2024年9月6日金曜日

2024年9月8日 主日礼拝

前奏
招詞  イザヤ書7章14節
賛美  新生讃美歌125番 造られしものよ
主の祈り
賛美  新生讃美歌 507番 主の手に委ねて
献金
聖句  マタイによる福音書1章18~25節
祈祷
宣教  「預言の実現」
祈祷
賛美  新生讃美歌 492番 わが身の望みは
頌栄  新生讃美歌 679番
祝祷
後奏

 今日の聖書箇所は、新約聖書のマタイによる福音書の中の、イエス・キリスト誕生の場面です。イエス様のお誕生に関わるこの箇所は、特にクリスマスの時にも読まれるこが多い箇所です。
今日の箇所の前の、マタイ福音書1章は1節から17節までには、「イエス・キリストの系図
が記されていました。
聖書に馴染みのない人、クリスチャンでない人が、新約聖書の初めの部分、いきなり系図から始まっているその箇所を見ると、よく意味が分からず、長い系図に退屈さえするのではないかと思います。
  しかしその系図は、旧約聖書の中で描かれる、神とイスラエルの民たちの信仰の歴史に基づいた重要なメッセージを含む系図です。

 その系図はアブラハムから始まっています。旧約聖書で描かれる最初の人(神が最初に造った人)は、アダムです。しかし、マタイ福音書の系図はアブラハムから始まります。
 アブラハムは旧約聖書の『創世記』の中で、神によって選ばれ、そして神から「あなたの慣れ親しんだ生まれ故郷を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と命じられました (創世記12章1節)。
神のその命令に従って旅立ったアブラハムを、イスラエルの民たちは「信仰の父」として尊敬していました。
ですから、マタイ福音書の系図は、神からの命令によって旅立つという、アブラハムに(イスラエル民族を代表して)与えられた信仰を出発点とした系図である、とも言えます。
アブラハムは神の命令に対して、「私は慣れ親しんだ土地を離れたくはありません。少なくとも、具体的にどこへ行くのかぐらいは、あなたは私に教えてくださるべきです」などと応答することもできたかもしれません。
 しかし、アブラハムは何も言わずに、神の命令に従い家族と共に旅立ったのです。神の厳粛な命令の前には、私たちはただ従わざるを得ないということがあります。
それは神に無理やり言うことを聞かされるというのとは違います。そうではなく、神の命令の中に、人の心を励まし、人の心を突き動かす力、そして何よりも神の愛と祝福があるので、私たちは神の命令に信頼をもって歩みだすことができるのです。
私たちが祈りによって神の御言葉を聞き、そしてその中に神の御命令を聞くならば、私たちは、その神の命令に信頼をもって応答をしていきたいと願います。

マタイの系図は、そのようにアブラハムの信仰から始まり、そしてダビデ王を経て、イエス様の地上での父親であったヨセフへと至ります。
 その系図の中に直接は(血縁としては)繋がっていない女性のマリアが、ヨセフと結婚することで、イエス様はアブラハム、ダビデに連なる系図の一人のユダヤ人として、ユダヤの地にお生まれになりました。
今日の箇所では、イエス・キリストがお生まれになる時、マリアとヨセフに、大変な出来事(試練と言ってよい出来事)が起きたことを伝えています。
マリアとヨセフは婚約中でした。当時の婚約は結婚していることとほとんど同じにみられていました。ですが正式な結婚の前ですので、二人はまだ夫婦としての関係を持たず、一緒に住んでもいなかったのです。
そこでマリアが聖霊によって身ごもっていること(妊娠していること)が明らかになりました。ヨセフはどうしたのでしょうか。19節に次のように書かれています。
19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

ここでヨセフのことが“夫ヨセフ Joseph her husband”と書かれていることは注目してよいと私は思います。繰り返しますが、ヨセフとマリアはまだ正式な結婚前の婚約の段階でした。
しかし結婚の約束を二人はしているのですから、その約束を前提として二人の心の間には既に夫婦の絆があったのです。“夫ヨセフ”とは、そのことを表しています。
まだ夫婦としての関係を正式にはもっていないけれども、すでに夫婦としての絆が二人の間では存在していたのです。そのような時に、マリアが聖霊によって身ごもった、という大変な出来事が起きました。
“マリアが聖霊によって身ごもった”ということは、生まれてくるイエス・キリストが確かに神の子であり、そしてイエス様の誕生が主なる神の御意志でありご計画であったということを意味します。
イエス様は人間の男女の関係によってお生まれになったのではなく、その誕生は神によって定められた、神の出来事であったということです。

