2024年5月11日土曜日

2024年5月12日 主日礼拝

前奏
招詞  ヨハネによる福音書16章33節b
讃美  新生讃美歌27番 たたえよあがないぬしイエス
主の祈り
讃美  新生讃美歌80番 父の神 われらたたえる
献金
聖句  民数記13章25~32節
祈祷
宣教 「必ず勝てます」
祈祷
讃美  新生讃美歌544番 ああ嬉しわが身も
頌栄  新生讃美歌672番
祝祷
後奏

 「四十日の後、彼らは土地の偵察から帰って来た」という一文で今日の聖書箇所は始まります。
 “彼ら”とは、エジプトを出たイスラエルの民たちが神に約束されて、そこへ行こうとしていたカナンの土地の偵察に、モーセによって遣わされていた人たちでした。
 奴隷生活を送っていたエジプトを出て、約束の地(カナンの地)へ向かって旅をしていたイスラエルの民たちの中から、12人の人が選ばれ、その土地を偵察しに行くことになったのです。
 彼らが偵察から帰ってきた後にモーセに報告するその内容からも分かりますが、カナンの地には既に先に住んでいる別の民族たちがいました。

その土地へ偵察に行くとは、命がけの行為であったでしょう。しかし、彼らを先に遣わして、カナンの地を偵察させることは、主なる神がモーセに命じられたことでした。

13章1~2節に次のように書かれています。

1主はモーセに言われた。
2「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい。父祖以来の部族ごとに一人ずつ、それぞれ、指導者を遣わさねばならない。」

 イスラエルの民たちを率いるリーダーはモーセでした。しかし、リーダーであるモーセが一人で何でもできるわけではありません。
彼は、カナンの地を偵察する、という重要な務めを、誰か他の人々に託す必要がありました。
荒野を旅してカナンの地を目指す旅路は、モーセが指導者として、「自分が何でも一人でできるわけではない。私には周りの人々のサポートが必要だ」ということを学ぶ過程でもあったと、私は考えます。

神に選ばれた最初の時から、モーセは「わたしは話すのが苦手ですから、誰も私の言うことなど聞きません」と言って、神の命令に従おうとしませんでした。
 すると神は、モーセの兄のアロンをモーセの助け手として遣わしてくださいました。アロンは雄弁だったので、モーセに代わって神の言葉を語るというサポート役を担うことになったのです。
 今日は『民数記』の13章ですが、今日の箇所よりも前の『民数記』11章には、次のような出来事が記されています。
荒野の旅の途中で、イスラエルの民たちが、食べ物のことで大きな不満を言い始めました。11章1節によれば、それは「主の耳に達するほどの激しい不満」でした。
モーセは、民たちの不満と嘆きが激しいので、神に訴えます。モーセは、「わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。どうか、わたしをこのような苦しみに遭わせないでください」と願いました。
すると神はモーセに、民の中から、長老あるいは役人として認めることができる70人を集めて、モーセを側で支える者とするように、と命じました。(民数記11章16節)
そのようにして、神はモーセが一人だけで重荷を負うことのないように、してくださったのです。
 私たちも、信仰の共同体である教会として、何かの重荷や責任を誰かが一人だけで担う、特定の人たちだけが過度に担う、ということは神の御心ではありません。
 私たちはそれぞれの賜物を捧げて、主の教会を立て上げています。しかし、誰かが過度な責任や重荷を負って苦しむのならば、それは神が望まれる教会の在り方ではありません。
 ですから、もし私たちの中で、ある重荷や責任をご自分だけで担っているように感じ、苦しんでおられる方がおられましたら、ぜひ周りの方に(もちろん、牧師である私にも、ぜひおっしゃってください)訴えて助けを求めていただきたいと私は願います。
 「助けてほしい」という声をあげることのできる教会、そのような信仰の共同体でありたいと、私たちは願います。
 またそのように苦しんでいる人に気づき、声をかけることのできる教会でありたいと、私たちは願います。

 そして今日の箇所で、カナンの地の偵察のために、“イスラエル各部族(12部族)から、それぞれ一人が選ばれるように”と、主は命じました。
 12部族の中から、それぞれの指導者を遣わすようにと、主はモーセに命じられたのです。カナンの地の偵察に、このようにイスラエルの全ての部族から代表者が送られたことも、大切なことを表わしています。
 それは、彼らの旅路は、イスラエルの民、彼ら信仰の共同体全員が祈りと力と知恵を合わせて進まなければならない、ということです。
 一人、あるいは少数の優秀な指導者が他の大勢の民を指導し、民は指導者の言うことにただ従っていくだけ、ということではない、ということです。
 約束の地へ入るという目標は、イスラエル各部族が協力して全員で達成しなければならない使命であったのです。
 各部族からそれぞれ代表の指導者が選ばれた、ということは、多様な背景を持つ人たちが選ばれた、ということでもあります。それぞれが異なる賜物をも持っていたでしょう。

