴税人は、ユダヤを支配していたローマ帝国に協力する者として、仲間のユダヤ人たちからは裏切り者として疎まれ、憎まれる存在でした。徴税人は“罪人”と同様にさえ見なされていました。

 ファリサイ派や律法学者と言われた、聖書の戒律を厳密に(自分たちなりの)解釈をして、その通りの生き方をしようとしていた人たちが、罪人と言われた人たちと一緒に食事をしているイエス様を見て、次のように疑問を述べました。
 「なぜあなたたちは(イエス様と弟子たち)、徴税人や罪人などと一緒に食べたり飲んだりするのか」(ルカ5章30節)
 ファリサイ派や律法学者と言われた人たちは、徴税人や罪人とは一緒に食事しない、一切交際しない、と決めていました。罪人と一緒に食事することなど、彼らには考えられなかったのです。
 ですから、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に食べたり飲んだりするのか?(そうしないことが、正しいのに)」と疑問を述べました。
 イエス様は彼らに、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と答えました。
 そう言ってイエス様は、“自分たちは正しい”と思い込んでいるファリサイ派や律法学者たちに「あなたたちも含めて、全ての人が神の癒しと赦しを必要としている罪人だ」ということを教えようとされたのです。

 今日の箇所では、イエス様と弟子たちが徴税人や罪人とも一緒に食事をするし、断食もあまりしているようには見えないので、人々が心の中でイエス様たちのことを「この人たちは信仰的に劣った人たちだ」と思っていたのかもしれません。
 実際は、イエス様と弟子たちも断食をしていました。旧約の時代から、神を信じる人たちは、悲しみや苦しみ、また悔い改めの気持ちを表わすために、断食をしていました。
 イエス様自身も断食をされたことが記されている箇所が福音書の中にあります。それは、イエス様が公の伝道活動を始められる前に、荒れ野で悪魔から誘惑を受けた時のことです。

 ルカ福音書4章1~2節(マタイ4章にも、それが書かれています)に次のように書かれています。
1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

イエス様は40日間の断食をして、敢えてご自分をとても苦しい状態に追い込んで、悪魔の誘惑に、神の言葉(神の力)によって対抗しようとされたのです。
 イエス様は、ご自分の弟子たちにも、断食することを禁じたりなどはしておられませんでした。
 ただ、イエス様は断食をすることに関して、次のような注意を弟子たちに与えました。

マタイ福音書6章16~18節
16「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
17あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
18それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

断食には本来、食べ物を絶ち空腹の状態になることで、苦しみや悲しみ、また悔い改めを表わし、また空腹を通して、霊的に神の力を一層頂く、神への信頼を高める、という目的があったはずです。
 ところが、イエス様が指摘しているように、そのような霊的な目的から外れて、断食をすることが、“自分は敬虔で、信仰深いということを人に印象付けるためのパフォーマンス”になっていたのです。
 イエス様が“偽善者hypocrites”と言ったのは、イエス様が生きた当時のごく一部の特殊な人たちだけでなく、実は私たち誰もがそのような偽善者になり得ることを、私たちは心に留めなくてはなりません。
 自分自身を誇りたい、人から認められたい、という欲のために、私たちは自分の信仰さえも利用してしまう者であることを、今日の箇所から私たちは学びたいと願います。
 断食も、祈りも(イエス様は、別の箇所では、祈りについても偽善者のように言葉を多くして人前で祈らないように、とおっしゃっています)、神との関係を深めるための行為であり、決して人に自分の信仰深さを見せるための手段ではありません。
 イエス様は、断食や祈りの本来あるべき姿を弟子たちに教えました。ですからイエス様は断食自体を禁じたりは決してしていませんでした。

 しかしイエス様の弟子たちは、ヨハネの弟子やファリサイ派の弟子たちほどには、頻繁に断食をしていないように見えたので、人々は「なぜあなたの弟子たちは断食しないで、飲んだり食べたりしているのですか」と聞いたのです。
イエス様は次のようにお答えになりました。34~35節です。

34そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。
35しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」

