2024年5月25日土曜日

2024年5月26日 主日礼拝

前奏
招詞 ヤコブの手紙2章5節
賛美 新生讃美歌27番 たたえよあがないぬしイエス
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌 105番 くしき主の光
献金
聖句 申命記34章1~8節
祈祷
宣教「約束の地を前に」
祈祷
賛美 新生讃美歌 19番 くすしき主の愛
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏


 今日私たちは、一人の神の信仰者の人生最後の場面を、今日の聖書箇所を通して分かち合おうとしています。
イスラエルの民を、彼らが奴隷状態にあったエジプトから導き出し、荒れ野の旅を続けてきたモーセが、その人生を終える場面が、今日私たちに与えられた聖書箇所です。
ヘブライ人(イスラエル人)として生まれたモーセは、不思議な運命によりエジプトの王女の養子となり、エジプト王宮で育つことになりました。
しかしモーセは年40歳の時、同胞のヘブライ人をかばおうとして、そのヘブライ人を殴っていたエジプト人を打ち殺してしまいました。
そのためモーセはエジプトから逃亡しなくてはならなくなりました。モーセはミディアンという地方へ逃れました。彼はそこで出会った女の人と結婚し、子ももうけ、80歳まで羊飼いとしての生活を送りました。

80歳の時にモーセは、主なる神に命じられて、奴隷として厳しい生活をエジプトで送っているイスラエルの民たちを率いて、エジプトから彼らを脱出させる指導者の役目を担うことになりました。
今日の箇所『申命記』の最後の箇所は、そのモーセが死ぬ場面です。
モーセたちはとうとう、神が彼らに約束した土地、カナンの地へと近づき、もはやその土地は目の前にありました。
今日の箇所でモーセはネボ山(ピスガとも言われる山)の頂上に登りました。そこからは、主が約束された土地を見渡すことができたのです。

4節で主がモーセに次のように言っています。

「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目でみるようにした。あなたはしかし、そこに渡っていくことはできない」
 主はモーセに、“今あなたが見ている土地が、わたし(神)があなたたちの先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地だ”と言います。
 神が誓ったというのは、『創世記』13章で、主が“イスラエル民族にとっての信仰の父”と言われたアブラハムに言った約束の言葉のことを指しています。

主はアブラハムに次のように言いました。

創世記13:14~17節 (Genesis 13:14~17)
「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。
15見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。
16あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。
17さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。

モーセから見れば、アブラハム、イサク、ヤコブは彼の時代から何百年も前の祖先です。神は、そんな昔の時代のアブラハム、またアブラハムの子であるイサク、孫であるヤコブに誓った土地に、恵みによって今、モーセたちを導き入れてくださる、と言うのです。

 神の約束は、何百年の時を経ても必ず実現するということです。私たちが神を信じるとき、私たちは神の時に生きる、という希望を頂きます。
 私たちの目には、様々なことが順調には行っていないように見えるかもしれません。順調どころか、むしろ自分の身の回りや社会、世界はますます悪い方向へ向かって進んでいるように見えるかもしれません。
しかし、“神の恵みの約束は決して変わらない”と私たちは信仰によって確信することができます。神は神の定めた時に、その約束を必ず成就してくださるのです。
 イスラエルの民たちは、その約束の地について、エジプトにいる間も代々伝えられてきた話を通してずっと聞いていたでしょう。代々、イスラエル民族の中に、約束の地に関する話は語り継がれてきたと、私は想像します。
 その約束の土地が今、目の前にあるということは、モーセに大きな感動を与えたと思います。

エジプトを出てから、モーセたちイスラエルの民たちは40年間も荒野を旅して、そこまでやってきたのだからです。
 実はエジプトからカナンの地までは、距離で言うと300~400キロほどなので、普通なら歩いて行っても長くても二週間ぐらいで行ける距離だと、言われます。
 それなのに、彼らは何と40年間もかけてその旅路を歩んだのです。なぜそれほどの回り道をして、またゆっくりした足取りで彼らは進んだのでしょうか。
 それはまず彼らの数が最初は膨大であったということが理由の一つとして考えられます。エジプトを出た時は青年男子だけで約60万人でした(民数記1章46節)。女性や子供をあわせればさらに多い数です。
 それだけの数の人が一緒に移動することがどれほど大変であるかは、私たちには想像することも難しい、と私は思います。
 それだけの数の人が一緒に移動する中で秩序を保つことも大変なことだったでしょう。
 聖書の中では、民たちが何度も何度もモーセやアロン(モーセの兄で、話すのが得意ではないモーセを助けるために、モーセを補佐するために神から遣わされた)に不平を述べた様子が伝えられています。

 “水がない、食べ物がない、いつもおんなじ食べ物ばかりで嫌だ”など言って、彼らはモーセに不満を述べたのです。
 モーセ一人で多くの民の不平不満を聞いていて、とても彼一人では処理しきれない状況にもなりました。そのような時、モーセは他の人たちに役割を分担してもらい、彼をサポートする役目を担ってもらうということも、モーセは学んでいきました。
 荒野の旅は、本当にゆっくりとした(ゆっくりすぎるぐらいの)回り道でした。そして実は、エジプトを出た第一世代は、荒野の旅の中でみんな死に絶えたと書かれています。(民数記32章13節)

