2024年5月4日土曜日

2024年5月5日 主日礼拝

前奏
招詞  ローマの信徒への手紙14章8節
讃美  新生讃美歌 27番 たたえよあがないぬしイエス
祈りの時
主の祈り
讃美  新生讃美歌 3番 あがめまつれ うるわしき主
献金
聖句  レビ記19章1~8節
祈祷
宣教  「あなたたちは聖なる者となりなさい」
祈祷
讃美  新生讃美歌21番 栄光と賛美を
頌栄  新生讃美歌 672番
祝祷
後奏

 今日も、聖書の御言葉を通して、神のメッセージを私たちは共に聞いていきます。今日は、旧約聖書の中の『レビ記』の中の一箇所です(19章1~8節)。
『出エジプト記』に続く『レビ記』の中には、イスラエルの民たちが神に献げる様々な“献げもの(穀物や動物のいけにえ)”の献げ方や、その他多くの律法が、事細かに記されています。
『レビ記』は聖書の中でも、キリスト者が熱心に読むことは少ない書ではないか、と私は思います。献げ物(いけにえ)の献げ方に関する細かな律法から始まる『レビ記』を、最初に(私が教会に行きはじめた頃)目にした時、わたしは大変驚きました。

“クリスチャンは、生贄を捧げるようなことを、している人たちなのか?”とわたしは疑問に思ったのです。
結論から言えば、クリスチャンは、レビ記に書かれているような生贄(いけにえ)を献げることは致しません。
それは、新約聖書の時代、神の子であるイエス・キリストが一回限りの完全な献げ物となってくださり、私たちの罪を贖ってくださったからです。
動物の生贄(いけにえ)は繰り返し捧げられる必要がありましたが、キリストは一回限りの完全な罪の贖いとして、私たちのために、ご自身の命を捧げてくださいました。

新約聖書の『ヘブライ人への手紙』7章27節に次のように、そのことが書かれています。

この方(*イエス・キリスト)は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。

イエス・キリストが、ご自身を完全な生贄として、ただ一度捧げてくださったので、私たちの罪の贖いは既に完成しているのです。
それにしても、動物をいけにえとして献げる箇所は、現代の私たちの感覚とは差が大きく、このような書物(レビ記)が、今の私たちの信仰とどのような関係があるのだろう、と私たちは思うかもしれません。

出エジプトの時代、モーセに率いられたイスラエルの民たちが、約束の地へと向かう荒野の旅の中で、これらの律法がモーセを通してイスラエルの民たちに与えられました。
献げものに関する細かな規定は、イスラエルの民たちに、常に“自分たちは罪人である”ということを思い起こさせたと、私は想像します。
その罪人である彼らを、主なる神は神の愛と憐れみのゆえに、救ってくださったのです。献げ物に関する規定は、イスラエルの民たちにそのことを常に思い起こさせたのではないでしょうか。
そして“犯した罪は贖われなければならない”ということを、数々の律法はイスラエルの民たちに教えたとも思います。

当時、献げ物は、繰り返し献げることが定められていました。なぜなら、人は常に罪を犯すからです。
献げものを常に献げることで、イスラエルの民たちは自分たちが常に罪を犯すものであることを思い起こしたのでしょう。
そして、レビ記の中には“人は誰でも罪を犯す”ということも書かれています。いけにえを捧げたり、その他の礼拝の儀式をも司ったのは、“祭司priests”として任命された人たちでした。
しかし、祭司であっても人間であり、罪を犯すという点では他の民と全く同じだったのです。
レビ記4章3節には「油注がれた祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合には、自分の犯した罪のために、贖罪の献げ物として無傷の若い雄牛を主にささげる」と書かれています。
祭司であろうと、その他どんなに立派な人であっても、人間はかならず罪を犯す存在、罪人である、ということは聖書全体を貫いて書かれている真実です。
ですから、人は誰でも罪人ですから、人はすべて神の赦しを必要としている、というのが聖書の伝えるメッセージです。

今日の箇所は、いけにえの献げ方など、その他の律法の数々も書かれているレビ記の19章の初めです。
ここでモーセを通してイスラエルの民たちに伝えらえたことの一つが、今日のメッセージ題にもしました「あなたたちは聖なる者となりなさい」です。
「あなたたちは聖なる者となりなさい」というこの戒めは、ここ以外の箇所にも何箇所か書かれています。
神はイスラエルの民たちに、「聖なる者になってほしい」と望まれ、そして神は今の私たちキリスト者にも「聖なる者になってほしい」とお望みです。
神が律法の数々をイスラエルの民たちに与えたのも、律法を通して罪の自覚を起こさせ、そして罪の贖いを受けて、わたしたちに聖なる者になってほしい、という神の切なる願いの表れだったのです。