 イエス様は譬えで答えておられます。花婿というのはイエス様ご自身のことです。
救い主イエス・キリスト、神であるそのお方が自分たちと共にいてくださるという喜びを、人々が本当に知っているかどうか、とイエス様はそこで人々に問いかけたのです。
私たちの罪を赦し、私たちと共に生きて下さる神がおられる(共に食事をしてくださる)、という喜びを前にしたら人はその時には、人は決して断食などはできず、むしろ盛大な宴会を開くものだ、ということです。
つまり、ここで問われていることは、「あなたがたは断食をしない、なぜか」と言いながら他者の信仰姿勢に疑問を投げかけるような人自身に、「あなたには本当に信仰の喜びがありますか」とイエス様は問いかけたのです。

その問いかけは、まさに今の私たちひとり一人に向けられています。時には断食もして、神からの霊的な養いを頂くことも意味があることです。
しかし、信仰の基盤として“神が共にいてくださる”、“イエス・キリストがこの私のために死んでくださったほどに、わたしは神に愛された”という喜びが本当にありますか、という問いかけを、私たちひとり一人が今一度真剣に受けとめなくてはなりません。
神のその呼びかけに、キリストにある最高の喜びを、私たちは今一度覚え、心からの感謝と喜びを神に献げようではありませんか。
 しかし、“やがて花婿が奪い取られる時”、すなわち主イエスが私たちの罪を背負って、私たちの代わりとなって十字架にかけられて死ぬ時がきます。
その時は、キリストの弟子たちは、心からの悔い改めである断食をも献げるでしょう、とイエス様はおっしゃいました。

 今私たちは、受難節(レント)の期間を過ごしています。主イエス・キリストが十字架への道を歩まれたその苦難を覚えて(実際に断食をするかどうかは別にして)、私たちは感謝と悔い改め(心を神に向ける)の時を過ごしていきましょう。
 36節以降で、イエス様はぶどう酒と革袋のたとえ話をしています。「誰も新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない」
 新しい布は、洗った時に、生地が縮みます。ですから、新しい服から切り取った布で古い服に継ぎを当てると、新しい服も無駄になりますし、洗った時にその布が古い服を引き裂いて、その古い服も駄目にしてしまうのです。
また新しいぶどう酒は発酵する時の勢いで古い革袋を引き裂いてしまう、という例もイエス様は挙げます。(革袋にぶどう酒を入れるという習慣がない私たちには、感覚的には分かりにくい譬えですね)

 この例えの意味は、イエス様は、全く新しい生き方と命を人にもたらすお方であり、イエス・キリストを信じる者は、イエス様に出会う前の古い自分のままではいられないと言う意味です。
古い生活スタイルを維持したまま、キリストの命を頂くことはできない、ということです。
 イエス・キリストを自分の中に受け入れると、自分の中心が自分ではなくなります。
自分の中心が自分であるならば、私たちは常に自分の正しさや自分の有能さを人に誇ることで、自分の価値を見いだそうとするでしょう。
 ですから、祈りや断食という信仰の行為さえも、自分を誇り自分を人に見せびらかす手段にしようとしまうのです。

 しかし、イエス・キリストを自分の心の中に受け入れ、キリストを本当に自分の中心とするならば、私たちはもう自分自身を誇ろうとする根拠を失うのです。そんなことをする必要がなくなるからです。
 キリストこそが崇められればよいのですから、キリストを信じる信仰者は、自分の行いや自分の能力を誇示することで、自分の存在価値を見いだそうとは決してしません。
 そうなれば、祈りも断食も、また私たちがこうして捧げている礼拝も、心からの喜びと、感謝の行いとなるはずです。その喜びは信仰の光となり、きっと私たちの周りをも照らすものとなるでしょう。
 私たちがキリストにある新しい命を喜んでいただいているのならば、私たちの献げる礼拝も感謝と喜びが溢れた礼拝となるはずです。そしてそのような礼拝には、自然と人々が引き寄せられて来るはずなのです。
 私たちは、イエス・キリストに出会い、キリストを信じ、キリストに心の中に住んでいただくことで、もはや古い自分のままでいることはできません。
 むしろ、主イエス・キリストによって私たちの古い“自分”という“古い革袋”は、打ち破られたのです。
キリストを中心とした生き方、キリストに導いて頂く新しい命の道を、私たちは歩んでいこうではありませんか。