2026年1月25日 主日礼拝
前奏
招詞 エレミヤ書33章3節
賛美 新生讃美歌320番 輝いて生きる
主の祈り
賛美 新生讃美歌493番 み子イエス世人のため
主の晩餐
献金
聖句 使徒言行録10章9~23節a
祈祷
宣教 「ペトロの見た幻」
祈祷
賛美 新生讃美歌544番 ああ嬉しわが身も
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の聖書箇所の初めで、三人の人が旅の途上にあったことが書かれています。
この三人は、ローマの軍隊の百人隊長であったコルネリウスという人によって送られた、彼の二人の召し使いと、彼の側近の部下の一人で信仰のあつい兵士でした。
コルネリウスが祈りの中で、神の天使のお告げを受けたことが、今日の前の箇所(先週のメッセージの箇所)に書かれています。
天使は祈っていたコルネリウスに現われて、「ヤッファへ人をやって、ペトロとよばれるシモンをあなたのところへ招きなさい」と言いました。
コルネリウスは、ユダヤ人ではなく、ユダヤ人から見た異邦人(外国人)でした。そして彼はカイサリアと言う町に駐在していた百人隊長でした。
異邦人でありながら、コルネリウスはイスラエルの神を信じ、民に多くの施しをするなど、その生き方においても主なる神への信仰を実践していた人でした。
コルネリウスは、天使の命じることに従いました。彼は、祈りを通して与えられた神のお告げに従い、自分の召使二人と部下の兵士の三人をヤッファへ(ペトロがいた家へ)送ったのです。
コルネリウスとペトロの出会いは、神の福音がユダヤ人を超えて広がっていく、その過程において、大変重要な出来事の一つでした。
その時コルネリウスに遣わされた三人の部下たちも、コルネリウスとペトロのその大切な出会いを実現するために、大変重要な役割を果たしています。
主は、コルネリウスとペトロを最初から直接会わせるのではなく、彼らが出会うために、彼らの間の言わば“仲介役”として、その三人をお立てになったと、言うことができます。
私たちも新しく人と出会う時、その人を紹介してくれる人とか、私たちの出会いの間に立って仲介役を果たしてくれる人がいる場合が多くあると思います。
神はそのように、私たちがお互いに様々な人を通して、新たな出会いを私たちに与えてくださるのです。
そのような出会いを通して、神の福音が広がって行くことを神は望んでおられると、私は信じています。
私たちが教会に最初に来るのも、誰かに誘われてとか、教会に知っている人や友達がいたから、などの、人と人との繋がりによって導かれることが多いと私は思います。
私たちは、そのようにして与えられる新しい出会いの機会と、そのような出会いを通して福音が広がっていく恵みを感謝して、大切にしていきたいと願います。
三人が旅の途上にあった時、ヤッファという町にいたペトロは祈るために屋上に上がった、と書かれています。時間は昼の12時(正午)頃でした。その時間は、一日に三回ある祈りの時間の一つでした。
屋上で祈るということは、できるだけ一人静かになれる場所で祈るということです。一人になれる場所で、決まった時間に祈ることで、神様への祈りに思いを集中することができるのです。
できるだけ決められた時間に、できれば一人になれる場所で祈ることは、私たちの祈りを実りあるもの(神との親密な時間)にするために、とても効果的です。
祈りの時間を決めて、短時間でも一人で集中できる場所で、聖書の御言葉を通して短くても祈りの時を持つことで、祈りを私たちの生活の中心に置くことができます。
また、毎週日曜日に私たちがこうして集まる礼拝も、時間を決めて私たちは集まります。
時間を定めて、同じ場所に集まることで、そして事前に決められたプログラムにも従うことで、私たちは礼拝を信仰生活の中心に置こうと、意識して前もって準備をすることができます。
そして時間と場所が定まっているからこそ、私たちはこうしてお互いに出会い、顔を見て共に礼拝することができます。
定期的に集まること、そこで神を礼拝すること、共に祈ることを、私たちはこれからも大切にしていきたいと願います。
その時ペトロは空腹を覚えました。そこでペトロは我を忘れたようになって、一つの幻を見た、と書かれています。
11~12節をお読みします。
11天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。
12その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。
そして声がペトロに告げます。
「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさいGet up, Peter. Kill and eat.”」。
それはペトロにとって驚くべきことでした。なぜなら、その布の中にいたそれらの生き物は、それまでの聖書の律法で、ユダヤ人が決して食べてはいけないと教えられていた種類のものだったからです。
旧約聖書の『レビ記』の11章には、清いものとして食べてよいと定められた生き物と、汚れているものとして食べてはいけないと定められた様々な生き物に関する規定が書かれています。
