2024年5月18日土曜日

2024年5月19日 主日ペンテコステ礼拝

前奏
招詞  サムエル記下23章2節
賛美  新生讃美歌27番 たたえよあがないぬしイエス
主の祈り
賛美  新生讃美歌1番 聖なる 聖なる 聖なるかな
ペンテコステの出来事
献金
聖句 使徒言行録4章23~31節
祈祷
宣教 「皆、聖霊に満たされて」
祈祷
賛美  新生讃美歌 86番 輝く日を仰ぐとき
頌栄  新生讃美歌 672番
祝祷
後奏

 今日は、ペンテコステ(聖霊降臨祭)の礼拝を私たちは捧げています。ペンテコステとは、イエス・キリストの死後(イエス様の復活、そして昇天後)、イエス様が弟子たちに予言しておられたように、聖霊が弟子たちの上に降った出来事のことを言います。
 キリスト教は、(現在のイスラエルに位置する)ユダヤという国から始まりました。今から約2000年前に、ユダヤ人としてお生まれになったイエスというお方が、神の国の到来を人々に宣べ伝えたことから、それは始まりました。
  皆さんご存じの通り、イエス・キリストは最後は、ユダヤ教の権力、そしてローマ帝国(当時、ユダヤを支配していた)の権力によって捕まり、十字架刑によって殺されました。

 普通に考えれば、イエス様のなさった活動(神の国を人々に伝え、人々を悔い改めさせ(神に立ち返らせ)、神に従う生き方へと人々を招くこと)は、そこで終わるはずでした。
  しかし、イエス様は墓の中から甦り、すなわち復活して、そのお身体を伴なって弟子たちはじめ、多くの人たちの前に現れました。
 イエス様は復活によって、主なる神を信じる者は永遠の命を得る、ということを私たちに見せてくださったと私は信じます。
 私たちのこの地上での命と体はやがて朽ちてなくなるけれども、私たちは永遠の命、永遠なる神の御手の内に生かされている、ということがイエス様の復活によって証明されたのです。
  死は、普通に考えれば、全ての終わりです。しかし、死で私たちの本当の命は終わらない。そして、私たちの目には終わり(そして絶望)に見えるものが、実は神の御計画の中では決して終わりでも絶望でもないのだ、ということがイエス様の復活によって示されたのです。
  しかし、復活のイエス様はそのままずっと弟子たちや人々と、この地上に留まることはなさいませんでした。

 復活のイエス様は約40日間、そのお姿を人々に現わされたあと、天に上げられて行きました。
 その時イエス様は弟子たちに次のお言葉を残して、天に昇っていかれました。(今日の、多言語聖句朗読で、皆さんにお読みいただいた聖句です)

使徒言行録1章8節 Acts 1:8
 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

イエス様は弟子たちに“あなたがたの上に聖霊が降る”と言われたのです。聖霊は“降って”くるものですから、それは上から与えられるものです。
 聖霊とは上、すなわち天から人に与えられる神の力です。そして信仰的に私たちは、聖霊が、父なる神、子なる神イエス・キリストと同等の神であると信じています。
  本当なら(人間の常識で言えば)、イエス様が捕まり十字架にかけられて死んだ時点で、すべてが終わっていたはずだったのです。
 イエス様が最後に捕まった時に、イエス様を捨てて弟子たちは全員その場から逃げて行ってしまいました。

 しかし復活のイエス様は、その(臆病だった)弟子たちの前に現れて、彼らを励まし、強めて、罪の赦しを宣言してくださいました。そして神の国を人々に伝える働きをするようにと、彼らをはげましました。
 “あなたがたに聖霊が降るから、その時、あなたたちは地の果てに至るまで、私の証人となりなさい”とイエス様は弟子たちに命じられたのです。神の国を伝えるという大切な役目を、イエス様は彼ら弟子たちに託したのです。
 そして約束通り、聖霊が弟子たちの上に降り、そこから力強くイエス・キリストの教え、神の国についての知らせが伝道されていきました。その様子が詳しく描かれるのが、『使徒言行録Acts』です。
  彼ら(弟子たち)が、彼らの伝道を挫(くじ)こうとする脅しや迫害にも屈することなく、大胆にイエス様の教えを伝道することができたのは、それは彼ら自身の強さや能力によるものでは決してありませんでした。

 彼ら自身が優れていた、強かったのではなく、臆病だった彼らに強さと大胆を与えるお方がおられました。
 それが”聖霊”でした。目には見えない神の力であり、神そのものである存在、それが聖霊です。
 今日の朗読箇所は使徒言行録4章23節から始まる箇所です。“二人は釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した”と23節に書かれています。
 二人とは、ペトロとヨハネの二人でした。ペトロとヨハネはイエス様が生きておられたときにイエス様によって直接選ばれた弟子(12弟子)たちの中の二人でした。

  ペトロとヨハネは、復活のイエス様に出会い、それから大胆に御言葉を人々に宣べ伝えるようになりました。しかし、そのために彼らはユダヤ教の権力者たちに捕まって牢に入れられてしまったことが、4章の初めに書かれています。
 ユダヤ教の権力者たちが彼らを捕まえたのは、彼らがイエス・キリストについて、そしてイエス・キリストの復活について宣べ伝えていたからでした(4章2~3節)。
  ペトロとヨハネは、「あなたがたが十字架につけて殺したイエス・キリストを、神が復活させられた」と言いました。「イエス・キリストの名によってのみ、人は救われる」とも彼らは堂々と主張しました。

