2024年7月13日土曜日

2024年7月14日 主日礼拝

前奏
招詞 マタイによる福音書6章33節
讃美 新生讃美歌61番 さわやかな朝となり
主の祈り
讃美 新生讃美歌 120番 主をたたえよ 力みつる主を
献金
聖句 箴言30章7~9節
祈祷
宣教「わたしが願う二つのこと」
祈祷
讃美 新生讃美歌 103番 望みも消えゆくまでに
頌栄 新生讃美歌 674番
祝祷
後奏


 今日の聖書箇所は『箴言』(Proverbs)の中の一部です。『箴言』には、人が生きていく上で非常に有益な教訓や知恵の言葉が多く書かれています。
 『箴言』の多くは、ソロモンによって残された言葉です。箴言1章1節は「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」という言葉で始まっています。
 ダビデに次いでイスラエルの王となったソロモンは、知恵と判断力に恵まれていました。それはソロモンが、王として聡明な知恵と判断力を神に願ったので、彼に与えられたのでした。
 ソロモンは、その晩年は心が他の神々(真の神でない異教の神々)へと向かい、主なる神に背いてしまいました。

しかし、王となった初めのころ、ソロモンは身を低くして、次のように神に願ったことが書かれています。

列王記上3章9節 1 Kings 3:9
 どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましう。」
晩年は心が神から離れてしまったソロモンでしたが、王となった当初には、このように、とても謙虚な願いと祈りを神に捧げていました。
 ソロモンは、“わたしはダビデ王の息子なのだから、王になるのにふさわしい者であるし、またその能力もある”とは考えませんでした。
 いくらダビデの子であろうと、“民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように聞き分ける心”は、神から与えられる他はない、とソロモンは知っていたのです。
  神様を信じるとは、神が“必要なものを必ず与えてくださる”と信じ、そのように神を信頼し、そしてその必要を求めて神に祈る、ことです。
 そして聖書は、私たちが何を望んでいるのかを、自分で考えて、心から望むものを真剣に神に願い、祈りなさいと勧めています。

善悪を判断し、聞き分ける心を願ったソロモンの祈りも、ソロモンが「王として忠実に仕えるためには、私には何が必要なのか」ということを、彼が真剣に考えた結果の願いと祈りの言葉であったと、私は信じます。
私たちは何を望んでいるのでしょうか。私たちはどのように生きたいと願っているのでしょうか。
新約聖書の『フィリピの信徒への手紙』4章6節に次のように書かれています。
どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
何が欲しいのか、私はどのように生きたいのか、を真剣に考えることは、自分自身に真剣に向きあうということです。
私たちは自分の心を探り、何がほしいのか、どう生きたいのかを真剣に考え、そしてそのために必要なものを神に願うことが許されている幸いを覚えて感謝したいと思います。
 自分が何を望んでいるのかを真剣に考え、その願いを祈りとして、神にお捧げいたしましょう。

 箴言は、その多くがソロモンに帰せられるものであると私は申し上げました。しかし今日の箇所の第30章は、始めに「アグルの言葉」と書かれています。
このアグル(ヤケの子アグル、 30章1節)が誰であり、どのような人であったのかは、分かりません。
しかし、神を信じる一信仰者として、アグルという人が残した箴言の言葉を、今日私たちは分かち合い、ここから、私たちにとっても必要な願いと祈りについて、私たちは考えていきましょう。

今日の始めの7節に次のように書かれています。今日のメッセージのタイトルにもした言葉です。
7二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。

 この祈りの人(アグル)は、二つのことを神に願う、と言っています。“わたしが死ぬまで、それを拒まないでください”と彼は言っています。
 ですから、彼が願っている二つのこととは、ただ一時的な必要や願いではなく、彼が(人が)一生を生きる上で、常に神からいただきたい(いただかなくてはならない)ものであることが分かります。
 アグルが最初に願ったものは、次のことでした。
 8むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。
 
 むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください、とアグルは祈っています。むなしいものとは、本物でないものとうことです。
 私たちは何かによって支えられ、何かを心の中心において、この世界で生きています。私たちの心の中心を支えるものが、本物でない、何かの偽物であるならば、私たちの心はいつか崩れてしまいます。
 本物でないものが、私たちを支え続ける、力を与えるということはできないからです。

 私たちは、神でないものを神のようにして(一番大切なものとして)崇拝したり、神の言葉(真理の言葉)ではない偽りの言葉に私たちの心が惹かれてしまうことがあります。
 神が作った最初の人であったアダムとエバにとって、蛇の誘惑の言葉「善悪の知識の木の実を食べても死にませんよ。それを食べると神様のようになれるのですよ」という(嘘の)言葉は、とても魅力的に聞こえたのでしょう。
 今の私たちにも、そのように、真の神から(信仰から)私たちを引き離そうとする巧妙な言葉や誘いが向けられることがあります。
  しかし、真の神の言葉でないものに、私たちを本当に支え私たちの人生を導く力はありません。また、私たちの欲や悪い思いに訴えかけるような誘いや言葉は、私たちを偽りの道、滅びの道へと誘い込みます。
 