私達には聖書を通して、信仰的にそのことが知らされています。しかし、最初ヨセフにはそのことが分かりませんでした。ヨセフは、自分とはまだ関係を持っていないマリアが子を宿したと知って、大変な衝撃を受けたでしょう。
普通に考えれば自分以外の他の男性と関係をマリアが持ったので彼女は妊娠した、と人は思うでしょう。
ヨセフが「マリアのことを表ざたにするのを望まず」というのは、マリアの妊娠を姦淫の罪として訴えることをヨセフが望まなかったということです。
旧約聖書の『レビ記』20章10節に次のように書かれています。

人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。

ヨセフがマリアを姦淫の罪で訴えて、もしマリアの姦淫の証拠が見つかれば、当時の律法によればマリアは死刑(石打刑)に処せられる可能性がありました。
ヨセフは「正しい人」でした。「正しい人」とは“律法に忠実”という意味があります。実際に、私たちの教会が読んでいる英語訳(New International version)にはそのように書かれています(faithful to the law)。
律法に忠実であろうとすれば、ヨセフは間違ったことをした(可能性のある)マリアを訴えるというのが“正しい”ことでしょう。
しかし、ヨセフはまた別の意味の正しさを持っていました。それは人としての思いやり、優しさ、ということです。
ヨセフはそのような正しさ、優しさを持っていました。人知れず婚約を解消すれば、マリアは
(生まれてくる子どもも)、少なくともどこかでひっそりと生き延びることはできるでしょう。
そのようにヨセフは、マリアと子どもの命を守る、生かすことを考えたのです。ですからヨセフはマリアの妊娠を公にすることせず、ひそかに離縁しようとしました。

それが人間であるヨセフにとっての精一杯の正しさ(優しさ)でした。しかし、神は別のご計画、別の正しさ(そして優しさ)を持っておられました。神はそのことを天使を通してヨセフに告げさせました。
 天使はヨセフに告げます。マリアは聖霊によって身ごもったということ。マリアは男の子を産むので、その子をイエスと名付けるにようと。
“イエス”とはヘブライ語ではヨシュア(Joshua)と言い、その意味は“神は救う”、あるいは“神は救い”という意味です。天使はヨセフに、生まれてくる子は救世主だと告げたのです。
 ここでヨセフに一つの決断が迫られました。天使によって知らされた主なる神のなさろうとすることを信じ、マリアを妻として迎え入れるかどうかと言う決断です。
 天使がヨセフに告げたことは、イスラエルの民だけでなく、私たちすべての人間にも関係のある重大なことです。なぜなら、私たち誰もが罪を持った者であるからです。

人を罪から救うお方が来られるという、天使の告げたその知らせを信じるかどうかという決断の前に、私たちもヨセフと共に立たされるのです。
22~23節をお読みします。
22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。これは旧約の時代、イザヤという預言者によって預言されていたことでした。(イザヤ書7章14節)
それは神の御意志として、必ず実現する神の言葉として、イエス様の生まれる約700年前にイザヤによって預言されていました。
マタイ福音書がイエス・キリストの誕生の記事を通して私たちに伝えることは、神が人の救いのために、御子イエス・キリストを私たちの世界に人として送ってくださったということです。
 そしてそのことはずっと前から約束(預言)されていたということです。そして神の約束は必ずその通りになります。神は必ず約束を守られる誠実なお方である、ということが今日の箇所を通して伝えられています。

ヨセフは天使の言葉を信じ、その言葉通り、マリアを妻として迎え入れました。ヨセフは主を信じ、その信仰に従って生きるという決断をし、そのように行動したのです。
私達の救い主イエス・キリストが聖霊によってマリアから生まれました。マリアを母として、ヨセフを父として一人の人間として神の子が人の子となってお生まれになったのです。
今日の箇所は、イエス様を救い主として信じ、イエス様に従って生きる決心することを、私たちにも改めて迫ります。イエス様を救い主として、そして共におられる神として、私たちは心から信じ、その信仰に従って歩んでまいりましょう。

 私たちの神は、私たち人と共におられる神です。私たちと共におられることを、神の側から最初に望んでくださいました。
 私たちをお造りになり、そして私たちが自分の罪によって神から離れたにも関わらず、神はそれでも私たちと共におられることを望んでくださったのです。これほど私たちにとってうれしい知らせがあるでしょうか。
私たちの神は、いつも私たちと共にいてくださる神ですから、キリスト者は本当の意味で孤独になることがありません。常に神が私たちと共におられるからです。
いつも私たちと共にいてくださる神を覚え、神に感謝をしましょう。そしてヨセフとマリアが、生まれてきた男の子を受け入れたように、私たちも私たちの心の中に主イエス・キリストを受け入れましょう。

最後にエフェソの信徒への手紙3章16~17節の御言葉をお読みします。

どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。







 



 





 





















 



























 









 







 



 



 











 







お祈りいたします。

Let us pray.