人の親は、自分のこどもに「こんな風に育ってほしい」と願うことがあります。神は私たち信じる者の親です。
親なる神は、ご自分の子であるわたしたちに、(人の親が我が子にそう望むように)「あなたたちに聖なる者になってほしい」と、強く望まれたのです。
 神のその願いは、神がどれほど私たちのことを愛してくださっているか、ということの証拠でもあります。

 では聖なる者とは、どういう人のことを言うのでしょうか。
「あなたたちは聖なる者となりなさい」に続いて、「あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」と書かれています。
神は私たちに、「神であるわたしが聖なる者であるから、あなたがた人も聖なる者になりなさい」と言っているのです。
そうすると私たちが聖なる者になるとは、私たちが神になる、ということなのでしょうか。そうではありません。神は神であり、唯一のお方です。人間が神になることはあり得ません。
神でないものを神とすることは偶像です。今日の4節に「偶像を仰いではならない。神々の偶像を鋳造してはならない。わたしはあなたたちの神、主である」と書かれています。
自らが神になろうとすることも、自らを偶像とすることです。

「聖なる者になりなさい」とは、人が神になる、ということではなく、まず、罪赦され、神の子とされたことを喜び、神の愛と憐れみの中で生かされるということだと思います。
そして神の愛に生かされていることを喜び、感謝し、そして神が望まれるような生き方をしようと努力をすること、が“聖なる者になる”ということではないでしょうか。

新約聖書のペトロの手紙一1章13~16節に、今日のレビ記の箇所が引用されながら、次のように書かれています。

1ペトロ1章13~16節
13だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
14無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、
15召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。
16「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。

人が神にはなり得ませんが、神が望むような者になろう、と努力をすることはできます。神によって罪赦され、神の子として生きることを赦された私たちは、そのように努力をする者になるのです。
今日の3節には「父と母とを敬いなさい」と書かれています。出エジプト記の十戒(Ten Commandments)にも同じ戒めが書かれています。
「父と母とを敬いなさい」と聞くと、私たちは反発したくなるかもしれません。父と母を敬えない、尊敬できないことだってあるでしょう。

尊敬に値しない、とんでもない親だって世の中には存在するのではないか、と私たちは思わないでしょうか。(私自身がそのとんでもない親の一人かもしれない、と私は恐れます)。
新約聖書では、父と母だけでなく、自分以外の他者を自分よりも優れた者と思いなさい、と書かれている次のような箇所があります。

フィリピの信徒への手紙2章3節~4節
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

 他人を自分よりも優れた者と考えることは、簡単にできることではありません。その他人が明らかに自分より優れている人ならよいのですが、そうでなければ、私たちはどうすればよいのでしょうか。
  ここでもイエス様の模範に倣う(倣おうとする)ことが私たちにとって大切です。イエス様は、私たちが善人であったから、私たちに代わって十字架に架かり死んでくださったのではありませんでした。
  私たちが罪人であったのに、イエス様は、そんな私たちのために死んでくださったのです。それが神の愛だと、聖書は伝えます(ローマの信徒への手紙5章6~8節)。
 神に愛され、神に罪赦され、この私のためにイエス様が死んでくださったという恵みを信じる私たちは、まずできるだけの尊敬と思いやりを、自分以外の他者に持とうと、努力をしたいと、思わされます。
そしてそのように、まず私たち自身が自分から変わろうとするのならば、そんな私たちの姿を見て、他者も変えられるかもしれません。
私たちが自分から努力することで、他者との関係もきっと今より良い状態へと変えられると、私たちは信じてよいと私は思います。

今日の5節以降では、献げ物の肉は捧げた当日と翌日に食べねばならず、三日目まで残ったものは焼き捨てねばならない、と書かれています。
これは、”神の恵みはその日、その時に必要なだけ必ず与えられる”という信仰、神への信頼を信仰者が持つために、そのように定められたのでしょう。
本来、それは神へ捧げられた肉です。しかし、それを彼らは食べることが許されました。
本来神への献げ物であったことが人に忘れられ、“何日か後にも食べられるように、取っておいておこう”という欲が人の心に起こることを神は防ごうとされたのでしょう。
 先々週の礼拝メッセージで私たちが分かち合いました出エジプト記の“過越し”の場面では、もし犠牲の小羊を一家族で食べきれない場合には、隣の家族と共に分かち合って食べるように、と定められていました。
 ”もっと欲しい”、”将来も心配がないように、沢山蓄えておきたい”という欲も行き過ぎると、それは貪欲の罪となり、何よりも神への信仰と信頼を私たちから失わせます。
  必要なものは神が必ず与えてくださいます。わたし自身の今までの信仰生活を通しても、神の守りと恵みは、その時の必要に応じて、必ず与えられてきた、と私は言うことができます。
  神の恵みはその日、その時々に、十分与えられるのです。神は私たちの必要を最も良いもので満たして下さると、私たちは聖書の教えに聞き従うことを通して、日々学んでいきたいと願います。