2025年5月25日 主日礼拝
前奏
招詞 イザヤ書60章20節
賛美 新生讃美歌16番 み栄えあれ 愛の神
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌320番 輝いて生きる
信仰告白
献金
聖句 使徒言行録2章14~21節
祈祷
宣教 「主の名を呼び求める者は皆、救われる」
祈祷
賛美 新生讃美歌260番 み言葉もて霊の火を
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏
先週私たちが礼拝の中で分かち合った聖書の箇所は、今日の箇所の前の部分である、使徒言行録2章1~13節でした。
使徒たち(イエス・キリストの弟子たち)が一つになって集まっていた所へ、激しい風と炎のような舌という形で聖霊が現れ、聖霊が弟子たち一人一人の上に降りました。
その日は五旬節(ペンテコステ=ユダヤ教の収穫祭)の日であったので、その出来事はペンテコステの出来事、と言われます。
ペンテコステの日、聖霊が弟子たちに降り、彼らは色々な国の言葉で神の偉大な業を語りだしました。
彼らが神の偉大な業を色々な国の言葉で語ったということは、神の言葉と神の偉大な業は、世界のあらゆる国や地域へ届けられねばならない、ということの表れでした。
神の偉大な業を世界に向けて語るというその働きは、今もまだ継続してなされています。その働きを託されているのが、キリスト教会です。
教会は、神の偉大な業、神の言葉を信じる者がそこに集まり、私たちが神の言葉によって癒され、慰められ、そして強められるところでもあります。
教会は私たちが自らの罪をイエス・キリストを通して示されて、悔い改めて(神に立ち返り)、キリストによって赦されたことを知り、喜び、その喜びを共に分かち合う場所です。
そして教会は、イエス・キリストの赦しと恵みの知らせを、私たちの中だけにとどめておくのではなく、それぞれの教会が遣わされた地域へと伝えるようにという働きをも、託されています。
教会がイエス・キリストの福音を伝える重要な働きとして、御言葉の説教(礼拝メッセージ)があります。
礼拝の中で語られる説教(メッセージ)の働きは、通常はその教会の牧師が教会員から委託されて、その働きを担います。
しかし、メッセージを実際に語るのは牧師(牧師以外の信徒が宣教を託され、メッセージを取り次ぐ時もあります)だとしても、礼拝という公の集会で語られるメッセージは、決してそれを語る者の個人的なメッセージではありません。
そのことが、今日の聖書箇所の初めの部分にも、よく示されています。
今日の箇所では、ペトロ(イエス・キリストの一番弟子だった)が、人々に向かって語りかけます。
それはキリスト教会最初の説教(メッセージ)と言ってもよい語りかけでした。
父なる神が約束の聖霊を弟子たちに送り、そこでペトロが立ち上がったのです。
それは、ペトロが弟子たちの中でも優秀だったから、とりわけ強い信仰を彼が持っていたから彼が選ばれた、というのではありませんでした。
キリストの一番弟子でありながら、主を裏切って逃げてしまった、という恥ずかしい経験(みんなそのことを知っていたでしょう)を彼は持っていました。
それでもそんなペトロが主によって選ばれ、赦されて、神の言葉を語る者として立てられたのです。
今日の箇所の最初の14節を見てみましょう。
14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。
14 Then Peter stood up with the Eleven, raised his voice and addressed the crowd:
ペトロは十一人(他の使徒たち)と共に立って、話し始めたのです。実際に語ったのはペトロでしたが、彼は一人ではありませんでした。
彼はその場にいた十二人の使徒(ペトロを含めて)の代表として立ち上がり、話し始めたのです。
ペトロは、まずイエス・キリストによる聖霊の力を受けて、そして彼と共にいた仲間の使徒たちの祈りと支えの中で立ち上がり神の言葉を語ることができた、ということです。
教会の牧師のメッセージもこれと一緒だなと、私はここで改めて思わされました。実際にこうして語るのは牧師一人です。
しかし教会の牧師のメッセージは、教会員一人一人の祈りと支えによって、そしてその教会が神から託された言葉として語られます。ですから、礼拝メッセージは、教会に繋がる私たち(皆さん)一人一人が共に造り上げるものです。