 しかしそれでも、第一世代の後の世代の者たちが、約束の地への旅を続けついにその土地へ到達したのです。
 出エジプトの旅は、私たち信仰者は信仰の旅路を共にする信仰共同体であることを、今の私たちに、改めて思い起こさせます。
 同じ信仰を持っていても、その旅路には色々な困難が伴うことも私たちは学ばされます。
仲間同士で意見が合わなかったり、様々なことが原因で不平不満が生まれたりします。そのような出エジプトのイスラエルの民たちの姿は、まさに今の私たちの姿でもあります。
 しかし、たとえどれほどゆっくりであっても、時間がかかっても、時に(あるいはしばしば)神に対して、あるいは互いに対して不満を述べたりしながれも、私たちは信仰の旅路を同じ目的地に向かって進んでいく信仰の共同体です。
私たちはそれぞれの賜物を献げながら、互いに支え合って、信仰の旅路(時に長く、辛い)を共にイエス・キリストを見上げつつ、歩んでいきたいと願います。

 たとえ周り道をしても、早くいけば二週間で行ける道がたとえ40年かかるとしても、私たちは互いに支え合って、共にイエス様に導かれながら、信仰の旅路をその目的地に向かって一緒に歩んでいこうではありませんか。
 主がモーセに今日の箇所で言われたことをもう一度見てみましょう。(4節)
これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。

 40年間、必死になって、不平不満の多いイスラエルの民たちを忍耐強く導いてきたモーセに神は、その土地を見せながらも「これが約束の土地だ。しかし、あなたはそこへ入って行くことはできない」と言ったのです。
 そのことは(モーセはその土地へ入ることはできないということ)、今日の箇所の前で、既にモーセに主から伝えられていました。
 もう既にそのようにモーセには伝えられていたこととはいえ、実際に約束の土地を目にして、そして神から念押しのように「あなたは、そこに渡って行くことはできない」と言われ、モーセはどう思ったのでしょうか。
モーセは怒ったのでしょうか。「ここまで苦労して、イスラエルの民たちを率いてきたのは、この私だ。なのに、この私がその土地には入っていけないなんてひどすぎる」と思ってモーセは神に怒ったでしょうか。

今日の箇所には、その時モーセが思ったことや、モーセが言ったことは何も書かれていません。ですからモーセがどう思ったのかは、私たちには想像することができるだけです。
 そして、今日の箇所、モーセが人生の最期を迎えるこの場面で、モーセ自身の言葉は何も記されていない、ということは大変重要なことを示唆していると私は思います。
 聖書は、モーセの最期の場面で、モーセが何を言ったかよりも、神はモーセに何を語られたのか、を記しています。つまり聖書は、モーセがどんなことをしたのか、というよりも、神がモーセに何をしてくださったのかに焦点を当てているのです。
 神が、モーセを選び、彼(モーセ)の信仰の旅路に常に伴い、モーセが信仰的に揺れる時にも、彼を強めてくださったことに聖書は焦点を当てているのです。
 モーセはその生涯の最期まで、主なる神の言葉を聞き、神の言葉を聞きながらその生涯を終えていった、ということです。最後まで神の言葉が共にあり、その言葉を聞き続けたモーセの生涯は、信仰者として幸せな生涯であった、と言うことができるでしょう。
 私たちも、信仰者として、“わたしが何をしたか。わたしが何を言ったか”よりも、“神は私に何をしてくださったか、神は私に何を語ってくださったか”ということに、いつも心を留めたいと願います。
 そして他の人たちが私たちのことを思う時にも、“あの人が何をしたか”、よりも“神はあの人に何をしてくださったのか”という観点で、人が私たちのことを思い出してくれるのであれば、それは信仰者として私たちにとても幸いなことだと私は信じます。

モーセは120歳でした。しかし彼の目はかすまず、活力も失せていなかった、と書かれています。
 しかし、どれほど活力が残っていても、主がモーセの人生の旅路はここまで、とお定めになっていたのですから、それをモーセの意志で変えることはできません。
 神に用いられた人であるモーセも、その一生を神の定めによって、そこで終えました。
 私たちのこの地上での命も、神によって定められた時に、必ず終わりが来ます。しかし、私たちは、イエス・キリストにある永遠の命の中に常に生かされていることを知っています。
私たちの命をも支配し、私たちを通して、ご自身のご栄光と御業を表わしてくださる主を、私たちは信頼しましょう。
そしてこの地上に生きる限り、私たちは「主がどんなに素晴らしいことを、この私にして下さったのか」を証しし続けましょう。
主の素晴らしさが私たちを通してあらわされますようにと願いつつ、私たちはこの地上での命を最後まで主と共に、そして信仰の家族である私たち共に歩んでいこうではありませんか。