2025年5月10日土曜日

2025年5月11日主日礼拝

前奏
招詞  詩編143篇10節
賛美  新生讃美歌124番 この世はみな
主の祈り
賛美  新生讃美歌 320番 輝いて生きる
献金
聖句  使徒言行録1章12~26節
祈祷
宣教  「マティアの選出」
祈祷
賛美  新生讃美歌255番 わが罪のために
頌栄  新生讃美歌676番
祝祷
後奏
歓迎・案内


今日の聖書箇所は、『使徒言行録』1章の後半です。使徒たち(イエス・キリストの直弟子たち)が復活のイエス様に出会って、そしてそれから彼らの目の前でイエス様が天にあげられた後の場面です。
イエス様は、「あなた方の上に聖霊が降って力が与えられるまで待ちなさい。エルサレムを離れず、そこにとどまっていなさい」と言われました(4節、8節)。
イエス様が天に上げられた後、今日の箇所で、弟子たちはエルサレムに戻ってきて、そして「(彼らは)泊まっていた家の上の部屋に上がった」と、書かれています。
彼らは誰の家に泊まっていたのでしょうか。そこが誰の家であったのか、正確なことは聖書には書かれていません。

おそらく、その家は、使徒たちがイエス様と最後の食事をした部屋があった家であったと考えてよいと私は思います。
使徒言行録はルカによる福音書の続編のような位置づけです、と先日私は申し上げました。
筆者であるルカは、ルカ福音書の中で、イエス様と弟子たちが最後の食事をした場所がどのようにして用意されていたのかを書いています。
ルカによる福音書22章7節から13節に、次のように記されています。その箇所を以下に私が要約いたします。
ユダヤ人たちにとって大切な祝祭日であった過越の日が近づいていました。過越は、かつてイスラエルの民たちが奴隷状態であったエジプトから解放されたことを祝う日でした。
神は、イスラエルの民たちをエジプトから去らせないエジプト王のファラオの頑なな態度のため、合計で十の災いをエジプトに降らせました。

その最後の災いが、エジプト全土の人の初子(ういご)も家畜の初子(ういご)も、全て神に打たれる(命を取られる)という災いでした。
しかしイスラエルの家だけは、その災いが通り過ぎて行った(過ぎ越していった)のです。
イスラエルの民たちには事前にモーセを通して、その災いが過ぎ越していくための方法が知らされました。
犠牲の小羊を用意して、その血をそれぞれの家の入口の門の柱と鴨居に塗るように、彼らは命じられました。(出エジプト12章)
家の門に犠牲の小羊の血が塗られていたイスラエルの家からは、初子が撃たれるという災いが過ぎ越して行き、子どもたちが守られたのです。
その出来事を記念する過越の日に、イエス様は弟子たちと最後の食事をされました。そのことは、“イエス様ご自身が“すべての者の罪を贖うための、犠牲の小羊となる”ことをも表していました。
ルカ22章の場面で、弟子たちと最後の過越しの食事をするとき、イエス様は「行って過越の食事ができるように準備しなさい“Go and make preparations for us to eat the Passover.”」と弟子のペトロとヨハネに言いました。
彼らが「どこに用意しましょうか“Where do you want us to prepare for it?” 」と聞くと、イエス様はこうおっしゃいました。

「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。
『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています』。すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい」
二人(ペトロとヨハネ)が行ってみると、イエス様が言った通りになった、とルカ福音書に書かれています。
今日の箇所の“上の部屋”も、その同じ場所だと思います。使徒たちや、他の信者たちに、祈りのための場所、礼拝のための場所が、ある人によって提供されていた、ということです。
その人が誰であったのかも聖書には書かれていませんが、“主の御用のために”という言葉に突き動かされて、自分の家を提供してくれた人がいたのです。
そしてそれは、その家を提供したその人の心を動かした神からの恵みでした。
私たちも、こうして集まることのできる祈りの場、私たちの教会が与えられていることを、本当に、今一度感謝したいと願います。

集まる場所、教会がある、ということは、決して当たり前のことではないのです。
この場所に教会が与えられたのは、過去の多くの人たちの祈りと支えによる賜物でした。
そしてこの場所に教会として今も立つことが許されていること、私たちを受け入れてくださっている近隣地域の方々の思いを私たちは決して忘れてはいけません。
“自分たちの力と信仰だけで、この場に教会として私たちは立っている”と決して思うことなく、神の恵みとして与えられ、多くの方々によって理解され、支えられて、祈りの場である教会が私たちに与えられていることに心から感謝をし、喜びたいと願います。
今日の箇所の15節に次のように書かれています。

「そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた」

使徒のうちの一人だったペトロが立ち上がって、そこに集まっていた120人ぐらいの人々に向かって語りだしたのです。
それは、ペトロがこれから信者たちの群れの中で指導的な立場に立っていくことの始まりでした。
ペトロは、イエス様の直弟子の一人として、この前に大きな挫折と悲しみを経験していました。
彼は、イエス様が捕まったとき、イエス様のことを「あんな人のことは知らない」と言って、三度もイエス様のことを拒絶したのです。
そんなペトロが、今日の箇所で、弟子たちの真ん中に立ち上がったのです。

