2024年8月31日土曜日

2024年9月1日 主日礼拝

前奏
招詞  箴言3章19節
賛美  新生讃美歌125番 造られしものよ
祈りの時
主の祈り
賛美  新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
献金
証し
聖句  ヨハネによる福音書1章1節~5節
祈祷
宣教  「初めに言があった」
祈祷
賛美  新生讃美歌 506番 主と主のことばに
頌栄  新生讃美歌 679番
祝祷
後奏


今年4月の初めから先週まで、主に旧約聖書から続けて私たちは礼拝メッセージとして聞いてまいりました。今日から新約聖書を礼拝メッセージの中で、私たちは聞いていきます。
今日の聖書箇所は、4つある福音書の中の4番目の福音書である『ヨハネによる福音書』の最初の部分です。
 旧約聖書の中には、イエス・キリストは直接は登場いたしません。いよいよ新約聖書の中で、イエス・キリストが人としてお生まれになったことが記されていきます。
イエス・キリストの生涯、そしてイエス・キリストのお言葉を記した福音書は、新約聖書の中に4つあります。(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書です)

 マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は、内容に共通する部分も多い福音書です。しかし、ヨハネによる福音書は、他の3つの福音書と比べて、際立った特徴があります。
 なぜ福音書が4つあるのでしょうか。時々、同じ内容の記事でも、福音書毎に微妙に異なる部分があったりして、私たちは“どちらかの記事が正確で、どちらかの記事が記録として正確ではないのだろうか”と思ったりするかもしれません。
 しかし、福音書が4つあることで、イエス・キリストに関する知らせ、その良い知らせ(福音とは“良い知らせ”という意味です)の内容が、より豊かに伝えられると私は信じます。
 一つの福音書だけでなく、それぞれの福音書がそれぞれの視点から、イエス・キリストに関する知らせ、神の福音を私たちに伝えてくれるのです。
 それぞれの福音書には特徴があります。マタイ福音書は系図から始まります。アブラハムから始まり、ダビデを経て、そしてイエス様誕生へと至る系図が最初に書かれています。

 マタイ福音書はおそらく主にユダヤ人のキリスト者に向けて書かれたと言われます。
ですから、ユダヤ人にとっての信仰の父と言われたアブラハムから、そして偉大なダビデ王につらなる系図の中にイエス・キリストが生まれた系図が最初に記されました。
 そしてマタイ福音書は、イエス様の母マリアが夫のヨセフと夫婦の関係を持つ前に、聖霊によってイエス様を身ごもった出来事を伝え、イエス様が確かに神の子であることを示しました。
マルコ福音書はイエス様の生まれた時の話を記しません。
マルコ福音書は、先週の礼拝メッセージの箇所であるマラキ書に予言されていた洗礼者(バプテスマ)ヨハネの荒れ野での宣教活動の様子、そしてヨハネがイエス様にバプテスマを授けたことから始まります。
 マルコ福音書は、イエス様が実際になさった行い、そのお働きに重点をおいて書かれたと言ってよいと私は思います。

 ルカ福音書は、バプテスマのヨハネの誕生の記録から始まり、また福音書の中では唯一、イエス様の少年時代(12歳の時)の話も記されています。
 それは、イエス様が12歳の時、両親に連れられ過越祭にエルサレムへ旅した時の話でした。エルサレムからの帰り道、息子のイエスが見当たらなくなってしまったので、ヨセフとマリアはイエス様を探して、エルサレムまで引き返しました。
 するとイエス様は神殿の中で、学者たちの真ん中に座り、彼らの話を聞いたり質問したりしていました。人々はイエス様の賢い受け答えに驚いたと記されています(ルカ2:47)。

 福音書はいずれもイエス様が神の子であったこと、そしてイエス様は最後には十字架にかけられ死に、墓に葬られ、三日後に復活したことを伝えています。福音書はいずれもイエス様が神の子であり、また神と等しいお方であることを告げているのです。

ヨハネ福音書の始まりは、非常に独特です。「初めに言(言葉)があった」。この言葉から、私たちは旧約聖書『創世記』の初めの言葉を思い出すと思います。
 今年度の最初の主日である、4月7日の日曜日には、聖書の一番初めの部分である旧約聖書『創世記』1章1~5節の御言葉から、私たちは神のメッセージを聞きました。
  創世記の冒頭は「初めに神は天地を創造された」と言う言葉から始まり、神が私たちの世界のすべてをお造りになったことを宣言します。
 「初めに、神は天地を創造された」。神は「光あれ」という第一声によって、世界の創造を始められました。神の一声によって、何もない闇の中に光が生まれたのです。

