2024年9月14日土曜日

2024年9月15日 主日(敬老)礼拝

前奏
招詞 詩編73:26
賛美 新生讃美歌125番 造られしものよ
主の祈り
賛美 新生讃美歌 2番 来たれ全能の主
献金
聖句 マタイによる福音書9章18~26節
祈祷
宣教 「あなたの信仰があなたを救った」
祈祷
賛美 新生讃美歌 519番 信仰こそ旅路を
頌栄 新生讃美歌 679番
祝祷
後奏

 今日の聖書箇所では、ある指導者がイエス様のところへやってきます。彼の娘が死んだのです。
その指導者はイエス様のそばに来て、ひれ伏して、「わたしの娘がたった今死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と言いました。
 この箇所と基本的に同じ内容の話が、マルコ福音書とルカ福音書にも記されています。マルコ福音書、ルカ福音書の同記事の中では、この指導者は「会堂長」であったと記されています。
 新共同訳聖書の巻末の用語解説には、会堂長について以下のような説明が書かれています。
「会堂長(かいどうちょう) 会堂の礼拝をつかさどり、建物や施設の管理をする職務を持つ人」
 そのように会堂長は礼拝を司(つかさ)どる人、つまり礼拝を指導、進行し、会堂全体の責任を負う人でした。彼は信仰的にも人々の指導的な立場にあった人と言えるでしょう。
 その人が、自分の娘が死ぬという大変な悲しみの出来事に直面しました。他の福音書によれば、その娘は12歳であったと書かれています。
 その大きな悲しみと衝撃を抱えて、この指導者はイエス様のそばへやってきました。そして彼はイエス様にひれ伏しました。
この人は会堂で指導的な立場にある人でしたから、普段はどちらかと言えば、他の人々のほうから挨拶され(ひれ伏す、ということまではなくても)、敬われていたのではないか、と私は想像します。

普段は、色々な悲しみや苦しみを抱えた他の人たちが、この指導者のところへやってきて相談をしたりしていたのではないか、と思います。
しかし、今や指導者(会堂長)である彼自身が、娘を亡くすという大変な悲しみに直面していました。そして彼はイエス様のそばへ行ったのです。
指導者であろうと、一般の信徒であろうと、誰であっても、私たちの真の指導者はイエス様であることを、この指導者がイエス様のもとへ行き、そしてひれ伏す姿は表しています。
誰であっても、私たちの真の指導者であるイエス・キリストのそばに行くことを許され、そしてイエス・キリストにひれ伏す、すなわちキリストを礼拝することができるのです。
指導者がひれ伏している姿、というのは大変人目を引いたと私は想像します。しかし、自分の娘を亡くすという悲しみの前に、そしてイエス・キリストという神を前にして、“指導者”というその人の、言わば社会的な立場は関係ありません。

彼は、弱く傷つきやすい、ただ一人の人間として、神の前にひれ伏し、そして何でも願うことを訴えることが許されていたのです。
それは私たちも同じです。それぞれの立場、社会的な責任や地位、職業、性別、人種などに関係なく、私たちは誰もが、ただ一人の人間として、神に近づき神を礼拝することが許されています。
その喜びを頂けるのが教会です。誰もが真の神を知り、神の前には誰もが平等であり、そして誰もがその神に近づき、神の愛を頂き礼拝することができるのです。
その喜びと恵みを私たち自身がいただいて、そしてその喜びを世にも伝えていきたいと私たちは願います。

 「わたしの娘がたった今死にました」と言って、この指導者はその辛く、悲しい現実を受け止めています。そしてその苦しみと悲しみをイエス様に打ち明けています。
  イエス様は私たちの苦しみ、悲しみの現実を全て受け止めてくださるお方です。他の人には分からない(完全には分からない)この私の苦しみ、悲しみを、イエス・キリストは分かってくださっています。
 この指導者は言うのです。「私の娘は死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」
 皆さんは、この指導者のこの願いを聞いて、どう思われるでしょうか。「現実的でないことを、この人は言っている」と私たちは思うでしょうか。
  しかし、私たちは、神にはどんなことでも、心から願うことを申し上げてよいのです。私たちは心から願うことは、何でも神に打ち明け祈ってよいのです。

 私の娘が死にました。でも、あなたが来て手を置いてやってくだされば、娘は生き返ります。(そうしてください!)と言うのです。こんなことを、誰に言うことが私たちはできるでしょうか?(誰に対してもできません)。
 しかし、私たちは本当に願うことを、死んだ娘を生き返らせてください、ということさえも、神様にはそのまま願い訴えてよいのです。そして神はその人の思いを、必ず受け止めてくださいます。
  神様には何でも願うことを私たちは申し上げてよいのです。その願いをどのように実現してくださるのかは神次第です。
 しかし私たちは聖書を通して、イエス・キリストを通して、私たちの神は私たちにとっての最善をご存じであり、全てを神の御計画にそって最善に導いてくださると信じることができます。
 最善をなしてくださる神に信頼する信仰に私たちは生きていきたいと願います。
イエス様は、その指導者の願いを聞いて、立ち上がって彼について行かれました(19節)

