2025年5月18日 主日礼拝
前奏
招詞 イザヤ書32節15節
賛美 新生讃美歌 3番 あがめまつれ うるわしき主
主の祈り
賛美 新生讃美歌 320番 輝いて生きる
献金
報告と証し
聖句 使徒言行録2章1~13節
祈祷
宣教 「それぞれの言葉で」
祈祷
賛美 新生讃美歌272番 神の息よ
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏
歓迎・案内
「五旬祭(ペンテコステ)の日が来て、一同が一つになって集まっていると」という一文で、今日の聖書箇所は始まります。
“五旬祭(ペンテコステ)”とは、“50日目”を意味するギリシア語で、過越しの祭りの7週間後(つまり50日後)に、この祭りが定められていたことから、そのように名付けられました。
旧約聖書の中では、それは”七週祭“という名前の祭りです。それについて次のように書かれています。
『申命記』16章9~10節をお読みします。
9あなたは七週を数えねばならない。穀物に鎌を入れる時から始めて七週を数える。
10そして、あなたの神、主のために七週祭を行い、あなたの神、主より受けた祝福に応じて、十分に、あなたがささげうるだけの収穫の献げ物をしなさい。
“過越しの祭り”は、イスラエルの民たちが、約400年間奴隷状態であったエジプトから神の恵みによって救い出された出来事を記念し、感謝する祭りです。
過越祭は現在もユダヤ教では大変重要な祝祭の一つです。
そして過越しから数えて七週目には、神が与えてくださる収穫への感謝の意味を込めて七週祭を守るようにと、神からイスラエルの民たちに戒めが与えられたのです。
先ほどお読みした申命記の箇所には「あなたの神、主より受けた祝福に応じて、十分に、あなたがささげうるだけの収穫の献げ物をしなさい 」と書かれていました。
神がエジプトでの奴隷状態(囚われの状態)からイスラエルの民たちを救い出してくださり、そしてそれからもずっと、生きるために必要な糧を与えてくださることに感謝をして、イスラエル民たちは自発的な感謝の献げ物をするようにと命じられたのです。
今のキリスト教会では、ユダヤ教の過越祭や七週祭りを祝うことはいたしません。
しかし、神が私たちを罪から救い出してくださったことと、常に必要な日常の糧を与えてくださることに感謝をし、できるだけの自発的献げ物をする、ということは今のキリスト者にとっても変わらず大切なことです。
申命記16章の七週祭に関する箇所を、もう少し続けてお読みします。申命記16章11~12節をお読みします。
11こうしてあなたは、あなたの神、主の御前で、すなわちあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、また、あなたのもとにいる寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いなさい。
12あなたがエジプトで奴隷であったことを思い起こし、これらの掟を忠実に守りなさい。
神はイスラエルの民たちに、“神の救いと恵みを、あなたたちと共にいるあらゆる人たちと一緒に、喜び祝いなさい”、と言われたのです。
そしてかつて自分たちがエジプトで奴隷であったこと、そこから神によって救い出されたことを決して忘れないようにしなさい、と神はイスラエルの民たちに命じられました。
神によって救われたことを常に忘れずに感謝をして、そして神の恵みを多くの人と分かち合うようにという教えは、今のキリスト者にとっても変わらない本当に大切な教えです。
キリスト者は、かつての罪による囚われの状態から、神の恵みによって赦され救われた者です。
ですから、神の恵みに感謝をし、心から自発的に捧げものをし、神の恵みを多くの人たちに伝え、その恵みを分かち合うことを私たちは望み、そのことを大切にしたいと願います。
今日の箇所は、復活のイエス様が天に上げられ、そしてその後12使徒の一人であったユダに代わってマティアが選ばれて新しく使徒とされた出来事の後の箇所です。
五旬祭(ペンテコステ)の日に、一同が一つになって集まっていました(1節)。彼らは共に集まって祈り合っていたのだと思います。彼らは感謝の献げ物もしていたでしょう。
そこで突然、激しい風のような音が天から聞こえ、彼らのいた家中に響き、そして炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった、と書かれています(2~3節)
この出来事が“聖霊降臨”と言われる出来事です。ペンテコステは、教会の暦では、今年は6月8日の礼拝で記念し、お祝いいたします。
激しい風、そして炎のような舌とは、神の霊である聖霊がその時使徒たちに降った徴(しるし)でした。
イエス様が“父の約束された聖霊を待ちなさい”と命じて、聖霊が使徒たちに与えられることを約束なさったとおりに、聖霊がついに弟子たちに降ったのです。
そして、聖霊が神を信じる者“一人一人にとどまった”というところが重要です。
聖霊は、ある特定の特別な信仰者にだけ与えられるのではないのです。聖霊は、神を信じる者に等しく与えられるものなのです。
そもそも神を信じることができること、イエス・キリストが主であり神であると信じることができること自体が、聖霊が可能にすることです。
「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」とコリントの信徒への手紙一の12章3節に書かれています。
聖霊は信じる者に等しく与えられるものですが、その聖霊によって与えられる一人一人の賜物は、それぞれ違います。私たち一人一人に、それぞれ違った賜物が与えられます。