普通だったら恥ずかしくて(公然とイエス様のことを知らない、と拒絶したのですから)、人々の真ん中に立ち上がることなどできなかったはずです。
しかし、そんなペトロが立ち上がることができました。
それは彼自身の力ではなく、ペトロのために祈ってくださっていた人がいたからでした。
その人とは他ならぬイエス様でした。ルカ福音書22章31節からの箇所で、イエス様が“ペトロが三度イエス様のことを知らないと言う”と予告された時のことが書かれています。
ペトロはその時勇ましくも「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」とまで言っていました。
その時イエス様がペトロに次のようにも言ったのです。

「シモン、シモン(ペトロの元の名前)、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」

自身満々だったペトロですが、彼が必ず挫折することをイエス様は知っておられました。
そしてたとえ挫折しても、信仰が無くならないようにと、イエス様ご自身が祈ってくださると、イエス様が約束してくださったのです。
そのようにイエス様が祈ってくださっていたので、ペトロは再び立ち上がることができ、そして他の人たちを力づける言葉を語ることができました。
私たちも、信仰が無くなってしまいそうな時や、自分への自信が打ち砕かれるような経験をするかもしれません。

しかし、そのような挫折の経験こそが、実は私たちの信仰にとって、とても重要なのです。
そのような時こそが、”信仰とは、この私が自分の力や思いによって持ち続けることができるものではない“ということを私たちが知る時なのです。

主なる神が、私たちに与えてくださるので、私たちは信仰を頂くことができます。
そしてたとえ挫折しても、躓いても、「私たちのために信仰が無くならないように祈ってくださる」イエス様がおられるので、私たちから信仰が無くなることはないのです。
そして再び立ちあがることが許された時、私たちは他の信仰者や他の人々を慰め、力づけることができるようになるのです。
 今日の箇所で、立ち上がったペトロは、彼らの仲間だったユダについて話し始めました。イエス様に最初に選ばれた弟子(使徒)はユダを含めて12人いました。

 しかし、ユダはイエス様をユダヤの当局に売り渡して、イエス様が捕まり十字架につけられることの直接のきっかけを作ってしまいました。
ペトロは、かつて自分たちの仲間だったユダがしたこと、そして彼が大変悲惨な形で命を落としたことを、今日の箇所で語っています。
それはペトロにとっても語るのが大変辛いことだったと思います。ユダの裏切りとユダの死をどう捉えるのかは、キリスト者にとって常に大きな課題です。
今日の箇所のペトロの言葉では、“ユダの裏切りと彼の死は、旧約聖書の詩編の中で預言されていた”と伝えます。

ユダの行為を最終的に裁くことは、私たち人にはできません。本当の裁きをすることができるのは、人ではなく、神様だけだからです。
ペトロは、ユダの裏切りとその悲劇的な死について、完全には理解することはできなかったでしょう。
それでも彼は他の弟子たちを励まし、先へと進んで歩んでいくための言葉を語りました。
私たちはペトロの言葉を通して、その時の使徒たちに、“仲間のユダの裏切り死を乗り越えて、次の段階へ進もう、そこから進んで生きて行こう”という思いが与えられていたことを知ることができます。
ペトロは、“今やユダは私たちと一緒にはいない。しかし、主の復活の証人となる、という大切な働きが、私たちには与えられている。

だから、ユダの代わりの人を私たちは選ばねばならない”とそこで呼びかけたのです。

 ペトロは、ユダに代わって主の復活の証人となる人を選んで、キリストの福音を語る働きが続けられなくてはならない、と言いました。
 彼らはヨセフとマティアという二人の人を立てて、そして祈りました。“その二人のうちどちらを選ぶべきか、お示しください”、と言って彼らは神に祈りました。
 ヨセフとマティアの二人については、弟子たちが祈りと話し合いによってその二人を自分たちで選んだと思われます。
 しかし、最終的に二人のうちどちらを選ぶべきか、について彼らは“くじ”という方法によって、完全に神の御心に任せようとしました。

 今の私たちは、教会の代表者や執事を選ぶときに、くじで選ぶということはしないと思います。
しかし、祈りと話し合いを続けたうえで、自分たちに最善だと思われる選択をした後で、“本当の答えを知っておられるのは主なる神様のみです”という信仰の表れとして、今日の箇所では、“くじ”という方法が用いられたのだと思います。

そして選ばれたのはマティアの方でした。
このように主は必要な時に、信仰の仲間を、福音宣教の働きを共に担うための仲間を今の私たちにも加えて、与えてくださいます。
そして私たちはたとえ挫折しても、辛いことがあっても、落ち込んでも、再び立ち上がることができます。
主イエス様が私たちたちのめに祈ってくださっており、私たちを再び立ち上がらせてくださるからです。
そして私たち人のどんな弱さや悪意があっても、復活の主イエス・キリストの福音が述べ伝えられる働きが完全に妨げられることはありません。
死んでもなお生きておられる復活の主イエス・キリストこそが、私たちを常に生かし、前へ進ませてくださいます。
私たちは、復活の主に日々生かされている者として、たとえ困難な中でも主によって再び立ち上がらせていただき、主にある信仰の喜びを世に伝える者として歩んでいきたいと願います。