 「初めに言があった」というヨハネ福音書の最初の言葉は、神の創造の業と直結しています。そしてヨハネ福音書1章を今日の箇所以降もずっと読み進めていきますと、ここで“言(ことば)”と言われているのは、イエス・キリストのことであることが分かります。
 14節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書かれています。言(ことば)、すなわちイエス・キリストが肉(肉体を持った人)として世に生まれ、人々と共に生活した、ということです。
 神が人となったお方がイエス・キリストであり、そのイエス・キリストが人として私たちと同じように肉体をもって生きたとは、驚くべき知らせです。
 神が人となり、私たちと同じように肉体をもって一つの生涯を生きられたということは、私たちが生きることには、神の前に大きな意味がある、ということを伝えています。
 この地上での私たちの命は限りあるものですが、その中で私たちは神に出会い、神の言葉によって力づけられ、自らの存在の尊さを知ることができます。
 初めに言があった、とはイエス・キリストは世の初めからおられたということです。イエス・キリストが神であり創造主である、ということです。

 今日の3節には「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と書かれています。
 繰り返しますが、ヨハネ福音書で“言(ことば)”とはイエス・キリストのことを表しますから、“すべてのものはイエス・キリストによって造られた、存在するようになった”とヨハネ福音書は述べるのです。
「コロサイの信徒への手紙」の1章16節には次のように書かれています。
 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子(*神の子イエス・キリスト)において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

この最後の“御子のために造られ”(created for him)というところがとても重要です。私たちは御子イエス・キリストのために造られたということです。
 生きる上での苦しみの一つは、私たちが生きる意義や意味を見いだせない、ということです。それに対して聖書は一つの答えを明確に示すのです。それは“私たちは、キリストによって、キリストのために造られた”のです。
 ですから私たちの生きる意味は“キリストのために生きること”ということです。私たちは聖書を通してイエス・キリストを知らされ、そしてイエス・キリストを主、救い主であると信じます。
 そして私たちはキリストのために造られたのですから、私たちの生き方、日々の生活がキリストのためになっているかどうかを、吟味し、考えなら生きたいと願います。
 私たちがキリストのために生きているかどうか、その一つの指標は、私たちの言葉や行いがイエス・キリストを人々に指し示しているかどうかです。
 私たちの教会が、イエス・キリストを人々に指し示しているかどうか、それが私たちがキリストのために生きているかどうかの指標です。
 つまり、私たちの信仰生活、生き方そのものを通して、キリストが人々に見えるかどうか、ということです。

 私たちが主によって生かされている喜びと力が私たちを通して人に見えるかどうか、ということです。
 ですから、大切なことは、牧師のメッセージを聞いた後に人々が「〇〇牧師の話は素晴らしいね」と思うのではなく、「イエス・キリストは素晴らしいね!」と思えるかどうかです。
 私たちの教会に人々が来て、「別府国際教会は良い教会だね」と思うのではなく(そう思っていただければ確かに私たちは嬉しいのですが)、それよりも「イエス・キリストって素晴らしいですね」と思ってくださるかどうかが、重要なのです。
 神を信じ神の御言葉に生かされている人は、きっとそのような生き方、そのような顔(表情)をしているはずなのです。
 御言葉に立ち、イエス・キリストによって生かされている私たちが、私たちの生き方を通してキリストを表すことができますようにと、私たちは願います。
 今日の4節で「言(ことば)のうちに命があった。命は人間を照らす光であった」と書かれています。
イエス・キリストの中にこそ、真の命があるのです。その命が光として私たちを照らし、そして私たちもキリストの光によって私たちの周りをきっと明るく照らし出すのです。

 今日の箇所の最後の5節をお読みします。
 5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 私たちの世界には、たしかに“暗闇”と言うしかないような現実も存在します。人と人、国と国とが争い、憎しみ合い、殺し合う戦争の現実もあります。
 何よりも、私たち人の罪の問題があります。しかし、キリストは真の光、決して消えることのない光として暗闇の中にも輝いています。
 その暗闇が決して勝つことのできない光として、イエス・キリストの光はいつも、またいつまでも輝き続けます。私たちはそのような永遠の光を頂いて、生きることができるのです。

 後にイエス様が次のように言われました。
 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネによる福音書8章12節)

私たち共にイエス様に従い、イエス様の命の光を頂き、その光によって生かされ、光の中を日々歩んでまいりましょう。