同じ1コリント12章に「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です 」(4節)と書かれ、「一人一人に“霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(7節)とも書かれています。
神は私たち一人一人に聖霊を通して異なる賜物をお与えになります。それはお互いがその賜物を献げあって、互いに思いを一つにして、私たち全体の益となるためなのです。
それはつまり、私たちは互いの賜物を献げあって、常に神に栄光をお返しするためです。
今年度の私たちの教会の年間主題は「全て主なる神の栄光のために」です。
私たちは互いに与えられた霊の賜物を認め合って、思いと心を一つにして、神の栄光のための働きを共にしていこうではありませんか。
今日の箇所では、その場にいた一人一人に霊の火がとどまり、そして彼らはそれぞれ色々な国の言葉で話し出しました。
5節によれば、その時エルサレムには、“天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダ人が住んでいた”と書かれています。
そのユダヤ人たちとは、かつて旧約聖書の時代に、イスラエル、ユダヤが外国に支配されたので、国を追われて遠く色々な国々へと移り住まわされていったユダヤ人たちの子孫のことでした。
彼らは父祖の国イスラエルと戻って来た人たちでした。
彼らは自分たちが生まれた故郷の国の言葉が、エルサレムの信者たちによって話されている様子にあっけにとられた、と6節に書かれています。
彼らは次のように言って驚いています。
「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」(7~8節)
ガリラヤはイスラエルの中でも田舎であり、そこにいる人たちは無学な人たちだと思われていました。
ペトロたち使徒たちの多くはガリラヤ出身だったので、彼らが知るはずのない各国の言葉で話しているということは、外国出身のユダヤ人たちにとっては信じられない出来事だったのです。
しかし、それこそが聖霊の業でした。神が、”神の国の知らせは、イスラエルを超えて、広く世界にまで、地の果てにまで伝えられなくてはならない“と望まれたので、その時聖霊を受けた使徒たちは、色々な国の言葉で語る能力を与えられたのです。
そしてその時起きたことでさらに重要なことは、ガリラヤ出身の使徒たちが色々な外国語で話し出したということよりも、彼らが話していたその内容でした。
今日の11節によれば、その時聖霊を受けた使徒たちは、色々な国の言葉で“神の偉大な業”を語っていたのです。
それを聞いていた人たちの心を一番に打ったのは、使徒たちによって、それぞれの言葉で、神の偉大な業が語られていたことでした。
私は今日の聖書箇所を読むと、いつも私たちの教会、別府国際バプテスト教会とこの箇所を重ね合わせます。
なぜなら、私たちの教会には、本当に色々な国や地域出身の方たちが集い、共に礼拝をしているからです。
皆さんそれぞれに母国語があります。言葉の違いは、コミュニケーションを取るためには、困難の原因ともなります。
しかし私たちの間の異なる言語や文化を超えて、イエス・キリストの神の偉大な業が、私たちをいつも一つに結び付けます。
私たちはなぜ教会に集まるのでしょうか。教会には色々な人たちがいて、一緒にいると楽しいから、あるいは賛美が素晴らしいから、などと思われる方もいるでしょう。
それらも素晴らしいことです。しかしやはり私たちが教会に集まるのは、神を礼拝するためであり、”神の偉大な業“、そして聖書の御言葉を聞きたい、と願うからです。
私は牧師として、教会の霊的なリーダーであり、また教会という組織の管理責任者の務めも負っています。
そんな私は、教会に来られる皆さんがどうしたら力と希望を受けることができるか、またどうしたら出来るだけ楽しく、笑って教会で過ごしていただけるか、ということを考えます。
また正直に言えば、組織として教会が円滑に運営されるようにとも願うのです。
しかし、今日の聖書箇所を通して示されることは、聖書に書かれた神の言葉、神の偉大な業を語り続けることこそが、牧師にとっての最も大切な務めである、ということです。
聖書に書かれた神の言葉と神の偉大な業を、聖霊の導きによって忠実に語り続けることが、私たち人をもっとも力づけ、また希望と喜びをも人に与えることになるのだ、と私は確信させられました。
聖書に書かれていることは、現代の普通の感覚とはそのまま相容れないような現象も含みます。聖霊、というのもその一つでしょう。
最初にそのようなことを聞くと”信じられない“、とか”どういうことなのだろう“と思って戸惑う方も多いと思います。
しかし、それでも聖書の御言葉と聖書に書かれている言葉の一つ一つは、神の真実と神の愛とを私たちに伝えるものです。
私たちは、心を開いて、神の霊である聖霊を私たちの内に招きいれて、神の偉大な御業を認め、神を信じる者となりたいと願います。
私達に神を信じさせるその聖霊が今も私たちを互いに結び付け、そして聖霊こそが教会を建て上げる力の源です。
私たちが自分自身の力により頼んで教会を建て上げようとするならば、すぐに教会は行き詰ります。
私たちが自分自身により頼んで生きようとするならば、私たちの人生もかならず行き詰まります。
しかし、わたしたちが神の霊である聖霊に依り頼んで、聖霊の導きに身をゆだねるならば、私たち一人一人も、また私たちの教会も常に支えられ、聖霊の守りのもとに、一歩一歩日々を歩み、生きることを許されます。
ですから、聖霊の導きを私たちは共に願い求めましょう。神の守りと力を受けて、共に生きる道を私たちはこれからも歩んでいきましょう。