 色々な背景と賜物を持つ12人が協力をして、彼らにとって言わば未知の土地である、カナンの地偵察という、重要かつ危険な任務を遂行するようにと、神が定めてくださったのです。
 私たちの教会も、それぞれが賜物を献げつつ、皆で協力をして、祈り合って、助け合って、信仰生活を共に送っていこうではありませんか。
 そして今日の聖書箇所である25節では、彼ら偵察隊が帰ってきます。モーセたちは、彼らの帰りを心待ちにしていたでしょう。
また「カナンはどんな土地だったのだろう」と彼らは不安と期待が入り混じったような気持ちでもいたのではないでしょうか。
彼らはまず次のように報告しました。

13章27節
彼らはモーセに説明して言った。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行って来ました。そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。

そこは神様がおっしゃった通り、“乳と蜜の流れる所=食べ物が豊富な土地”でした。それを証明するように、彼らは果物(ぶどう)も取って来ていました。
神は確かに約束された通り、食べ物の豊富な土地へと、イスラエルの民たちを導こうとしてくださっていたのです。
しかし、そこで彼らをあるものが妨げました。それは何でしょうか。
それは“恐れ”でした。そしてその時の彼らの恐れは、神への信頼と信仰が欠けていたために生じたのでした。

彼らは“カナンの住民たちはとても強く、大きな城壁がある。彼らは私たちより強い。あの民に向かって上っていくのは不可能だ”と言いました。
しかし、偵察に行った人の中で、カレブという人だけは(そしておそらくヨシュアという人も)次のように言いました。

「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」

人には誰にも恐れがあります。恐れと言う感情は、時に私たちを危険から守ってくれるものでもあります。
恐れの感情があるので、私たちは危険を察知したり、危険を回避したりすることもできます。
しかし、もし私たちの恐れが、神への信仰が無いために生じているのならば、その時は逆にその恐れが私たちを信仰的な危機に陥らせます。
カナンの地の住民たちは、実際、イスラエルの民たちよりも大きく、また強かったのでしょう。カレブも、「彼ら(カナンの地の住民たちは)は弱いから、私たちは勝てます」とは言っていません。
カレブも、他の人たちも、同じカナンの住民たちを見たのです。
ではなぜ、「彼らは強いから、自分たちは絶対勝てない」という考えと、「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」という考えに分かれたのでしょうか。

それは、彼らが“自分自身に依り頼もうとしているか”、あるいは“自分ではなく、神に依り頼もうとしているか。神の約束に信頼しようとしているか”という違いでした。
「あの民に向かって行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」と思った人たちは、カナンの住人たちと、彼ら自身を比較していました。
ですから、“弱い自分たちでは、とても勝てない”、と彼らは思ったのです(荒野の旅を続ける彼らは、確かに弱っていたでしょう)。
 しかし、カレブは、カナンの住人たち(きっとカレブの目にも、彼らは強く、大きく見えたはずです)を、カレブ自身とは比べなかったのです。
 カレブは、カナンの住人たちを、主なる神と比べたのです。比べるまでもなく、カナンの住人よりも、神のほうがはるかに偉大で強いのです。カレブには、信仰によって、そのことが分かっていました。
 私たちは、危機や困難に直面する時、その困難と私たち自身を比較して、“わたしにはとても出来ない、無理だ”と思って恐れてしまうことがあるかもしれません。
 しかし、その困難状況と自分を比較するのではなく、何より強く偉大な神を見上げ、神に依り頼むのならば、そしてそれが神の御心ならば、私たちは、(神によって)いかなる困難にも打ち勝つことができます。

 それが聖書の神が私たちに与えて下さっている約束だからです。

 民数記の時代から時代が下り、ダビデという人が、イスラエル王国の王様(二代目)となるべく、登場してきます。
 その時イスラエルはペリシテ人との戦いの最中にありました(サムエル記上17章)。
ペリシテ人のゴリアテという巨人が現れ、“誰か一人がイスラエルを代表して自分と戦え”と言いました。
それを聞いて、イスラエルの王サウルと、イスラエルの全軍は恐れおののきました(サムエル記上17:11)。
しかし、ダビデという羊飼いの兄弟の末っ子が、イスラエルの兵士たちもみんな恐れる中、一人そのゴリアテと戦いました。
ダビデは、王様のサウルが最初自分に与えようとした兜や鎧や剣ではなく、彼自身の武器であった石と石投げ紐で、巨人ダビデに打ち勝ちました。
その時、ゴリアテに向かって行ったダビデが言った言葉に私たちは耳を傾けてみましょう。

サムエル記上17章47節 (1 Samuel 17:47)
主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」

私たちの生きる道には、さまざまな危機、困難があります。とてもそれらを乗り越え、打ち勝つことなどできない、と私たちは思うことがあるでしょう。
 しかし、そのような時こそ、私たちは自分自身でなく、主なる神を見上げ、神の御力により頼みましょう。主がどれほど偉大なお方で強いお方かを思い出そうではありませんか。
 私たちが自らを徹底的に低くして、主に依り頼み、御心を求めて祈る時、そこで示される道を行くならば、その先にあるいかなる困難をも、必ず主が私たちに打ち勝たせてくださるのです。
 主は強いからです。私たちは弱くとも、主の強さと偉大さによって、何をも信仰的に恐れる必要はないのです。

最後に、次の詩編の一節をお読みして、宣教を終わりにいたします。

詩編118篇6節 Psalm 118:6
主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。