ですから、特に教会員の皆さん、クリスチャンの皆さんは、「わたしはメッセージを聞く人」という思いだけでなく、語られるメッセージと説教者のために常に祈ってください。
「わたしも説教者と共に祈り、準備し、一緒に語っている」という思いをも皆さんには共有していただきたいと、私は希望いたします。
15節でペトロがこう言っています。
「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません」
15 These people are not drunk, as you suppose. It’s only nine in the morning!
ペトロがこう言ったのには理由がありました。それは、今日の前の箇所で、弟子たちが聖霊を受けて色々な国の言葉で語りだした時、次のように言って彼らを嘲った人たちがいたのです。
「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」(2章13節)。
“They have had too much wine.” (v.13)
“いろいろな国の言葉で彼らは話しているようにみえるが、実際はお酒に酔って、意味のない言葉をしゃべっているだけだ”と思った人たちが、その時いたのです。
そう言った人たちに対してペトロが語りました。ペトロは、その人たちに怒りを持って反発したのではなく、神様の言葉に基づいて冷静に(愛を持って)語りました。
神の言葉に基づいて冷静に愛を持って語る、という点は今の私たちにとってもとても大切なことだとわたしは思います。
ペトロが言ったことは次の通りでした。
その時はまだ朝の9時であったこと。だから通常こんなに多くの人が一緒にお酒を飲むような時間ではない、ということです。
朝の9時は、ユダヤ教で一日三回ある祈りの時間(朝、正午と夕方)の最初の時間でした。
ですから“普通に考えれば、朝の最初の祈りの時間に、私たちがお酒に酔っているのではないことは、しっかりと私たちを見てもらえれば分かるはずです”とペトロは冷静に説明したのです。
そしてペトロは、聖書(旧約聖書)の中から、その日の出来事が起こることが書かれていた箇所を引用して、神の言葉に基づいて、その出来事を説明しました。
17節から21節までの言葉は、旧約聖書の『ヨエル書Joel』3章1~5節の言葉でした。
そこには、”神が神の霊をすべての人に注ぐ”、と書かれていました。
そこには、すべての人に神の霊が注がれ、息子と娘(男性も女性も)は預言し(神の言葉を語り)、若者も老人も幻と夢(ビジョン)を見る、と書かれていたのです。
神の霊を受けたあらゆる人々が神の言葉をそれぞれの言葉で語りだす、ということです。
教会では、礼拝の中ではメッセージを説教者(牧師)が代表して語ります。しかし、神は霊によって心動かされた全ての人を通しても語ってくださることが、今日の箇所からも私たちにわかります。
ですから私たちは教会で互いの声に耳を傾け、互いの心を理解しようと常に努めることがとても重要なのです。
なぜなら、皆さんそれぞれが主の預言者として、神の言葉を語る可能性があるからです。
特に私たちバプテスト教会では、互いの声に聞き合い、一人一人の思いと意見を受け止め合うことを大切にしています。
そのような過程を通した祈りと話し合いを通して神の御心を私たちは求めていこうとするのです。
私たちは互いに神の家族として結び合わされるようにと、同じ教会に集められました。主の言葉の預言者として、私たちお互いを尊重し、互いの声に耳を傾け合おうではありませんか。
今日の19節~20節では、“血と火と立ち込める煙が上がる”、そして“主の偉大な輝かしい日が来る前、太陽は暗くなり、月は血のようになる”と書かれています。
そこでは、困難な苦しい時代が来ると預言されているのです。神を信じる信仰者にとっても、教会にとっても、この世界には苦しく悲しい現実、争いや困難があるのです。
いつの時代にも、またどんな人の人生にも、困難と苦しみがあります。しかし、その中で、わたしたちには変わらぬ希望が与えられているのです。
今日の箇所の最後21節の言葉、今日のメッセージの題にもした言葉をお読みします。
21主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
21 And everyone who calls
on the name of the Lord will be saved.’
“主の名を呼び求める”とは、主なる神イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを通して神の恵みに生かされて、常にその主に祈り、主に依り頼む、ということです。
私たちの目には、色々なことが間違っている、正しくない方向へと向かっているように見えるかもしれません。
悲惨で悲しい出来事で世界は溢れている、そのような現実もあります。しかし、この世界をお造りになった主なる神の救いの計画は、イエス・キリストを通して現わされたのです。
“キリストを信じ、主キリストの名を呼び求める者、主により頼むものは皆救われる、苦しみの中にも救いと希望がある”~これが聖書の約束です。
私たちキリスト教会は、聖書のこの約束の希望の言葉を、困難な現実の世界の中で、常に語り続けるのです。
神様から力を頂き、共にいてくださる神とともに、その働きをこれからも担い続けてまいりましょう。
そして教会に連なる私たち一人一人が、同じイエス・キリストの御名を崇め、御名を信じ、共にキリストの名を呼び求めてまいりましょう。