 今年度私たちの教会は「主の御言葉に立つ」という主題を掲げています。

私たちは、与えられる主の御言葉(聖書の言葉)を、信仰の土台として、御言葉をこそ信頼していきましょう。
そして、どんなに魅力的に見えても、それが私たちを真の神から引き離そうとする偽りの言葉や誘いであるならば、そのような誘惑から私たちが守られますようにと、神の助けを祈り求めたいと願います。

8節後半~9節には次のように書かれています。

貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。
9飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません。
 わたしのために定められたパンでわたしを養ってください、とはつまり、私たちの日々の食べ物、生活の必要を満たしてください、という願いです。
イエス様も主の祈りの中で、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈りなさい、と弟子たちに教えられました。(マタイ6:11)
日ごと必要な食べ物、その他生活に必要なものが与えられるのは当たり前のことではありません。それらはすべて神の恵みです。

日々の食べ物やその他必要なものを、当たり前のものと思わずに“今日も、必要な糧を私(わたしたち)に与えてください”と神に祈り続けなさい、とイエス様も教えられました。
それは、私たちが日々いただているもの、手にしているものを、私たちが自分の力や能力で得ている(誰の助けも借りていない)と、間違って思わないように、ということです。
日々の食べ物やその他生活のために必要な色々なものは、毎日与えられるのが当たり前になってしまい、それらを“今日もお与えください”と心から感謝して祈ることを、私自身忘れてしまっていたことを、今日のメッセージを準備する中で、私は思わされました。
日々生かされていること、日々必要なものが与えられていることは、まさに奇跡であり神様の恵みです。その恵みをあたり前のものと思わず、感謝と喜びの祈りを、恵みの源である神に、私たちは捧げ続けたいと願います。

祈りというものは、“私たちは祈れば、あとは自分で何もしなくていい。祈れば、私たちが何もしなくても、神様は何でも自動的に与えてくださる”ということでは、もちろんありません。
「祈るということは、一歩間違えれば、それによって現実に向き合って必要な努力をするという姿勢を私たちから奪ってしまう危険がある」という言葉を私は聞いたことがあります。
私たちはもちろん、自分自身ですべきこと、日々の糧を得るために必要な(自分にできること:仕事など)をしなくてはなりません。
厳しい現実にもそれから目をそらすことなく向き合って、何か問題があれば、その問題解決のために自分にできることはしなくてはなりません。

 しかし、私たちが現実に向き合う力、そして日々の糧を得るためにすべきこと(たとえば仕事)をする力も、それらはすべて神から与えられるのです。
 そのように、日々必要なあらゆるものが与えられるのは、決して当たり前のことではなく、すべては神からの賜物なのですから、全てを神の恵みとして感謝し、日々の必要が満たされるようにと、私たちは常に神を覚えて神に感謝して祈るのです。
 そして「貧しくもせず、金持ちにもせず」という点がとても重要だと思います。続く9節をもう一度お読みします。

9飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません。

 この箴言の著者(アグル)は、自分の弱さをよく知っていたようです。彼は「どんなに貧しくても、私には信仰があるから大丈夫だ」とは言わなかったのです。

 貧しければ、わたしは盗みを働いて、神の御名を汚してしまうかもしれない。

そして飽き足りるほど富が与えられれば、慢心して(傲慢になって)“わたしは自分自身の力でこれらの富も得たし、自分の力で生きている”と言ってしまうかもしれない、と彼は恐れたのです。
 彼は、自分自身の(人間の)弱さ、傲慢さを本当によく知っていました。貧しすぎても、また豊かすぎても、自分がそれによって神から離れてしまう弱さがあると、アグルグは知っていたので。
 私たちは、自分の弱さを認めるということには、やはり躊躇してしまうのではないでしょうか。私たちはできれば強くありたいと願い、他の人や、(正直に言えば、神様にも)頼りたくはない、と思ってしまうかもしれません。
 しかし、私たちは神の前に何も隠す必要はないのです。私たちが自分自身に正直に向き合うならば、私たちは必ず自分の弱さにどうしても向き合わされるでしょう。
 私たちは神の前に自分の弱さを認め、そして神がその弱い私たちを守ってくださるお方であるということを、今一度覚え、神を信頼し神に頼って生きるという決意をいたしましょう。

 私たちは弱くても、神は強いお方なのです。私たちを神の恵みから、また神の御言葉から引き離そうとする、いかなる悪の誘惑からも守られますようにと、私たちは祈ってよいのです。
 貧しくもせず、金持ちにもせず、傲慢にならず(卑屈にもならず)神の恵みに感謝をもってとどまり続けることができるように、私たちは祈りましょう。
あくまで主なる神に頼り、主の力、主の御言葉によって日々を生きていこうではありませんか。