 「そんなでたらめを言うな!そのイエスとか言う奴は、ローマ皇帝への反逆、そして我らユダヤの神を冒涜した罪で、十字架刑になって死んだ奴だ!」と言って、ユダヤ教の権力者たちは、ペトロのヨハネの言うことに苛立ち、怒ったのです。
 彼らはペトロとヨハネに“二度と、あの名(イエス・キリストの名)によって話をするな”と言って脅して命令しました。(4章17~18節)。
  しかし、一度はイエス様を見捨てて逃げて行ってしまったペトロやヨハネが、今やそのようなひどい脅しにも屈することなく、次のように言いました。
「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(4章20節)
 これは何と大胆な言葉でしょうか。
「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」。

これは、私たちは神を信じると言いながら、本当に日々神様に従っているかどうか、ということを今の私たちにも真剣に考えさせられる言葉です。
そしてペトロとヨハネは「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」とも言っています。
 彼らがイエス・キリストについて宣べ伝えているのは、ただそうしないではいられないからだと言うのです。
 それはつまり、彼らの思いと願いとは別に、(彼らの思いや願いをそのようにさせる)何か別の力が彼らの中で働いていた、彼らを突き動かしていた、ということです。
 それが聖霊です。聖霊の力が彼ら(ペトロとヨハネ)に働きかけ、普通なら屈してしまう恐ろしい脅しにも負けずに、大胆にイエス・キリストの名を彼らに伝え続けさせたのです。
 そのように大胆にイエス・キリストの名を宣べ伝えさせる力である聖霊が、(彼ら自身の能力によるのではなく)、その聖霊が彼らを強め、イエス様の名を語らせ続けさせたのです。

聖霊は、今の私たちにも与えられます。私たちが聖霊を望めば、寛大な神はきっと私たちが切に望む聖霊を与えてくださいます。
そして聖霊なる神が私たち信仰者ひとり一人の心の中に、そして私たちが集まりキリストの身体として建て上げているこの教会の中心に聖霊なる神が共にいてくださるのならば、わたしたちはきっと大胆に(かつ愛をもって)キリストの名を伝え続ける教会となることができるでしょう。
 聖霊なる神が“イエス・キリストの名を伝えたい”という思いを私たちに与え続けてくださる限り、世の何ものをもその思いと希望とを私たちから奪うことはできません。

 ですから、“イエス・キリストの名を伝えたい”という希望が、私たちひとり一人の中に起こされているかどうかを、私たちは今一度吟味してみましょう。
  聖霊が与えられているかどうか、それは“イエス・キリストの名を伝えたい”と言う希望や思いが私たちの中にあるかどうか、によっても判断されるからです。
 聖霊による希望、“イエス・キリストの名を伝えたい”という希望が、豊かに私たちにも与えられるように、私たちは共に祈りを合わせようではありませんか。
  ペトロとヨハネは釈放されると仲間のところへ行き、そこで祭司長や長老たちの言ったことを残らず話した、と今日の箇所に書かれています。
 祭司長や長老たちの言ったこと、とは“二度とイエスの名によって誰にも話すな”という脅しでした。普通なら、聞いて恐れを抱いてしまう知らせです。
 ところが、その厳しい知らせをペトロとヨハネから聞いた人たちに驚くべきことが起きました。彼らは“心を一つにして、神に向かって”祈ったのです。
  危機的な状況が、彼らを圧倒してしまうのではなく、恐ろしい状況が彼らを神への祈りへと促したのです。
  彼らの祈りは「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを作られた方です
という告白から始まっています(4章24節)。

 私たちの信じる神は“天と地と海と、そこにあるすべてのものを作られた方”=創造主Creatorです。
天地の造り主が私たちに味方していてくださるのですから、今の状況がどれほど恐ろしく、危機的に見えても、私たちはあなたによって守られています!とまず彼らは信じ、告白したのです。
そして彼らは「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と祈りました。(29節)
 御言葉を語りたい、イエス・キリストの名を伝えたい、という彼らの願いは決して揺れることがありませんでした。
 ですから大胆に、脅しに屈することなく、彼ら自身にとっての幸いである御言葉を伝える働きをどうか続けさせてください、そのために大胆になることができますように、と彼らは心を一つにして祈ったのです。

 そして彼らは「御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、徴と不思議な業が行われるようにしてください」とも願い、祈りました(30節)。
 “病気が癒され、しるしと不思議な業が行われる”とは、信じる者の生き方が目に見えて変えられて、神を信じる者による力と効果が目に見えて表されますように、ということです。
祈りが、ただの言葉や感情の高ぶりに留まるのではなくて、神に祈り、神を信じ生きる信者ひとり一人の生き方(生活)を通してイエス・キリストの名が崇められ、キリストの名が広まりますように、という願いです。
それは、私たちの信仰が実際に他者を励ますものとなり、弱った隣人を強め、愛に飢えた人に神の愛を届けるものとなりますように、という願いです。
教会の皆さんそれぞれが、普段生活をしておられる場があります。ご家庭や職場、友人との交わりの中などで、キリスト者として霊に燃やされた皆さん(わたしたち)一人一人が、イエス・キリストの名を、それぞれの方法で大胆に語ることができますように、と私は祈ります。
 天地の造り主、復活の主イエス・キリスト、聖霊なる神の守りと導きは私たちと常にあります。
ですから私たち皆、聖霊に満たされて(満たされることを願い)、大胆に神の言葉を語り、信仰の生活を私たち共に生きてまいりましょう。