現在でも厳格なユダヤ教の実践者は、その定めを守っている人もいます。
ペトロが見た幻の中の生き物は、それまで「食べてはいけない」と教えられてきた生き物ばかりでした。
ですからペトロは、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と言ったのです。
「清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」というペトロのその言葉には、彼自身を誇るような気持ちが込められているように思えます。
「私は守るべきことは、しっかりと守ってきました」という自意識です。
神の定められた決まりを私は自分の意志と力によってきちんと守っている、という思いがその時のペトロの心の中にはあったと私は思います。
しかし神から与えられた律法は、本来人を守り導くためのものです。それは人を神へと近づけるためのもの、無償でわたしたちに与えられる恵みです
人がそれを守ることで、自分の誇りとするために、律法が与えられているのではありません。
神はそのような私たちの思い、自分を誇る思いを、いつも打ち砕こうとされます。
私たちにとって大切なことは、自分の力により頼んで自分を誇るのではなく、私たちに与えられる神の恵みをただ感謝して受け取り、その恵みにより頼むことです。
私たちと神との真の出会いは、自分自身を誇り、自分により頼もうとする思いから、ただ神の恵みと力とを信じ、神により頼んで生きる生き方へと、私たちの生き方を変えていくのです。
ペトロが布の中に見た生き物は、確かにそれまでは神から“食べてはいけない”と定められていたものでした。
しかし、神は新しいことをその時起こそうとされていたのです。
イエス・キリストが弟子たちと地上に共におられたとき、イエス様は次のようにおっしゃっていました。
「すべて口に入るものは、腹を通って外に出される。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」(マタイ15:17~18)
イエス様のそのお言葉を通して、神は“何が人を本当に汚すのか”、それは人の悪い心から出て来る悪い思いである、と既に伝えておられたのです。
神は新しい大きな出来事をその時起こそうと計画しておられました。ですから、神はペトロに告げられました。
15節
「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
そのことが三度も繰り返された、と今日の箇所には書かれています。ペトロがそれまで信じて来た「絶対、これらのものを食べてはいけない」という思いが、いかに強かったか、ということが私たちに分かります。
そして神がそんなペトロの思いを変えるために、いかに忍耐深く、何度も(三度も)ペトロに繰り返し語ってくださったのか、という神の恵みを私たちは教えられます。
ペトロはその幻がなんのことだろうかと一人で思案にくれていました。そこへコルネリウスから遣わされた人たちがペトロのいるところへやってきました。
”霊“がペトロに言いました。
「三人の者があなたを探しに来ている。
20立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」(19~20節)
“ためらわないで、一緒に出発しなさい”。霊(神の霊)の励ましを受けて、ペトロは彼らを迎え入れ、泊まらせた、と書かれています。
ペトロはその人たちを迎え入れ、自分のいた家に泊まらせました。ペトロはここで既に大きな一歩を踏み出しています。
後の箇所ではっきりと書かれていますが、その時ユダヤ人は、外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることも、律法で禁じられている、として決してしませんでした。
しかし神は幻を通して、そして霊の導きによって、ペトロに神の新しい計画を示そうとされたのです。聖霊の励ましによって、神はペトロを新しい道へ踏みださせようとしておられたのです。
それまでの食物規定は廃止され、真の神の恵みがユダヤ人を超えてすべての民に伝えられていく、世界中のあらゆる民が真の神を信じるという出来事が、これからまさに起きようとしているのです。
主は今の私たちに、私たちの教会にどのような新しい変化をご用意してくださっているのでしょうか。神のご計画、主のみ旨は本当に計り知れず大きくて私たちの想像をはるかに超えるものです。
わたしたちが思い描く、望む以上の素晴らしいご計画を主は私たちの教会にもお持ちであると私たちは信じることができます。
祈りと、聖書の御言葉、そして共に集まる礼拝を大切にして、主の示しを私たちは共に聞いて、頂いてまいりましょう。
そして必要であれば、神の霊が私たちをそのように導くのであれば、それまでの私たち(自分自身)が変えられることをも、私たちは恐れないでいようではありませんか。
私たちにこれから与えられる新しい出会いや、様々な出来事、新しいことへと向きあい、自分が変えられることをも恐れずに、私たちは示される主の御心に従っていきたいと願います。