 そこへ、12年間も病気で出血が続いていた女の人がイエス様に近寄って、後ろからイエス様の服の房に触れました(20節)。
 この女の人は「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と信じていました。そしてその信仰通り、この女の人はイエス様の服に、後ろから来て触ったのです。
  なぜこの女の人はイエス様の後ろから来て、そっとその服に触れたのでしょうか。あの指導者のように、堂々とイエス様のそばに行き、ひれ伏して、願うことが彼女にはできなかったのでしょうか。
 旧約聖書の律法によれば、出血のある人は宗教的に汚れているとして、人に近づくことが許されていませんでした(レビ記15章などに記されています)。
 ですから、この女性は、イエス様の後ろから、(自分がそうしていることを気づかれないようにと、おそらく願いながら)近づいて、その服に触れたのです。
  この方の服に触れさえすれば治してもらえる、とこの人はイエス様の力を固く信じていました。

 12年間も治らない病気を彼女は抱えていましたが、神を信じ神に頼るその心(信仰)は、彼女から失われていなかったのです。
 あの指導者は、娘の死という悲しみ、絶望的な中にも、イエス様に願い出るという信仰を持ち続けていました。
 この女性も、長年の病気という辛い境遇にも関わらず、神により頼む信仰を持ち続けていました。
人は、常日頃から、御言葉と祈りにより神様との関係を維持することによって、危機的な状況にあっても、決して失われることのない信仰を頂くことができます。
常日ごろから、祈りと御言葉によって養われ、それによって与えられる神との親密な関係を私たちは大切にしていこうではありませんか。
イエス様は、その女性が後ろから自分に触ったことに気づきました。マルコ福音書では「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて」と書かれています(マルコ5章30節)。
そっと後ろから近づいて、服に触れることしかできない女性の苦しみ、彼女の境遇を、イエス様は分かっておられました。
イエス様は、ご自分のもとへ助けを求めて来る人を拒まれません。その人に必要なものを必ず与えてくださいます。
イエス様は、その女の人を見ながら、声をかけられました。
「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」―イエス様のこの優しい言葉は、今の私たちにも、向けられています。

「元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」―私たち一人ひとりに、イエス様が今もこのように声をかけてくださっています。イエス様のこの声を、私たちは礼拝で共に聞きます。
イエス様は“あなたの信仰が、あなたを救った”と、その女の人に言いました。その信仰は、最初からその女性が自分で持っていたものなのでしょうか。
そうではありません。神を信じ、「このお方の服に触れさえすれば治してもらえる」という信仰は、神からその女性に与えられたものです。
キリスト教信仰の基本は、信仰とは人間の努力や経験によって勝ち得るものではない、ということです。

信仰とは、恵みの賜物(贈り物)として、イエス・キリストによって私たちに無償で与えられるものです。それにも関わらず、イエス様は、それを「あなたの信仰」と言って、私たちにその信仰をくださるのです。
その女性の病を癒してくださったのは、イエス・キリストの愛と憐れみです。しかし、イエス様は、ご自身の栄光と力を、「これはあなたのものだ。この信仰をあなたにあげる」と言って、私たちに信仰という何物にも代えがたい賜物として私たちに下さるのです。
 イエス・キリストの信仰という、かけがえのない賜物を私たちはいただいたのですから、いただいた信仰を大切にして、信仰による力と希望を頂いて、共に日々を生きてまいりましょう。

 イエス様は、その女性をお癒しになった後、その指導者の家へ行きました。指導者の家では、もうお葬式が始まっていました。
 23節の「笛を吹く者たちや騒いでいる群衆」とは、当時のユダヤの風習では、お葬式で、音楽や、大きな声や泣き声によって、死者を悲しむ気持ちを表す人々がいたようです。
 イエス様は人々に「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言いました。そうすると人々はイエス様を嘲笑いました。
  群衆はイエス様を笑いました。「指導者の娘は死んだのだ。眠っているんじゃない。この人は何を言っているのだ」と言って、群衆はイエス様を馬鹿にして笑ったのです。
  しかしイエス様は群衆に笑われることなど、まったく意に介しておられませんでした。イエス様はご自分のなさろうとすること(少女を生き返らせること)を知っておられました。
 そして、少なくともそこには、イエス様がきっとそうする力をお持ちだということを信じる人が一人はいること(その指導者)をイエス様は知っておられました。
  イエス様は、ご自分の服に触りさえすればきっと長年の病も癒されると信じ、必死の思いをしてご自分のところへ来られた女性の信仰も知っておられました。

 今日の箇所では、イエス様を信じる人の数は、その指導者と女性のたった二人であったかもしれません。他の多くの群衆はイエス様を信じていませんでした。彼らはイエス様を嘲笑いました。
 しかし、たとえ数の上では少数の者の信仰であっても、イエス・キリストを心から信じる信仰は、神の恵みの業となって現れます。
 イエス様は、その指導者の娘の手を取り、娘を起き上がらせ(生き返らせ)ました。イエス・キリストを信じる者の信仰が、たった一人の信仰が、そのような神の御業を可能にしたのです。
 私たちキリスト者の数は、日本という国の中では大変少数派だと言われます。人口の約1%がクリスチャンだと久しく言われています。実際にはもっと少ないでしょう。
  しかし、わたしはその数に私たちが失望することはない、と思っています。1%でも、その1%の私たち一人ひとりが「神には何でもできる」と心から本気で信じるならば、神の大きな御業を私たちが見るのには十分なはずです。
 「あなたの信仰があなたを救った」と言って、本来ご自身のものであったその力強い信仰を、私たちにあたえてくださったイエス・キリストの神がおられます。
 その主イエス・キリストの愛と憐れみ、キリストの無限の力を信じ、私たちはキリストに信頼しつつ、信仰の日々を歩んでまいりましょう。